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憤怒と尊敬と感謝

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「母上には悪いと思いますが、私は当主の座を諦めるわけにはいきません」

 清洲城に赴き、柴田や林と共に謀反の罪を不問とされた信行であったが、母親の土田御前と二人きりになると、叛意を打ち明けた。
 土田御前が部屋の外の小姓を気にする素振りを見せると「下がらせましたよ」と信行は笑った。

「私はどうやら諦めきれないようですね。当主の座を」
「信行……私は、こたびの戦で、もう……」

 信長には勝てないと土田御前は言いかけたが、信行の蒼白な顔に言葉を止めた。

「何を言っているんですか? 私が当主になることを望んだのは、母上でしょう?」
「そ、それは……」

 信行は険しい顔になって、土田御前の両肩を握った。

「い、痛いです……」
「あなたが毎日毎日、当主になれと言い続けていたではありませんか。その教えのとおり、私は今まで頑張って来たじゃないですか!」
「の、信行……!」
「あなたがそう望んだから! 私はそうやって生きてきたじゃないですか!」

 大声で怒鳴って、自分の母親を突き飛ばした信行。
 二人の呼吸は荒く、互いに自分が興奮しているのは分かった。

「母上も母上ですよ。いくらでも兄上を殺す機会があったはずです」
「…………」
「ふん。可愛がっていないとはいえ、自分の息子だからですか?」

 土田御前は愕然とした思いで信行を見つめた。
 幼少期はあれだけ優しかった子が、こんな風になるなんて。
 今まで抑えていたものが、一気に噴き出したようだった。

「あなたが罵倒してきた、うつけに頭を下げた気持ちが、分かりますか? あんなうつけに負けた屈辱が、分かりますか?」
「わ、分かり――」
「分からないでしょうが! 今まで生きてきて、こんなに怒りを感じたことはありませんよ!」

 信行は壁の掛け軸を手に取って、びりびりに破く。
 それに飽き足らず、刀を抜いてそこら中の物を壊した。

「や、やめなさい! 信行!」
「そのやめるというのは、謀叛のことですか?」

 狂気に満ちた目で土田御前を見つめる信行。
 ごくりと唾を飲んで、土田御前は「も、物を壊すことです……」と言う。

「……そうですよねえ。安心しました」

 信行は笑顔になって――土田御前は戦慄した――刀を仕舞った。
 それから「これからも協力してもらいますよ、母上」と言う。

「そもそも、早く生まれただけで当主になれただけのうつけに、尾張国を任せることはできませんしね」
「…………」
「私だって、尾張の虎の血を引いているのですから」

 土田御前は極限状態に追い込まれていた。
 信長に敵わないと分かった今、最愛の息子を死にに行かせることはしたくなかった。
 どうすれば、信行は謀叛を諦めてくれるのだろうか――

 そこまで考えたとき、土田御前は思い当たった。
 自分の抱えている秘密を言えば、諦めてくれるだろうと考えた。
 それは愚考であったが、追い詰められた彼女には選択肢などなかった。

「信行、よく聞いてください」

 土田御前の真剣な表情に、信行の表情が固まる。
 加えて、予感もした。
 今まで信じていたものが崩れ去るような感覚。

「あなたには黙っていましたが、実は――」


◆◇◆◇


 葬儀を終えた利家が清洲城に戻ると、柴田勝家が馬屋にいた。
 髷は無く僧侶のようにつるんつるんな頭だった。

「柴田様! どうなさったんですか!?」

 驚いた利家が柴田に話しかける。
 柴田は最初、険しい顔をしていたが、声をかけたのが利家だと気づくと表情を和らげた。

「おお、利家か。信行様の件で謝罪しに来たのだ」
「信行様の……」
「いち早くお帰りになったが、わしは信長様と話を少ししていた」

 利家は「事情は分かりましたが、その頭は?」と気になっていたことを訊ねる。

「これは反省の証として、頭を丸めただけだ。僧になったわけではない」
「なるほど……」

 利家はほっとした気持ちになったが、それがどうしてだが分からない。
 考えてみれば、実兄の仇でもあるのに――

「利家。お前こそ、顔どうしたんだ? 怪我をしているようだが」

 柴田が触れてほしくないことを話題にした。
 利家は「戦で負った傷です」と正直に答えた。

「……ああ、そうか。すまなかったな」
「いえ。傷はすぐに治りますから」
「――わしは信行様を当主にしたかった」

 いきなり、自分の心情を吐露した柴田。
 利家は「分かっております」と応じた。
 彼もまた、信長を尾張一国の大名にするべく奮闘しているからだ。

「だが、こたびの戦で思い知らされた。信長様は器が違う」
「器、ですか?」
「謀叛をした者を許す度量の深さ。あれは信行様にはない」

 利家は「では殿の家臣になりますか?」と期待を込めて言う。
 柴田は「それはないな」と首を横に振った。

「信行様に生涯仕えると決めている。亡き先代にも誓った」
「頑固ですね。そんなに信行様が良いんですか?」
「良し悪しの問題ではない。信行さまは、わしの――」

 言いかけた柴田だったが「いや、不遜な言い方だったな」と首を振った。
 利家はきっと息子のように思っているんだろうなと考えた。

「というわけだ。これからも末森城で信行様に仕える。清洲城に来るのは時々になるな」
「そうですか。残念ですね」
「そんなに淋しがるな。たまに武芸の稽古をしてやる」

 柴田の優しげな言葉に「本当ですか!?」と両手を挙げて喜びを示す利家。
 柴田は利家の胸に拳を置いて「ああ、約束だ」と笑った。

「それでは、さらばだ」

 馬にまたがった柴田は、そのまま清洲城を出て行った。
 背中が小さくなって見えなくなると、利家は一礼してから、城内へ向かおうとする――

「どういう気持ちで、見送ったんだ?」

 馬屋の物陰から出てきたのは、成政だった。
 利家は「なんだ、見ていたのか」と特に何の反応も見せなかった。

「どういう気持ちって言われてもな。尊敬しかねえよ」
「お前の兄を殺した仇じゃないのか?」

 さっき考えていたことを言い当てられた利家。
 成政を静かに見つめ返すと「俺もよく分からねえ」と答えた。

「仇なのはそうなんだが、不思議と憎しみとか怒りは湧かねえ」
「兄と仲が悪かったわけではないのだろう?」
「むしろ仲は良かったな。俺は利玄兄が苦手だったけど、好きだった」

 成政は「だったらどうしてだ?」とさらに訊ねる。

「恨んでいないのか?」
「……自分の気持ちが分からないときって、お前あるか?」
「たまにある」
「なんか知らねえけど、柴田様を恨もうとか、利玄兄の仇を討とうなんて、思わなかった」

 成政には理解できなかった。
 まあ利家自身理解できなかったのだ。
 他人が理解できる問題ではないのかもしれない。

「それによ。利玄兄は復讐とか望んでいない気がするんだ」
「私はその方の人柄は知らん。だがそうなのか?」
「なんつーか、飄々としている性格で、すぐに熱くなる俺とは真逆だったんだよ」
「お前の兄とは思えないな」
「うるせえ。それにこれから味方になるんだろ? だったらそれでいいぜ」

 成政は「味方になる、か」と呟いた。
 未来知識を持つ彼にはこの後の展開は分かっていた。
 凄惨な事件が起こることも知っていた。

「そんなことより、お前どうしてここにいたんだよ?」
「殿の命令で、お前の様子を見に行こうとしただけだ」
「なんだ。心配してくれていたのか」
「殿はお前を気に入っているからな」

 成政の返しに「いや、違えよ」と利家は笑った。

「お前も心配してくれていたのか」
「……何言っているんだ?」
「殿の命令でも、他の奴に任せることもできるだろう?」

 成政の顔が次第に赤くなる。
 利家は「結構、良いところあるじゃねえか」と追撃した。

「――っ! 殿の命令だからだっ!」

 成政は鼻息荒く、肩を怒らせて振り返り、利家を置いて城内へと向かう。
 利家は「おいおい、恥ずかしがるなよ」とその後を追った。

「恥ずかしがってない!」
「あはは。そうだな……成政」
「今度はなんだ!」
「……ありがとうな」

 利家のさりげない礼に、成政は一瞬、足を止めかけた。
 しかし振り返ることなく「……うるさい」とだけ言った。

「別に心配などしていない。勘違いするな」
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