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おだんご頭と新しい刑
雨
しおりを挟む数十分後。
静かに降っていた雨は、やがて本降りになり、そして轟音を響かせるどしゃ降りへと変わった。風も強く、月野内小学校に植わっている木々を激しく揺らし、遠方ではゴロゴロと雷まで鳴っている。
天候は嵐。徒歩での帰宅は困難だ。しかし、職員室にいる先生たちには自動車がある。そうなると心配なのは生徒たちだが、幸い、雨がひどくなる前に速やかに帰宅したので、もう月野内小学校に生徒は誰も残っていない。
ウサギ小屋に閉じ込められた、一人の少女を除いて。
その子は、うつ伏せで倒れていた。女子としてははしたなく少し股を開き、まるでベッドの上で眠る赤ん坊のような体勢で、そこにいた。
絶望を背負った彼女の……彼の長い髪が、目元を覆い隠し、風で揺れている。
時間は、約1時間前に遡る。
* *
そして、キモムタは脱糞した。
「くっせぇ!! こいつ、ウンコ漏らしてるっ!」
界と冬哉は、再び意識を失ったキモムタの体を、足で器用に転がし、その悪臭が届かないくらい遠くへと運んだ。
何か事情を知っている風な蘇夜花に、何も知らない五十鈴が尋ねた。
「蘇夜花、これはどういうこと?」
「わたしが用意した、サプライズだよ」
「説明」
「ごめんごめん、怖い顔しないで。みんな、お漏らしが見たかったんでしょ? だから用意したの」
「キモムタくんのお漏らしは見たくないわ」
「もちろん、美晴ちゃんにもやってもらうから。まぁ見ててよ」
そのキモムタの一連の様子は、『美晴』もしっかりと見ていた。ただ、表情はなんとも虚ろな様子で、まぶたは半分ほどしか開くことができない。
『美晴ちゃんにもやってもらうから』という言葉も、耳には入ったが、頭で意味が理解できなかった。小さな呼吸だけを続けて、ぼんやりと檻の外を眺めていると、蘇夜花が檻のそばまでやってきて、こう言った。
「みーはーるーちゃんっ。まだ、くたばってないよね?」
「……」
「言葉も出ない、か。でも、今のキモムタくんは見てたでしょ?」
「……」
「ねぇねぇ、キモムタくんは、なんであんなことになったと思う? どうして、脱糞しちゃったと思う?」
「……」
「実はねぇ、奈好菜ちゃんのクッキーを食べちゃったからなんだよっ!」
「……!」
風太は、自分の顔の横に落ちている例のクッキーを、チラリと見た。
「クッキーにさ、白いパウダーがかかってるでしょ? それね、強力な下剤なの。わたしがこっそり仕込んでおいたんだよ」
「……!?」
「でもさ、美晴ちゃんは全然クッキーを食べてくれないから、ちょっと焦ったよ。真面目だねぇ、本当に。だからさっき、ちょっと強引だけど、クッキーを食べてもらったってわけ」
「う……」
「うん、そろそろ『来る』頃だと思うよ。キモムタくんにはバッチリ効いたし。最後は盛大に、醜態を晒してね?」
そして、蘇夜花がくるりとこちらに背中を向けると、スイッチが入ったかのように、風太の腹の中はざわめきだした。
「はぁ……はぁ……」
まず一滴。
腸の中に一雫の水が落ち、体がヒヤリとした。それにぴくりと反応すると、体温はサッと引き、みるみるうちに汗が出てくるようになった。次第に、潮が満ちていく。
(痛いっ、痛いっ……! 腹痛が、治まらないっ!)
風太は、仰向けだった体をうつ伏せにして、握り潰されているような痛みがある腹をさすろうとした。しかし、自分の腹部に手で触れて、すぐに引っ込めてしまった。
「あっ……!? う、ウソ……だ……ろ……」
もう一度右手で触れ、確信した。
(皮膚が爛れて、服にくっつきかけてる……!)
さっきからずっと、皮膚に痛みはあった。熱湯のせいで、少なからず火傷もしているだろうとは思っていた。でも、それは耐えていた。見ないようにして、今まで耐えていた。
しかし現実は、風太の想像よりも遥かに残酷だった。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
乳房、あばら骨の下の辺り。
当然、脆い皮膚をさすったりなんかすれば、剥がれてしまう。そこに残るのは、グロテスクな火傷痕だろう。すぐに病院に行くべきだが、この状況では不可能だ。
風太は腹部に触れるのをやめ、体を捩らせながら腹部内外の激痛に必死に耐えた。歯を食いしばり、瞳には涙を浮かべて。
「ふーっ、ふーっ……ふーっ……!」
蘇夜花は、ウサギ小屋の前に立ち、全員に向けて叫んだ。
「美晴ちゃん、お腹痛いってさ! もっと近くで見ようよ、みんな!」
最初は少し離れて見ていた観衆も、五十鈴や界が躊躇なく檻のそばへ近づくと、ぞろぞろと檻の周辺へと集まっていった。そして、ある者はカメラアプリで撮影し、ある者は見開いた目でさらなる興奮を求め、またある者は檻の中の不憫な生き物を指差して、クスクスと笑いあったりした。
「あ、雨……」
唯一、檻には近づかなかった奈好菜は、6年2組の観衆たちの外で、立ち尽くしていた。
「雨降ってきたね。奈好菜ちゃん」
「蘇夜花……」
ポニーテールの少女とおだんご頭の少女は、二人並んで、小三元に群がる6年2組の生徒たちを、遠巻きに見ている。
「あたしのクッキーに、下剤を仕込んだのは、本当なの?」
「うん。苦しむ美晴ちゃんの顔、近くで見てきたら? お漏らしも見られるかもよ」
「いいよ、別に。あたしはもう、充分楽しんだから」
「ふーん……。あの美晴ちゃんを、助けてあげようとは思わないの?」
「……」
「カギ、さっき渡したでしょ? 美晴ちゃんを助けてあげたら? あの子、死ぬほどトイレに行きたがってると思うし」
「……試さないでよ」
「えっ?」
「あたしがどうするか、試してるんでしょ? もしかしたら、みんなの前で檻のカギを開けて、『美晴をいじめるのはもうやめなよ!』なんて、言うとでも思って」
「あらら、バレてた? 試してごめんね。奈好菜ちゃんのことは大好きだから、わたしの信頼できる友達でいてほしいの」
「……」
奈好菜はカギを取り出し、そっと蘇夜花の手のひらに置いた。
「わっ、返しちゃうの!?」
「これで、蘇夜花にはあたしのことを信頼してほしい」
「うんっ! 嬉しいなっ!」
奈好菜が想いを伝えると、蘇夜花はにっこりと笑った。
「じゃあ、あたし先に帰るよ。雨、強くなりそうだけど、蘇夜花はどうするの?」
「うーん。もっと雨が強くなってきたら、『刑』も終わりだね。流石にずっと閉じ込めておいたら、美晴ちゃん死んじゃうから、カギを開けてあげて解散にするよ」
「へぇ、そうなんだ」
「あ、そうだ! 界くんに美晴ちゃんのお腹を一発蹴ってもらおう! やっぱり漏らすところ見たいしね」
「……」
奈好菜は何も言わず、一度も振り返らずに「小三元」を去った。そして彼女は校庭を出た後、手に持っていた傘を開き、黒くて重い空をぼんやりと見上げた。
* *
現在。
古びたウサギ小屋の中で、風太は死んだように横たわっていた。
『刑』は終わり、周りには誰もいない。カギも開いているので風太は完全に自由の身となった。しかし、家に帰るどころか、小屋から出るだけの気力と体力さえ、風太には残っていなかった。
「……」
大雨による轟音を聞いて、稲妻による閃光を眺め、ただ呼吸をする。そんな時間が、しばらく続いた。別に何かを待っているわけでもなく、事態の好転を願っているわけでもない。爬虫類か両生類の生き物のように、じっと動かず、肺を動かしているだけ。風太はそれを続けた。
「……」
痛みと苦しみは、とうに越えた。「どうしておれが」は、心の中で何度も唱えた。感情はぐちゃぐちゃになりコントロールできなくなって、身体の水分が涸れるくらいにボロボロと泣いたりもした。蘇夜花を恨み、奈好菜を恨み、そして美晴という存在を強く恨んだ。
「ハァ、ハァ……」
ギィと小屋の扉を開け、誰かが入ってきた。
次に傘を畳む音がして、足音が近づいてきた。
「ふぅ……」
そばまで来て、そこで止まった。そして、肩にかけていたバッグを、ドサッと地面に置いた。
風太は重いまぶたを持ち上げ、首すら動かさず、声を聞いていた。
「美晴……? い、生きてるよね……?」
今度は体を揺さぶられた。そして、うつ伏せで倒れているところをゴロンとひっくり返され、無理やり仰向けにされた。パンツの中で溢れている汚物が、臀部を気持ち悪くびちょりと撫でている。
「うぅっ……」
「まずは体を拭くよ。あんたは、動かなくていいから」
「奈好……菜……」
「何もしゃべるなっ! 何も言わずに、あたしのやりたいようにさせてっ」
「……」
奈好菜は持ってきたバッグを開け、救急箱と体操服と紙おむつを取り出した。
「自分でも、何がしたいのか分からなくてっ……! とにかく今は、体が勝手に動いてるっていうか……」
奈好菜は手を動かしながらしゃべり、『美晴』のスカートを脱がせた後は、その奥にある悪臭漂うパンツも脱がせようとした。抵抗しようにも体が動かず、『美晴』は羞恥に耐えるために、強く両目をつぶった。
「こうしなきゃダメな気がしてっ! ケジメとか決着とか、そういう……なんかもうよく分かんないけど、昨日のお礼は、まだちゃんとできてないからっ」
「……」
「クッキーは、本当に感謝のつもりだったんだ。こんなことになるなんて、あたしも思ってなかった……」
奈好菜は慣れているのか、手際よく『美晴』におむつをはかせた。『美晴』は、「こんなものを、はかされるなんて……」とは思ったものの、次に便意を催した時に、トイレまで我慢できる自信はなかったので、抵抗はしなかった。
*
「でも、ごめん……。あたしはやっぱり、変われないよ」
「……」
『美晴』の腹部に保冷剤を当てながら、奈好菜は思いの丈を語った。『美晴』は言われたとおり一言もしゃべらずに、奈好菜の言葉に耳を傾けた。
「あんたのそんな姿を見てたら、同じ目に会いたいとは思えないよ。それに……姉としても、ね。あたしには妹がいる」
「いじめられている姉を見た妹はどう思う? あたしがあんたの側に立つって、そういうことなんだよ。あたしがいじめられると、妹まで同級生にいじめられるかもしれない」
「だから、あんたの味方はできない。普通の学校生活を送るには、こうするしかないんだ。あと一年だけ平和に、楽しい思い出だけを持って、あたしはこの学校を卒業したいんだっ……!」
「……」
そして奈好菜は、手に持っていた青いタオルを、『美晴』に被せた。そのタオルが濡れているのはきっと雨のせいだと、風太は思った。
「これで、あたしとあんたの間にあったことは、お互いに全部忘れよう。本当に、一つ残らず……」
最後に奈好菜のその言葉を耳に入れ、風太は静かに眠りについた。目が覚めたら、美晴と入れ替わる前まで時間が巻き戻っていればいいな、と現実を逃避した希望を薄らと頭に浮かべながら。
奈好菜はそばにあったクッキーを拾い、誰の目にも付かないような場所をめがけて、放り投げた。女子二人きりの「小三元」から追い出されたクッキーは、どこかの水たまりに落ち、無惨に雨粒に貫かれた。
雨はまだ強く鋭く、月野内小学校に降り注いでいた。
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