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前兆

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「ほう。信長が領地を渡すと言っているのか?」
「ええ。信安と信賢との戦いに援軍として参戦してくださればの話ですが」

 尾張国の北、犬山城の一室。
 その城主である織田信清と成政は交渉していた。
 兵力で劣る信長してみれば、少しでも味方が欲しいところであった。

「わしが、先代の信秀と何度も戦ったことは、知っておろうな?」

 信清は真ん丸な目玉をした男である。瞳孔が開いていると錯覚してしまいそうなほど、大きく見開いていた。それが特徴的で他の部位は印象に残らない。口髭を生やしてはいるが、その生えかたと丸い目でどうもなまずのように思えてしまう。

「ええ、存じております」
「ならば、わしの答えは分かっているだろう。断る」

 断固として頷くことはないという態度。
 だが、成政もこのままでは引き下がれない。
 帰ってしまったら、ただの子供の使いと変わりが無い。

「理由は――先代と対立していたから、ですか?」
「それ以外にも理由はある。それは信長が信用ならんということだ」

 信長が信用ならない。
 成政は「尾張の大うつけと呼ばれていたのは遠い昔のことです」と言う。

「今は尾張国の覇者にならんと――」
「わしが信用ならんのは、そこだ。それこそが信長は他人を昔から欺いていた証拠ではないか」

 成政はそういう見方もあるのかと唸った。
 信長が成長してうつけから脱却したと考えず、信清が言ったように周囲を騙していたと考える。
 流石に尾張国で小規模ながら独立勢力で居続けた男である。

「今、領地を渡すと言ったが、いずれわしを滅ぼすつもりではないのか?」
「殿の考えることは、家臣の私では推し量れません」
「否定はせぬのか。だとすれば、信長に味方する道理はない」

 話は以上だと言わんばかりに手で追い払う仕草をする信清。
 成政は「では、こう考えてみるのはいかがですか?」と引き下がった。

「信安は、あなたに援軍を頼みましたか?」
「……兵力の多い信安には不要だろう」
「不要? それは兵力だけの話でしょうか?」

 成政の言葉に目をさらに大きくして「何が言いたい?」と問う信清。

「織田伊勢守家が、わしを攻め滅ぼすと言うのか?」
「そこまでは言いませんが、おそらく臣従させようとするでしょうね」

 成政はここに狙いを絞るしかないと考えた。

「もし殿が負けてしまえば、尾張国は織田伊勢守家のものになるでしょう。そうなれば北で独立勢力だったあなた様はどうなると思いますか?」
「それは――」
「言葉を選ばずに言えば、目障りな存在になる」

 信清は成政を無礼者と怒ったりしなかった。
 ただ黙って話を聞いている。

「織田伊勢守家の基盤は尾張国の上四郡、つまり北です。尾張国を統一しようと思ったら、まずは北から固めるのが定石でしょう。しかし我が殿は尾張国の南に本拠地があります。信清様とは敵対しないでしょう」
「……だが尾張国を統一すれば、いずれわしを滅ぼさんとしないか?」

 成政は「それはないでしょう」と断言した。

「滅ぼす相手に対して、領地を与えようと思いますか?」
「…………」
「滅ぼしづらくなりませんか?」

 成政は声に出さずに欺瞞だなと思った。尾張国を統一してしまえば、多少領地が増えても滅ぼそうと思えばできる。それに信長の次の目標は美濃国だから、いずれは臣従させるか滅ぼすことになる。

 要は信清を言葉巧みに騙せるかどうかの問題である。
 そしてそれは半分成功していた。信清は自分の利益を考えているが、進退までは考え切れていない。彼の尺度では尾張国を統一した後のことは推し量れないのだ。

「……信長は、本当に領土を譲るのだな」
「ええ。間違いありません。必ず渡すでしょう」

 ここで二人の間に齟齬が起きていた。
 信清は『譲る』と言った。つまり自分は信長と立場は対等だと思っている。
 しかし成政は『渡す』と言った。つまり信清を臣下にしようという信長の意図を暗に告げている。

 成政は気づいているが、信清は気づいていなかった。
 いや、成政はわざとそういう風に交渉を進めていた。

「……分かった。信長に援軍を出そう」

 信清が決断したとき、成政は織田伊勢守家との戦いに勝てることを確信した。
 これで信長は尾張国の覇者となれる――


◆◇◆◇


 成政の交渉がまとまった頃、利家は末森城の城下にある柴田勝家の屋敷にいた。
 広い部屋で白湯を出され、柴田が来るのを待つ。
 いかにも武人の部屋という印象。奢侈な調度品はなく、質実剛健という言葉が似合う。

「待たせたな、利家」

 襖が開いて柴田が部屋に入る。
 もちろん、鎧姿ではなく、略服を着ていた。
 利家は鎧姿の柴田しか見ていなかったので、新鮮に見えた。

「突然の来訪、申し訳ございません」
「いやいや。ちょうど暇をしていたのだ」

 利家は怪訝な表情で「暇、ですか?」と訊ねた。

「柴田様は信行様――失礼しました、信勝様の家老ではありませんか?」
「ああ。しかしわしは根っからの武人だ。政務のことが津々木に任せている」
「津々木って……信勝様の側近ですよね?」

 柴田はそこで淋しそうに微笑んだ。
 それは利家の胸を締め付けるような切ないものだった。

「いいんですか? 側近に政務を任せるって――」
「わしはどうやら、信勝様の信用を失くしてしまったらしい。会話もほとんどできていない。ま、戦に負けたのだから仕方ないが」
「たった一回、負けただけじゃないですか。そんなことをしたら――」
「ふふふ。勝ったほうが同情するとは。おかしな話だ」

 柴田が可笑しそうに笑って、それから利家に「酒は飲めるか?」と問う。

「ええ。人並みには」
「今日は飲もう。良い酒があるのだ」

 柴田が侍女と下人に命じて酒と肴を用意する。
 利家は杯を上げて、少しずつ飲んだ。

「……美味い」
「はは。酒の味が分かるか」
「殿と違って下戸じゃありませんから」
「そうか。信勝様はお強かったが」

 強い酒にも関わらず、柴田は豪快に飲み干した。
 なかなか強いなと利家も少し口に含んだ。

「それで、何の用でここに来た?」
「えっと、殿が信勝様の改名の理由を、柴田様に聞けと」

 利家は何の考えもなしに、正直に告げた。
 柴田は「そんなこと、わしが知るはずなかろう」と困った顔をした。

「改名したときぐらいから、粗略に扱われ出したのだ」
「ふうむ。よく分かりませんね」
「……本当にそれだけか?」

 柴田が逆に探るように言ったが、利家はあっけらかんと「それだけですよ」と笑った。

「俺は探るとか交渉とか向かないんですよ」
「まあな。お前は真っ直ぐな男だからな」
「ありがとうございます」

 利家はしばらく、柴田と何気ない会話をしていた。
 戦や武芸のことが中心だったが、ふとした流れで嫁の話になった。

「利家。お前は嫁を貰わないのか?」
「……それ、可成の兄いにも聞かれましたよ」

 利家は酔った頭で考える。
 浮かんだのは、何故かまつの顔だった。
 あの月夜で、慰めてくれたまつの温もりを思い出していた。

「まあ、近いうちに婚姻すると思います」
「そうか。それは何よりだ。守る者があれば、お前は強くなる」
「柴田様はどうなんですか?」

 それは何気ない問いだった。
 何の意図もなかった。
 だが柴田の表情が少し曇ったのを利家は見逃さなかった。

「……柴田様?」
「あ、ああ。わしは嫁を貰わんよ」
「それは、どうしてですか?」
「わしは罪を犯したからな」

 罪を犯したという意味は分からなかったが、柴田がそれ以上聞かれたくないことを察した利家は「そうですか」とだけ答えた。

「柴田様は、嫁を貰わなくても、十分お強いですから」
「……がはは、こそばゆいことを言いおって!」

 利家は酒を飲みつつ前世の父親が生きていたら、こんな風に酒を飲むのかと考えていた。
 ある意味、前世で果たせなかったことができたなと、柴田に感謝した。
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