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傑作
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三井八郎右衛門高祐が催す絵比べには有識者が集まった。芸術の心得のある者、三井と同じ芸術品に眼がない者、そして三井が認めて招待された者――総勢二十八人の客が参加した。老中の松平定信が失脚していてもなお、奢侈な催しは控えるようにと通達があったので、それだけしか呼べなかった。
しかし三井は十分だと判断した。ここで傑作が生まれれば招待した客が噂して、評判を高めることになる。それを所有している三井もますます有名となり商売が上手くいくだろうと踏んでいた。価値はあるが売れない賞品と引き換えに、傑作を手に入れられるほうが三井にとって重要だが、商家の繁盛も必要だった。
「これは蔦屋さん。今日はよく来てくださりました」
「三井様。今日がご招待いただき、誠にありがとうございます」
その客の中には重三郎もいた。作品を提出する側ではあるが、彼もまた芸術を解する男だ。傑作が生まれるかもしれないという場を逃したくない。三井の招待を受けたときは戦々恐々とした気持ちになったが、当日になると楽しみになってきたのは否めない。
招待された場所は三井の江戸での屋敷だった。
家としてではなく、芸術品を蒐集するために使っている。そのため家具の代わりに広々とした空間が備わっていた。その中に各々の席が用意されている。
三井に挨拶を終えた後、重三郎は宛がわれた席に座った。
そして出された茶と菓子を食べつつ、はたして写楽の作品はこの場にいる客にどのような反応させるのかと想像する。重三郎としては自信がある。おそらく場の空気を支配するほどの傑作であると分かっていた。
だから今か今かと催し物の始まりを待っていた。
そわそわしていると、隣の客が「いかがなさりましたか?」と訊ねる。
「いえ。手前が世話をしている絵師の作品がどう評価されるか、気になりましてね」
「ほう。あなたは蔦屋殿とお見受けしますが……その絵師とは?」
重三郎は「東洲斎写楽です」とさらりと言う。
客は「ああ、あの……」と微妙な顔をした。シャーロックの絵が不人気なのは周知の事実である。
「分かりませぬな。東洲斎写楽の絵は独創的ではありますが、その、江戸の住民の理解を得られては……」
「そうですな。認めるものは少ないです。しかし――」
重三郎は一転して明るくて晴れやかな笑顔で答えた。
「――今回の催し物で評価が変わると、手前は睨んでおります」
「い、いやあ。凄い自信ですな……」
客が言い淀むのも無理はない。
写楽の絵の本質や価値が分かるのは、有識者でも一握りだけである。
それでも重三郎は確信している。
シャーロックは不世出の絵師なのだと――
◆◇◆◇
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。今回の絵比べは皆さまの肥えた眼を満足させるに相応しい傑作が揃っていると自負しております。是非楽しんでいただけたら幸いです」
三井の挨拶により、絵比べが始まった。
順番に出される絵は芸術を解する者にとって目の保養となるものばかりだった。
それらに感想を口々に言いながら客は楽しんでいた。
人物画や風景画、変わったところで妖怪の絵なども出てきた。
版画で刷られる作品ではなく、全てが肉筆で二つとないものばかりである。
重三郎もまた大いに楽しんでいた。
描かれた絵を実際に見ると、迫力が伝わるものだ。
作者の熱意が直接眼に焼き付くように感じられる。
魂を込められたものほど、それが顕著に表れる。
だからこそ、芸術は人の心を掴んで離さない。
ゆえに無くなることは決してないのだ。
「次に東洲斎写楽さまの作品です」
進行役の三井の番頭が紹介すると、場の緊張が緩まった。
しらけるとまでは言わないが、注目が集まらなくなった。
何故ならシャーロックの絵は不人気だからだ。
初めから今に至るまで、傑作が揃っていて見る者も神経を張っていた。
ここが箸休めと言わんばかりに客の興味が下がってしまったのだ。
そんな客たちの反応を見て、重三郎はにやりと笑った。
これから出るシャーロックの絵を見たら度肝を抜かれるだろう。
それを見るのが楽しみだと考えていた。
ふと三井のほうを見る重三郎。
彼もまた、傑作が出続けての感動に疲れているようだ。
これならば――確実に旗は手に入る。
運ばれてきたシャーロックの作品は――白い布を被せてあった。
巻物ではなく、一枚の絵を板に貼らせたものなので、皆を驚かせるために重三郎がそう指示したのだ。それが縦に長い長方形の形になっている。
ここで客が先ほどとは違うと気づく。
三井も不思議そうな顔で布と重三郎を交互に見る。
重三郎は笑みを深くした。
「それでは、どうかご鑑賞ください」
進行役の番頭が決まっていた台詞を言う――ばっと布が取り外された。
そこには一輪の薔薇が描かれていた。
それも蔓と葉が付いている、野生の薔薇だった。
中心よりやや上部に花が描かれ、いばらの付いた蔓が右斜め上より薔薇を支えるように生えている。薔薇の下には葉が二枚描かれている。つまり、花と葉を吊るす構図で描かれていた。
一見して普通の薔薇にしか見えない――だが客たちは違うものを見ていた。
何故なら、背景が薄い赤だったからだ。
赤い紙に赤い薔薇を描く。それでいて中心に描かれた薔薇に注目が集まるほど――強烈な印象を与えている。普通の絵師ならば背景は白だろう。あるいは薔薇の赤を強調させる黒を選ぶかもしれない。しかしシャーロックは違っていた。常人ならば選ばない、赤を背景に薔薇を見事に描いたのだ。
その薔薇自体も花のみずみずしさ、生命力があふれている。蔓と葉もまたそうだった。背景が赤だからこそ、それらの緑が映えていた。それが狙いだとするのなら大胆な発想だった。主役の花ではなく、脇役の蔓や葉を強調するやり方なのだろうか。
だがそれでも花の美しさと魅力は変わらない。
かぐわしい匂いまで伝わってくるような、怪しげな雰囲気すら感じさせる。
魔性と表現すれば適当だろう。
その場にいる客は皆、何も言えず固まってしまった。
布を取った番頭でさえ、そうだった。
三井など固唾を飲むことすら忘れている。
ふいに重三郎がこほんと咳払いをした。
三井を始め、数人が放心していたことに気づく。
正気に戻った彼らは眼の前の傑作をどう称賛していいのか分からない。声を出そうにも上手く喋ることができなさそうだった。
だから――三井は両手を叩いて鳴らした。
神に祈るときの柏手を何度も打つ。
それが少しずつ客たちに広がり――万雷の拍手となった。
ああ。東洲斎写楽が認められた。
旗の陰謀を忘れて、重三郎は満足そうに頷く。
涙が止まらなかった――
◆◇◆◇
結局、シャーロックの作品を超える傑作はなかなか現れなかった。
重三郎にしてみれば当然の結果だが、三井にしてみれば大誤算である。
確かに写楽の絵は凄い。実際に見てみれば凄みを感じるだろう。
けれども、噂になるかどうかは微妙なところだった。
三井自身は写楽を高く評価しているが、江戸の町人の評価は低い。
噂は広まりづらくなるだろう。
しかし三井はこの結果を悪いものと捉えているが、同時に写楽の傑作を手に入れたことは蒐集家として名誉なことだと思っていた。
あれほどの作品はなかなか現れないだろう。そう考えて納得していた。
「すみません。三井様はいらっしゃるでしょうか」
催し物が終わるかどうかの時期に遠慮がちに声をかけたのは――蔦屋の番頭、勇助だった。
重三郎が驚く中、三井は「おや。蔦屋で見かけましたね」と思い出す。
「蔦屋の勇助と申します。このたびの催し物に参加させていただけませんでしょうか?」
「だが、もう終わりにしようかと思っていたのです。またの機会に――」
「少しの間で良いのです。気に入らなければ評価は要りません」
勇助は頭を下げた。
三井は重三郎を見て「いかがなさいますか」と言う。
「手前には、決めることはできません。三井様のご判断に委ねます」
「ふむ……ま、見てみましょう。皆様方、今しばらくお待ちください」
勇助は無表情のまま「ありがとうございます」と礼を言う。
そして進行役の番頭に巻物を手渡した――
しかし三井は十分だと判断した。ここで傑作が生まれれば招待した客が噂して、評判を高めることになる。それを所有している三井もますます有名となり商売が上手くいくだろうと踏んでいた。価値はあるが売れない賞品と引き換えに、傑作を手に入れられるほうが三井にとって重要だが、商家の繁盛も必要だった。
「これは蔦屋さん。今日はよく来てくださりました」
「三井様。今日がご招待いただき、誠にありがとうございます」
その客の中には重三郎もいた。作品を提出する側ではあるが、彼もまた芸術を解する男だ。傑作が生まれるかもしれないという場を逃したくない。三井の招待を受けたときは戦々恐々とした気持ちになったが、当日になると楽しみになってきたのは否めない。
招待された場所は三井の江戸での屋敷だった。
家としてではなく、芸術品を蒐集するために使っている。そのため家具の代わりに広々とした空間が備わっていた。その中に各々の席が用意されている。
三井に挨拶を終えた後、重三郎は宛がわれた席に座った。
そして出された茶と菓子を食べつつ、はたして写楽の作品はこの場にいる客にどのような反応させるのかと想像する。重三郎としては自信がある。おそらく場の空気を支配するほどの傑作であると分かっていた。
だから今か今かと催し物の始まりを待っていた。
そわそわしていると、隣の客が「いかがなさりましたか?」と訊ねる。
「いえ。手前が世話をしている絵師の作品がどう評価されるか、気になりましてね」
「ほう。あなたは蔦屋殿とお見受けしますが……その絵師とは?」
重三郎は「東洲斎写楽です」とさらりと言う。
客は「ああ、あの……」と微妙な顔をした。シャーロックの絵が不人気なのは周知の事実である。
「分かりませぬな。東洲斎写楽の絵は独創的ではありますが、その、江戸の住民の理解を得られては……」
「そうですな。認めるものは少ないです。しかし――」
重三郎は一転して明るくて晴れやかな笑顔で答えた。
「――今回の催し物で評価が変わると、手前は睨んでおります」
「い、いやあ。凄い自信ですな……」
客が言い淀むのも無理はない。
写楽の絵の本質や価値が分かるのは、有識者でも一握りだけである。
それでも重三郎は確信している。
シャーロックは不世出の絵師なのだと――
◆◇◆◇
「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。今回の絵比べは皆さまの肥えた眼を満足させるに相応しい傑作が揃っていると自負しております。是非楽しんでいただけたら幸いです」
三井の挨拶により、絵比べが始まった。
順番に出される絵は芸術を解する者にとって目の保養となるものばかりだった。
それらに感想を口々に言いながら客は楽しんでいた。
人物画や風景画、変わったところで妖怪の絵なども出てきた。
版画で刷られる作品ではなく、全てが肉筆で二つとないものばかりである。
重三郎もまた大いに楽しんでいた。
描かれた絵を実際に見ると、迫力が伝わるものだ。
作者の熱意が直接眼に焼き付くように感じられる。
魂を込められたものほど、それが顕著に表れる。
だからこそ、芸術は人の心を掴んで離さない。
ゆえに無くなることは決してないのだ。
「次に東洲斎写楽さまの作品です」
進行役の三井の番頭が紹介すると、場の緊張が緩まった。
しらけるとまでは言わないが、注目が集まらなくなった。
何故ならシャーロックの絵は不人気だからだ。
初めから今に至るまで、傑作が揃っていて見る者も神経を張っていた。
ここが箸休めと言わんばかりに客の興味が下がってしまったのだ。
そんな客たちの反応を見て、重三郎はにやりと笑った。
これから出るシャーロックの絵を見たら度肝を抜かれるだろう。
それを見るのが楽しみだと考えていた。
ふと三井のほうを見る重三郎。
彼もまた、傑作が出続けての感動に疲れているようだ。
これならば――確実に旗は手に入る。
運ばれてきたシャーロックの作品は――白い布を被せてあった。
巻物ではなく、一枚の絵を板に貼らせたものなので、皆を驚かせるために重三郎がそう指示したのだ。それが縦に長い長方形の形になっている。
ここで客が先ほどとは違うと気づく。
三井も不思議そうな顔で布と重三郎を交互に見る。
重三郎は笑みを深くした。
「それでは、どうかご鑑賞ください」
進行役の番頭が決まっていた台詞を言う――ばっと布が取り外された。
そこには一輪の薔薇が描かれていた。
それも蔓と葉が付いている、野生の薔薇だった。
中心よりやや上部に花が描かれ、いばらの付いた蔓が右斜め上より薔薇を支えるように生えている。薔薇の下には葉が二枚描かれている。つまり、花と葉を吊るす構図で描かれていた。
一見して普通の薔薇にしか見えない――だが客たちは違うものを見ていた。
何故なら、背景が薄い赤だったからだ。
赤い紙に赤い薔薇を描く。それでいて中心に描かれた薔薇に注目が集まるほど――強烈な印象を与えている。普通の絵師ならば背景は白だろう。あるいは薔薇の赤を強調させる黒を選ぶかもしれない。しかしシャーロックは違っていた。常人ならば選ばない、赤を背景に薔薇を見事に描いたのだ。
その薔薇自体も花のみずみずしさ、生命力があふれている。蔓と葉もまたそうだった。背景が赤だからこそ、それらの緑が映えていた。それが狙いだとするのなら大胆な発想だった。主役の花ではなく、脇役の蔓や葉を強調するやり方なのだろうか。
だがそれでも花の美しさと魅力は変わらない。
かぐわしい匂いまで伝わってくるような、怪しげな雰囲気すら感じさせる。
魔性と表現すれば適当だろう。
その場にいる客は皆、何も言えず固まってしまった。
布を取った番頭でさえ、そうだった。
三井など固唾を飲むことすら忘れている。
ふいに重三郎がこほんと咳払いをした。
三井を始め、数人が放心していたことに気づく。
正気に戻った彼らは眼の前の傑作をどう称賛していいのか分からない。声を出そうにも上手く喋ることができなさそうだった。
だから――三井は両手を叩いて鳴らした。
神に祈るときの柏手を何度も打つ。
それが少しずつ客たちに広がり――万雷の拍手となった。
ああ。東洲斎写楽が認められた。
旗の陰謀を忘れて、重三郎は満足そうに頷く。
涙が止まらなかった――
◆◇◆◇
結局、シャーロックの作品を超える傑作はなかなか現れなかった。
重三郎にしてみれば当然の結果だが、三井にしてみれば大誤算である。
確かに写楽の絵は凄い。実際に見てみれば凄みを感じるだろう。
けれども、噂になるかどうかは微妙なところだった。
三井自身は写楽を高く評価しているが、江戸の町人の評価は低い。
噂は広まりづらくなるだろう。
しかし三井はこの結果を悪いものと捉えているが、同時に写楽の傑作を手に入れたことは蒐集家として名誉なことだと思っていた。
あれほどの作品はなかなか現れないだろう。そう考えて納得していた。
「すみません。三井様はいらっしゃるでしょうか」
催し物が終わるかどうかの時期に遠慮がちに声をかけたのは――蔦屋の番頭、勇助だった。
重三郎が驚く中、三井は「おや。蔦屋で見かけましたね」と思い出す。
「蔦屋の勇助と申します。このたびの催し物に参加させていただけませんでしょうか?」
「だが、もう終わりにしようかと思っていたのです。またの機会に――」
「少しの間で良いのです。気に入らなければ評価は要りません」
勇助は頭を下げた。
三井は重三郎を見て「いかがなさいますか」と言う。
「手前には、決めることはできません。三井様のご判断に委ねます」
「ふむ……ま、見てみましょう。皆様方、今しばらくお待ちください」
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