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6話 通院
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1《伊吹》
不意に昔のことを思い出した。半年前、秋の割にはとても寒い日だった。当時の伊吹は殺風景な地下室で寝起きしており、朝起きてからは父親に言いつけられた日々の修行をこなした。夕方ごろになるとようやく1日分のノルマを終えることができ、それからは差し入れられた本を読んで、夜になると明日に備え睡眠を取った。この6畳間から外出することは許されていなかった。最後に外に出たのは数年単位で昔のことだったように思う。他人との会話は日に3度訪れる手伝いの者とその都度2,3言会話するだけであった。
最初のころは手伝いの者との会話を長引かせようと話題を考えたりもしたが、向こうにその気がないことに気付くとそれもむなしくなったのでやめた。毎回同じ人物ではなく、4人ほどの人間が交代で来ていた――たまにそのうちの一部の人物が入れ替わったりもした――が、皆似たような態度――困ったような苦笑いを浮かべる者や露骨に会話を打ち切ろうとする者がいた――であった。父親にそう言いつけられているのだろうか。それとも。
寝るのは怖かった。正確にはまだ眠りにはついていないけど、眠ろうと布団にじっとしている。その時間が怖かったのだ。何もしていないと、この世界には自分1人しか存在しないのではないかという気分になる。
そんな代り映えのしないぬるま湯のような地獄が続いていたが、その日は少し変だった。時間になっても昼食を運びに来る手伝いの者が来なかったのだ。定刻より20分ほど遅れている。壁掛け時計が遅れているとは考えなかった。別に昼食を運んでくる時間が20分遅れた程度でガタガタ言うつもりは毛頭ないのだが、いつも機械で計ったように正確にやってくることを考えれば変だなと思うのは当然のことだろう。
内心対して腹は立っていないがいつも不愛想なあの連中にちょっと嫌味を言ってやるのも面白いかなと思った。そんなことを考えているとようやく地下室の扉が開いた。しかし入ってきたのは10代半ば程度の見慣れぬ少女であった。新しい手伝いの者、には見えなかった。服装はどう見ても私服だし、食事も持っていなかった。
「あなたが彼方七生さん?」と少女が尋ねるので、伊吹はそうだ、と返事をした。少女はお目当てのおもちゃを見つけた子供のようににこりと笑った。10代も半ばにしては無邪気、という言葉がやけに似合う。そんな印象だった。
「なんかイメージ通り。ねえ、こんなつまんないところ出てこうよ。君とわたしの冒険譚を始めるの」
少女はそう言って明後日の方向を指さした。このときの出来事が伊吹に生涯の生き方を決めさせた。
2〈七瀬〉
鏡七瀬は八重崎医院に診察を受けに訪れていた。八重崎医院は表向きは普通の個人経営の病院であるが、内情は霊能者を診察してくれることを売りにした病院である。
目の前には椅子の上で足を組みながらカルテを眺める妙齢の女性がいる。八重崎銀杏《やえざきいちょう》。この病院の医師であり、霊能者でもある。半年以上七瀬を診察してくれている主治医でもある。伊吹とはさらに前から知り合いだったというが、その点については七瀬は詳しいことは知らない。
「どうやら症状は進んでないみたいだね」
七瀬の目は先天的に光を失っている。八重崎の話では、その原因は母親の胎内にいるころから霊能者としての素質が向上するような物質が投与されていたからではないかという。八重崎には一週間に一度診てもらっており、その度に薬を処方してもらい症状が進行するのを防いでもらっていた。
さらに八重崎は効果があるとは必ずしも限らないと言いつつも、それの治療を提案してくれていた。しかし七瀬はその治療を拒んでいた。
「今日も治療はしなくていいのか?」
「ええ。別に霊視があればどこに何があるか程度のことはわかるので、特に苦労はないですよ。それにわたしの場合、その治療によって霊能者としての力が落ちる可能性もあるんですよね」
生まれたころから優れた霊能者になるために教育されてきた七瀬にとっては、それは自らに価値がないと烙印されるに等しかった。それに伊吹のそばにいる資格がなくなってしまう。
「まあさ、最終的に治療を受けるかどうかはあなたの自由意思だからね。ただ少し伊吹と相談してみなさいよ」
はぁ、と七瀬は気のない返事をしてしまう。どの道今回も治療を受けなかったことは八重崎から伊吹に報告が行くだろうから、そのことについて取り繕う必要はあるだろう。
「ああ、そういえばこれを」
七瀬はカバンから茶封筒を取り出して、八重崎に差し出す。今回と、それまでの診察費を入れたものだ。それを見た彼女は眉間にしわを寄せる。
「何度言ったらわかるのよ。あなたたちからこういうのは受け取れない」「でも……」
「でもじゃないわよ。言っとくけどあなたたちはまだ子供なんだから、大人の真似事なんかしなくていい。七生は17歳で、あなたに至っては15歳でしょうが。生活の基盤だってまだ十分じゃないみたいだし。そんな子供からお金取るほどうちの病院は落ちぶれてないのよ」
八重崎はイライラしたように白衣のポケットに入ったタバコに手を伸ばそうとしておもむろに手を止めた。一瞬吸おうとしたもののやめたようだ。
七瀬は「気にしませんよ」とタバコを吸うことを促す。それを見て、八重崎はまたもしかめ面を作る。
「診察室は禁煙だから。あと近年東京都は未成年の受動喫煙には厳しいから。こんなところで子供の前で喫煙してたら何言われるかわかんないっての。あなたも伊吹も妙に気遣いというか、人に借りを作りたがらないところがあるわよね。私に言わせりゃそういうところがかえってガキなんだけどね。
子供なんだからもらえるものはもらっときな。そっちのほうがしたたかだよ。世の中には子供のときにあれしてやったこれしてやったって言いながら見返りを、それも必要以上に求める大人が多いけど、そんな奴の言うことは無視すればいい」
そう言いながら八重崎はガムを取り出して口にする。禁煙者用のガムだろうか。電車内の広告などで見たことがある。
不意に昔のことを思い出した。半年前、秋の割にはとても寒い日だった。当時の伊吹は殺風景な地下室で寝起きしており、朝起きてからは父親に言いつけられた日々の修行をこなした。夕方ごろになるとようやく1日分のノルマを終えることができ、それからは差し入れられた本を読んで、夜になると明日に備え睡眠を取った。この6畳間から外出することは許されていなかった。最後に外に出たのは数年単位で昔のことだったように思う。他人との会話は日に3度訪れる手伝いの者とその都度2,3言会話するだけであった。
最初のころは手伝いの者との会話を長引かせようと話題を考えたりもしたが、向こうにその気がないことに気付くとそれもむなしくなったのでやめた。毎回同じ人物ではなく、4人ほどの人間が交代で来ていた――たまにそのうちの一部の人物が入れ替わったりもした――が、皆似たような態度――困ったような苦笑いを浮かべる者や露骨に会話を打ち切ろうとする者がいた――であった。父親にそう言いつけられているのだろうか。それとも。
寝るのは怖かった。正確にはまだ眠りにはついていないけど、眠ろうと布団にじっとしている。その時間が怖かったのだ。何もしていないと、この世界には自分1人しか存在しないのではないかという気分になる。
そんな代り映えのしないぬるま湯のような地獄が続いていたが、その日は少し変だった。時間になっても昼食を運びに来る手伝いの者が来なかったのだ。定刻より20分ほど遅れている。壁掛け時計が遅れているとは考えなかった。別に昼食を運んでくる時間が20分遅れた程度でガタガタ言うつもりは毛頭ないのだが、いつも機械で計ったように正確にやってくることを考えれば変だなと思うのは当然のことだろう。
内心対して腹は立っていないがいつも不愛想なあの連中にちょっと嫌味を言ってやるのも面白いかなと思った。そんなことを考えているとようやく地下室の扉が開いた。しかし入ってきたのは10代半ば程度の見慣れぬ少女であった。新しい手伝いの者、には見えなかった。服装はどう見ても私服だし、食事も持っていなかった。
「あなたが彼方七生さん?」と少女が尋ねるので、伊吹はそうだ、と返事をした。少女はお目当てのおもちゃを見つけた子供のようににこりと笑った。10代も半ばにしては無邪気、という言葉がやけに似合う。そんな印象だった。
「なんかイメージ通り。ねえ、こんなつまんないところ出てこうよ。君とわたしの冒険譚を始めるの」
少女はそう言って明後日の方向を指さした。このときの出来事が伊吹に生涯の生き方を決めさせた。
2〈七瀬〉
鏡七瀬は八重崎医院に診察を受けに訪れていた。八重崎医院は表向きは普通の個人経営の病院であるが、内情は霊能者を診察してくれることを売りにした病院である。
目の前には椅子の上で足を組みながらカルテを眺める妙齢の女性がいる。八重崎銀杏《やえざきいちょう》。この病院の医師であり、霊能者でもある。半年以上七瀬を診察してくれている主治医でもある。伊吹とはさらに前から知り合いだったというが、その点については七瀬は詳しいことは知らない。
「どうやら症状は進んでないみたいだね」
七瀬の目は先天的に光を失っている。八重崎の話では、その原因は母親の胎内にいるころから霊能者としての素質が向上するような物質が投与されていたからではないかという。八重崎には一週間に一度診てもらっており、その度に薬を処方してもらい症状が進行するのを防いでもらっていた。
さらに八重崎は効果があるとは必ずしも限らないと言いつつも、それの治療を提案してくれていた。しかし七瀬はその治療を拒んでいた。
「今日も治療はしなくていいのか?」
「ええ。別に霊視があればどこに何があるか程度のことはわかるので、特に苦労はないですよ。それにわたしの場合、その治療によって霊能者としての力が落ちる可能性もあるんですよね」
生まれたころから優れた霊能者になるために教育されてきた七瀬にとっては、それは自らに価値がないと烙印されるに等しかった。それに伊吹のそばにいる資格がなくなってしまう。
「まあさ、最終的に治療を受けるかどうかはあなたの自由意思だからね。ただ少し伊吹と相談してみなさいよ」
はぁ、と七瀬は気のない返事をしてしまう。どの道今回も治療を受けなかったことは八重崎から伊吹に報告が行くだろうから、そのことについて取り繕う必要はあるだろう。
「ああ、そういえばこれを」
七瀬はカバンから茶封筒を取り出して、八重崎に差し出す。今回と、それまでの診察費を入れたものだ。それを見た彼女は眉間にしわを寄せる。
「何度言ったらわかるのよ。あなたたちからこういうのは受け取れない」「でも……」
「でもじゃないわよ。言っとくけどあなたたちはまだ子供なんだから、大人の真似事なんかしなくていい。七生は17歳で、あなたに至っては15歳でしょうが。生活の基盤だってまだ十分じゃないみたいだし。そんな子供からお金取るほどうちの病院は落ちぶれてないのよ」
八重崎はイライラしたように白衣のポケットに入ったタバコに手を伸ばそうとしておもむろに手を止めた。一瞬吸おうとしたもののやめたようだ。
七瀬は「気にしませんよ」とタバコを吸うことを促す。それを見て、八重崎はまたもしかめ面を作る。
「診察室は禁煙だから。あと近年東京都は未成年の受動喫煙には厳しいから。こんなところで子供の前で喫煙してたら何言われるかわかんないっての。あなたも伊吹も妙に気遣いというか、人に借りを作りたがらないところがあるわよね。私に言わせりゃそういうところがかえってガキなんだけどね。
子供なんだからもらえるものはもらっときな。そっちのほうがしたたかだよ。世の中には子供のときにあれしてやったこれしてやったって言いながら見返りを、それも必要以上に求める大人が多いけど、そんな奴の言うことは無視すればいい」
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