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工場制手工業
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岡崎城の評定の間。
成政は元康と対面している――しかし二人きりではない。
小姓が数名ほど元康近くに控えていた。理由は家臣たちの『外様の者と二人きりにできない』という進言を受けねばならなかったからである。
成政はおそらく家臣――石川や酒井辺りは小姓に会話の内容を聞き出すだろうと考えた。
もしくは家臣の何人かは、評定の間の近くで聞き耳を立てている可能性がある。護衛という名目で。
ここで成政には二つの選択肢があった。
一つは無難な話をして、後に書状で方策を元康に提出することだ。これならば他の家臣に成政の策を知られずに済む。
何故、松平家家臣に己の策を知られないようにするのか。
それはひとえに成政自身の安全を確保するためだった。
主君に献策をする際、重要なのは他の家臣による妨害を阻止することである。
元康が認めても、何らかの難癖をつけてくる可能性が無いとは言い切れない。
だがしかし、周りに小姓がいるとはいえ、元康に意見を述べる機会は今後来るかどうか分からない。家臣たちに疎まれている現状を鑑みれば猶更だ。また書状で策を書いたとして、元康が十分理解できるかも不明である。何故ならば、成政が献じようとしている策は――未来知識を基にしているからだ。
だから成政はもう一つの選択肢――他の家臣やこの場にいる小姓には理解が及ばず、元康だけが分かるように話すことを選ばなければならなかった。
成政は心の内で難儀なことだなとひっそり思った。
「それでは、三河国統一の策を聞こうか」
「恐れながら、殿の目的は三河国だけを治めることでしょうか?」
成政の問いに元康は「無論、違う」と短く答えた。
続けて彼は「最終的には東国へと勢力を伸ばすことだ」と言う。
「織田家から同盟の打診が来ている。必然的にそうなるだろう」
「ならば今川家だけではなく、武田家や北条家という強国を相手にしますね」
「ああ。気が重い話だが」
「私がこれから述べるのは、それら強国と戦う方策です」
成政は元康が竹千代として尾張国で人質になっていた頃、その家臣になると決めてから、ずっと考えてきていた。
どのように三河国を豊かにし、基盤を確かなものにして、強国相手と渡り合っていくのかを。
「三河国の特産物に、三河木綿がありますね。それを大量に作り他国へ売りさばきます」
「大量に作る? ……私は寡聞にして知らんが、三河木綿を作るには時間がかかるし、人手もいるだろう?」
三河木綿、つまり綿織物を作るには綿花を綿糸にする紡績と綿糸を織物にする綿布という工程がある。それらを個人で行なうのは多くの時間が必要だ。さらに多くの人を集めて制作しても個人の差によって出来不出来が発生する。
成政は自信満々に「それらを解消する方法があります」と応じた。
「一人で綿花の栽培、紡績、綿布の工程を行なうと時間がかかります。ですのでそれらの工程を分担しましょう」
「分担? 複数の者がそれぞれの工程を行なうのか?」
「ええ。栽培が得意な者、紡績が得意な者など、人には人の適した仕事がありますから。いわゆる分業ですね」
元康は爪を噛みながら「そなたの提案は分かる」と言った。
「しかし、複数の者が関わる作業は、それこそ個人の家ではできぬだろう。作業を分けるということは、その分管理が難しくなる。中には材料を分量を誤魔化して売ってしまう者が出てくるかもしれん」
成政は元康の理解の速さに驚いた。
この時点で複数作業――問屋制手工業の欠陥に辿り着いていたからだ。
「個人の家ではやらせません」
「むう? では共同の家屋でやらせるのか?」
「そのとおりです。大きな工房――いえ、工場と名付けましょう。そこで作らせます」
成政が用いたのは工場制手工業である。本来ならば江戸時代に確立されたものであり、他国では産業革命が興ったやり方であった。
「工場……」
「大きな建物を作り、そこに栽培した綿花を入れ、紡績と綿布を行ないます。それならば各工程を素早くできますし、殿が懸念している材料の転売や横流しを防げるでしょう」
「ふむ。ならば綿花の畑近くに工場を作ったほうが良いな」
「そうですね。流石、殿です」
元康は「三河木綿を大量に作る方法は分かった」と頷いた。
周りの小姓は戸惑っている――理解が及ばないのだろう。
「その後の話をそなたはしたいのだろう?」
「ご明察です。他国に売ってできた銭を、工場で働いた百姓や町人に俸禄として与えます。無論、全てではありません。彼らの暮らしが良くなる程度です」
「民に銭を与えるか。米で払うのではなく?」
「銭を持つことで彼らは物を買います。必然、三河国には商人が集まります。そしてその商人は私たちに税を納めるでしょう」
「目まぐるしく銭が移動するが、意味があるのか? 結局銭は松平家の元に戻るのだろう?」
「戻る銭は何倍、何十倍となります。銭があれば戦に勝ちやすくなるのです」
元康は爪を噛みながら「まあ兵糧など軍備ができるな」と言う。
「軍備と言えば、織田殿が好んだ鉄砲を購入できるかもしれん」
「ええ。可能でしょう」
成政は口に出さなかったが、鉄砲を大量に集めれば、強敵である武田家を滅ぼせるかもしれないと思っていた。それも織田家の力を借りずに。
「問題はその工場とやらを立てる銭があまりないことだ。岡崎城には密かに蓄えた銭が無いことはないが、それでもそなたの考える建物はできぬだろう」
「そこは私に考えがあります」
「なんと。そこも考えていたのか?」
「ええ。殿が今川家に行かれたときから、ずっと考えておりました」
考えていたというより、未来知識を用いたのだが、成政は言葉にしなかった。
「摂津国、堺の商人から銭を借りましょう。私に交渉を任せてくだされば成功してみせます」
「堺の商人……そなたの考えを理解した上で、貸してくれるような巨視的な考え方をする者はいるのか?」
「利益を説けばおそらく分かってくれるでしょう」
「分かった。ならば交渉はそなたに任す」
成政は平伏して「ありがたき幸せ」と言う。
元康は「他にも銭の活用はあるか?」と訊ねた。
「三河国の港の整備をしましょう。遠国へ三河木綿を運べるように」
「ならば造船所も必要になるな。それも工場とやらにするか?」
「良き考えかと。そうなれば水軍も作れますね」
「それではまず、三河木綿の工場を作ろう。成政、そなたが指示をして建ててくれ」
成政は頷こうとしたが、その前に傍と気づいた。
そして「恐れながら」と元康に言う。
「私の身分では、工場を作るのに軽すぎます。何せ外様の私の命令を聞く者などおりませんから」
「ああ、そうであったな。配慮が足らなかった、すまぬ」
元康は「明日、正式に家臣たちに言うが」と前置きした。
「私はそなたを家老としたい」
「……外様の私を、家老にですか?」
「兄のように慕っているのだ。別に良かろう。それに先ほどの策で三河国が豊かになれば、文句など出ない」
裏を返せば失敗すると元康でも庇えない。
それは成政も覚悟の上だった。
「分かりました。拝命いたします」
成政は最後まで言わなかったが、銭を大量に集める理由は他にもある。
自分の仕事をやりやすくするためだった。
そのための布石を成政は打つ。
「殿。服部正成という方をご存じですか?」
「半蔵のことか? 無論だ。私の家臣だからな」
「服部殿と話したいことがあります」
元康は怪訝な顔で「好きにすればよいだろう」と言う。
「家臣同士なのだから、断りを入れる必要はない」
「実はその服部殿にやってほしいことがありまして」
成政はにっこりと笑った。
元康は不思議に思った。何故ならばその笑みは日輪のようなものではなく――
「伊賀者を松平家の傘下にしたいのです。その渡りをつけてもらえませんか?」
――漆黒のような暗くて黒いものだったからだ。
成政は元康と対面している――しかし二人きりではない。
小姓が数名ほど元康近くに控えていた。理由は家臣たちの『外様の者と二人きりにできない』という進言を受けねばならなかったからである。
成政はおそらく家臣――石川や酒井辺りは小姓に会話の内容を聞き出すだろうと考えた。
もしくは家臣の何人かは、評定の間の近くで聞き耳を立てている可能性がある。護衛という名目で。
ここで成政には二つの選択肢があった。
一つは無難な話をして、後に書状で方策を元康に提出することだ。これならば他の家臣に成政の策を知られずに済む。
何故、松平家家臣に己の策を知られないようにするのか。
それはひとえに成政自身の安全を確保するためだった。
主君に献策をする際、重要なのは他の家臣による妨害を阻止することである。
元康が認めても、何らかの難癖をつけてくる可能性が無いとは言い切れない。
だがしかし、周りに小姓がいるとはいえ、元康に意見を述べる機会は今後来るかどうか分からない。家臣たちに疎まれている現状を鑑みれば猶更だ。また書状で策を書いたとして、元康が十分理解できるかも不明である。何故ならば、成政が献じようとしている策は――未来知識を基にしているからだ。
だから成政はもう一つの選択肢――他の家臣やこの場にいる小姓には理解が及ばず、元康だけが分かるように話すことを選ばなければならなかった。
成政は心の内で難儀なことだなとひっそり思った。
「それでは、三河国統一の策を聞こうか」
「恐れながら、殿の目的は三河国だけを治めることでしょうか?」
成政の問いに元康は「無論、違う」と短く答えた。
続けて彼は「最終的には東国へと勢力を伸ばすことだ」と言う。
「織田家から同盟の打診が来ている。必然的にそうなるだろう」
「ならば今川家だけではなく、武田家や北条家という強国を相手にしますね」
「ああ。気が重い話だが」
「私がこれから述べるのは、それら強国と戦う方策です」
成政は元康が竹千代として尾張国で人質になっていた頃、その家臣になると決めてから、ずっと考えてきていた。
どのように三河国を豊かにし、基盤を確かなものにして、強国相手と渡り合っていくのかを。
「三河国の特産物に、三河木綿がありますね。それを大量に作り他国へ売りさばきます」
「大量に作る? ……私は寡聞にして知らんが、三河木綿を作るには時間がかかるし、人手もいるだろう?」
三河木綿、つまり綿織物を作るには綿花を綿糸にする紡績と綿糸を織物にする綿布という工程がある。それらを個人で行なうのは多くの時間が必要だ。さらに多くの人を集めて制作しても個人の差によって出来不出来が発生する。
成政は自信満々に「それらを解消する方法があります」と応じた。
「一人で綿花の栽培、紡績、綿布の工程を行なうと時間がかかります。ですのでそれらの工程を分担しましょう」
「分担? 複数の者がそれぞれの工程を行なうのか?」
「ええ。栽培が得意な者、紡績が得意な者など、人には人の適した仕事がありますから。いわゆる分業ですね」
元康は爪を噛みながら「そなたの提案は分かる」と言った。
「しかし、複数の者が関わる作業は、それこそ個人の家ではできぬだろう。作業を分けるということは、その分管理が難しくなる。中には材料を分量を誤魔化して売ってしまう者が出てくるかもしれん」
成政は元康の理解の速さに驚いた。
この時点で複数作業――問屋制手工業の欠陥に辿り着いていたからだ。
「個人の家ではやらせません」
「むう? では共同の家屋でやらせるのか?」
「そのとおりです。大きな工房――いえ、工場と名付けましょう。そこで作らせます」
成政が用いたのは工場制手工業である。本来ならば江戸時代に確立されたものであり、他国では産業革命が興ったやり方であった。
「工場……」
「大きな建物を作り、そこに栽培した綿花を入れ、紡績と綿布を行ないます。それならば各工程を素早くできますし、殿が懸念している材料の転売や横流しを防げるでしょう」
「ふむ。ならば綿花の畑近くに工場を作ったほうが良いな」
「そうですね。流石、殿です」
元康は「三河木綿を大量に作る方法は分かった」と頷いた。
周りの小姓は戸惑っている――理解が及ばないのだろう。
「その後の話をそなたはしたいのだろう?」
「ご明察です。他国に売ってできた銭を、工場で働いた百姓や町人に俸禄として与えます。無論、全てではありません。彼らの暮らしが良くなる程度です」
「民に銭を与えるか。米で払うのではなく?」
「銭を持つことで彼らは物を買います。必然、三河国には商人が集まります。そしてその商人は私たちに税を納めるでしょう」
「目まぐるしく銭が移動するが、意味があるのか? 結局銭は松平家の元に戻るのだろう?」
「戻る銭は何倍、何十倍となります。銭があれば戦に勝ちやすくなるのです」
元康は爪を噛みながら「まあ兵糧など軍備ができるな」と言う。
「軍備と言えば、織田殿が好んだ鉄砲を購入できるかもしれん」
「ええ。可能でしょう」
成政は口に出さなかったが、鉄砲を大量に集めれば、強敵である武田家を滅ぼせるかもしれないと思っていた。それも織田家の力を借りずに。
「問題はその工場とやらを立てる銭があまりないことだ。岡崎城には密かに蓄えた銭が無いことはないが、それでもそなたの考える建物はできぬだろう」
「そこは私に考えがあります」
「なんと。そこも考えていたのか?」
「ええ。殿が今川家に行かれたときから、ずっと考えておりました」
考えていたというより、未来知識を用いたのだが、成政は言葉にしなかった。
「摂津国、堺の商人から銭を借りましょう。私に交渉を任せてくだされば成功してみせます」
「堺の商人……そなたの考えを理解した上で、貸してくれるような巨視的な考え方をする者はいるのか?」
「利益を説けばおそらく分かってくれるでしょう」
「分かった。ならば交渉はそなたに任す」
成政は平伏して「ありがたき幸せ」と言う。
元康は「他にも銭の活用はあるか?」と訊ねた。
「三河国の港の整備をしましょう。遠国へ三河木綿を運べるように」
「ならば造船所も必要になるな。それも工場とやらにするか?」
「良き考えかと。そうなれば水軍も作れますね」
「それではまず、三河木綿の工場を作ろう。成政、そなたが指示をして建ててくれ」
成政は頷こうとしたが、その前に傍と気づいた。
そして「恐れながら」と元康に言う。
「私の身分では、工場を作るのに軽すぎます。何せ外様の私の命令を聞く者などおりませんから」
「ああ、そうであったな。配慮が足らなかった、すまぬ」
元康は「明日、正式に家臣たちに言うが」と前置きした。
「私はそなたを家老としたい」
「……外様の私を、家老にですか?」
「兄のように慕っているのだ。別に良かろう。それに先ほどの策で三河国が豊かになれば、文句など出ない」
裏を返せば失敗すると元康でも庇えない。
それは成政も覚悟の上だった。
「分かりました。拝命いたします」
成政は最後まで言わなかったが、銭を大量に集める理由は他にもある。
自分の仕事をやりやすくするためだった。
そのための布石を成政は打つ。
「殿。服部正成という方をご存じですか?」
「半蔵のことか? 無論だ。私の家臣だからな」
「服部殿と話したいことがあります」
元康は怪訝な顔で「好きにすればよいだろう」と言う。
「家臣同士なのだから、断りを入れる必要はない」
「実はその服部殿にやってほしいことがありまして」
成政はにっこりと笑った。
元康は不思議に思った。何故ならばその笑みは日輪のようなものではなく――
「伊賀者を松平家の傘下にしたいのです。その渡りをつけてもらえませんか?」
――漆黒のような暗くて黒いものだったからだ。
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