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最良の日

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「助けてくれたのはありがたいが、私は将軍になる気はない。悪いと思うがな」

 伊勢神宮の近くの宿屋――覚慶さんが細川さまの申し出を断るのを聞いて、僕はああやっぱりと思った。

「……理由を聞いてもよろしいか?」
「決まっているだろう。既に足利の栄光は地に落ちた。力どころか権威もない遺物に過ぎん」

 細川さまの鋭い目を涼やかに避ける覚慶さんに一覚さんが「兄上殿の仇は討たぬのですか!?」と甲高い声を上げた。

「足利家の棟梁を弑逆した松永めの――」
「復讐のために生きるなど、僧が勧めることではないな」

 そう言ってそっぽを向いてしまう覚慶さん。長益さまはこっちを見て、どうするんだという顔をしている。

「足利家の再興を望まれないとは。与一郎殿、このお方はなかなかに面白い」

 愉快そうに言う明智さまをぎろりと睨みつつ、細川さまはなおも説得を試みる。

「あなたに流れる血には足利家を守るという義務と責務がある。それをお忘れか?」
「忘れてはいない。しかし、もう時代は変わったのだ。いや終わったと言うべきだな」

 覚慶さんは細川さまと正対しながら、言葉を紡ぐ。

「そもそも足利が日の本を平和にできたか? 幕府を開いて二百年近く経つ。もう末期だろう。だから松永のような忘八者が戦乱の世に生まれたのだ」
「ではあなたさまは幕府を再興せず、なおかつ義輝さまの仇も討たぬと?」
「私だって業腹なのは認める。しかしそれでも命数のとっくに尽きたものに縛られるのは、馬鹿馬鹿しいだろう」

 これには細川さまも腹を立てた。立ち上がり覚慶さんに迫ろうとする。
 それを僕が妨げた。覚慶さんの前に立つ。

「どきたまえ。いくら我が主君の弟とはいえ――」
「殴ると言うのなら、代わりに僕が殴られましょう」

 両手を広げて立ちふさがる僕に、細川さまは怪訝な表情を見せた。

「……友とはいえ、庇うほどのお方か?」
「おいおい。与一郎、酷いなあ」
「この方は足利の名を鼻紙程度にしか思ってない。それを君は庇えるのか?」

 覚慶さんを無視して僕に問う。
 迷わず僕は答えた。

「ええ。庇いますよ」
「……何故だ?」
「細川さまも言ったじゃないですか。友達だからですよ」

 僕は怒っていた。細川さまだけじゃない。覚慶さんを庇うことをしないこの場に居る全員に怒りを覚えている。

「まるで覚慶さんの血筋だけが大事だと言わんばかりじゃないですか。覚慶さんの意思はどうなるんですか!? やりたくもない人に将軍をやらせるなんて、どうかしていますよ! それに、細川さまは自分のためにやっているとしか思えない!」

 その言葉に細川さまはぴくりと眉をひそめる。

「なんだと? どういう意味だ!」
「あなたは足利家が大事であって、義輝公の仇を討つことが重要であって、覚慶さんはそのための手段になっている! そんなの友として捨てて置けない!」
「そんな小さい考えで遮るな!」

 細川さまは僕を突き飛ばして、部屋中に響くように吼える。

「戦乱を収め、太平の世を築くには、今覚慶さまに立ち上がってもらわねばならないのだ! 君の主君もそう思っているはずだ! その上の人間も! だからこうして命じられて救ったのだろう!」
「少なくとも僕自身はそんな薄汚い考えはない!」
「おい待て二人とも! 熱くなりすぎだ!」

 森さまが見かねて止めに入る。それを振り払って細川さまは「薄汚いとはなんだ!」と怒鳴った。

「この国に住む人間ならば足利家の栄光を知っているはずだろう!」
「その栄光とやらは人を救わなかった!」
「貴様――」

 細川さまが思わず刀を抜こうとした瞬間、森さまが僕たち二人の頭を思いっきり殴った。
 も、物凄く痛い……!

「な、何をするか!」
「頭が冷えないなら殴って直すしかねえだろ。てめえらごちゃごちゃうるさいんだよ」

 面倒くさそうに言う森さま。そして「よう。あんた頭良さそうだな」と明智さまをびしっと指差した。

「私か? まあ悪くはないな」
「もしも覚慶さまが将軍にならなかったらどうなる? 考えられる最悪の状況ってのはなんだ?」

 明智さまは腕組みをして、それから答えた。

「そうだな。覚慶さま以外の足利家の誰かが将軍に就き、それが三好と松永の傀儡になってしまう。天下は奴らのものとなり、戦乱の世がまだまだ続くことになる――」
「ああ。それが考えられる最悪の状況だ。だけどな、現実はもっと悲惨だ」

 森さまははっきりと言った。

「相手は将軍を殺すような悪人だぜ? もっと最悪のことを考えるかもしれねえ。だからこそ、覚慶さまは将軍になるべきなんだ」
「も、森さま! 何を馬鹿な――」

 思わず反論してしまった僕にもう一発鉄拳が下る。

「大殿が何を考えているのか分からねえが、織田家は覚慶さまを悪いようにはしねえよ。そんで天下泰平になった後に将軍を誰かに譲ればいい」

 覚慶さんは「ほう。譲位か」と興味を示した。

「そうですよ。毎日遊んで暮らして、たまに小難しい話もして、退屈に思えるような穏やかな日々を送れるように、とりあえず将軍になってくださいよ」
「心惹かれるな。しかし私はこのまま還俗せずに僧のままで居るのも悪くないと思っている」

 頑なに断る覚慶さんに今度は行雲さまが言う。

「本当ですか? 本心を打ち明けてもよろしいのですよ?」
「本心? さっきから話しているが?」
「拙僧には嘘を吐いていると見えますが」

 覚慶さんはここで初めてへらへらしていた顔を引き締めた。
 僕は覚慶さんの目を見た。
 すると観念したように吐露し始めた。

「はあ。はっきり言えば兄上の仇を取りたい気持ちはある。しかしそのために無用な血が多く流れるだろうよ」

 そうだ。復讐のために多くの無関係の人の血が流れる。それを考えて押し殺していたんだ。

「それに私は将軍の器じゃないしな。兄上のような器量人でもない。到底足利の栄光を取り戻すことなどできはしない」

 僕はなんて言えばいいんだろうか。この人にどう向き合えばいいのだろうか?
 分からないなりに、思わず口走ってしまった。

「なら栄光なんて取り戻さなくていいじゃないですか」

 皆が僕に注目した。

「取り戻すんじゃなくて終わらせればいい。新しい時代に受け継がせるように、礎を築いてください」
「……雲之介。そなた、私に足利家を終わらせろと言っているのか?」

 僕は黙って頷いた。

「つまり栄光をもたらすのではなく、取り戻すのではなく、閉ざすために将軍になれと?」

 これにも黙って頷いた。

「ふふ。そなたは、本当に――面白い!」

 覚慶さんは細川さまに向かって言う。

「私は足利の時代を終わらせて、新たな時代を迎えるためにこの身を捧げよう」
「……本当によろしいのですか?」
「ああ。そのために協力してくれるか? 与一郎」

 細川さまはあまり納得していない様子だったけど、それでも覚慶さんの覚悟を見て、姿勢を正して平伏した。

「この細川与一郎藤孝、臣としてお仕え申す」
「頼むぞ。一覚、お前も来てくれるか?」

 一覚さんも姿勢を正して平伏した。

「御身の心に従います」
「よし! それじゃ織田家にさっさと向かうぞ!」

 覚慶さんはにこりと笑った。
 その笑顔は、徳の高い僧のようだった。



 尾張に到着して、覚慶さんを城まで送った後、僕と長益さまは藤吉郎の屋敷に向かっていた。僕の役目は終わったので、後は大殿と覚慶さんの話し合いだ。行雲さまは政秀寺にお戻りになられた。森さまは話し合いに参加するようで、細川さまと明智さまも同様だった。
 長益さまが唐突に「お前の嫁の志乃とやらに会いたい」と言い出したので、仕方なく一緒に歩いている。志乃に手を出したらただじゃ置かないと念を押して――長益さまは呆れたように頷いた――僕たちはこれからのことを話していた。

「俺たちが留守にしていた間に美濃三人衆が寝返ったようだな」
「へえ。そうなんですか」
「何をのん気な。調略したのはお前の主君の木藤じゃないか」
「ま、真ですか!? やるなあ藤吉郎」
「ところでどうして妻が主君の屋敷に居るんだ?」
「最近体調が悪いらしくて、それで預けてたんです」

 屋敷の門を潜るとねね殿と志乃が居た。玄関の軒先で話し込んでいる。

「志乃! ねね殿!」
「――っ! 雲之介!」

 志乃が嬉しそうに僕に駆け寄り、人目を憚らずに抱きついてきた。
 おおう。珍しいなあ。

「大胆な嫁だな」

 長益さまが微笑ましいといった顔で見ている。

「あれ? この方は?」
「織田長益さま。大殿の弟君だ」
「これは失礼しました。雨竜雲之介の妻、志乃でございます」
「うむ。しっかりした人だな。雲が惚れるのが分かる気がする」
「恥ずかしいことを言わないでください」

 そんな会話をしているとねね殿がこちらにやってきた。

「志乃さん。駄目でしょう。走ったりしたら」
「あ、ごめんなさい」

 僕は思わず「そんなに身体の具合が悪いのですか?」と訊ねた。
 ねね殿は「もう勤めは終わったのですか?」と訊いてきた。

「ええ。主命は果たしました」
「なら言えますね。志乃さん、言ってあげなさい」

 志乃は恥ずかしそうにもじもじしながら言った。

「……できたの」
「何ができたんだ?」

 志乃は少し照れながら、お腹をさすって言う。

「あなたの、子どもよ」

 あなたの、子ども……?
 それってつまり――

「ほ、本当か!? やった! 志乃、でかしたぞ!」

 これまた人目を憚らず、大声で叫ぶ僕。
 その様子に驚く志乃。そして優しく微笑んだ。

「なんだか凄い場面に出くわしたようだが、とりあえずおめでとう」

 長益さまの言葉が遠くに聞こえる。
 僕と志乃の子ども。
 これ以上の喜びがあるだろうか。
 人生最良の日だった。
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