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謹慎
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「ひゃあ! 岡崎ってこんなに栄えていたんですねえ!」
三河国に戻ってきた成政と長安。彼ら二人は武田家や今川家の領地内にある関所を、多大な苦労をして乗り越えた。成政はともかく、長安は疲労困憊であったが、目の前に広がる岡崎の町を見て疲れが吹き飛んでしまったようだ。
成政の商業政策――産業革命とも言える――は絶大な効果を産んでいた。
まず工場で作られた三河木綿を堺の今井宗久に卸し、その代金を働いている百姓に賃金として支払う。百姓は銭で岡崎の商店で買い物をする。結果、儲けが出ると踏んだ商人たちが岡崎に店を出すようになった。そしてその収入の一部を土地代として松平家が得る形となった。
成政は信長の楽市楽座を商業政策としては有効なものだと認めていた。
けれど、座の代わりに自分たちが役割を担えば大きな税収になると考えた。
とは言っても座と同じでは商人たちに利益は無い。だから座より少ない額を要求していた。人は負担が減ると得をしたと思い込む。本当は税を取られることは損だと言うのに。
「ああ。長安にはこの町をもっと盛り立ててほしいと考えている」
「あっしがですか?」
きょとんとしている長安に「旅の合間にいろいろ質問しただろう」と成政は何気なく言う。
「それで算術に長けていることが分かった。弁舌もなかなかのものだ。まずは下働きをしてもらうが、いずれ佐々家の家宰を取り仕切ってもらう」
「あの問いはそのための……殿は抜け目ないんですなあ」
長安はいつの間にか成政のことを殿と呼んでいた。
敢えて成政は指摘しなかった。別に悪いことではないからだ。
「長安。これから武士になるのだから、姓があったほうがいい。お前は偉しか名乗らなかったが……」
「えっと。一応、大蔵でさあ。親父がそう名乗っていました。それと、猿楽の流派の大蔵流はそこから取られたって聞いています」
「そうか。では大蔵長安として佐々家に仕えてくれ。それともう一つだけ言っておこう」
成政は口角を上げて、悪戯小僧のような笑みを見せた。
長安は「な、なんですか?」と恐る恐る訊ねる。
「お前はまだ、岡崎を知らない。先ほど感心していたようだが、見るべきものを見ていないぞ?」
「ど、どういう意味でさあ?」
「案内してやる。ついて来い」
天下の総代官と後に称される、若き日の長安が工場を見てどういう反応をするのか。
少しだけ楽しみだと成政は思った。
◆◇◆◇
「ただいま戻りました、殿」
岡崎城に戻ると真っ先に家康に帰参の報告をした成政。
評定の間で数名の家臣と共にいた家康は「おお! よく戻ってきてくれた!」と喜色満面で出迎えた。その場にいた家臣――酒井忠次と大久保忠世だ――はあからさまに嫌な顔をした。
「すみません。武田義信をこちら側に引き込めませんでした」
「そうか。いや、元々難しい主命だったのだ。気にしなくて――」
帰ってきた喜びで家康は不問にしようと思ったのだが、酒井が「それは問題ですな」と待ったをかけた。
それに同調するように大久保も「主命を全うできなかった責任を取るべきです」と言い放った。
「お前たち、待たないか。何もそこまで厳しくしなくても」
「聞くところによれば、佐々殿が自分で言いだした主命です。殿がお命じになられたのならまだしも、できると言って失敗したのを看過できません」
「そのとおり。政務を放棄してまで赴いたのですから」
家康は困っているが、成政は酒井と大久保の言うことには道理があると分かった。
何も間違っていない。むしろ自分が責める側なら同じことを言っていただろう。
「一度の失敗で責任を取るのであれば、小競り合いの戦で負けたら切腹しなければならぬ。そのような厳しい罰は課せられん」
「殿のおっしゃることは分かりますが、ここで罰を取らさねば家中に示しがつきません」
酒井の言葉に熱が入り始めたのを見て、成政は「御ふた方のおっしゃることは間違っておりません」と平伏した。
「な、成政!? 何を――」
「ここで私を罰しなければ、家中に緩みをもたらします。なんなりと罰を申しつけください」
これには酒井や大久保も驚いた。
てっきり成政は抵抗するとばかり思いこんでいた。そうなれば二人で協力して家老の地位から引きずり下ろすことができた。
しかしここまで潔い姿を見せられたらどうしようもない。後は主君である家康の裁定に任せるほかないだろう。
「うーむ。そなたも非を認めるのであれば、致し方無い。謹慎を申し付ける。しばらく政務から離れて反省するように」
「かしこまりました」
謹慎という罰が軽いか重いか。それは微妙なところである。主命を全うできなかった家老に対しては軽いが、その間、一切政策と政務に関われないのなら重い。かといって切腹や追放だと重すぎてしまう。家老である成政が主命を達成できなかったことに対する罰が重ければ、他の家老にも適用されてしまう。
だから酒井や大久保は黙って認めるしかなかった。家康の判断であるし、成政が反論せず受け入れてしまったからだ。もちろん、全て成政の狙い通りなのだが、気づく者はこの場にはいなかった。
「それでは、失礼いたします。事の顛末は謹慎が明けてから書面にて報告します」
「ああ。今日はゆっくりと休むがいい」
評定の間を出て城の廊下を歩いていると「……佐々様」と声をかけられた。
考え事をしていた成政は、一拍置いて声の主を見た。本多忠勝だった。
「これは本多殿。いかがした?」
「……謹慎になったと聞いた」
おそらく立ち聞きしていたのだなと成政は思ったが、そんなことはおくびに出さずに「主命を失敗してしまってな」と笑った。
「意外に相手も手ごわかった……いや、そこに行くまでが困難だった」
「悔しく、ないのか?」
「殿には悪いと思うが、それでも収穫はあった。それで十分だ」
きっと忠勝には理解できないだろう言い回しだったが、彼は「佐々様が良いのならいい」と頷いた。無表情で何を考えているのか分からないが、きっと自分を心配してくれたのだろうと成政はありがたく思った。
「気遣いありがたく頂戴する。ところで正信殿がどこにいるか分かるか?」
「あの者なら、城にいる。宛がわれた自室にいるだろう」
それから成政は忠勝と話して――忠勝は言葉少なめだった――別れて正信の部屋に向かった。
正信の部屋に「御免」と言って入ると、彼は何やら帳面を書いていた。
「これは佐々様。お久しぶりですね。甲斐国はどうでしたか?」
「酷いものだった。詳しく話す時間あるかな?」
正信が筆を置いて話を聞く体勢になったのを見て成政は甲斐国の現状を語り出す。
民が酷い暮らしをしていることを中心に話すと正信は「それは酷い」と顔をしかめた。
「貧しい国とはいえ、内政をしっかりすればそれなりに豊かになるのに」
「戦によって大きくなった国は、戦でないと豊かになれないのさ」
成政は「ここからが本題なのだが」と正信に言う。
「あなたは一向宗の門徒だな?」
「ええ。そうですが……それが何か?」
「三河国の一向宗が、殿に逆らったら――どっちに着く?」
正信は息を飲んだ。予想もしていなかったことだったからだ。
確かにその兆しはあった。一向宗が度々『守護使不入』を主張していたことも分かっている。
守護使不入は簡単に言えば徴税などを免れる権利である。これは家康の父、松平広忠の代に寺院が与えられたものだ。
だが家康は三河国を完全に掌握するため、一向宗の支配を目論んでいた。もちろん、一向宗側はそれを拒んでいる。
「……佐々様は、私の返答次第で斬るおつもりですか?」
「そんなことはしない。誓ってもいい。私はあなたの立場が知りたい」
正信は「実際にならないと分かりません」と曖昧な返答をしたが、成政は彼が一向宗側に着くことを未来知識で知っていた。
「私はあなたと戦いたくない。できればとかなるべくとかではない。絶対に戦いたくないのだ」
「私が工場の管理をしているからですか?」
「それもあるが、今後の松平家のために必要な人材だからだ。そして何より、個人的にあなたを高く評価している」
正信は無表情だった。自分の感情を殺していた。
成政は「これだけは覚えてほしい」と言う。
「絶対に死なないでくれ。そして生きろ」
「…………」
「味方になろうが敵になろうが、そんなの関係ない。最終的に松平家に戻ってくれればいい」
成政は家老の身でありながら、地位の低い正信に頭を下げた。
これには正信も驚いて声も出せない。
「もう一度言う。あなたは松平家に欠かせない武士だ。それだけは心に留めておいてくれ」
三河国に戻ってきた成政と長安。彼ら二人は武田家や今川家の領地内にある関所を、多大な苦労をして乗り越えた。成政はともかく、長安は疲労困憊であったが、目の前に広がる岡崎の町を見て疲れが吹き飛んでしまったようだ。
成政の商業政策――産業革命とも言える――は絶大な効果を産んでいた。
まず工場で作られた三河木綿を堺の今井宗久に卸し、その代金を働いている百姓に賃金として支払う。百姓は銭で岡崎の商店で買い物をする。結果、儲けが出ると踏んだ商人たちが岡崎に店を出すようになった。そしてその収入の一部を土地代として松平家が得る形となった。
成政は信長の楽市楽座を商業政策としては有効なものだと認めていた。
けれど、座の代わりに自分たちが役割を担えば大きな税収になると考えた。
とは言っても座と同じでは商人たちに利益は無い。だから座より少ない額を要求していた。人は負担が減ると得をしたと思い込む。本当は税を取られることは損だと言うのに。
「ああ。長安にはこの町をもっと盛り立ててほしいと考えている」
「あっしがですか?」
きょとんとしている長安に「旅の合間にいろいろ質問しただろう」と成政は何気なく言う。
「それで算術に長けていることが分かった。弁舌もなかなかのものだ。まずは下働きをしてもらうが、いずれ佐々家の家宰を取り仕切ってもらう」
「あの問いはそのための……殿は抜け目ないんですなあ」
長安はいつの間にか成政のことを殿と呼んでいた。
敢えて成政は指摘しなかった。別に悪いことではないからだ。
「長安。これから武士になるのだから、姓があったほうがいい。お前は偉しか名乗らなかったが……」
「えっと。一応、大蔵でさあ。親父がそう名乗っていました。それと、猿楽の流派の大蔵流はそこから取られたって聞いています」
「そうか。では大蔵長安として佐々家に仕えてくれ。それともう一つだけ言っておこう」
成政は口角を上げて、悪戯小僧のような笑みを見せた。
長安は「な、なんですか?」と恐る恐る訊ねる。
「お前はまだ、岡崎を知らない。先ほど感心していたようだが、見るべきものを見ていないぞ?」
「ど、どういう意味でさあ?」
「案内してやる。ついて来い」
天下の総代官と後に称される、若き日の長安が工場を見てどういう反応をするのか。
少しだけ楽しみだと成政は思った。
◆◇◆◇
「ただいま戻りました、殿」
岡崎城に戻ると真っ先に家康に帰参の報告をした成政。
評定の間で数名の家臣と共にいた家康は「おお! よく戻ってきてくれた!」と喜色満面で出迎えた。その場にいた家臣――酒井忠次と大久保忠世だ――はあからさまに嫌な顔をした。
「すみません。武田義信をこちら側に引き込めませんでした」
「そうか。いや、元々難しい主命だったのだ。気にしなくて――」
帰ってきた喜びで家康は不問にしようと思ったのだが、酒井が「それは問題ですな」と待ったをかけた。
それに同調するように大久保も「主命を全うできなかった責任を取るべきです」と言い放った。
「お前たち、待たないか。何もそこまで厳しくしなくても」
「聞くところによれば、佐々殿が自分で言いだした主命です。殿がお命じになられたのならまだしも、できると言って失敗したのを看過できません」
「そのとおり。政務を放棄してまで赴いたのですから」
家康は困っているが、成政は酒井と大久保の言うことには道理があると分かった。
何も間違っていない。むしろ自分が責める側なら同じことを言っていただろう。
「一度の失敗で責任を取るのであれば、小競り合いの戦で負けたら切腹しなければならぬ。そのような厳しい罰は課せられん」
「殿のおっしゃることは分かりますが、ここで罰を取らさねば家中に示しがつきません」
酒井の言葉に熱が入り始めたのを見て、成政は「御ふた方のおっしゃることは間違っておりません」と平伏した。
「な、成政!? 何を――」
「ここで私を罰しなければ、家中に緩みをもたらします。なんなりと罰を申しつけください」
これには酒井や大久保も驚いた。
てっきり成政は抵抗するとばかり思いこんでいた。そうなれば二人で協力して家老の地位から引きずり下ろすことができた。
しかしここまで潔い姿を見せられたらどうしようもない。後は主君である家康の裁定に任せるほかないだろう。
「うーむ。そなたも非を認めるのであれば、致し方無い。謹慎を申し付ける。しばらく政務から離れて反省するように」
「かしこまりました」
謹慎という罰が軽いか重いか。それは微妙なところである。主命を全うできなかった家老に対しては軽いが、その間、一切政策と政務に関われないのなら重い。かといって切腹や追放だと重すぎてしまう。家老である成政が主命を達成できなかったことに対する罰が重ければ、他の家老にも適用されてしまう。
だから酒井や大久保は黙って認めるしかなかった。家康の判断であるし、成政が反論せず受け入れてしまったからだ。もちろん、全て成政の狙い通りなのだが、気づく者はこの場にはいなかった。
「それでは、失礼いたします。事の顛末は謹慎が明けてから書面にて報告します」
「ああ。今日はゆっくりと休むがいい」
評定の間を出て城の廊下を歩いていると「……佐々様」と声をかけられた。
考え事をしていた成政は、一拍置いて声の主を見た。本多忠勝だった。
「これは本多殿。いかがした?」
「……謹慎になったと聞いた」
おそらく立ち聞きしていたのだなと成政は思ったが、そんなことはおくびに出さずに「主命を失敗してしまってな」と笑った。
「意外に相手も手ごわかった……いや、そこに行くまでが困難だった」
「悔しく、ないのか?」
「殿には悪いと思うが、それでも収穫はあった。それで十分だ」
きっと忠勝には理解できないだろう言い回しだったが、彼は「佐々様が良いのならいい」と頷いた。無表情で何を考えているのか分からないが、きっと自分を心配してくれたのだろうと成政はありがたく思った。
「気遣いありがたく頂戴する。ところで正信殿がどこにいるか分かるか?」
「あの者なら、城にいる。宛がわれた自室にいるだろう」
それから成政は忠勝と話して――忠勝は言葉少なめだった――別れて正信の部屋に向かった。
正信の部屋に「御免」と言って入ると、彼は何やら帳面を書いていた。
「これは佐々様。お久しぶりですね。甲斐国はどうでしたか?」
「酷いものだった。詳しく話す時間あるかな?」
正信が筆を置いて話を聞く体勢になったのを見て成政は甲斐国の現状を語り出す。
民が酷い暮らしをしていることを中心に話すと正信は「それは酷い」と顔をしかめた。
「貧しい国とはいえ、内政をしっかりすればそれなりに豊かになるのに」
「戦によって大きくなった国は、戦でないと豊かになれないのさ」
成政は「ここからが本題なのだが」と正信に言う。
「あなたは一向宗の門徒だな?」
「ええ。そうですが……それが何か?」
「三河国の一向宗が、殿に逆らったら――どっちに着く?」
正信は息を飲んだ。予想もしていなかったことだったからだ。
確かにその兆しはあった。一向宗が度々『守護使不入』を主張していたことも分かっている。
守護使不入は簡単に言えば徴税などを免れる権利である。これは家康の父、松平広忠の代に寺院が与えられたものだ。
だが家康は三河国を完全に掌握するため、一向宗の支配を目論んでいた。もちろん、一向宗側はそれを拒んでいる。
「……佐々様は、私の返答次第で斬るおつもりですか?」
「そんなことはしない。誓ってもいい。私はあなたの立場が知りたい」
正信は「実際にならないと分かりません」と曖昧な返答をしたが、成政は彼が一向宗側に着くことを未来知識で知っていた。
「私はあなたと戦いたくない。できればとかなるべくとかではない。絶対に戦いたくないのだ」
「私が工場の管理をしているからですか?」
「それもあるが、今後の松平家のために必要な人材だからだ。そして何より、個人的にあなたを高く評価している」
正信は無表情だった。自分の感情を殺していた。
成政は「これだけは覚えてほしい」と言う。
「絶対に死なないでくれ。そして生きろ」
「…………」
「味方になろうが敵になろうが、そんなの関係ない。最終的に松平家に戻ってくれればいい」
成政は家老の身でありながら、地位の低い正信に頭を下げた。
これには正信も驚いて声も出せない。
「もう一度言う。あなたは松平家に欠かせない武士だ。それだけは心に留めておいてくれ」
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