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感謝の気持ち

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「ここは一か八か、野戦を挑むしかない!」
「いいや、篭城して耐え忍ぶのだ!」

 二万五千の今川家の進軍――五千の兵力しか持たない織田家にとって最大の窮地である。
 信長は評定の間で野戦か篭城かを話し合っている家臣をつまらなそうに見ていた。
 野戦ならば兵力差で負ける。篭城ならば援軍が来ずに負ける。それは軍議をしている家臣たちも重々承知していた。

 であるならば第三の道――降伏を選ぶべきかもしれないが、それを口にする者はいなかった。信長が素直に降伏を選ぶとは思えないのが一番の理由だが、尾張国を統一した苦労を思えばすんなり明け渡すのは彼らの矜持が許さなかった。

 降伏すれば信長は殺されるが、自分たちは新しく今川家に召抱えられるかもしれない。その考えが彼らの頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。けれども野戦にせよ篭城にせよ、徹底抗戦を主張するのは再仕官の保証がどこにもなかったからだ。

 己の一族や領地のために戦う。
 負けると分かっていても戦う。
 それが戦国に生きる者の宿命だった。

「殿、いかがなさいますか?」

 軍議が白熱する中、信長に訊ねたのは柴田勝家だった。彼は野戦を主張していた。
 柴田が野戦を選んだのは、篭城よりも野戦で華々しく散りたいという自分本位な考え方が由来する。利家に語ったとおり、今川家に勝てる訳がないと彼は断じていた。

「や、野戦ですか? それとも……ろ、篭城ですか?」

 次に訊ねたのは丹羽長秀である。彼は冷静だった柴田と対照的に、尋常ではない汗をかいている。それは軍議のまとめ役をしていたことや直前まで兵の管理をしていたことで、体力の限界に来ていたからだ。加えて精神的にも追い詰められている状況の中、主君に結論を催促する。

「……決めかねている」

 信長の口から洩れたのは保留だった。どちらかの手段を答えてくれれば、各々の取るべき行動が明らかになるのだが、それでは何をすればいいのか分からない。実際、溜息をこぼした武将もいる。

「殿。そんな悠長な――」
「恒興。これは織田家の存亡に関わることだ。じっくりと考えたい」

 丹羽に負けず劣らず、狼狽している池田恒興がせっつくが、信長はのんきなことしか言わない。それどころか「今日は帰っていいぞ」と言って立ち上がった。

「俺は寝る。皆の者、戦に備えて休め」
「と、殿! このままでは――」
「くどいぞ。休めといったら休め」

 食い下がる池田を無視して、信長は上座から立ち上がり、そのまま奥の間へと向かった。
 皆の胸中は、やはり殿はうつけであったとか、これで織田家もおしまいかという諦念が占められていた。

 奥の間の敷かれた布団で横になりつつ、信長は「柳は義元の動きを捕捉できているか?」と枕元で正座している成政に問う。
 成政は「できてはいるようです」と懐から柳の報告書を開いて読む。

「ところどころ不明瞭ですが、今は沓掛城に本隊が入城したようです。この本隊におそらく義元公はいるらしいです」
「ふん。わざと曖昧にしているな。武田家はまだ、我らと今川家を秤にかけているのか」

 皮肉を混じりに笑う信長に、案外余裕があるなと成政は考えた。空元気ではなく、空回りでもない。勝利の確信を心に秘めた笑み。
 成政は「柳が裏切る可能性があるのですか?」と信長に確認する。

「いや。信玄公はこう考えているだろう。『この程度の曖昧さから見抜けなければ手を組む価値などない』とな」
「つまり、試されているということですか……」
「ま、それほど難しく考える必要はない。最終的に義元の居所を捕捉すれば良いだけのことだ」

 楽観的な考え――ではない。余所見をせずに真っ直ぐ見据えた考えであるのは言うまでもない。義元がいる本陣を見つけるかどうかで勝負は決まるのだ。だから武田家のことを深く考える必要はない。後で考えていいことを今悩むことはないのだ。

「鷲津砦と丸根砦を今川家は攻めるだろう。その間に前線となる丹下砦、善照寺砦、中島砦の順に入る」
「二つの砦を犠牲にするのですね」
「不服か? それとも冷酷か?」
「いえ、戦に勝つための必要な犠牲かと」
「……そういえば、政次が前線にいるな」

 政次とは成政の兄であり嗣子である。成政は三男で、次男は稲生の戦いで戦死していた。
 もし政次が戦死すれば、成政は跡継ぎとなる。

「何故、三男のお前ではなく、跡継ぎの政次が前線にいるのか。その理由は分かるか?」
「…………」

 成政は横になってこちらを見ようとしない信長に対して沈黙してしまった。彼が家臣の無言を嫌っていることを知っているのに。
 それでも成政は答えられない――

「俺はお前のことを気に入っている。竹千代――元康か。奴に渡したくないほどにな」
「ならば、どうして私を殺さないのですか?」
「はは。物騒な考え方をするんだな。思いつかなかった……それくらい、お前を買っているんだよ」

 信長は身体を起こして、成政と見つめ合った。
 照れくさそうに頬を掻く姿は、元服した当時を思い出させた。

「汚いやり方だが、お前の奉公に対する礼として受け取ってくれ」
「殿……私は……」
「あいつにも知らせてやれ。いや、可成に言えば手はずは整っているのだろう?」

 どこまで見通しているのかは成政には分からない。
 それでも信長の厚意は感謝するべきと思った。
 だから成政は平伏して言う。

「殿の恩情、ありがたく思います」


◆◇◆◇


 利家の元に信長が出陣したという知らせが来たのは、明くる日の午前のことだった。
 それも利家と親しい木下藤吉郎が息を切らしてやってきた。

「はあ、はあ……前田様、準備は整っておりますか?」
「ああ。鎧も槍も揃っている。少し休んだら行こう」
「いえ、それがしは、疲れているから、息を切らしていた、わけではありません……」

 まつが差し出した水を一気に飲み干して、藤吉郎はすぐさま「行きましょう」と促した。
 利家は奇妙に思いながらも了承した。

「まつ、行ってくる」
「……御武運を」

 まつの瞳がひたひたと濡れている。今にも涙が零れそうだった。
 本当は行かないでとか死なないでとか言いたいのだろう。
 それを堪えて、御武運をとだけしか、まつは言えなかった。

「ありがとうな、まつ」

 利家はまつの気持ちを痛いほど分かっていた。
 でも生きて帰るとは言わない。確実に生き残る戦など無いからだ。
 だから礼を言うに留めた。

 まつに背を向ける利家。
 家の戸を閉めたのを見届けて、まつはようやく涙を流した。
 これから先、何度悲しみを堪えなければいけないのだろう。
 そして一人静かに涙を流すのはやめられないだろう。

 ふと、娘の幸が泣いた。まつは娘を抱きしめた。
 そうしないと、悲しみと不安でどうにかなりそうだった。

 外に出た利家の目の前には、立派な馬が二頭、家の柱につながれていた。
 藤吉郎のほうを振り返ると得意そうに鼻の下をこすりながら「ご存知のとおり、それがし、以前馬屋番をしていまして」と説明する。

「馬屋の者たちと親しくしておりまして。馬を二頭、連れ出せたということです。いやあ、流石に二頭を扱うのは大変でした」
「おいおい。それって、殿に知れたら不味いだろ?」
「下手したら切腹かもしれませんな」

 得意そうな顔のまま、藤吉郎は利家に「それがしはあなたの役に立ちたいのです」と言う。

「前田利家という男のために、一肌脱ぎたかったのです。それがしの心意気、受け取ってください」

 勝手に馬を持ち出すことは当然、罪である。
 利家は元織田家とはいえ、咎めるべきだった。
 でも笑顔で無邪気な藤吉郎を見ていると、そんな気は失せてしまった。

「すまないな――いや、ありがとうな、藤吉郎」
「いえいえ! それでは参りましょう!」

 利家は馬にまたがった。藤吉郎もまたがる。
 そして戦場へ一直線に駆け出した。
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