東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

文字の大きさ
上 下
3 / 31

実演

しおりを挟む
「写楽……珍しい名であるな。まるで取ってつけたような……」

 怪しんでいる番頭の速水主水に対し、やはり普通の名のほうが良かったと後悔する重三郎。隣に控えている、正体を隠したシャーロックが小刻みに震えているのが伝わる。今が窮地だと分かるようだ。

「何故怯えておるのだ?」
「この者は病を持っておりまして……寒気が止まらないのです」

 人間追い詰められると思考が停止する者と目まぐるしく回転する者に分かれる。重三郎は後者だった。平常では思いつかない嘘が頭の中に浮かんでくる。

「病だと? 何の病だ?」
「手前は脚気に近いものと聞き及んでおります。詳しくは知りませぬ」
「……ならば当人に話させよう。その方、如何なる病か」

 視線を向けられたシャーロックはますます怯え始めた。口元の布が取れぬか不安になった重三郎は「この者、耳が聞こえませぬ」と大嘘をついた。

「それ故、話すことは叶いません」
「なに? 貴様は脚気に近い病と言っていたではないか! 脚気で耳がおかしくなるなど聞いたことがない!」
「ですから、この者は脚気に近い病だと……」

 速水はじっとシャーロックを見つめた。その者の耳が聞こえないことをどう証明するか――

「あい分かった。その方の疑いは晴れた故、関を通るがよい」

 重三郎は一瞬喜びかけたが、これが速水の罠だと気づく。言葉に何らかの反応を見せれば耳が健常だとバレてしまう――

「…………」

 けれども、シャーロックは何も反応しなかった。ぶるぶる震えているが速水の言葉で変わった様子は見られない。それもそのはず、シャーロックは日の本の言葉が分からないのだ。

「……まことのようだな」

 速水が不承不承に納得のを見て、重三郎はなんという幸運だろうと神仏に感謝した。しかし緊張は解かない。油断してボロが出てしまえば自分たちに明日はない。

「では何故、病の者と旅をしている?」
「長崎奉行の中川様より紹介に預かりました。この写楽は素晴らしい絵師だと。それ故、江戸に参らせたのです。手前の商売である版元は絵師がいないと成り立ちませんから」

 中川の紹介――強制と言い換えられる――以外は嘘である。それどころかシャーロックが絵を描く様子を見続けていたから出た思いつきでしかない。

 油断も無ければ弛緩もしていなかった。
 しかしこの発言が重三郎とシャーロックを更なる窮地に追いやることとなる。

「ならばその証を実際に見せてもらおう」
「……なんですと?」
「この場で絵を描くのだ」

 速水は不敵に笑った。
 これで決着がつくと言わんばかりだった。

「題材はなんでも良い。道具も用意させよう。さあ描くがいい」


◆◇◆◇


 とんでもないことになった。
 それが重三郎の率直な感想だった。
 シャーロックの実力は分かっている。しかしそれでも速水を納得させられるものを描き上げられるだろうか。もし勘気を被る出来のものだったら――それこそ首と胴が離れる結果になる。

 すぐさま墨と筆が用意された。速水が見ている中、未だ怯えているシャーロックは何をしたらいいのかと重三郎を不安そうに見つめる。
 もうシャーロックに委ねるしかない。頼むから非凡な才能を見せてくれ――そう願いつつ、重三郎は右手で左の掌をなぞって絵を描く仕草をした。

「どうした? 類まれなる絵師なのであろう? さっさと描くがいい」

 速水の促しに対し、シャーロックは状況がほぼ分かったらしい。
 深く深呼吸をして――筆を取った。
 このとき、速水が用意させた筆は絵筆ではない。重三郎が与えた筆と違って多少の書きづらさはあるだろう。それをどう克服するか――

「…………!」

 沈黙のまま、シャーロックは筆を動かす。
 いわゆる水墨画を描こうとしている――色が黒しかない――ので多彩な表現は不可能だ。
 それでどんな絵を描くのか。重三郎は天に祈る心地で見守っている。

 一方、速水はこれでボロが出ればいいと考えていた。
 耳の聞こえぬのは確かだとしても、絵師というのは眉唾物だった。病人が肥前国からここまで旅をしてきたというのも無理がある。

 まさか異国人がこの場にいるとは思っていない。ただ脛に傷を持つ者だとしたら取り締まらないといけないという使命感を持っていた。厳しい政治で有名な松平定信が老中より解任された数年前より番頭を務めている速水。頑固で融通の利かないところがあったからこそ、ここまで出世できたのだ。

 ――さあ、見破ってやるぞ。
 そう思いつつ、速水はシャーロックの手元を覗き込んだ――そこで驚愕する。

 素早い筆運びだ。とても丁寧な描き方とは思えない。
 しかし絵はとても常人が描いたとは思えないほど――美しかった。

 シャーロックが描いているのはなんてことのない、山を遠くから見た光景だった。
 空があり山があり川が流れている。題材としては平凡そのものだった。
 そんな単純な構図なのに――生きていた。空は透き通っていて、山は青々と茂っていて、川はせせらぎが聞こえてくるように流れている。

 不思議なことに墨の黒一色で描いているはずなのに、色が分かれているように見えた。
 それは濃淡を変えているからだ。おそらく水を使っているのだろう。その技法で空の眩しさ、山の重量感、川の透明度を表現していた。

 たった一色で質感を変えるのは相当の技術がないと不可能だ。それを手早く描くのは素晴らしいというよりも凄まじいと言える。いともたやすく行なえるような行為ではない。

 ――なんという見事な絵だ。
 後ろで見守っていた重三郎もシャーロックの絵に驚いていた。
 いや、驚くというよりも――感動に近かった。

 版元を営んでいる重三郎は今まで数々の絵師を見続けた。
 数少ない才能のある者の絵も見ていた。
 けれども、シャーロックほどの才能は――今までにない。

 迷いなく描いている。
 いや、全身の震えが止まっている――この状況で楽しんで描いていた。
 絵を描くことが楽しくて仕方がなくて夢中になっているみたいだ。

 好きこそものの上手になれという言葉があるが、体現している者と出会ったのは、重三郎の長い人生の中で初めてかもしれない。世話してきた絵師たちは産みの苦しみをどこかで抱えていた。だけどシャーロックにはそれがない。まるで子供のように――楽しく活き活きと描いている。

「…………」

 シャーロックが筆を置いた――完成したのだ。
 そこには非凡な作品が出来上がっていた。

 空と山と川。たったそれだけなのに、今まで見たことのない美しい絵が存在していた。
 あまりの凄みに重三郎も速水も、控えている手代たちも見張っていた役人も声を出せなかった。

 そのとき、ごーんと夕刻を知らせる鐘の音が聞こえた。
 重三郎と速水がいち早く我に返った――二人が同時に咳払いすると他の者もハッとする。

「……いかがでしょうか」

 重三郎の短い言葉。
 感動のあまりそれしか言えない言葉。
 速水はごくりと唾を飲み込んだ。

「よ、良かろう。通行を許可する」
「ありがとうございます。それでは皆の衆、急ぎ箱根の関を通るぞ。日が暮れる前に通らねばならん」

 手代たちにそう告げると、重三郎は自分の絵を見つめているシャーロックの肩を叩いた。
 頭巾と布で表情は分からない。
 それでも高揚している感情は伝わってきた。

「待て。その絵……どうする気だ?」

 速水が絵を指差す。
 重三郎はしばし考え「引き取らせていただきます」と手に取った。

「写楽の作品ですゆえ、売りに出そうかと」
「ゆ、譲ってくれぬか?」

 速水の眼が欲しいと言っている。
 重三郎はしばし悩むふりをして「譲ることはできませぬ」と言った。

「手前は商人ですから、売ることならできます」
「い、いくらだ?」
「……一両でいかがですか?」

 一両は相当な大金である。ここから値段交渉するために、重三郎は吹っ掛けたのだが、それに気づかない速水は「いいだろう。一両支払う」と即答した。

「よろしいのですか?」
「ああ。むしろそのくらいで買えたことは喜ばしい」
「分かりました。それで売りましょう」

 にこやかに笑っている重三郎だが、もっと値を吊り上げられたなと内心悔しがった。
 自分の絵が高値で売れたことにシャーロックは分からず、二人のやりとりを不思議そうに聞いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-

ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代―― 後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。 ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。 誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。 拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生! ・検索キーワード 空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道

魔斬

夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。 その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。 坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。 幕末。 深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。 2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...