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密約
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長坂釣閑斎の働きかけにより、成政は武田家当主、武田信玄にお目通りできることとなった。
しかし公式の謁見ではなく、あくまでも内密ということだった。
持ち込む話の内容からして当然の計らいである。これを好機ととるか危険ととるか悩ましいところだった。
武田信玄に今川家を攻めるつもりがあり、だから内密に会おうとすると考えれば好機である。
しかしながら成政がしくじれば、闇に葬られる危険もある。公式でないということは、何が起きても誰も知らないということでもあるのだから。
謁見の場は躑躅ヶ崎館ではなく、甲斐国の町近くの屋敷であった。そこは密談に使うために信玄が作らせたという。
人一倍度胸のある成政でも、まだ年若く経験もさほどないので、些か緊張してしまうのは否めなかった。
だがいくら命の危険があるとはいえ、望んだ謁見を断るほど彼は臆病ではなかった。それにここを逃したら二度と信玄は成政を相手になどしないだろう。彼は長坂に連れられて、その屋敷に向かった。
屋敷の外見は普通の一軒家と変わりなかった。よくよく見れば裕福に見えなくもないが、どこか庶民的だった。とても大名の隠れ家とは思えない。けれどそう見せかけることが狙いなら十二分に他者を欺けているとも言えた。
それに成政は屋敷に入った途端、人の視線を敏感に感じていた。そう言えば武田信玄は忍び集団を使っていたと未来の知識にあったと彼は思い出した。屋敷には人影はなかったが、上手く隠れているのかもしれないとも考えた。
「殿。佐々成政殿をお連れしました」
既に自身の名を長坂に告げていた成政。偽名ではなく本名を名乗ったのは偽りは不要だと思ったからだ。成政は長坂の後に続いて屋敷の中を歩く。そして長坂が一室の襖を開けた先に――彼がいた。
がっしりとした体格。すっきりとした丸坊主。だるまのようにぎょろりとした目玉。口髭と太い眉。僧侶の姿をしているがどうしても歴戦の武士の印象を感じてしまう。成政はおそらく影武者と対面すると考えていたのだが、これはどう見ても本物としか思えない。
「おう。釣閑斎、ご苦労であった。しばし席を外せ」
「はは。かしこまりました!」
刀は預けているが、まさか二人きりにするとは思わなかった成政は面食らったが、武田信玄が野太い声で「そこに座れ」と無造作に置かれた座布団を指差した。信玄との距離は近すぎず遠からずだ。つまり、襲い掛かっても対処できる位置。
「失礼します……本日はお目通りしていただき、まことにありがとうございます」
成政は座布団に座ると、平伏して簡単に口上を述べた。信玄はゆっくりと頷いて「楽にせよ」と命じた。成政は正座のまま話を切り出した。
「長坂様からお聞きになられたと思いますが、私――織田家の目的は今川家打倒の協力です」
「協力か。ふん、小賢しい。要は今川義元の大軍から逃れようとしているだけだろう」
「……ええ。そう受け取ってもらっても構いません」
「ま、三国を治めている今川家に対し、尾張国のみの織田殿では、どう足掻いても勝てはしない。唯一の方法はわしが背後を突くしかない」
成政は震えるのをなんとか抑えながら「その通りでございます」と頷いた。
信玄は「だが織田家は大きな問題を抱えている」と額を人差し指で撫でて言う。
「美濃国の斉藤家だ。二方向に敵がいる状態で、どう今川家を滅ぼす?」
「……今川家を倒すことは賛同してくださるのですか?」
信玄はあっさりと「ああ。それには賛同する」と認めた。
「わしは駿河国の海が欲しい。それがあれば我が国はますます栄える」
「そのためには、今川家は邪魔と?」
「無論だ。甲斐国と信濃国を押さえた今、後は南に出るしか道はない」
長年の同盟国を簡単に裏切るのは感心しないが、成政にしてみれば話が早くて助かる。
だが信玄は「今川家を滅ぼす企てはあるのだろうな?」と厳しく問い質す。
「言っておくが、わしは確実に勝てると分からんと協力できぬぞ」
「……何も攻め入ってほしいわけではございません」
ここが正念場だと成政は気合を入れた。上手く説得しなければ潜んでいるであろう忍びに殺される。
「今川義元が上洛のため、兵を挙げるという情報は耳にしましたか?」
「ああ。来年には攻め上るらしいな」
「義元本人も出陣するとのこと。そこを狙います。かの者を討ち取れば、今川家は滅ぶでしょう。何しろ、後継者の氏真は暗愚との評判ですから」
信玄は少しだけ愉快そうに笑った。どうやら成政の大胆な構想を面白いと思ったようだ。
彼は「一軍の大将だぞ? どうやって討ち取る?」と訊ねた。
「そこを武田様に協力していただきたい。今、潜ませている忍び衆の力で、今川義元の居場所を逐一知らせてほしいのです」
「……ま、気づくだろうと思っていたが。しかし居場所を知っても、それなりの兵で守られているはずだ」
成政は今川義元の死因を知っているので、そこは問題ないと言いたかったが、それでは怪しまれるし説得力もない。だから「今川家内部にも味方はおります」とはったりをかました。
「詳しいことは言えません。本来ならばその者から情報を得るべきでしょうが、下手に動かれると警戒されてしまいます。しかし武田家の優秀な忍びならば、動きは悟られにくいでしょう」
「……上手くいけば義元を討ち取れるか。分の悪い賭けだな」
「しかし賭ける価値はあると思います。それに武田様が失うものはありません」
織田家に今川義元の居場所を知らせるだけで、邪魔者を自身の手を介さずとも殺せる。
それに失敗したところで成政の言うとおり失うものはない。強いて言えば駿河国を獲り損なうだけだ。
「それに私は、分の悪い賭けとは思いません。我が殿、織田信長様は、必ずや成功させるでしょう」
「妙に確信した口調だな……」
「ほんの少しの協力で良いのです。お力をお貸しいただけませんか?」
信玄はしばらく黙った後「見返りはなんだ?」と短く訊ねた。
「義元を討ち取ることは、決して見返りではないぞ?」
「……我が殿は貢物を毎年贈るとのこと。それも武田様が満足するような高価なものです」
「なるほどな」
「それに今川家は大国です。二方面から攻め入ったほうが攻略は楽になりますよ」
信玄は「よし、分かった」と立ち上がった。そして成政に笑いかけた。まるでこれほど愉快なことはないという感じだった。
「賭けに乗ろう。織田殿に協力いたす」
武田信玄にも思惑はある。織田家が運良く義元を討ち取ればそれでよし。もし駄目でも混戦の中で義元を忍びに討たせてもいい。
問題はその後の織田家の動きだが、北の斉藤家は当主の義龍――高政から改名した――が傑物だと聞いている。こちらが今川家を滅ぼすのに手間取らなければ、尾張一国で勢力は抑え込める。
成政は未来の知識を知っているので、信玄がこの後どう動くのか分かっていた。
だから自分の将来を考えたとき、彼が一番の強敵であることは間違いなかった。
しかし今は織田家家臣として主命を全うする。ただそれだけだった。
◆◇◆◇
信玄との密約を取り付けた成政は、急ぎ甲斐国を出て尾張国へと戻った。
一刻も早く、信長に成果を知らせるためだった。
清洲城に着いたときには、昼を少し過ぎてしまった。
馬屋に馬を置いて、信長の部屋に向かおうとして――
「どうか! どうかご容赦なさってください!」
「あの者は決して悪くありません!」
何やら騒ぎが起こっていた。成政は嫌な予感がして、声のするほうへ足を進めた。
どうやら評定の間で家臣たちが集まっているようだった。
入ると上座にいる信長が苛立った様子で、平伏している柴田勝家と森可成を見下していた。
そして成政の耳を疑うようなことを、柴田は言う。
「利家を――お許しになってください!」
しかし公式の謁見ではなく、あくまでも内密ということだった。
持ち込む話の内容からして当然の計らいである。これを好機ととるか危険ととるか悩ましいところだった。
武田信玄に今川家を攻めるつもりがあり、だから内密に会おうとすると考えれば好機である。
しかしながら成政がしくじれば、闇に葬られる危険もある。公式でないということは、何が起きても誰も知らないということでもあるのだから。
謁見の場は躑躅ヶ崎館ではなく、甲斐国の町近くの屋敷であった。そこは密談に使うために信玄が作らせたという。
人一倍度胸のある成政でも、まだ年若く経験もさほどないので、些か緊張してしまうのは否めなかった。
だがいくら命の危険があるとはいえ、望んだ謁見を断るほど彼は臆病ではなかった。それにここを逃したら二度と信玄は成政を相手になどしないだろう。彼は長坂に連れられて、その屋敷に向かった。
屋敷の外見は普通の一軒家と変わりなかった。よくよく見れば裕福に見えなくもないが、どこか庶民的だった。とても大名の隠れ家とは思えない。けれどそう見せかけることが狙いなら十二分に他者を欺けているとも言えた。
それに成政は屋敷に入った途端、人の視線を敏感に感じていた。そう言えば武田信玄は忍び集団を使っていたと未来の知識にあったと彼は思い出した。屋敷には人影はなかったが、上手く隠れているのかもしれないとも考えた。
「殿。佐々成政殿をお連れしました」
既に自身の名を長坂に告げていた成政。偽名ではなく本名を名乗ったのは偽りは不要だと思ったからだ。成政は長坂の後に続いて屋敷の中を歩く。そして長坂が一室の襖を開けた先に――彼がいた。
がっしりとした体格。すっきりとした丸坊主。だるまのようにぎょろりとした目玉。口髭と太い眉。僧侶の姿をしているがどうしても歴戦の武士の印象を感じてしまう。成政はおそらく影武者と対面すると考えていたのだが、これはどう見ても本物としか思えない。
「おう。釣閑斎、ご苦労であった。しばし席を外せ」
「はは。かしこまりました!」
刀は預けているが、まさか二人きりにするとは思わなかった成政は面食らったが、武田信玄が野太い声で「そこに座れ」と無造作に置かれた座布団を指差した。信玄との距離は近すぎず遠からずだ。つまり、襲い掛かっても対処できる位置。
「失礼します……本日はお目通りしていただき、まことにありがとうございます」
成政は座布団に座ると、平伏して簡単に口上を述べた。信玄はゆっくりと頷いて「楽にせよ」と命じた。成政は正座のまま話を切り出した。
「長坂様からお聞きになられたと思いますが、私――織田家の目的は今川家打倒の協力です」
「協力か。ふん、小賢しい。要は今川義元の大軍から逃れようとしているだけだろう」
「……ええ。そう受け取ってもらっても構いません」
「ま、三国を治めている今川家に対し、尾張国のみの織田殿では、どう足掻いても勝てはしない。唯一の方法はわしが背後を突くしかない」
成政は震えるのをなんとか抑えながら「その通りでございます」と頷いた。
信玄は「だが織田家は大きな問題を抱えている」と額を人差し指で撫でて言う。
「美濃国の斉藤家だ。二方向に敵がいる状態で、どう今川家を滅ぼす?」
「……今川家を倒すことは賛同してくださるのですか?」
信玄はあっさりと「ああ。それには賛同する」と認めた。
「わしは駿河国の海が欲しい。それがあれば我が国はますます栄える」
「そのためには、今川家は邪魔と?」
「無論だ。甲斐国と信濃国を押さえた今、後は南に出るしか道はない」
長年の同盟国を簡単に裏切るのは感心しないが、成政にしてみれば話が早くて助かる。
だが信玄は「今川家を滅ぼす企てはあるのだろうな?」と厳しく問い質す。
「言っておくが、わしは確実に勝てると分からんと協力できぬぞ」
「……何も攻め入ってほしいわけではございません」
ここが正念場だと成政は気合を入れた。上手く説得しなければ潜んでいるであろう忍びに殺される。
「今川義元が上洛のため、兵を挙げるという情報は耳にしましたか?」
「ああ。来年には攻め上るらしいな」
「義元本人も出陣するとのこと。そこを狙います。かの者を討ち取れば、今川家は滅ぶでしょう。何しろ、後継者の氏真は暗愚との評判ですから」
信玄は少しだけ愉快そうに笑った。どうやら成政の大胆な構想を面白いと思ったようだ。
彼は「一軍の大将だぞ? どうやって討ち取る?」と訊ねた。
「そこを武田様に協力していただきたい。今、潜ませている忍び衆の力で、今川義元の居場所を逐一知らせてほしいのです」
「……ま、気づくだろうと思っていたが。しかし居場所を知っても、それなりの兵で守られているはずだ」
成政は今川義元の死因を知っているので、そこは問題ないと言いたかったが、それでは怪しまれるし説得力もない。だから「今川家内部にも味方はおります」とはったりをかました。
「詳しいことは言えません。本来ならばその者から情報を得るべきでしょうが、下手に動かれると警戒されてしまいます。しかし武田家の優秀な忍びならば、動きは悟られにくいでしょう」
「……上手くいけば義元を討ち取れるか。分の悪い賭けだな」
「しかし賭ける価値はあると思います。それに武田様が失うものはありません」
織田家に今川義元の居場所を知らせるだけで、邪魔者を自身の手を介さずとも殺せる。
それに失敗したところで成政の言うとおり失うものはない。強いて言えば駿河国を獲り損なうだけだ。
「それに私は、分の悪い賭けとは思いません。我が殿、織田信長様は、必ずや成功させるでしょう」
「妙に確信した口調だな……」
「ほんの少しの協力で良いのです。お力をお貸しいただけませんか?」
信玄はしばらく黙った後「見返りはなんだ?」と短く訊ねた。
「義元を討ち取ることは、決して見返りではないぞ?」
「……我が殿は貢物を毎年贈るとのこと。それも武田様が満足するような高価なものです」
「なるほどな」
「それに今川家は大国です。二方面から攻め入ったほうが攻略は楽になりますよ」
信玄は「よし、分かった」と立ち上がった。そして成政に笑いかけた。まるでこれほど愉快なことはないという感じだった。
「賭けに乗ろう。織田殿に協力いたす」
武田信玄にも思惑はある。織田家が運良く義元を討ち取ればそれでよし。もし駄目でも混戦の中で義元を忍びに討たせてもいい。
問題はその後の織田家の動きだが、北の斉藤家は当主の義龍――高政から改名した――が傑物だと聞いている。こちらが今川家を滅ぼすのに手間取らなければ、尾張一国で勢力は抑え込める。
成政は未来の知識を知っているので、信玄がこの後どう動くのか分かっていた。
だから自分の将来を考えたとき、彼が一番の強敵であることは間違いなかった。
しかし今は織田家家臣として主命を全うする。ただそれだけだった。
◆◇◆◇
信玄との密約を取り付けた成政は、急ぎ甲斐国を出て尾張国へと戻った。
一刻も早く、信長に成果を知らせるためだった。
清洲城に着いたときには、昼を少し過ぎてしまった。
馬屋に馬を置いて、信長の部屋に向かおうとして――
「どうか! どうかご容赦なさってください!」
「あの者は決して悪くありません!」
何やら騒ぎが起こっていた。成政は嫌な予感がして、声のするほうへ足を進めた。
どうやら評定の間で家臣たちが集まっているようだった。
入ると上座にいる信長が苛立った様子で、平伏している柴田勝家と森可成を見下していた。
そして成政の耳を疑うようなことを、柴田は言う。
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