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竹千代
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「内蔵助! 熱田へ行くぞ!」
「ははっ。承知いたしました!」
即座に応じた内蔵助だが、何故信長が熱田に向かうと言い出したのか、理由は分かっていない。しかし主君の命令に疑問を挟むことは無礼であると重々分かっていた。
「いい返事だ!」
幼子のような笑顔を見せる信長。即座に用意させた馬にまたがり颯爽と駆けていく。内蔵助も自分の馬にまたがって後ろをついていく。
彼は考える。一体熱田にどんな用があるのかを。熱田とは熱田神宮の門前町である。つまり参拝か町の視察の二択に絞られるが、その両方とも無さそうに思えた。理由として信長は神仏を尊重するが頼ったりしないこと。もう一つは熱田にこれといった問題がないこと。
内蔵助はこの時期の信長をよくは知らない。大筋は知っているが細かいところまでは記憶していなかった。だから少ない情報で考える――閃いた。
「若様。もしかして人質の――」
「ぬう? よく知っているな。そのとおり、三河国の大名、松平広忠の息子に会いに行く!」
ほんの少し疑問に思われたことに内蔵助はひやりとしたが、なるほどあの徳川家康に会えると思うと彼の心は躍った。信長と出会ったときと同じくらい、興奮しそうだった。
徳川家康は確か、駿河国の大大名、今川義元に人質として送られるときに、とある家臣が織田家に寝返って尾張国へと連れ去られるという事件があったはずだ。今まさに、自分はその出来事の渦中にいるのだと思うと、内蔵助は少し感動すら覚えた。
熱田の加藤順盛の屋敷――同じ小姓の弥三郎の父親だなと内蔵助は知っていた――に人質がいるらしい。信長は「おい、人質はどこだ!」と大声を上げながらずかずか中に入る。そして見張りの者がいる部屋を見つけた。
「こ、これは、若様! 何故ここに――」
「見張りご苦労である! 人質に会いに来た!」
跪く見張りの者を労った後、躊躇無く部屋に入る信長。内蔵助はどきどきしながら後に続いて入る。
窓がない薄暗い部屋にぽつんと膝を抱えて座っている小さな子ども。しかし信長を見るなりぎょっとした顔で「な、なんだ!?」と驚いた。内蔵助はすっかり慣れていたが、信長は半裸に近い着崩しをしていた。
「お前が人質であるか! なるほど、人質らしい暗い顔をしているな!」
信長の言うとおりだった。さっきまで泣いていたのだろう、涙の跡が頬に残っている。眉が少々太く、体型も多少太っている。だが剛直な顔つきをしていた。磨けば光る玉だと内蔵助が何となく思うのは、未来を知っているからか、それとも生来のものなのか。
「ぶ、無礼な! く、暗い顔などしておらぬ!」
「ほう。人質のくせに強気ではないか」
「わ、私は、人質という名ではない!」
人質の子どもは立ち上がり、震えながらも堂々と胸を張って名乗った。
「私は――竹千代! 三河国の松平広忠の嫡男だぞ!」
これが、織田信長と徳川家康の初対面だったのか。内蔵助は心が震えるほど、言葉にできない熱い何かを感じていた。
「そうか。竹千代というのか」
「お、お前は何者だ! 半裸のかぶき者め!」
びしっと指差しながら――膝は小刻みに震えている――竹千代は言った。すると信長は「よくぞ聞いてくれた!」と大笑いして名乗った。
「俺は信長! 織田三郎信長である!」
「な、なにぃ!? あ、あの、尾張の大うつけの!?」
驚愕する竹千代と自慢げな信長。思わず吹き出してしまいそうなのを膝を抓って我慢する内蔵助。
竹千代はどう対応すれば良いのか、悩んでいた。人質であっても素直に平伏したら松平家が侮られる。かといって横柄な態度は勘気を被ってしまうかもしれない。たった六才とはいえ、彼は己よりも家を優先する思考を身につけていた。
「ふふふ。いろいろ考えているようだな。まあ気楽にしろ」
そんな竹千代を面白がるように、信長はどかりと座って笑った。拍子抜けした気分の竹千代だった。それだけに何も言えなかった。
「ああそうだ。そこに控えているのは、俺の家臣の内蔵助である」
「……ははっ。佐々成宗が息子、内蔵助にございまする」
間が開いてしまったのは、二人の出会いに立ち会えた喜びからであった。竹千代はなんとか「そ、そうか。よろしくな、内蔵助」と言えることができた。
「こんな暗い部屋にいたら息苦しい。ほれ、縁側にいくぞ」
「わ、わわわ! でも、私は人質だから……」
信長は不思議そうに「お前の名は人質ではなく、竹千代なのだろう?」と言った。目を見開く竹千代。内蔵助はこういうことを天然でやるのは凄いなと感心する。
「俺が許可する。さあ行くぞ」
竹千代の手を取って引っ張る信長。そのまま二人が外に出ると、見張りの者はぎょっとして「何をなさいますか!?」と喚いた。すかさず内蔵助が「大丈夫。家の外には出しません」と割って入った。
「しかし、この部屋から出すなとお屋形様に――」
「大丈夫。報告はしません。それに私たちが黙っていれば、誰にも分かりません」
「…………」
「あなたはここできちんと見張っていた。若様と竹千代様は会っていない。それでいいですね?」
内蔵助の説得に見張りの者はしぶしぶ頷いた。信長は「内蔵助を連れてきて良かった!」と大笑いした。
「犬千代だと機転が利かぬからな」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
実のところ、内蔵助が見張りの者を説得した理由は信長の評価をもらうことではなかった。暗い部屋で引きこもると精神がどんどん病むことを、前世で散々思い知っていたからだ。そんな経験を幼い竹千代にさせるのは忍びなかった。
縁側に胡座で座る信長。礼儀正しく座る竹千代。傍に控える内蔵助。
信長は竹千代に「少しは気分は晴れたか?」と問う。
「少しだけ、晴れた。三河国に帰ればもっと晴れ晴れとした気分になれるけど」
「はははは! こやつ、ぬかしよるわ!」
「……えっと、信長殿。これから私は、どうなるのかな?」
信長は耳の穴をほじりながら「親父の交渉次第だな」と言った。
「松平家が織田家に従えばよし。従わぬ場合は――」
「処刑される、ということか……」
内蔵助は竹千代が死ぬことはないと分かっているが、未来を知らない子供はかなり怯えていた。精一杯、虚勢を張っているけど、声の節々に恐怖が見えた。
「死ぬのは怖いか?」
「怖いよ。でも何より怖いのは、松平家が滅びること……」
竹千代は泣きそうになるのをぐっとこらえて、それから「父上は愚かだ!」と叫んだ。
「今川家に媚びへつらい、織田家に怯えている。情けない国の主だ!」
「父親が、嫌いか?」
「だいっ嫌いだ!」
子どもの心からの叫びに内蔵助は心が痛んだ。自分のことを省みない父親というのに何か思うものがあったからだ。
「若様。竹千代様に一言よろしいでしょうか?」
だから、思わず言葉を挟んでしまった。無礼にも程がある行為だった。
信長も目を丸くしたが「なんだ? 言ってみろ」と許可した。竹千代も小姓が何を言うのだろうと不思議に思っていた。
「今は、我慢を覚えてくだされ」
内蔵助から出たのはそんな言葉。彼自身、熱に浮かされたように話す。
「弓を引き絞るように、力を蓄えるのです。そしていつか弓が放たれるまで、我慢をしてください。そうすれば、いつかあなたは三河国の主として、皆の信望を集めるお方になります」
「…………」
「私のおっしゃる意味は分からないと思いますが――」
未来を知らない子供に、我慢を強いるのは残酷なことだけど、それしかないと内蔵助は分かっていた。
「……佐々家の内蔵助と申したな」
竹千代は内蔵助をじっと見ていた。そして零れる涙。ぽとぽとと床に落ちる。
「初めてだ。初めて、やるべきことと希望になることを言ってくれた……」
「…………」
「感謝いたす。そなたの言葉、何よりの宝とする」
内蔵助は計算などしていなかった。ただ自分の前世と目の前の子供を重ね合わせただけだった。だから自然と出た言葉に竹千代は心を打たれた。
「すまぬ。武士が人前で泣くなど……」
小さな手で顔を覆う竹千代に顔を背けながら信長は言う。
「馬鹿。お前に泣くななど、誰も言えぬわ」
「ははっ。承知いたしました!」
即座に応じた内蔵助だが、何故信長が熱田に向かうと言い出したのか、理由は分かっていない。しかし主君の命令に疑問を挟むことは無礼であると重々分かっていた。
「いい返事だ!」
幼子のような笑顔を見せる信長。即座に用意させた馬にまたがり颯爽と駆けていく。内蔵助も自分の馬にまたがって後ろをついていく。
彼は考える。一体熱田にどんな用があるのかを。熱田とは熱田神宮の門前町である。つまり参拝か町の視察の二択に絞られるが、その両方とも無さそうに思えた。理由として信長は神仏を尊重するが頼ったりしないこと。もう一つは熱田にこれといった問題がないこと。
内蔵助はこの時期の信長をよくは知らない。大筋は知っているが細かいところまでは記憶していなかった。だから少ない情報で考える――閃いた。
「若様。もしかして人質の――」
「ぬう? よく知っているな。そのとおり、三河国の大名、松平広忠の息子に会いに行く!」
ほんの少し疑問に思われたことに内蔵助はひやりとしたが、なるほどあの徳川家康に会えると思うと彼の心は躍った。信長と出会ったときと同じくらい、興奮しそうだった。
徳川家康は確か、駿河国の大大名、今川義元に人質として送られるときに、とある家臣が織田家に寝返って尾張国へと連れ去られるという事件があったはずだ。今まさに、自分はその出来事の渦中にいるのだと思うと、内蔵助は少し感動すら覚えた。
熱田の加藤順盛の屋敷――同じ小姓の弥三郎の父親だなと内蔵助は知っていた――に人質がいるらしい。信長は「おい、人質はどこだ!」と大声を上げながらずかずか中に入る。そして見張りの者がいる部屋を見つけた。
「こ、これは、若様! 何故ここに――」
「見張りご苦労である! 人質に会いに来た!」
跪く見張りの者を労った後、躊躇無く部屋に入る信長。内蔵助はどきどきしながら後に続いて入る。
窓がない薄暗い部屋にぽつんと膝を抱えて座っている小さな子ども。しかし信長を見るなりぎょっとした顔で「な、なんだ!?」と驚いた。内蔵助はすっかり慣れていたが、信長は半裸に近い着崩しをしていた。
「お前が人質であるか! なるほど、人質らしい暗い顔をしているな!」
信長の言うとおりだった。さっきまで泣いていたのだろう、涙の跡が頬に残っている。眉が少々太く、体型も多少太っている。だが剛直な顔つきをしていた。磨けば光る玉だと内蔵助が何となく思うのは、未来を知っているからか、それとも生来のものなのか。
「ぶ、無礼な! く、暗い顔などしておらぬ!」
「ほう。人質のくせに強気ではないか」
「わ、私は、人質という名ではない!」
人質の子どもは立ち上がり、震えながらも堂々と胸を張って名乗った。
「私は――竹千代! 三河国の松平広忠の嫡男だぞ!」
これが、織田信長と徳川家康の初対面だったのか。内蔵助は心が震えるほど、言葉にできない熱い何かを感じていた。
「そうか。竹千代というのか」
「お、お前は何者だ! 半裸のかぶき者め!」
びしっと指差しながら――膝は小刻みに震えている――竹千代は言った。すると信長は「よくぞ聞いてくれた!」と大笑いして名乗った。
「俺は信長! 織田三郎信長である!」
「な、なにぃ!? あ、あの、尾張の大うつけの!?」
驚愕する竹千代と自慢げな信長。思わず吹き出してしまいそうなのを膝を抓って我慢する内蔵助。
竹千代はどう対応すれば良いのか、悩んでいた。人質であっても素直に平伏したら松平家が侮られる。かといって横柄な態度は勘気を被ってしまうかもしれない。たった六才とはいえ、彼は己よりも家を優先する思考を身につけていた。
「ふふふ。いろいろ考えているようだな。まあ気楽にしろ」
そんな竹千代を面白がるように、信長はどかりと座って笑った。拍子抜けした気分の竹千代だった。それだけに何も言えなかった。
「ああそうだ。そこに控えているのは、俺の家臣の内蔵助である」
「……ははっ。佐々成宗が息子、内蔵助にございまする」
間が開いてしまったのは、二人の出会いに立ち会えた喜びからであった。竹千代はなんとか「そ、そうか。よろしくな、内蔵助」と言えることができた。
「こんな暗い部屋にいたら息苦しい。ほれ、縁側にいくぞ」
「わ、わわわ! でも、私は人質だから……」
信長は不思議そうに「お前の名は人質ではなく、竹千代なのだろう?」と言った。目を見開く竹千代。内蔵助はこういうことを天然でやるのは凄いなと感心する。
「俺が許可する。さあ行くぞ」
竹千代の手を取って引っ張る信長。そのまま二人が外に出ると、見張りの者はぎょっとして「何をなさいますか!?」と喚いた。すかさず内蔵助が「大丈夫。家の外には出しません」と割って入った。
「しかし、この部屋から出すなとお屋形様に――」
「大丈夫。報告はしません。それに私たちが黙っていれば、誰にも分かりません」
「…………」
「あなたはここできちんと見張っていた。若様と竹千代様は会っていない。それでいいですね?」
内蔵助の説得に見張りの者はしぶしぶ頷いた。信長は「内蔵助を連れてきて良かった!」と大笑いした。
「犬千代だと機転が利かぬからな」
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
実のところ、内蔵助が見張りの者を説得した理由は信長の評価をもらうことではなかった。暗い部屋で引きこもると精神がどんどん病むことを、前世で散々思い知っていたからだ。そんな経験を幼い竹千代にさせるのは忍びなかった。
縁側に胡座で座る信長。礼儀正しく座る竹千代。傍に控える内蔵助。
信長は竹千代に「少しは気分は晴れたか?」と問う。
「少しだけ、晴れた。三河国に帰ればもっと晴れ晴れとした気分になれるけど」
「はははは! こやつ、ぬかしよるわ!」
「……えっと、信長殿。これから私は、どうなるのかな?」
信長は耳の穴をほじりながら「親父の交渉次第だな」と言った。
「松平家が織田家に従えばよし。従わぬ場合は――」
「処刑される、ということか……」
内蔵助は竹千代が死ぬことはないと分かっているが、未来を知らない子供はかなり怯えていた。精一杯、虚勢を張っているけど、声の節々に恐怖が見えた。
「死ぬのは怖いか?」
「怖いよ。でも何より怖いのは、松平家が滅びること……」
竹千代は泣きそうになるのをぐっとこらえて、それから「父上は愚かだ!」と叫んだ。
「今川家に媚びへつらい、織田家に怯えている。情けない国の主だ!」
「父親が、嫌いか?」
「だいっ嫌いだ!」
子どもの心からの叫びに内蔵助は心が痛んだ。自分のことを省みない父親というのに何か思うものがあったからだ。
「若様。竹千代様に一言よろしいでしょうか?」
だから、思わず言葉を挟んでしまった。無礼にも程がある行為だった。
信長も目を丸くしたが「なんだ? 言ってみろ」と許可した。竹千代も小姓が何を言うのだろうと不思議に思っていた。
「今は、我慢を覚えてくだされ」
内蔵助から出たのはそんな言葉。彼自身、熱に浮かされたように話す。
「弓を引き絞るように、力を蓄えるのです。そしていつか弓が放たれるまで、我慢をしてください。そうすれば、いつかあなたは三河国の主として、皆の信望を集めるお方になります」
「…………」
「私のおっしゃる意味は分からないと思いますが――」
未来を知らない子供に、我慢を強いるのは残酷なことだけど、それしかないと内蔵助は分かっていた。
「……佐々家の内蔵助と申したな」
竹千代は内蔵助をじっと見ていた。そして零れる涙。ぽとぽとと床に落ちる。
「初めてだ。初めて、やるべきことと希望になることを言ってくれた……」
「…………」
「感謝いたす。そなたの言葉、何よりの宝とする」
内蔵助は計算などしていなかった。ただ自分の前世と目の前の子供を重ね合わせただけだった。だから自然と出た言葉に竹千代は心を打たれた。
「すまぬ。武士が人前で泣くなど……」
小さな手で顔を覆う竹千代に顔を背けながら信長は言う。
「馬鹿。お前に泣くななど、誰も言えぬわ」
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