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遠州攻めの布石

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 遠江国は今川家の支配下にある。
 しかし桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると不安定な状態となる。
 現当主、今川氏真は駿河国の治安維持に精一杯だったからだ。
 松平家が三河国の統一を成し遂げたのもそれが理由だ。

 松平家の狙いが遠江国なのは誰の目から見ても明らかであった。
 頼りにならないが未だ力を持つ今川家か、新興であるが勢いを持つ松平家か。
 どちらに身を振るのか、揺れ動いていた。

 さて。そんな折に遠江国井伊谷にある、井伊谷城に成政が訪れた。
 井伊谷は今川家の領地である。そこに単身、敵対している松平家の家老がふらりとやってきた。初め門番は成政を頭のおかしい奴と思ってしまった。けれど身なりや言葉遣いで本当だと信じるしかなかった。

 すぐさま客間に通された成政。失礼のないようにできる限りの物を出しつつ、井伊谷を治める井伊家の面々はどうするべきか話し合った。

「佐々成政は確か、元織田家の家臣。それがどういうわけか松平家の家老となっております」

 家臣の一人が状況を整理するために、今一度佐々成政の経歴を皆に話す。
 正確な情報が伝わりにくい戦国の世だからか、成政は松平家が三河国を制した最大の功労者として考えられていた。間違いではないものの、成政の評価はほんの少しだけ上向きになっている。

「問題は何のためにここに来たのかだ。我らの領地は三河国に近いが、まさか寝返りを誘うためか?」
「それなら別の領主にするだろう。我らはさほど勢力が大きくない」

 目的が分からない者ほど不気味なことはない。
 門番が言うには「井伊直虎殿に会いに来た」としか成政は言わなかったらしい。

「捕らえて今川家に引き渡すか?」
「松平家に真っ先に狙われる。それに今の当主様には褒美が期待できない」
「ではどうする? このまま会って話すか? 何の策も無しに」

 家臣たちが意見を交わすのを黙って聞いていた、井伊谷の領主であり、井伊家の当主である井伊直虎は「分かりました」と言う。

「わたくし、その方と会って話してみます」
「殿……いや、しかし」
「このまま話していても埒があきません。それに二人きりで会うこともありません。みなさんも同席してください」

 直虎はすっと立ち上がった。
 追従して家臣たちも続く。

 成政が二杯目の茶に手を付けようとしたとき、襖がすっと開いて「お待たせいたしました」と声をかけられた。

「ああ。お初にお目にかかります。井伊直虎殿ですね」
「ええ、いかにも」
「噂通り、あなたは――女人なのですね」

 成政の言葉に直虎――尼の恰好をした女性は頷いた。
 同時に好感を抱く。成政の言葉や仕草に侮りが無かった。普通、女が城主と聞けば見下してくる。しかし成政はただ確認するために訊いただけだと分かる。

 直虎と家臣たちは各々の席に着く。
 真向かいとなった成政と直虎。

「それで、佐々殿は何用で来られましたか?」

 まずは直虎の問いから話が始まった。
 成政は「井伊殿に話がありまして」と言う。

「松平家の遠州攻めのときは、我らに味方してほしいのです」

 家臣たちがどよめく中、直虎は凄い度胸ねと感心した。
 今川家を裏切れと今川家の者に言う。普通は言えるものではない。

「ご自身が何を言っているのか、分かっていますか?」
「十二分に。言葉が足りないようでしたら、はっきりと申し上げましょう。今川家から寝返って、松平家に従ってもらいたい」

 刀に手をかけた家臣。直虎が止める間もなく、抜刀しようとして――止まる。
 成政から物凄い殺気が放たれていた。
 刀は預かっていない。けど手にはかけていない。
 しかし自分が斬りかかったら確実に返り討ちされると分かった。分からされてしまった。

「無礼ですよ。控えなさい」
「……ははっ」

 直虎が家臣を叱ることで場を収めた。
 家臣一同は自分の手を見た。
 じっとりと汗をかいていた。

「いえ。こちらが無礼しました。申し訳ない」
「……あなた様の要求は分かりました。しかし簡単には頷けません」

 直虎が油断なく言うと「本領安堵。並びに松平家の家臣に加えます」と成政は答えた。

「働きによっては加増もあり得ます。血を流さずに済めば良いと考えております」
「いくら三河国の主とはいえ、随分と上からではないですか?」
「では今川家に忠義を示し、戦を行なうと?」

 直虎は慎重に「そうは言っておりません」と答えた。
 成政は「義元公の治世ならば分かります」と続けた。

「しかし今の当主に遠江国を守る力はありません。松平家が簡単に三河国の統一を成し遂げなのは、あの方が駿河国だけで手一杯だからです。それなのに、この土地を守れましょうか?」
「それは……」
「今のうちにこちらに恭順しておけば、我が殿に良い印象を与えられます。私個人もあなた方に便宜を図ってあげられる」

 直虎は素早く「佐々殿の便宜ですか?」と訊ねた。

「松平家の家老が、どのような便宜を図るのですか?」
「後継ぎの虎松殿を松平家の重臣にしましょう」
「なっ……!」

 言葉が出ないほど驚いた。
 成政がこちらの事情をよく知っていることも驚きだったが、小さな領主の後継ぎを重臣にするという。しかも自分ではなく自分の主のだ。

「まずは私の小姓となりますが、元服したら直臣に推挙します。誓書を交わしてもいい。何なら殿にも書いてもらいます」
「意味が分かりません。わたくしは小さな領地しか持たない。それに他の領主たちにもさほど影響力が無い。それを分かっていますか?」
「ええ。分かっています」
「では何故ですか? そこまでの価値があると?」
「…………」

 成政はふうっとため息を吐いた。
 空気が変わったことに皆が気づいた。

「私が織田家の家臣だったこと、知っていますよね?」
「風の噂で。詳しいことは存じ上げませんが」
「外様出身の私には、極僅かしか頼れる者がいないのです。譜代の者は私を妬ましく思っている」

 何の話か分からないので、直虎は黙って促した。

「だから今の私の優先すべきことは、派閥を作ることです。自分の意見を推し通すためには、賛同する者を増やさなければならない」
「理屈は分かりますが……」
「――利発な子ですね、虎松殿は」

 唐突に発せられた虎松の名。
 直虎の思考が一瞬停止する。

「活発で良い子だ。井伊殿のことを良き姉だと言っていた。この前、碁をしたと嬉しそうにしていた」
「あ、あなたは……虎松を……」
「会っただけです。何もしていませんよ……今はね」

 直虎だけではなく家臣たちの間にも緊張が走る。

「あの子は将来、松平家の重臣となりそうだ。私はそう信じている。だから虎松殿を私に引き渡してもらいたい」
「人質の、つもりですか……」
「どうせ人質を殿に渡すのでしょう? 同じことです」

 直虎は目の前の成政に好感を抱いたのが間違っていたと気づく。
 目の前の男は殺すだろう。自分の目的のためなら、生後間もない赤子でも、今わの際の老人でも、躊躇なく殺す。

「まあそもそも、井伊殿は松平家に従ってもいいと思っていた。そうですよね?」

 心を絡めとるような笑み。
 端正な顔立ちなのに、醜悪に思える。

「井伊殿は『簡単には頷けません』と言った。絶対にとは言わなかった。だとすれば……条件さえあれば頷くということですね」
「…………」
「私は甘くありません。絶対に頷いてもらいます。それに頷くしか選択肢がないことは分かるでしょう」

 成政の目が怪しく光る。
 全身の震えが止まらなくなる。

「養母とはいえ、子を失いたくないでしょう。気持ちはわかります。安心してください。頷いてくれれば、あの子は丁重に扱います」

 直虎はこれまで苦境を味わってきた。
 家族の死や当主として下さないといけない決断と向き合ってきた。
 だけど、初めて逃げ出したいと思った。
 全てを放り出してしまいたいと思った。

「さあ。頷いてください――井伊直虎殿」
「…………」

 直虎は頷いた。
 それを責める家臣はいなかった。
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