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心構え

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「じじい。湯漬けおかわりだ」
「偉そうに言うな! この小僧が!」

 犬千代の注文に文句を言いつつ、差し出された茶碗をひったくって、沢彦は湯漬けを作りにいく。その間、犬千代はじっと壁を睨みつけていた。その目の下にはくっきり隈が刻まれている。

 沢彦宋恩の家にふらりとやってきた犬千代。家主である沢彦と何を話すでもなく、ずっと壁と睨めっこをしている。時折、湯漬けを食うがその最中も言葉を発しない。そんな奇妙な様子の犬千代に対し、無礼な口だけを利くときのみ、反応する沢彦。

 朝に来訪して以来、昼頃の今までその繰り返しだった。犬千代は沢彦が何も訊かず、湯漬けをご馳走してくれるのを不思議に思っていた。しかし決して不愉快ではなかった。居心地が良いわけではないが、距離感が良かった。

「……なあ、じじい」
「なんだ、小僧?」
「ちょっと、話に付き合ってくれよ」

 結局、自分から話すことになった犬千代。悪ガキに事情を話せといっても話さない。ならば話すまで待とうという沢彦の思惑にまんまと引っかかったのだが、まったく気づいていない様子だった。

「この前、帰蝶様が野武士に襲われたとき、俺は人を殺した」
「ほう。それで?」
「殺したことは乗り越えた。でもよ――どうしても思い出してしまうんだ」

 沢彦は壁を睨んだまま犬千代の後ろに座って聞いている。だから眠いのに寝ない――否、寝られないのかと得心していた。

「殺したときの感触。死んでいく奴の表情。それが頭の中を巡っていくんだ」
「…………」
「俺は一生――忘れることはできねえのかな」

 沢彦はしばらく黙ってから「慣れるしかあるまい」と厳しいことを言った。慈悲どころか優しさに欠けた言葉だった。

「はは。坊主の言う台詞じゃねえな」
「ふん。殺すなと言っても、お前は殺すだろう?」
「まあ、それが武士だけどな」

 沢彦は呆れながら「僧の説法を、皆が素直に聞くとは限らん」と現実的ながら僧としてあるまじきことを言い出した。

「だからこそ、日の本は戦国乱世となった。僧がいくら争いをやめて皆仲良く暮らそうと説いても、お前たち武士は聞かなかった。むしろあらん限りの罵声と手前勝手な理論を振りかざした」
「…………」
「しかし釈尊の教えを聞き入れない者たちが、日の本の各国のほとんどを牛耳っている。それが現実だ。悲しいことだが人殺しのほうが写経よりも価値があるのだ」

 沢彦の言っていることは、犬千代の頭では難しいことだったが、自然と理解できた。人殺しができることは今の日の本においては特殊技能ではなく、ありふれた日常だったりする。

「じゃあ、俺は苦しむしかないのか?」
「当たり前だろう。人を殺しておいて、何も無いなど虫が良すぎるわ」

 あくまでも厳しいことを言う沢彦。しかしそれは犬千代が望んでいたことでもあった。誰かに自分が人を殺したことを非難してほしかった。殺人者としての自分をばっさりと否定してほしかった。もっと言えば、叱ってほしかった。

「苦しめ。苦しんで苦しんで、その果てに自分で答えを見つけるしかない」

 沢彦の言葉を聞いた犬千代はくるりを身体を反転させた。
 向き合う形になった二人。犬千代は険しかった顔を緩めた。

「じじいは俺に教えてくれねえのか?」
「わしは答えを知らんからな」
「じゃあ僧は何のためにあるんだ?」
「決まっているだろう。教えを説くためだ。決して救済のためではない。何故なら人は人を救えない」

 沢彦の単純明快な言葉に思わず笑ってしまった犬千代。久しぶりに心から笑えて、腹も痛くなるくらい笑った。

「あっはっはっは! 巷の辻説法より良いこと言いやがるぜ!」
「馬鹿者! これでも高僧なのだわしは!」

 犬千代は盛大に笑った後、姿勢を正して沢彦に礼を言った。

「ありがとな、じじい。でも一つだけ反論があるぜ」
「なんだ? 聞こうじゃないか、小僧」

 犬千代は年相応の幼さと男らしさを合わせた笑顔で言う。

「あんた、人は人を救えないって言ったが、それは大きな間違いだ。俺はあんたの言葉でいくらか救われたよ」

 思わず目を丸くした沢彦。しかし悪戯小僧の顔で自慢げに笑う犬千代に彼も笑い返した。

「小僧が言いよるわ! ふははは!」


◆◇◆◇


 それから数日後。
 よく晴れた日の午後、犬千代は信長と小姓たちと一緒に、いつもの河原で訓練を行なっていた。野武士との戦い以降、彼らの実力はめきめきと上がっていた。やはり実戦を経験した者は強くなるのは道理だった。
  その中でも――犬千代と内蔵助の実力は冴えていた。

「うおりゃあああああ!」
「うおおお!? なんて馬鹿力だ……!」

 犬千代は自らの体格を生かした、力で押す槍さばきを見せていた。相手の毛利新介の槍の攻撃を巻き込むように槍を振り回している。

「くそ! 当たらねえ!」
「どうした小平太。もっと突いてこい」

一方、内蔵助は素早さと技による動きで相手の服部小平太を翻弄していた。おそらく正確かつ優れた槍術使いでなければ当てることも敵わないだろう。

「あの二人、凄いな」
「…………」

 見物していた竹千代の呟きに黙って頷く信長。以前とは気迫も技量も心構えも違う。まるで別人のようだと感じていた。しかし実戦を経験しなければここまでの動きができない事実にも憂いていた。小姓が少なくない数やられてしまったこと考えると、実戦で兵を鍛えるのは危うい。

 ではどうするべきかとつらつら考えていると「若様! ここにいらしましたか!」と池田恒興の声がした。その声に信長が振り返ると、恒興の隣に自分より年上の美男子がいることに気づいた。

「勝三郎。なんだその男は」

 近づいてきた恒興に訊ねる信長。美男子はにっこりと笑っている。

「ははっ。こちらは森可成もりよしなり殿と申されまして、お屋形様の家臣となられたお方です」

 そう恒興が紹介すると、可成は「お初にお目にかかります」と丁寧に頭を下げた。いかにも優雅な仕草だった。顔をあげると一見優男だが武将らしい実直さも備わっていると分かる。背は普通だが身体は鍛えられている。

「であるか。お前は見たところ相当腕が立ちそうだな」
「まあそれなりには」

 自慢はしないが謙遜もしない受け答えを気に入った信長は「では俺の家臣と戦ってみろ」と指差した。小姓たちは恒興と可成が来たことに気づかずに組手を続けている。

「かしこまりました。では槍を借ります」

 二つ返事で引き受けた可成は余っていた槍を拾って、ちょうど組手が終わった犬千代の元へ歩いていく。水を飲んでいた犬千代は近づいてくる見知らぬ美男子に気づき「なんだあんた?」と高圧的に声をかけた。

「勝負しましょう」
「あ? 怪我してもしらねえぞ、兄ちゃん」

 犬千代は槍を構えて可成を向き合う。
 可成は涼しげな顔で槍を構えた。

「いくぞ……おらぁああああ!」

 気合を込めて振るった槍。しかし可成は一歩下がることで回避する――いや、大振りでできた隙を見て、接近する!

「なっ――」
「遅い!」

 慌てて戻そうとする犬千代よりも速く、可成は腹を突いた。くの字に折れ曲がる犬千代の身体。訓練用とはいえ棒で思いっきり突かれるのは非常に痛い。

「がっは……!」
「次は、誰が相手ですか?」

 腹を押さえて悶え苦しむ犬千代を一瞥もせず、にっこりと微笑む可成。対して小姓の中から「……私が相手しよう」と内蔵助が進み出た。

「いいでしょう。かかってきなさい」

 内蔵助と可成は向かい合って槍を構えた。内蔵助は目の前の男が何者か知らないが、史実に残るであろう武将だと何となく分かっていた。加えて犬千代を倒した速さは自分よりも上だと思っていた。

「でりやああああ!」

 だからこその先手必勝だった。振り回すことなく突きを主体に攻撃する。それならば速さなど関係ない――

「――ふん!」

 可成は突きを横から強く振り払った。その力は強く、打たれるたびに手が痺れる感覚を内蔵助は覚えた。数合打ち合った末に、内蔵助は槍を落としてしまった。すかさず喉元に突きつけられる槍。

「ま、参った……」

 内蔵助はそう言うのが精一杯だった。可成は槍を引いてにっこりと笑った。

「それで――次の相手は誰ですか?」
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