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邂逅
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江戸の出身だった私が、龍馬と出会ったのはほとんど奇跡に近かった。
そもそも、私が京の伏見奉行所の獄医になったのも奇縁であった。
祖父の代から小伝馬町の牢屋敷の獄医を務めていた才谷家。身分は士分だったが、役目が無いときは町医者として働いていた。誤解を恐れずに言えば、町民の診療のほうの儲けが多かった。羽振りの良い商人を祖父や父が相手していたのもあるけれど。
だから獄医を継ぐことに些かの抵抗はなかった。しかし、昨今の情勢を鑑みて京の都に数人派遣することになり、それに選ばれることとなったのは驚いた。京に立派な屋敷を設けてくれて、三食も不自由しない禄を貰えるとのことだったので、断る理由もなく粛々と従った。
父と母、そして妹に別れを告げて江戸を出立したのは文久元年のことだった。当時の私は二十歳をそこそこ越えたぐらいで、獄医どころか医者としても大人としても半人前だった。未だに何故私が選ばれたのかは分からない。人より真面目に職務に励んでいたのは確かではあるが。
京に着くとまず、そのじめっとした気候に驚いた。到着したのは夏だったが、ねばったとした暑さがなかなか慣れず、人が住むのに適していないと思われる湿気だった。周りをぐるりと山に囲まれた盆地だからと京の獄医に教えてもらった。
貼りつくようなしめった空気と厳しい暑さの中、私は獄医としての職務に励んだ。世情に詳しいわけではないが、尊皇攘夷ぐらいは知っている私はこんなにもその運動に参加している人数が多いのかと驚いた。
というのも、江戸では声高に議論を交わす者が多いけれど、実際に動いている者は見たことが無い。そう言えば、上洛して二年後の妹からの手紙で、清河八郎なる活動家が斬られた事件があったと記憶している。しかし大した騒ぎになっていなかったので気にしていなかった。
もちろん、尊皇攘夷の志を持つ武士、つまりは志士が牢屋に閉じ込められているだけではなかった。商家を強請る不逞浪士なる者たちもいた。この混迷としている京で悪さをするとは。火事場泥棒と一緒だなと思いつつ、その者たちの治療もした。
そうして私なりに忙しい日々を過ごし、合間の時間で京の住民たちの診療と治療を行なった。そうそう、立派な屋敷と聞いていた住処だったが、一人暮らしでも狭いこじんまりとした家だった。そこらの商人のほうが良い暮らしをしているだろう。
獄医と町医者として、京の生活を一年余り過ごした後。
さまざまな出来事が起こりそうで起こらなかった時節。
私が龍馬に出会ったのは、そんな狭間の頃だった。
◆◇◆◇
文久二年十月、大坂に赴いたのは非番で暇だったからだ。
それも偶発的に発生した非番だった。
京の獄医が手違いで増員されたのだ。それならば江戸に帰れると思ったのだけど、真面目に職務に励んだのが仇となり、私は残ることとなった。
しかし獄医が増えたせいで非番が多くなった。それならばと以前より行ってみたかった大坂を見物でもしようと考えたのだ。他の獄医も誘ったのだけれど「大坂は飽きた」と羨ましいことを言われて断られた。
というわけで一人寂しく大坂へと向かった。この頃は関所があったのだけれど、牢屋奉行が一筆書いてくれたおかげですんなりと通れた。その後の道中も何事も無く、大坂まで向かうことができた。
さて。大坂に着いた私がまず向かったのは緒方洪庵先生が創った蘭学の私塾、適塾である。一通りの医術を修めている私だったが、先進的な医術はまだ身についていなかった。学ばせてくれるかどうか、定かではなかったがとりあえず向かうと、なんと緒方先生直々に教えてくれることとなった。
緒方先生は私に獄医で一番困る病、つまり不衛生による病について講義してくれた。手元にあった紙で走り書きをしていると「この書物をどうぞ」と笑顔で解読した蘭学書をくれた。貴重なものでしょうと私が訊ねると「また解読しますから」とこれまた柔和な笑顔で言う。医聖というのはまさしくこの方を言うのだなと感心した。
適塾を後にした私は蘭学書を大事に懐に抱えつつ、道頓堀川付近を歩いていた。大坂の秋は京と違って過ごしやすいなと思っていると、突然雨が降り出した。これはまずいと思った私は近くの軒先を借りることにした。
ざあざあと本降りになってきたがすぐに止む気配を感じていた。ぼうっとして待っていると、雨の中を走っている男がいた。ずぶ濡れになりながら、誰かに追われているように駆けている。
変な男だなと思っているとこっちの軒先にやってくる。この雨では走るのもままならないと思ったのだろう。私の隣にずぶ濡れのまま入ってきた。私も軒先を借りている身だから、何も文句は言えない。
「ひゃあああ。こん雨には参ったぜよ。早う止まんかのう」
独り言にしては大きすぎる。
私は思わずじろじろと男を眺め増してしまった。
目は細目。体格は私より大きい。日に焼けていて毛深く、不潔と言っていい身なり。しかしどこか人を引き寄せるような、島国ではなく大陸で育ったような印象。野性味あふれる男と言えばいいのだろうか。おそらく私もよりも年長である。
「うん? 先客がいたか。すまんぜよ」
男が申し訳なさそうに謝ってきた。
私は気にしていないという旨を伝えた。
「ほうか。なら良かったぜよ」
この訛りは京の牢屋で聞いた、土佐訛りだなと私は気づいた。
しかし指摘するのも良くないと思ったので黙っていると、こちらに向かってくる男三人が見えた。隣の男は「ありゃ。見つかったぜよ」と肩を落とした。
「きさん! ようも逃げられると思っちょったか!」
これまた土佐訛りの男だ。すらりと刀を抜く。
男は「待っちょくれや」と手で制する。
「わしは吉田様を殺しとらん。天地天明に誓う」
「そんな言い訳、聞けるか!」
武士の斬り合いが始めると分かった私はその場を逃げようとするが、懐の蘭学書を濡らしたくないのでどうすることもできない。
「行くぞ、坂本ぉ!」
三人が一斉に襲い掛かる。
男は困ったように首に手を当てる。
大変なことになった、と私は一人怯えていた。
男は上段で斬りかかってきた男の腕を、斬られる前に押さえつけて、そのがら空きになった胴に蹴りを入れた。口から胃液と血液を吐き出した。一人は怯んだが、もう一人は臆することなく、横薙ぎしてくる。避けきれずに腕をやられた男。
「痛ったいぜよ! なにするんか!」
男は血を流したまま、横薙ぎをした後の体勢の武士の顔面を思いっきり殴った。
鼻血が噴き出て気絶したのを見て、男は残った一人に「おまんはやらん」と宣言した。
「こん人たち片付けてや」
「くっ!」
残った一人はそのまま逃げ帰ってしまう。
男は私に「迷惑かけたの」と笑った。
徐々に雨の勢いが無くなっていく。
私は、あなたは何者かと訊ねる。
「わしか? わしはのう」
そのとき、雲の切れ間から日輪が見えた。
煌々と輝くそれを背後に、男は自らの名を名乗った。
「わしは坂本龍馬じゃ。土佐脱藩浪士のな」
そもそも、私が京の伏見奉行所の獄医になったのも奇縁であった。
祖父の代から小伝馬町の牢屋敷の獄医を務めていた才谷家。身分は士分だったが、役目が無いときは町医者として働いていた。誤解を恐れずに言えば、町民の診療のほうの儲けが多かった。羽振りの良い商人を祖父や父が相手していたのもあるけれど。
だから獄医を継ぐことに些かの抵抗はなかった。しかし、昨今の情勢を鑑みて京の都に数人派遣することになり、それに選ばれることとなったのは驚いた。京に立派な屋敷を設けてくれて、三食も不自由しない禄を貰えるとのことだったので、断る理由もなく粛々と従った。
父と母、そして妹に別れを告げて江戸を出立したのは文久元年のことだった。当時の私は二十歳をそこそこ越えたぐらいで、獄医どころか医者としても大人としても半人前だった。未だに何故私が選ばれたのかは分からない。人より真面目に職務に励んでいたのは確かではあるが。
京に着くとまず、そのじめっとした気候に驚いた。到着したのは夏だったが、ねばったとした暑さがなかなか慣れず、人が住むのに適していないと思われる湿気だった。周りをぐるりと山に囲まれた盆地だからと京の獄医に教えてもらった。
貼りつくようなしめった空気と厳しい暑さの中、私は獄医としての職務に励んだ。世情に詳しいわけではないが、尊皇攘夷ぐらいは知っている私はこんなにもその運動に参加している人数が多いのかと驚いた。
というのも、江戸では声高に議論を交わす者が多いけれど、実際に動いている者は見たことが無い。そう言えば、上洛して二年後の妹からの手紙で、清河八郎なる活動家が斬られた事件があったと記憶している。しかし大した騒ぎになっていなかったので気にしていなかった。
もちろん、尊皇攘夷の志を持つ武士、つまりは志士が牢屋に閉じ込められているだけではなかった。商家を強請る不逞浪士なる者たちもいた。この混迷としている京で悪さをするとは。火事場泥棒と一緒だなと思いつつ、その者たちの治療もした。
そうして私なりに忙しい日々を過ごし、合間の時間で京の住民たちの診療と治療を行なった。そうそう、立派な屋敷と聞いていた住処だったが、一人暮らしでも狭いこじんまりとした家だった。そこらの商人のほうが良い暮らしをしているだろう。
獄医と町医者として、京の生活を一年余り過ごした後。
さまざまな出来事が起こりそうで起こらなかった時節。
私が龍馬に出会ったのは、そんな狭間の頃だった。
◆◇◆◇
文久二年十月、大坂に赴いたのは非番で暇だったからだ。
それも偶発的に発生した非番だった。
京の獄医が手違いで増員されたのだ。それならば江戸に帰れると思ったのだけど、真面目に職務に励んだのが仇となり、私は残ることとなった。
しかし獄医が増えたせいで非番が多くなった。それならばと以前より行ってみたかった大坂を見物でもしようと考えたのだ。他の獄医も誘ったのだけれど「大坂は飽きた」と羨ましいことを言われて断られた。
というわけで一人寂しく大坂へと向かった。この頃は関所があったのだけれど、牢屋奉行が一筆書いてくれたおかげですんなりと通れた。その後の道中も何事も無く、大坂まで向かうことができた。
さて。大坂に着いた私がまず向かったのは緒方洪庵先生が創った蘭学の私塾、適塾である。一通りの医術を修めている私だったが、先進的な医術はまだ身についていなかった。学ばせてくれるかどうか、定かではなかったがとりあえず向かうと、なんと緒方先生直々に教えてくれることとなった。
緒方先生は私に獄医で一番困る病、つまり不衛生による病について講義してくれた。手元にあった紙で走り書きをしていると「この書物をどうぞ」と笑顔で解読した蘭学書をくれた。貴重なものでしょうと私が訊ねると「また解読しますから」とこれまた柔和な笑顔で言う。医聖というのはまさしくこの方を言うのだなと感心した。
適塾を後にした私は蘭学書を大事に懐に抱えつつ、道頓堀川付近を歩いていた。大坂の秋は京と違って過ごしやすいなと思っていると、突然雨が降り出した。これはまずいと思った私は近くの軒先を借りることにした。
ざあざあと本降りになってきたがすぐに止む気配を感じていた。ぼうっとして待っていると、雨の中を走っている男がいた。ずぶ濡れになりながら、誰かに追われているように駆けている。
変な男だなと思っているとこっちの軒先にやってくる。この雨では走るのもままならないと思ったのだろう。私の隣にずぶ濡れのまま入ってきた。私も軒先を借りている身だから、何も文句は言えない。
「ひゃあああ。こん雨には参ったぜよ。早う止まんかのう」
独り言にしては大きすぎる。
私は思わずじろじろと男を眺め増してしまった。
目は細目。体格は私より大きい。日に焼けていて毛深く、不潔と言っていい身なり。しかしどこか人を引き寄せるような、島国ではなく大陸で育ったような印象。野性味あふれる男と言えばいいのだろうか。おそらく私もよりも年長である。
「うん? 先客がいたか。すまんぜよ」
男が申し訳なさそうに謝ってきた。
私は気にしていないという旨を伝えた。
「ほうか。なら良かったぜよ」
この訛りは京の牢屋で聞いた、土佐訛りだなと私は気づいた。
しかし指摘するのも良くないと思ったので黙っていると、こちらに向かってくる男三人が見えた。隣の男は「ありゃ。見つかったぜよ」と肩を落とした。
「きさん! ようも逃げられると思っちょったか!」
これまた土佐訛りの男だ。すらりと刀を抜く。
男は「待っちょくれや」と手で制する。
「わしは吉田様を殺しとらん。天地天明に誓う」
「そんな言い訳、聞けるか!」
武士の斬り合いが始めると分かった私はその場を逃げようとするが、懐の蘭学書を濡らしたくないのでどうすることもできない。
「行くぞ、坂本ぉ!」
三人が一斉に襲い掛かる。
男は困ったように首に手を当てる。
大変なことになった、と私は一人怯えていた。
男は上段で斬りかかってきた男の腕を、斬られる前に押さえつけて、そのがら空きになった胴に蹴りを入れた。口から胃液と血液を吐き出した。一人は怯んだが、もう一人は臆することなく、横薙ぎしてくる。避けきれずに腕をやられた男。
「痛ったいぜよ! なにするんか!」
男は血を流したまま、横薙ぎをした後の体勢の武士の顔面を思いっきり殴った。
鼻血が噴き出て気絶したのを見て、男は残った一人に「おまんはやらん」と宣言した。
「こん人たち片付けてや」
「くっ!」
残った一人はそのまま逃げ帰ってしまう。
男は私に「迷惑かけたの」と笑った。
徐々に雨の勢いが無くなっていく。
私は、あなたは何者かと訊ねる。
「わしか? わしはのう」
そのとき、雲の切れ間から日輪が見えた。
煌々と輝くそれを背後に、男は自らの名を名乗った。
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