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小箱 蘇夜花
開会宣言
しおりを挟む美晴は誰にも言えず、ただ一人でずっと耐えていた。
「もしも、お母さんが倒れたら、わたしっ……!」
「おい……! 落ち着けよ……!」
「でもっ、わたし怖くてっ!! これ以上、お母さんに負担はかけられないって思って、だからっ……!」
「落ち着けって……言ってるだろ……!!」
風太は小便で濡れたパンツを掴んで、美晴の顔面に投げつけた。
「わぶっ」
「落ち着け……」
「は、はいっ」
「お前の……体のことは……、誰にも言わないし……見せない……」
「きゃっ!? これ、わたしの下着っ!」
美晴は床に落ちたパンツを拾い、恥ずかしそうに袋の中へとしまった。風太はそんな美晴を無視しつつ、話を続けた。
「でもさ……。お前……やっぱり……自分勝手……だよ……」
「自分勝手……」
「お前が……辛いのは……おれもよく分かった……けど……。おれが……お前の身代わりになる……ことには……なんとも……思わなかったのか……?」
「あ、あなたを巻き込んでしまったことはっ! わたしも望んでいなかったことで……!」
「でも、もう……お前は……おれの体を……返す気ない……だろ……。二瀬風太を……今すぐ……返して……くれるのか……?」
「そ、それはっ」
「おれは……お前なんかに……なりたくなかった……。お前が……風太で……おれが……美晴で……ある限り……この気持ちは……変わらない……。おれは……絶対に……元の姿に戻る……ことを……諦めないから……な……!」
「ごめんなさいっ……」
「いいよ……謝らなくて……。そんなこと……より……、お前は……どうしたいんだ……?」
「え……?」
「ハッキリ……させて……おこう……! おれと……お前は……これから……どうしたい……のか……!」
「わ、わたしは……」
美晴は、少しだけ大きく息を吸った。
「わたしは……絶対に、美晴には戻りたくない……! このまま、風太くんの体で生きるって、そう決めたんです……!」
「へぇ……」
「風太くんはその体で……美晴として生きてください……! わたしのお母さんのことを、よろしくお願いします……!!」
「ははっ……。本当に……自分勝手……だな……」
風太は呆れた。が、口には笑みを浮かべていた。意見は違うが、お互いの本心をストレートにぶつけ合えたので、風太は気持ちが良くて清々しい気分になった。
「いいさ……。いつか……おれとお前は……必ず……ぶつかる……けど、それまでは……勝手に……やりたいことを……やってろよ……」
「はい……!」
「おれも……勝手に……やりたいことを……やるぞ……。元に戻る……方法を……探すんだ……!」
「えっ? 戻る方法……?」
「お前との……入れ替わり……を……もう一回……やる……! それで……元通りに……なる……ハズだ……!」
「む、無理ですっ! 仮に、わたしがあなたに協力したとしても、もう元には戻れないんですっ! 99%不可能なんですっ!」
「でも……1%は……まだ可能性……が……あるんだろ……?」
「1%はっ……」
美晴はそれ以上、言葉を続けなかった。
「あるのか……」
「あ、あるけど、わたしがあなたに協力して、やっと1%ですっ。だから言いませんっ」
「それでいい……! 0%……でも……自分で……探してみる……さ……! 望むところだ……!!」
「でも、もし、本当に戻りたいのなら……。方法を探すなら、急いだ方がいいと思いますっ。それだけっ」
「分かった……! ありがとう……美晴……!」
* *
学校の外はすっかり夜になっていたが、道路はいつもより人通りが多く、昼間と同じくらい賑やかだった。
いよいよ、明日からは大型連休。街の人たちもみんな、ウキウキしているのかもしれない。
「じゃあ、さようなら。風太くん」
月野内小学校からそう遠くない通学路では、少年が少女に別れのあいさつをしている。しかし少女は、すぐに少年を引き止めた。
「あっ……! 一つ……お前に……聞き忘れてた……!」
「なんですか?」
「なんで……あの時……我慢したんだ……?」
「あの時?」
「ほら……、おれが……お前に……ぶつかった……時……」
「図書室の前で、わたしと風太くんがぶつかった時、ですか?」
「うん……。肩にアザが……あるなら……そうとう……痛かった……はずだろ……? でも……あの時の……美晴は……全然……痛がらなくて……」
「そうですね……。あの時は、ぶつかった相手が風太くんだったので、びっくりの方が大きかったですし。それに……」
「それに……?」
「風太くん、すぐに謝ってくれましたから。転んでしまったわたしのことを、心配してくれましたし」
「それだけで……か? 普通の……こと……なのに……」
「うん。普通に接してくれることが、わたしは嬉しかったんです」
「お前は……女子なんだから……、もっと……怒ったり……泣いたり……しても……よかったと……思う……」
「ふふっ。それだと、風太くんが困っちゃうんじゃないですか?」
「そうだけど……さ……。お前……って、けっこう……我慢強いんだな……」
「そ、そうですか? そんなことないですよ」
「やっぱり……、そんなに……悪いやつじゃ……ないと思う……ぞ」
「えっ? 誰がですか?」
「この……体……だよ。お前は……この体を……捨てるつもり……だろ……? おれだって……、視力が悪くて……力も弱くて……声も上手く出せない……ケガだらけの……この体は……嫌いだけど……」
「……」
「我慢強い……とか……、綺麗な……ノートが……作れる……とか……。良いところも……少しは……あると思う……」
「……!」
「それでも……おれは……元の体に……戻りたい……けど」
「うぅっ……!」
「うわっ……!? 美晴……!? ど、どうした……!?」
「ごめんなさいっ! 急に、涙が、溢れてきてっ……」
「泣いてる……のか……!? おいおい……。おれの体で……メソメソするのは……やめてくれよ……」
「はいっ……」
「泣いて……帰ったりなんか……したら……、おれの……母さんも……心配するから……」
「わ、分かりましたっ! もう大丈夫、ですっ」
「じゃあ……もう……帰るぞ……。さようなら……美晴……」
「さようなら、風太くんっ」
少女は、涙目になっている少年に、別れのあいさつをした。
*
その日の晩のこと。
「美晴、先に入ったわよ」
「うん……」
風太はクローゼットから美晴の寝間着を取り出し、脱衣所へ向かった。
寝間着は、色はグレーで特に柄の無い、地味なパーカーを選んだ。クローゼットの中には、もっと可愛くて女の子らしいデザインの服もあったが、それを着て寝るのには、やはりまだ抵抗がある。
昼間に着ていたフリルスカートたちと、今着ているブラウスたちを洗濯機に投げ入れ、『美晴』は下着だけの姿になった。ちなみに、失禁で濡れてしまったパンツは、臭いが目立たない程度に水で洗った。
「これで……よし……!」
まだ慣れないブラジャーを外し、パンツを脱ぐ。風呂場に入ると、目の前の大きな鏡には、裸の美晴が映っていた。
(これが、今のおれ……か)
手のひらを鎖骨の辺りに置き、身体の表面をすべらせながら、ゆっくりと下へとおろしていく。
「胸……」
全体的に痩せ細っているが、胸にだけは二つの小さな膨らみがある。小さいと言っても、成人女性と比較しての話で、同じ年齢の雪乃と比べると、美晴のはかなり大きい。
風太は、この膨らみが男子の体には現れないものだということは知っていた。
(これ、どんどん大きくなっていくのかな……)
前にテレビで見たグラビアアイドルだかの女の人は、この部分がとても大きかったのを思い出した。もしかして、このまま美晴として成長を続ければ、自分もあんな風になってしまうのかもしれない。そう考えると、風太は少し怖くなった。
「……」
少しずつ、手を下へすべらせていく。風太が次に触れたのは、肌の色が変わっている部分だった。痛々しい火傷痕で、まともな治療をされていなかったせいか、皮膚は醜く歪んで再生している。
さらにその下には、ミミズ腫れの痕があった。直線の傷痕と曲線の傷痕が交わっており、何かの形を描こうとしていた様子が伺える。
「……っ!」
傷に触れると、一瞬だけ頭の中に、その時の記憶が蘇ったような気がした。
そして、最後は胴体の一番下。風太は陰部に手を添えた。縦に短いスジがあるだけで、男子の体にあったソレと比べると、女子の股間はいささか殺風景に見える。
(でも、出したのはこの奥だ……)
排尿の感覚は、このさらに奥にあったということを、風太は思い出していた。そして、その辺りをさっき美晴が触ったときに、思わず体がビクンと反応してしまったことも。
「……」
見ることはできるが、見るのはやめた。風太は手をシャワーの首に持っていき、肩から順に汗を流していった。
* * *
翌日。大型連休の初日。
美晴のお母さんは朝から出掛けたようで、風太は美晴の家に独りで過ごしていた。
(美晴は今頃、健也たちとどこかへ遊びに行ってるのかな……)
頭には、自分が男子だった頃の休日の過ごし方ばかり浮かんでくる。しかし今の自分の環境から考えると、そんな充実した休日を過ごすことは難しそうだ。
「はぁー……」
見知らぬ女子の姿になってしまったのだから仕方が無いとはいえ、貴重な休日の時間を無駄にしているような気分だった。
(元に戻る方法、早く考えないとな……)
そう思った矢先。
ピンポーンと、この家のインターホンの音が鳴った。
(げっ……! 誰か来た……!?)
戸木田家への来客。今、この家にいるのは娘の『美晴』一人なので、来客の応対をしなければならない。
「は、はい……?」
風太は恐る恐る、玄関の扉を開けた。
この家の来客に、美晴としてどういう応対をすればいいのだろうかと、緊張しながら考えていた。しかし扉を開けた先には、見覚えのある女の子が立っていた。
「美晴ちゃん、おはようっ! ……あれ? 今はもうこんにちは、かな?」
春日井雪乃。風太の幼なじみだ。
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