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第17章 つながり
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僕は先輩の手を引いてキャナルシティの中を歩いていた。目的はなかったから迷路のような通路を何かから逃げるようにさまよっていた。考え事をしながら歩いていたので、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
先輩の話が頭の中でぐるぐる回っている。
身代わり幽霊だから消えてしまう。そうすれば凛が幸せになれる。
凛はもう幸せなんじゃないか。高志と仲直りもできたじゃないか。
今僕はこうして先輩の手を握って歩いている。通りすがりの人がみな先輩に視線を送っている。幽霊なんかじゃないみたいだ。だんだんこんなに人間みたいになっているのに、どうして幽霊だなんて言うんだろう。幽霊やめましたって言ってくれれば、それで全部解決なんじゃないのかな。
シネコンの前に来たら、糸原奈津美が告知していた春映画のポスターが掲示されていた。
「糸原奈津美さんの映画ですね」
「そうか」
「先輩、春になったら今度この映画を見に来ましょうよ」
「だから、それは無理だと言っているだろう。私は昼が一番短くなった時に消える」
それはどうしようもない運命なのか。
どうにもならないことなのか。
僕は『消える』という言葉の意味を受け入れることができずにいた。
頭から血の気が引くような感覚に襲われて僕は近くのベンチに腰掛けた。先輩も隣に座る。
「ちょっとトイレに行って来るので、ここで待っていてください」
「そうか」
「あ、消えたりしませんよね」
「さあ、どうだろうか」
僕はトイレの入り口で一度振り返った。先輩はいた。通路に入って、また一度引き返した。先輩はいた。それでも不安だったから、急いでトイレに駆け込んだ。おそらくみんなはそうとう漏れそうな奴なんだと思っただろう。
用を済ませて出てきたら、ちゃんと先輩はいた。
男二人組に声をかけられていた。ナンパというやつか。初めて見たぞ。
「おまたせ」
先輩に声をかけると、男二人は意外そうな顔で僕を見た。まあ、気持ちは分かる。
「ああ、朋樹。私はここにいる」
先輩は男二人のことなど最初からいなかったかのように華麗に無視して立ち上がった。
「どうも」
僕は軽く会釈して先輩を二人から引き離してレストラン街の方へ連れていった。
よく考えてみると、僕がトイレに行っている間にあの二人に話しかけられていたから、先輩は消えなかったんじゃないだろうか。先輩の相手をしてくれていてありがとうございました。僕はナンパ野郎どもに心の中で感謝した。
もうお昼時だったので、外国人観光客だらけのラーメン屋さんに行ってみた。さっきのイベントのトークを思い出したのだ。
僕たちはカウンター式テーブルに案内された。コートを脱いでかごに入れる。ニット姿の先輩の胸はそれほどない。スレンダー体型というのだろうか。がっかりはしなかったけど、そんなことを気にしている自分が嫌だった。
僕らは並んで座った。
「ラーメンは食べたことありますか?」
「いや、ないな。幽霊だからな」
「じゃあ、僕が注文します」
「よかろう」
ラーメンが二つ来た。外側は同じだけど、内側が赤い丼と白い丼だ。僕は先輩に説明した。
「これがこってり豚骨で赤丸」
「で、こっちがあっさり豚骨で白丸か。なるほど、さっきの話はそういう意味だったのか」
イベントの話の内容が理解してもらえたらしく、先輩の顔が輝いたような気がした。
「で、麺のゆで時間が短くて固めなのがバリカタです」
僕が麺をすすると、先輩も真似をした。すするのは難しいらしい。ガイジンのようだ。
「おもしろい味だな。この前のとはまた違う味だ」
「ああ、同じ麺類でもイタリアンとは違いますよね」
「違うが、これもおいしいぞ」
「それは良かった」
「おまえと食べているからおいしいのだろう」
僕はめちゃくちゃ汗をかいた。飲んだばかりの豚骨スープが全部噴き出たかのような汗だ。
「おまえと一緒なら何でもおいしいんだな」
先輩はスープをすくって飲んでいるけど、まったく汗をかいていない。まるでグルメガイドブックの撮影に来たモデルさんのようだ。
「先輩は暑くないんですか。僕は汗が止まらないですよ」
「もともと幽霊は汗をかかないからな」
ラーメンをすすってむせてしまった。
「今のは何だ?」
「熱いのが口に入ってむせたんですよ」
「むせる?」
先輩はラーメンを箸で持ち上げてむせる真似をした。
「まだ口に入れる前じゃないですか」
「ばれたか」
あれ、もしかして幽霊ジョーク?
豚骨ラーメンを満喫してキャナルシティを出ると、ビルに切り取られた空の隙間から飛行機のエンジン音が聞こえてきた。
「先輩、飛行機を見に行きませんか」
「いいぞ。おまえとなら、どこでもいい」
僕は先輩の手を引いて博多駅に向かった。もう人込みではなかったけど、手を離したくなかった。ずっとこのまま握っていたかった。手を離したら消えてしまうかもしれない。怖くて何度も先輩を見た。振り向いたらそこに誰もいないんじゃないか。
「どうして何度も私を見る?」
「消えてしまうんじゃないかと思って」
先輩が僕の手を握り返す。
「じゃあ、私もおまえのことを見ていよう」
地下鉄の中でも僕たちは手を握り合っていた。暗い窓に映る先輩を眺めながら僕は先輩の手のぬくもりを感じていた。
すべては幻なのか。このぬくもりもこのあたたかな気持ちもすべて嘘だと言われても受け入れなければならないのか。相手は幽霊なんだ。人間なんだと思い込もうとしている僕は間違っているのか。
福岡空港に着いて、旅行客でごった返すターミナルビルを歩いた。工事中のところが多くて、ここも迷路のようだった。都会はどこも変化を続けているんだなと思った。生まれたときから何も変わらない糸原の街とは大違いだ。
展望台に出ると、目の前に広大な滑走路が広がっていた。駐機場に大小様々な飛行機が並んでいる。誘導路にも離陸待ちの飛行機の行列ができていた。着陸する飛行機も次々にやってきて、見ていて飽きない。
「いつかあれに乗って、どこかに行きましょう」
「それはかなわぬことだな」
「僕は祈ります。約束しましょうよ」
「朋樹」
先輩は口をつぐんでしまった。滑走路を飛行機が離陸していく。先輩が何かをつぶやいている。飛び立つ飛行機から少し遅れて音が聞こえてくる。光よりも音の方が遅い。中学の時に習ったやつだ。エンジンの音にかき消されて声が聞こえない。僕は後ろから先輩を抱きしめた。
「朋樹、私のことを忘れないでくれ」
「忘れたくないですよ。だから消えないでくださいよ」
「私は消えなければならないんだ。そうしないと不幸になる者がいる。それがおまえの一番大切な人なのだ」
「僕の一番大切な人は先輩ですよ」
先輩の頬に赤みがさす。
「ありがとう。そんなふうに言われるのは初めてだ。私はいつも身代わりだったからな」
冬の日差しが傾いてきた。
「そろそろ帰りましょうか」
僕らはごった返すターミナルビルのお土産屋さんコーナーを通って地下鉄駅に向かった。
先輩がお土産屋さんに積まれた箱を指さした。
「朋樹、私はこれを知っているな」
凛が笹山公園で先輩にあげた博多名物のお土産物だ。
「ああ、おいしいおまんじゅうですよね」
先輩がじっと見ている。
「買っていきましょうか。きっと、凛も喜びますよ」
「それがいい」
にっこりと笑みを浮かべながら先輩が箱を手に取る。
「はい、お金です。あそこでお金を払うんですよ」
「そうか」
初めてのお使いみたいに先輩はお札を握りしめてレジに向かった。
混雑しているお店から通路に出て先輩を待った。おまんじゅうの箱を店員さんが積み上げるそばからどんどんお客さんが取っていく。ものすごい売れ行きだった。
ふと、レジを見ると先輩の姿が見えない。しまった。目を離すなんて。僕が見ていないと消えてしまうじゃないか。焦った。辺りを見回してもグレーのコートにスカイブルーのニットの女の人はどこにもいない。
誰かが後ろから僕の手をつかんだ。
「朋樹、私をおいていくな」
先輩だ。振り向くと涙目になって僕を見つめている。
「大丈夫ですよ。ここにいます」
「私はおまえを離さないぞ」
まわりの人が僕の顔を凝視している。確かに美女からそんなことを言われる男には見えないだろうけど、そこまであからさまに驚くこともないんじゃないだろうか。
「大丈夫ですよ。僕はずっと先輩を見ていますから」
先輩は博多のお土産物を大事そうに胸に抱いて僕に微笑んでくれた。
「行こうか、朋樹」
「はい、帰りましょう」
福岡空港発西唐津行きの地下鉄は始発だから二人並んで座れた。
「今日は楽しかったな」
「はい」
先輩が気持ちを僕に伝えてくれる。幽霊なのに。
何の飾りもなく直接的に思ったことを伝えてくれる。そこに嘘なんかない。信じられるものしかない。先輩の言葉を受け取って僕の心の中に浮かんでくるこのあたたかな気持ちに嘘偽りなんかない。幻なんかじゃないんだ。僕の心の中にちゃんとある。この気持ちは幻なんかじゃないんだ。僕は何度も自分に言い聞かせた。
発車してすぐに先輩が僕の肩にもたれかかって居眠りを始めた。僕も眠くなってしまった。いろいろなことがあって疲れた。緊張もあったし、楽しいこともたくさんあった。先輩に楽しんでもらえたのが一番うれしかった。こんなに確かな気持ちが感じられるのに、それでも、身代わり幽霊として消えてしまうという重苦しい事実は消えないのか。
僕は先輩の手を握った。こうしていてもその時が来れば消えてしまうんだ。寄り添う先輩の体が僕に与えてくれるぬくもりを感じながら僕も眠ってしまった。
目覚めると糸原の近くだった。僕が顔を上げると先輩も目を開けた。
「眠っていたのだな」
「疲れましたか」
「幽霊なのにな」
ふふっと笑う。僕も微笑み返した。先輩はもう一度僕の肩にもたれかかってきた。電車がホームに滑り込む。西唐津まで行ってしまいたかった。でも、窓の外はもう薄暗くなり始めていた。残された時間は少ない。
「先輩、着きましたよ」
「そうか」
僕らは手を握り合って立ち上がった。
ドアが開いて外の冷気に触れる。急に現実の世界に引き戻された気がした。
現実?
先輩と一緒の時間も現実じゃないか。
「先輩、今日は楽しかったです」
「そうか。私もだ」
「またどこかに行きましょう」
「それはかなわぬことだ」
そう、それが現実なんだ。受け入れなければならない現実が目の前にある。抗うことは許されないんだ。
糸原駅を出て南口ロータリーを渡って笹山公園に向かった。終わりの時間、終わりの場所が近づいてくる。
緩い上り坂を歩きながら先輩が言った。
「人と別れるときは『さよなら』と言うんだよな」
「はい」
「じゃあ、また会えたときは何と言うんだ?」
「また会えたときですか……。『ただいま』ですかね。それは帰ってきたときか」
「じゃあ、『ただいま』と言われたら何と言うんだ?」
「それは『おかえり』ですね」
「もどってきてくれてうれしいという意味か?」
「そうです」
先輩が安らいだ笑みを浮かべる。
「人間にはいろいろな言葉があるな。気持ちを伝えるのに便利な言葉がたくさんあるな。でも、その言葉を使うときに少しずつさびしくなるのはなぜだろう」
「先輩はさびしさを感じるんですか」
「ああ、今はな。幽霊なのにな」
先輩がふっとため息をついて丘を見上げる。
「こんな気持ちは初めてだ」
そのつぶやきが僕の胸にしみこんでくる。ぽっかりと穴が空いたように寒さがしみこんでくる。手から伝わるぬくもりもその空白を埋めることはなかった。
石段を上がっていつもの展望台のコンクリート階段までやってきた。並んで腰掛けると、先輩がずっと胸に抱いていた博多のお土産物を僕に差し出した。
「これを持っていてくれ」
「凛に渡します」
「おまえの一番大切な人だな」
「僕の一番大切な人は先輩ですよ」
「私は身代わり幽霊だ」
「僕の一番大切な人ですよ」
「朋樹」
「はい」
「私もおまえが一番大切だ」
先輩が僕の袖をつかんだ。
「今日は私が消えるまでそばにいてくれ」
「消えないでくださいよ」
「消えるだけだ。私はここにいる」
手を握るとぬくもりが感じられた。
日はもう可也山の向こうに見えなくなっていた。笹山公園を包み込むように藍色が濃くなっていく。
先輩がそっと顔を近づけてきた。頬と頬がふれあう。
「先輩?」
見つめると先輩が目を閉じていた。僕に迷いはなかった。握った手に力を込めた。もう一方の手で肩を抱き寄せる。
唇を重ね合わせようとしたそのとき、僕の手からそこにあったものが消えた。
先輩の姿はなかった。
でも、僕の唇にはまだぬくもりが残っていた。
西の空に星が一つ、輝いていた。
先輩の話が頭の中でぐるぐる回っている。
身代わり幽霊だから消えてしまう。そうすれば凛が幸せになれる。
凛はもう幸せなんじゃないか。高志と仲直りもできたじゃないか。
今僕はこうして先輩の手を握って歩いている。通りすがりの人がみな先輩に視線を送っている。幽霊なんかじゃないみたいだ。だんだんこんなに人間みたいになっているのに、どうして幽霊だなんて言うんだろう。幽霊やめましたって言ってくれれば、それで全部解決なんじゃないのかな。
シネコンの前に来たら、糸原奈津美が告知していた春映画のポスターが掲示されていた。
「糸原奈津美さんの映画ですね」
「そうか」
「先輩、春になったら今度この映画を見に来ましょうよ」
「だから、それは無理だと言っているだろう。私は昼が一番短くなった時に消える」
それはどうしようもない運命なのか。
どうにもならないことなのか。
僕は『消える』という言葉の意味を受け入れることができずにいた。
頭から血の気が引くような感覚に襲われて僕は近くのベンチに腰掛けた。先輩も隣に座る。
「ちょっとトイレに行って来るので、ここで待っていてください」
「そうか」
「あ、消えたりしませんよね」
「さあ、どうだろうか」
僕はトイレの入り口で一度振り返った。先輩はいた。通路に入って、また一度引き返した。先輩はいた。それでも不安だったから、急いでトイレに駆け込んだ。おそらくみんなはそうとう漏れそうな奴なんだと思っただろう。
用を済ませて出てきたら、ちゃんと先輩はいた。
男二人組に声をかけられていた。ナンパというやつか。初めて見たぞ。
「おまたせ」
先輩に声をかけると、男二人は意外そうな顔で僕を見た。まあ、気持ちは分かる。
「ああ、朋樹。私はここにいる」
先輩は男二人のことなど最初からいなかったかのように華麗に無視して立ち上がった。
「どうも」
僕は軽く会釈して先輩を二人から引き離してレストラン街の方へ連れていった。
よく考えてみると、僕がトイレに行っている間にあの二人に話しかけられていたから、先輩は消えなかったんじゃないだろうか。先輩の相手をしてくれていてありがとうございました。僕はナンパ野郎どもに心の中で感謝した。
もうお昼時だったので、外国人観光客だらけのラーメン屋さんに行ってみた。さっきのイベントのトークを思い出したのだ。
僕たちはカウンター式テーブルに案内された。コートを脱いでかごに入れる。ニット姿の先輩の胸はそれほどない。スレンダー体型というのだろうか。がっかりはしなかったけど、そんなことを気にしている自分が嫌だった。
僕らは並んで座った。
「ラーメンは食べたことありますか?」
「いや、ないな。幽霊だからな」
「じゃあ、僕が注文します」
「よかろう」
ラーメンが二つ来た。外側は同じだけど、内側が赤い丼と白い丼だ。僕は先輩に説明した。
「これがこってり豚骨で赤丸」
「で、こっちがあっさり豚骨で白丸か。なるほど、さっきの話はそういう意味だったのか」
イベントの話の内容が理解してもらえたらしく、先輩の顔が輝いたような気がした。
「で、麺のゆで時間が短くて固めなのがバリカタです」
僕が麺をすすると、先輩も真似をした。すするのは難しいらしい。ガイジンのようだ。
「おもしろい味だな。この前のとはまた違う味だ」
「ああ、同じ麺類でもイタリアンとは違いますよね」
「違うが、これもおいしいぞ」
「それは良かった」
「おまえと食べているからおいしいのだろう」
僕はめちゃくちゃ汗をかいた。飲んだばかりの豚骨スープが全部噴き出たかのような汗だ。
「おまえと一緒なら何でもおいしいんだな」
先輩はスープをすくって飲んでいるけど、まったく汗をかいていない。まるでグルメガイドブックの撮影に来たモデルさんのようだ。
「先輩は暑くないんですか。僕は汗が止まらないですよ」
「もともと幽霊は汗をかかないからな」
ラーメンをすすってむせてしまった。
「今のは何だ?」
「熱いのが口に入ってむせたんですよ」
「むせる?」
先輩はラーメンを箸で持ち上げてむせる真似をした。
「まだ口に入れる前じゃないですか」
「ばれたか」
あれ、もしかして幽霊ジョーク?
豚骨ラーメンを満喫してキャナルシティを出ると、ビルに切り取られた空の隙間から飛行機のエンジン音が聞こえてきた。
「先輩、飛行機を見に行きませんか」
「いいぞ。おまえとなら、どこでもいい」
僕は先輩の手を引いて博多駅に向かった。もう人込みではなかったけど、手を離したくなかった。ずっとこのまま握っていたかった。手を離したら消えてしまうかもしれない。怖くて何度も先輩を見た。振り向いたらそこに誰もいないんじゃないか。
「どうして何度も私を見る?」
「消えてしまうんじゃないかと思って」
先輩が僕の手を握り返す。
「じゃあ、私もおまえのことを見ていよう」
地下鉄の中でも僕たちは手を握り合っていた。暗い窓に映る先輩を眺めながら僕は先輩の手のぬくもりを感じていた。
すべては幻なのか。このぬくもりもこのあたたかな気持ちもすべて嘘だと言われても受け入れなければならないのか。相手は幽霊なんだ。人間なんだと思い込もうとしている僕は間違っているのか。
福岡空港に着いて、旅行客でごった返すターミナルビルを歩いた。工事中のところが多くて、ここも迷路のようだった。都会はどこも変化を続けているんだなと思った。生まれたときから何も変わらない糸原の街とは大違いだ。
展望台に出ると、目の前に広大な滑走路が広がっていた。駐機場に大小様々な飛行機が並んでいる。誘導路にも離陸待ちの飛行機の行列ができていた。着陸する飛行機も次々にやってきて、見ていて飽きない。
「いつかあれに乗って、どこかに行きましょう」
「それはかなわぬことだな」
「僕は祈ります。約束しましょうよ」
「朋樹」
先輩は口をつぐんでしまった。滑走路を飛行機が離陸していく。先輩が何かをつぶやいている。飛び立つ飛行機から少し遅れて音が聞こえてくる。光よりも音の方が遅い。中学の時に習ったやつだ。エンジンの音にかき消されて声が聞こえない。僕は後ろから先輩を抱きしめた。
「朋樹、私のことを忘れないでくれ」
「忘れたくないですよ。だから消えないでくださいよ」
「私は消えなければならないんだ。そうしないと不幸になる者がいる。それがおまえの一番大切な人なのだ」
「僕の一番大切な人は先輩ですよ」
先輩の頬に赤みがさす。
「ありがとう。そんなふうに言われるのは初めてだ。私はいつも身代わりだったからな」
冬の日差しが傾いてきた。
「そろそろ帰りましょうか」
僕らはごった返すターミナルビルのお土産屋さんコーナーを通って地下鉄駅に向かった。
先輩がお土産屋さんに積まれた箱を指さした。
「朋樹、私はこれを知っているな」
凛が笹山公園で先輩にあげた博多名物のお土産物だ。
「ああ、おいしいおまんじゅうですよね」
先輩がじっと見ている。
「買っていきましょうか。きっと、凛も喜びますよ」
「それがいい」
にっこりと笑みを浮かべながら先輩が箱を手に取る。
「はい、お金です。あそこでお金を払うんですよ」
「そうか」
初めてのお使いみたいに先輩はお札を握りしめてレジに向かった。
混雑しているお店から通路に出て先輩を待った。おまんじゅうの箱を店員さんが積み上げるそばからどんどんお客さんが取っていく。ものすごい売れ行きだった。
ふと、レジを見ると先輩の姿が見えない。しまった。目を離すなんて。僕が見ていないと消えてしまうじゃないか。焦った。辺りを見回してもグレーのコートにスカイブルーのニットの女の人はどこにもいない。
誰かが後ろから僕の手をつかんだ。
「朋樹、私をおいていくな」
先輩だ。振り向くと涙目になって僕を見つめている。
「大丈夫ですよ。ここにいます」
「私はおまえを離さないぞ」
まわりの人が僕の顔を凝視している。確かに美女からそんなことを言われる男には見えないだろうけど、そこまであからさまに驚くこともないんじゃないだろうか。
「大丈夫ですよ。僕はずっと先輩を見ていますから」
先輩は博多のお土産物を大事そうに胸に抱いて僕に微笑んでくれた。
「行こうか、朋樹」
「はい、帰りましょう」
福岡空港発西唐津行きの地下鉄は始発だから二人並んで座れた。
「今日は楽しかったな」
「はい」
先輩が気持ちを僕に伝えてくれる。幽霊なのに。
何の飾りもなく直接的に思ったことを伝えてくれる。そこに嘘なんかない。信じられるものしかない。先輩の言葉を受け取って僕の心の中に浮かんでくるこのあたたかな気持ちに嘘偽りなんかない。幻なんかじゃないんだ。僕の心の中にちゃんとある。この気持ちは幻なんかじゃないんだ。僕は何度も自分に言い聞かせた。
発車してすぐに先輩が僕の肩にもたれかかって居眠りを始めた。僕も眠くなってしまった。いろいろなことがあって疲れた。緊張もあったし、楽しいこともたくさんあった。先輩に楽しんでもらえたのが一番うれしかった。こんなに確かな気持ちが感じられるのに、それでも、身代わり幽霊として消えてしまうという重苦しい事実は消えないのか。
僕は先輩の手を握った。こうしていてもその時が来れば消えてしまうんだ。寄り添う先輩の体が僕に与えてくれるぬくもりを感じながら僕も眠ってしまった。
目覚めると糸原の近くだった。僕が顔を上げると先輩も目を開けた。
「眠っていたのだな」
「疲れましたか」
「幽霊なのにな」
ふふっと笑う。僕も微笑み返した。先輩はもう一度僕の肩にもたれかかってきた。電車がホームに滑り込む。西唐津まで行ってしまいたかった。でも、窓の外はもう薄暗くなり始めていた。残された時間は少ない。
「先輩、着きましたよ」
「そうか」
僕らは手を握り合って立ち上がった。
ドアが開いて外の冷気に触れる。急に現実の世界に引き戻された気がした。
現実?
先輩と一緒の時間も現実じゃないか。
「先輩、今日は楽しかったです」
「そうか。私もだ」
「またどこかに行きましょう」
「それはかなわぬことだ」
そう、それが現実なんだ。受け入れなければならない現実が目の前にある。抗うことは許されないんだ。
糸原駅を出て南口ロータリーを渡って笹山公園に向かった。終わりの時間、終わりの場所が近づいてくる。
緩い上り坂を歩きながら先輩が言った。
「人と別れるときは『さよなら』と言うんだよな」
「はい」
「じゃあ、また会えたときは何と言うんだ?」
「また会えたときですか……。『ただいま』ですかね。それは帰ってきたときか」
「じゃあ、『ただいま』と言われたら何と言うんだ?」
「それは『おかえり』ですね」
「もどってきてくれてうれしいという意味か?」
「そうです」
先輩が安らいだ笑みを浮かべる。
「人間にはいろいろな言葉があるな。気持ちを伝えるのに便利な言葉がたくさんあるな。でも、その言葉を使うときに少しずつさびしくなるのはなぜだろう」
「先輩はさびしさを感じるんですか」
「ああ、今はな。幽霊なのにな」
先輩がふっとため息をついて丘を見上げる。
「こんな気持ちは初めてだ」
そのつぶやきが僕の胸にしみこんでくる。ぽっかりと穴が空いたように寒さがしみこんでくる。手から伝わるぬくもりもその空白を埋めることはなかった。
石段を上がっていつもの展望台のコンクリート階段までやってきた。並んで腰掛けると、先輩がずっと胸に抱いていた博多のお土産物を僕に差し出した。
「これを持っていてくれ」
「凛に渡します」
「おまえの一番大切な人だな」
「僕の一番大切な人は先輩ですよ」
「私は身代わり幽霊だ」
「僕の一番大切な人ですよ」
「朋樹」
「はい」
「私もおまえが一番大切だ」
先輩が僕の袖をつかんだ。
「今日は私が消えるまでそばにいてくれ」
「消えないでくださいよ」
「消えるだけだ。私はここにいる」
手を握るとぬくもりが感じられた。
日はもう可也山の向こうに見えなくなっていた。笹山公園を包み込むように藍色が濃くなっていく。
先輩がそっと顔を近づけてきた。頬と頬がふれあう。
「先輩?」
見つめると先輩が目を閉じていた。僕に迷いはなかった。握った手に力を込めた。もう一方の手で肩を抱き寄せる。
唇を重ね合わせようとしたそのとき、僕の手からそこにあったものが消えた。
先輩の姿はなかった。
でも、僕の唇にはまだぬくもりが残っていた。
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