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第九話
失った髪飾り
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もう朝か…昨晩は死んだようによく寝た。疲れすぎていたのだろうか夢一つ見なかった。戸口の隙間からひんやりとした秋の風が入ってくる。外はまだ薄暗くひっそりとしている。現代と季節が同じだとしたら、秋もそろそろ終わりに近づく頃だ。冷たい空気を大きく吸い、起き上がると小屋の外に出た。厨房のある長屋から、煙が登るのが見えた。
誰かもう起きているのね、行ってみよう…
厨房の小屋は敷地の少し奥、裏山の横にある。厨房の中の釜戸からパチパチと火が燃える音が聞こえた。中をそっと覗いたが人の気配はなくしんとしている。
「燈花様?」
「ヒャッッ!」
振り返ると小彩が薪を抱え驚いた顔で立っている。
「小彩驚かさないで!ビックリしたわ」
「驚いたのはこちらの方ですよ、もう起きられたのですか?」
「えぇ、昨日は早くに寝てしまったもんだから早く起きちゃったわ。ところで何を作っているの?」
「はい、昨日山代王様から栗を沢山頂いたので、蒸かしているところです。今が旬なのでとても美味しいと思いますよ」
小彩が大きな布袋を覗き込み注意深く栗を取り出しはじめた。
「山代王様から頂いたの?手伝うわ、他の厨房の人は?」
厨房には小彩以外誰も居ない。
「ええ、皆、昨晩の宴で酔いつぶれてしまったようで、誰も起きてこないのです」
丁度そこへ使用人の男がガタガタと戸を開けて入ってきた。まだ酔いが抜けていないのか目はトロンとし酒の匂いがプンプンしている。
「あっ、あれ?燈花様ですか?お早いですなぁ、、、失礼、、失礼」
使用人の下男は軽く頭を下げると両手で再び頭を押さえ、う~んと言って囲炉裏の前の床にしゃがみこんだ。
「小彩、水だ、水をくれ、、」
「まったく、飲み過ぎたのですよ」
小彩はため息をつくと説教まがいに下男に言った。
「仕方ないであろう、大王様の盛大な宴のお陰でこの宮にも酒が届いたのだ…良い酒をたらふく飲み最高の夜であった。ふぁぁ、、あぁ眠いし頭が痛い…」
下男は大きなあくびをすると、小彩に早く水をくれと催促するように手を振っている。
なるほど、誰も起きてこないはずだ。
下男は小彩からの水を受け取り、一気に飲み干すとばつが悪そうにこちらを見て言った。
「あんなに盛大な宴は久しぶりなのです…どの宮の者も皆酔いつぶれて、今日は仕事にならないでしょうなぁ、、あ~気持ち悪い、しかし初めて呑んだが唐の酒は強いな…」
下男はもう一杯水を小彩にねだったあと立ち上がるとフラフラと厨房を出ていった。
「これじゃあどの屋敷の使用人も使い物にならないわね…そうだ小彩、このあたりに葛花は生えてるかしら?」
「葛花ですか?はい、北山に行けば多分見つけられると思いますが、何故ですか?」
「良かった、葛花を煎じて飲むと二日酔いにとてもよく効くのよ、もし上手く出来たら茅渟王様のお屋敷にも届けましょう」
「妙案でございますね!では早速支度をしてまいります」
そうは言ったものの、薬草花には少しばかり詳しいがもちろん煎じた事などない。不安だったが、一方でなんとかなるだろうと楽観視する自分がいた。すでにこの生活に少しずつ順応してきている証拠のようで朝から驚いた。
林臣の屋敷では、、、
トントン、トントン
「猪手、起きたか?」
戸の向こうからは返事はなく、グワァツグワァーと大きなイビキだけが聞こえている。
「…開けるぞ」
林臣がガラガラっと勢いよく戸を開け猪手の眠る部屋に入った。
「猪手、起きろ」
「むにゃむにゃ、まだ夜中でございますよ、どなた様ですか…むにゃむにゃ…」
林臣の臣下である猪手はよほど昨晩の宴で酒を飲んだと見え全く起きる気配がない。
「猪手よ起きろ!」
「若様もう飲めませんよぉ…アハハ…」
夢から覚めぬマヌケ顔の臣下を見て、林臣もあきらめた。
「仕方ないな、一人で行くか…」
林臣は一人馬にまたがると屋敷を後にした。馬は順調に走り出した。目的地は稲淵だが途中の道で、男がドンドンドンと橘宮の門を叩いている姿が見えた。男が大声を上げている事から、ただならぬ状況なのが遠目からでもわかった。
もちろん先を急いでいるし、そもそも普段から馬を止めたりなどしない。でも何故か今日に限り男の慌てている様子が気になり、普段なら絶対にあり得ないが、馬を止め方向転換すると男のもとに向かった。
「かような朝からどうしたのだ?」
「あっ!これは林臣様!申し訳ありません。なんせ慌てておりまして、ついつい朝から大声を上げてしまいました。お許しください」
男は慌てて挨拶をし頭を下げた。
「で、どうしたのだ?」
「はい、私は軽皇子様の屋敷で働く使用人のニ田と言います。実は数日前より皇子様の具合が悪く、高熱が続いているのです。明け方一度意識を無くされ、で、早急に薬を煎じて差し上げたいのですが、その…実は…」
男はモゴモゴと口ごもった。
「はっきりと言わぬか」
「はい…昨晩の宴の準備で屋敷にある食材や薪の全てを、数日前に大王様のお屋敷に運んでしまい、何も残っていないのです。薪は少し残しておいたのですが小屋の外に置いておいたので、夜露に濡れ全く火がつかない状態でございます。朝廷の薬草庫にも行きましたが在庫がなく困り果てていたところ、橘宮の屋敷の倉に薪が備蓄されていると聞き、急いでまいったのです、、しかし誰もおりません。無断で入るわけにもいきませんし、どうしたものかと途方にくれております」
男の眉毛が下がり今にも泣き出しそうだ。
「軽皇子様の具合はかように悪いのか?」
「はい、先ほど小墾田宮より医官を呼んだのですが、鍼だけではどうにもならないと…」
二人が門の前でやり取りをしていると、ギギィと門が開き、気だるそうな若い少年が顔をのぞかせた。門番の少年の漢人だ。
「あっ、漢人開けるのが遅いではないか!」
男が大きな声で叫んだ。
「あっニ田様でしたか、、すみません釜戸の番をしていたものですから、、それと…林臣様が、な、なぜここに⁉︎」
漢人は林臣を見ると目をパチパチとさせ驚いた表情をし、頭を下げた。
「急用なのだ!小彩はどこにいる?」
「小彩さまなら先ほど、燈花様と二人で北山に葛花を取りにゆくと言って出ていきました、なんでも煎じで飲むと二日酔いに効果てきめんらしいのです。私もまだまだ眠いのに釜戸の番をしろって叩き起こされたんです」
漢人が不満そうに口を尖らせて言った。
「そうか、で、いつ戻るのだ?」
「さぁ、お時間までは…」
「それでは困るのだ薪が早急に必要だ、門番のおまえが取ってこられるかどうか、、」
「薪なら、東棟の一番奥の小屋にたんまりございますのでお持ちしますよ」
「それを早く言え!良かった急いで持ってきてくれ!いや、私も手伝おう」
男は安心したのか袖で汗をぬぐうと今度は漢人に中に案内するようにと急かした。
「待て、二人は北山に向かったのか?」
「はい、確かに北山に行くと言っておりました」
林臣は少し考えたあと、男に言った。
「ふむ…そなたニ田と申したな?大王様の屋敷に急いで遣いをだせ、念のため数名の兵を北山に向かわせた方が良いと伝えよ」
「えっ?はっ、はい…林臣様、でも何故ですか?」
「昨日の宴での女官とその侍女が獰猛なイノシシの餌になりそうだ、とでも伝えろ」
林臣は気だるそうな口調でそう言い、一瞬ニヤリと男の顔を見ると、何もなかったかのようにさっと馬にまたがり行ってしまった。
北山にて
「良かった沢山咲いているわね、ついでに葛根も摘んでゆきましょう。あっ、あと中宮様の滋養にもいくつか薬草を摘んでいきましょう」
野草探しは得意だった。宝物を探しているようで心が弾んだ。
「はい、そういたしましょう。燈花様は東国でも薬草採りをされていたのですか?」
小彩が体を地面に縮こまらせ草の根を必死でかき分けている。
「え?えぇ…たまたま知っていただけよ」
「そうですか、、。燈花様はいつもその髪飾りをつけておられますね、美しい紅色がお似合いです」
「ありがとう、この石は紅瑪瑙と言って大地が何千年もかけて作り出した自然の石なのか」
「ウフフ、殿方から頂いたのですか?」
小彩がニヤニヤしながら言った。
「違うわよ~、母方の家系のもので代々娘たち に受け継いできた大切な家宝の石らしいのだけど、詳しい事は知らないの」
「ふ~ん、そうですか。見せてもらっても良いですか?」
「ええ、もちろんよ」
「凄く美しい紅色ですね、ん?模様ですかね?」
小彩は瑪瑙の髪飾りを手に取ると何度もくるくると回して見ながら言った。
「模様?」
「はい。これ橘の葉と実ではありませんか?」
「え?本当に?」
「はい、三枚の葉と大きな実が橘の木に見えますが、、」
「そうなの?」
驚いた。今まで一度も気にかけた事も、じっくりと見たこともなかった。
「ありがとうございました。燈花様の大切なものでしょう、失くさないようにお気をつけ下さい」
「そ、そうね…」
小彩から髪飾りを受け取るとじっと見つめた。確かに以前から不思議だと思っていたのだ。現代からこの石だけが一緒にタイムスリップしてきたからだ。
唯一この髪飾りだけが私の本当の正体を知っているのね…
しばらくの間、時間がたつのも忘れ何も考えずに薬草取りに夢中になり草の根をかき分けた。
「燈花様、そろそろ帰りましょうか?雲行きも怪しいですし」
小彩に言われて気づいたが確かに見上げた空は暗く、冷たい風が山の上の方から吹き始めていた。
「そうね、戻りましょう」
小彩に促され立ち上がった時だ、数メートルさきの藪の中からガサガサと物音がして黒い大きな影のようなものが一瞬見えた。私は咄嗟に小彩の顔を見た。
「燈花様…見ましたか⁉︎な、何かいます…」
小彩も同じものを見たのだろう、震える声で言った。
「落ちついて、とにかく静かにゆっくりこの場から去りましょう」
必死で冷静を保ち言ったつもりだったが、足がすくんで動けない。さらにガサガサ、ガサガサと葉が擦れる音が聞こえた。すぐに獣の大きな鳴き声が山の中に響いた。
「ブヒィィィィィィ!!!」
突然草影から大きなイノシシが顔を出し、ギロリとこちらを見た。
「キャー!!!」
私達の悲鳴が山の中に響いた。
「燈花様、早く逃げて!」
小彩が叫び、私達は懸命に山の中を走り出した。
スローモーションのように足がもたついて上手く走れない。
ドスッ、、、
獣道を必死で走る途中、木の枝に引っかかり勢いよく転んだ。
「痛っっ、」
右足首に激痛が走った。痛くてとても起き上がれない。振り返ると草むらの十数メートル位奥にギロリと光るイノシシと目が合った。イノシシはこちらに狙いを定め今にも勢いよく突進してきそうだ。
もうダメだ…
両手で頭を抱えギュッと目をつぶった時だ。
ギュイーン!ギュィーーン!というイノシシのけたたましい鳴き声が山の中に響いた。数分続いたと思う。しばらくして静かになったので恐る恐る顔をあげてみると、さっきまでそこに居たイノシシの姿はもうない。代わりに慌てた様子の小彩が這いつくばりながら背後から近寄ってきた。
「燈花様大丈夫ですか⁉︎あぁなんてこと!血が出ていますよ!まさか噛まれたのですか⁉︎」
よく見るとすねから血がしたたっている。イノシシが気になり全く痛みを感じなかった。血を見た小彩の顔は真っ青になりパニック状態だ。おそらく転んだ時に木の枝で切ったのだろう。
「大丈夫よ、噛まれたのではないからかすり傷よ」
「どうしましょう!出血を止めなくちゃ」
小彩は慌てて衣の裾をビリビリと破ると傷の上からグルグルッと巻いた。
「燈花様、歩けますか?もう少し歩けば山道に出るのですが…」
「えぇ、立ってみるわ…」
なんとか立ちあがろうしたが足を軽く地面につけるだけで足首に激痛が走った。
「ダメだわ、思ったよりも強く足をくじいているみたい。小彩、私は歩けないから誰か呼びに行ってきて、ここで待っているから」
「そんな、燈花様を一人置いていけません」
「大丈夫よイノシシもどこかに行ってしまったようだし」
その時、遠くから誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「燈花、小彩!!聞こえるか?返事をしてくれ!」
「燈花、小彩!どこにいる」
名前を呼ぶ声が大きく鮮明になった。
「燈花様、誰か助けにきてくれたようです!」
小彩が鼻の穴を大きくして興奮ぎみに言った。
「ここです!ここです、助けて下さい!」
小彩は勢いよく立ち上がると持っていた白い布を声の方向に一生懸命に振りはじめた。ガサガサと葉っぱをかき分ける音が聞こえ、林の中から一人の青年が姿を現した。そう山代王だ。
「や、山代王さま⁉︎なぜこちらにおいでなのですか⁉︎」
小彩は目パチパチさせながら驚いて叫んだ。
「二人とも無事か⁉︎」
「あっ、いえ、燈花様が足に傷を負ってしまい歩くことが出来ないんです」
「なんだと?血が出ているではないか!燈花、立てるか?」
「え、えぇ、痛っ…」
立ちあがろうとしたが、やはり足首に激痛を感じしゃがみこんだ。傷は思ったよりも深いらしく、ズキンズキンと熱く痛みだした。
「その足では無理だな、私が抱えていくゆえ案ずるな」
山代王はそう言うと、ひょいっと私の体を持ち上げ抱えて歩きだした。顔から火が出るほど恥ずかしかった。お姫様だっこなど生涯された事はない。
「や、山代王様、いけません。誰かが見たら何と言うか、、」
慌てて言ったが、山代王は涼しい顔のまま答えた。
「何がまずいのだ、そなたイノシシの餌になりたいのか?さぁ急いで馬の所まで戻ろう」
意地悪そうに笑った山代王の顔はあどけない少年のようだった。そうだった。まだこの青年は二十歳少し過ぎたくらいだった。私は恥ずかしくて顔を覆った。
なんて事になってしまったのだろう。山代王様のお陰で助かったけど、彼に大変な迷惑をかけてしまった。心底間抜けな自分が情けない…
でも何故山代王様は、私達の居場所がわかったのだろうか?一見華奢な体に見えるが、どこからその力を出せるのだろうか?…
チラチラと彼の顔を見上げながらそんな事を考えている間に、馬までたどり着いた。馬の側には昨日会った山代王側近の冬韻と別の中年の男も一緒に立って待っていた。
「若様、無事二人を見つけだされたのですね、安心しました」
中年の男がため息をつき言った。
「二人を屋敷まで送ってゆく」
「承知しました」
今度は冬韻が私と小彩をひょいっと持ち上げると馬の背に乗せた。
見上げた空はさらに暗くなり今にも雨が降りだしそうだ。遠くでゴロゴロと雷のなる音も聞こえはじめた。それでもなんとか雨が降り出す前に橘宮に辿り着く事ができた。
「山代王様、本当に助かりました。命の恩人です。何と言ってお礼をすれば良いかわかりません、このご恩は必ずお返しいたします」
私は感謝の気持ちを伝え静かに頭を下げた。
「気にせずともよい。二人とも無事で良かった。それよりも早く部屋に戻り傷の手当てをした方がいい」
「誠に申し訳ありません」
私はもう一度謝ったものの、申し訳ない気持ちとこんな騒動を引き起こしてしまった自分が情けなくて落ち込んでいた。
「酔い潰れた皆の為に葛花を採りに行ったと聞いた、気を使わせてしまったな」
「いえ、そんな…」
「ではそなたの作る葛花の煎じ薬を待っていよう」
「はい、出来次第すぐにお屋敷にお届けします」
「では、またな」
山代王が馬にさっとまたがった。
「えっ?もう、戻られるのですか?熱いお茶をご用意いたしますので、少しお休みになられたら…」
小彩が慌てて引き留めた。
「いや、軽皇子の具合が良くないのだ。見舞いにいくゆえこれで失礼する」
「お待ち下さい!軽皇子様はどのようなご状態なのですか?」
何も出来ないと知りつつも、思わず余計な口をきいてしまった。
「風邪をこじらせてしまったのかもしれません、先ほどの山で葛根もいくつか採ってきましたので医官様にお渡し下さい。少しは役立つかもしれません。小彩お渡しして」
「はい、よいしょっと、、」
小彩が布袋の中から葛根を取り出し冬韻に渡した。
「すまぬな、きっと役に立つであろう」
山代王が優しく答えた。
「あれっ、燈花様、髪飾りはどうされましたか?」
小彩が急に私を見つめ言った。
「え?」
髪を触るとさっきまでつけていた髪飾りがない。
「やだ、どうしよう、落としたのかしら…山に戻らなくては…」
山代王の前なのをすっかり忘れて動揺してしまった。さっき大事なものだと話していたばかりなのに…
「燈花、落ち着くのだ、いったいどうしたのだ?」
「あぁ、それが、髪飾りをなくしてしまったようです…でも心配いりません、もう一度山に行き探してまいります。落としたであろう場所はなんとなく想像がつきますので、大丈夫でございます。山代王様は軽皇子様のところにお急ぎ下さい」
慌てて弁明したが時すでに遅しだった。
「しかし、そんな足では無理であろう、せっかくそなたを見つけ助け出したのが無駄になる。大事な品なのか?」
仕方ないので正直にこくんと頷いた。
「私が探しに行くゆえそなたは屋敷で待っていなさい。三輪よ薬草を持って先に軽皇子の屋敷に向かえ、冬韻は共について参れ」
「はっ」
「山代王様、いけません。私なら本当に大丈夫です。一人で探しに行けますので、どうかお屋敷にお戻り下さい」
思わず口を滑らせてしまった事を悔やみながら必死に説得したが、山代王は優しくこちらを見て馬にまたがると、冬韻と共にもと来た道へと走り出した。
行ってしまった…
「燈花様、とにかく中に入りましょう」
小彩が言った。空はいよいよ真っ暗になり北からびゅうっと風が吹き始めると、ポツポツと雨が降りだした。
誰かもう起きているのね、行ってみよう…
厨房の小屋は敷地の少し奥、裏山の横にある。厨房の中の釜戸からパチパチと火が燃える音が聞こえた。中をそっと覗いたが人の気配はなくしんとしている。
「燈花様?」
「ヒャッッ!」
振り返ると小彩が薪を抱え驚いた顔で立っている。
「小彩驚かさないで!ビックリしたわ」
「驚いたのはこちらの方ですよ、もう起きられたのですか?」
「えぇ、昨日は早くに寝てしまったもんだから早く起きちゃったわ。ところで何を作っているの?」
「はい、昨日山代王様から栗を沢山頂いたので、蒸かしているところです。今が旬なのでとても美味しいと思いますよ」
小彩が大きな布袋を覗き込み注意深く栗を取り出しはじめた。
「山代王様から頂いたの?手伝うわ、他の厨房の人は?」
厨房には小彩以外誰も居ない。
「ええ、皆、昨晩の宴で酔いつぶれてしまったようで、誰も起きてこないのです」
丁度そこへ使用人の男がガタガタと戸を開けて入ってきた。まだ酔いが抜けていないのか目はトロンとし酒の匂いがプンプンしている。
「あっ、あれ?燈花様ですか?お早いですなぁ、、、失礼、、失礼」
使用人の下男は軽く頭を下げると両手で再び頭を押さえ、う~んと言って囲炉裏の前の床にしゃがみこんだ。
「小彩、水だ、水をくれ、、」
「まったく、飲み過ぎたのですよ」
小彩はため息をつくと説教まがいに下男に言った。
「仕方ないであろう、大王様の盛大な宴のお陰でこの宮にも酒が届いたのだ…良い酒をたらふく飲み最高の夜であった。ふぁぁ、、あぁ眠いし頭が痛い…」
下男は大きなあくびをすると、小彩に早く水をくれと催促するように手を振っている。
なるほど、誰も起きてこないはずだ。
下男は小彩からの水を受け取り、一気に飲み干すとばつが悪そうにこちらを見て言った。
「あんなに盛大な宴は久しぶりなのです…どの宮の者も皆酔いつぶれて、今日は仕事にならないでしょうなぁ、、あ~気持ち悪い、しかし初めて呑んだが唐の酒は強いな…」
下男はもう一杯水を小彩にねだったあと立ち上がるとフラフラと厨房を出ていった。
「これじゃあどの屋敷の使用人も使い物にならないわね…そうだ小彩、このあたりに葛花は生えてるかしら?」
「葛花ですか?はい、北山に行けば多分見つけられると思いますが、何故ですか?」
「良かった、葛花を煎じて飲むと二日酔いにとてもよく効くのよ、もし上手く出来たら茅渟王様のお屋敷にも届けましょう」
「妙案でございますね!では早速支度をしてまいります」
そうは言ったものの、薬草花には少しばかり詳しいがもちろん煎じた事などない。不安だったが、一方でなんとかなるだろうと楽観視する自分がいた。すでにこの生活に少しずつ順応してきている証拠のようで朝から驚いた。
林臣の屋敷では、、、
トントン、トントン
「猪手、起きたか?」
戸の向こうからは返事はなく、グワァツグワァーと大きなイビキだけが聞こえている。
「…開けるぞ」
林臣がガラガラっと勢いよく戸を開け猪手の眠る部屋に入った。
「猪手、起きろ」
「むにゃむにゃ、まだ夜中でございますよ、どなた様ですか…むにゃむにゃ…」
林臣の臣下である猪手はよほど昨晩の宴で酒を飲んだと見え全く起きる気配がない。
「猪手よ起きろ!」
「若様もう飲めませんよぉ…アハハ…」
夢から覚めぬマヌケ顔の臣下を見て、林臣もあきらめた。
「仕方ないな、一人で行くか…」
林臣は一人馬にまたがると屋敷を後にした。馬は順調に走り出した。目的地は稲淵だが途中の道で、男がドンドンドンと橘宮の門を叩いている姿が見えた。男が大声を上げている事から、ただならぬ状況なのが遠目からでもわかった。
もちろん先を急いでいるし、そもそも普段から馬を止めたりなどしない。でも何故か今日に限り男の慌てている様子が気になり、普段なら絶対にあり得ないが、馬を止め方向転換すると男のもとに向かった。
「かような朝からどうしたのだ?」
「あっ!これは林臣様!申し訳ありません。なんせ慌てておりまして、ついつい朝から大声を上げてしまいました。お許しください」
男は慌てて挨拶をし頭を下げた。
「で、どうしたのだ?」
「はい、私は軽皇子様の屋敷で働く使用人のニ田と言います。実は数日前より皇子様の具合が悪く、高熱が続いているのです。明け方一度意識を無くされ、で、早急に薬を煎じて差し上げたいのですが、その…実は…」
男はモゴモゴと口ごもった。
「はっきりと言わぬか」
「はい…昨晩の宴の準備で屋敷にある食材や薪の全てを、数日前に大王様のお屋敷に運んでしまい、何も残っていないのです。薪は少し残しておいたのですが小屋の外に置いておいたので、夜露に濡れ全く火がつかない状態でございます。朝廷の薬草庫にも行きましたが在庫がなく困り果てていたところ、橘宮の屋敷の倉に薪が備蓄されていると聞き、急いでまいったのです、、しかし誰もおりません。無断で入るわけにもいきませんし、どうしたものかと途方にくれております」
男の眉毛が下がり今にも泣き出しそうだ。
「軽皇子様の具合はかように悪いのか?」
「はい、先ほど小墾田宮より医官を呼んだのですが、鍼だけではどうにもならないと…」
二人が門の前でやり取りをしていると、ギギィと門が開き、気だるそうな若い少年が顔をのぞかせた。門番の少年の漢人だ。
「あっ、漢人開けるのが遅いではないか!」
男が大きな声で叫んだ。
「あっニ田様でしたか、、すみません釜戸の番をしていたものですから、、それと…林臣様が、な、なぜここに⁉︎」
漢人は林臣を見ると目をパチパチとさせ驚いた表情をし、頭を下げた。
「急用なのだ!小彩はどこにいる?」
「小彩さまなら先ほど、燈花様と二人で北山に葛花を取りにゆくと言って出ていきました、なんでも煎じで飲むと二日酔いに効果てきめんらしいのです。私もまだまだ眠いのに釜戸の番をしろって叩き起こされたんです」
漢人が不満そうに口を尖らせて言った。
「そうか、で、いつ戻るのだ?」
「さぁ、お時間までは…」
「それでは困るのだ薪が早急に必要だ、門番のおまえが取ってこられるかどうか、、」
「薪なら、東棟の一番奥の小屋にたんまりございますのでお持ちしますよ」
「それを早く言え!良かった急いで持ってきてくれ!いや、私も手伝おう」
男は安心したのか袖で汗をぬぐうと今度は漢人に中に案内するようにと急かした。
「待て、二人は北山に向かったのか?」
「はい、確かに北山に行くと言っておりました」
林臣は少し考えたあと、男に言った。
「ふむ…そなたニ田と申したな?大王様の屋敷に急いで遣いをだせ、念のため数名の兵を北山に向かわせた方が良いと伝えよ」
「えっ?はっ、はい…林臣様、でも何故ですか?」
「昨日の宴での女官とその侍女が獰猛なイノシシの餌になりそうだ、とでも伝えろ」
林臣は気だるそうな口調でそう言い、一瞬ニヤリと男の顔を見ると、何もなかったかのようにさっと馬にまたがり行ってしまった。
北山にて
「良かった沢山咲いているわね、ついでに葛根も摘んでゆきましょう。あっ、あと中宮様の滋養にもいくつか薬草を摘んでいきましょう」
野草探しは得意だった。宝物を探しているようで心が弾んだ。
「はい、そういたしましょう。燈花様は東国でも薬草採りをされていたのですか?」
小彩が体を地面に縮こまらせ草の根を必死でかき分けている。
「え?えぇ…たまたま知っていただけよ」
「そうですか、、。燈花様はいつもその髪飾りをつけておられますね、美しい紅色がお似合いです」
「ありがとう、この石は紅瑪瑙と言って大地が何千年もかけて作り出した自然の石なのか」
「ウフフ、殿方から頂いたのですか?」
小彩がニヤニヤしながら言った。
「違うわよ~、母方の家系のもので代々娘たち に受け継いできた大切な家宝の石らしいのだけど、詳しい事は知らないの」
「ふ~ん、そうですか。見せてもらっても良いですか?」
「ええ、もちろんよ」
「凄く美しい紅色ですね、ん?模様ですかね?」
小彩は瑪瑙の髪飾りを手に取ると何度もくるくると回して見ながら言った。
「模様?」
「はい。これ橘の葉と実ではありませんか?」
「え?本当に?」
「はい、三枚の葉と大きな実が橘の木に見えますが、、」
「そうなの?」
驚いた。今まで一度も気にかけた事も、じっくりと見たこともなかった。
「ありがとうございました。燈花様の大切なものでしょう、失くさないようにお気をつけ下さい」
「そ、そうね…」
小彩から髪飾りを受け取るとじっと見つめた。確かに以前から不思議だと思っていたのだ。現代からこの石だけが一緒にタイムスリップしてきたからだ。
唯一この髪飾りだけが私の本当の正体を知っているのね…
しばらくの間、時間がたつのも忘れ何も考えずに薬草取りに夢中になり草の根をかき分けた。
「燈花様、そろそろ帰りましょうか?雲行きも怪しいですし」
小彩に言われて気づいたが確かに見上げた空は暗く、冷たい風が山の上の方から吹き始めていた。
「そうね、戻りましょう」
小彩に促され立ち上がった時だ、数メートルさきの藪の中からガサガサと物音がして黒い大きな影のようなものが一瞬見えた。私は咄嗟に小彩の顔を見た。
「燈花様…見ましたか⁉︎な、何かいます…」
小彩も同じものを見たのだろう、震える声で言った。
「落ちついて、とにかく静かにゆっくりこの場から去りましょう」
必死で冷静を保ち言ったつもりだったが、足がすくんで動けない。さらにガサガサ、ガサガサと葉が擦れる音が聞こえた。すぐに獣の大きな鳴き声が山の中に響いた。
「ブヒィィィィィィ!!!」
突然草影から大きなイノシシが顔を出し、ギロリとこちらを見た。
「キャー!!!」
私達の悲鳴が山の中に響いた。
「燈花様、早く逃げて!」
小彩が叫び、私達は懸命に山の中を走り出した。
スローモーションのように足がもたついて上手く走れない。
ドスッ、、、
獣道を必死で走る途中、木の枝に引っかかり勢いよく転んだ。
「痛っっ、」
右足首に激痛が走った。痛くてとても起き上がれない。振り返ると草むらの十数メートル位奥にギロリと光るイノシシと目が合った。イノシシはこちらに狙いを定め今にも勢いよく突進してきそうだ。
もうダメだ…
両手で頭を抱えギュッと目をつぶった時だ。
ギュイーン!ギュィーーン!というイノシシのけたたましい鳴き声が山の中に響いた。数分続いたと思う。しばらくして静かになったので恐る恐る顔をあげてみると、さっきまでそこに居たイノシシの姿はもうない。代わりに慌てた様子の小彩が這いつくばりながら背後から近寄ってきた。
「燈花様大丈夫ですか⁉︎あぁなんてこと!血が出ていますよ!まさか噛まれたのですか⁉︎」
よく見るとすねから血がしたたっている。イノシシが気になり全く痛みを感じなかった。血を見た小彩の顔は真っ青になりパニック状態だ。おそらく転んだ時に木の枝で切ったのだろう。
「大丈夫よ、噛まれたのではないからかすり傷よ」
「どうしましょう!出血を止めなくちゃ」
小彩は慌てて衣の裾をビリビリと破ると傷の上からグルグルッと巻いた。
「燈花様、歩けますか?もう少し歩けば山道に出るのですが…」
「えぇ、立ってみるわ…」
なんとか立ちあがろうしたが足を軽く地面につけるだけで足首に激痛が走った。
「ダメだわ、思ったよりも強く足をくじいているみたい。小彩、私は歩けないから誰か呼びに行ってきて、ここで待っているから」
「そんな、燈花様を一人置いていけません」
「大丈夫よイノシシもどこかに行ってしまったようだし」
その時、遠くから誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「燈花、小彩!!聞こえるか?返事をしてくれ!」
「燈花、小彩!どこにいる」
名前を呼ぶ声が大きく鮮明になった。
「燈花様、誰か助けにきてくれたようです!」
小彩が鼻の穴を大きくして興奮ぎみに言った。
「ここです!ここです、助けて下さい!」
小彩は勢いよく立ち上がると持っていた白い布を声の方向に一生懸命に振りはじめた。ガサガサと葉っぱをかき分ける音が聞こえ、林の中から一人の青年が姿を現した。そう山代王だ。
「や、山代王さま⁉︎なぜこちらにおいでなのですか⁉︎」
小彩は目パチパチさせながら驚いて叫んだ。
「二人とも無事か⁉︎」
「あっ、いえ、燈花様が足に傷を負ってしまい歩くことが出来ないんです」
「なんだと?血が出ているではないか!燈花、立てるか?」
「え、えぇ、痛っ…」
立ちあがろうとしたが、やはり足首に激痛を感じしゃがみこんだ。傷は思ったよりも深いらしく、ズキンズキンと熱く痛みだした。
「その足では無理だな、私が抱えていくゆえ案ずるな」
山代王はそう言うと、ひょいっと私の体を持ち上げ抱えて歩きだした。顔から火が出るほど恥ずかしかった。お姫様だっこなど生涯された事はない。
「や、山代王様、いけません。誰かが見たら何と言うか、、」
慌てて言ったが、山代王は涼しい顔のまま答えた。
「何がまずいのだ、そなたイノシシの餌になりたいのか?さぁ急いで馬の所まで戻ろう」
意地悪そうに笑った山代王の顔はあどけない少年のようだった。そうだった。まだこの青年は二十歳少し過ぎたくらいだった。私は恥ずかしくて顔を覆った。
なんて事になってしまったのだろう。山代王様のお陰で助かったけど、彼に大変な迷惑をかけてしまった。心底間抜けな自分が情けない…
でも何故山代王様は、私達の居場所がわかったのだろうか?一見華奢な体に見えるが、どこからその力を出せるのだろうか?…
チラチラと彼の顔を見上げながらそんな事を考えている間に、馬までたどり着いた。馬の側には昨日会った山代王側近の冬韻と別の中年の男も一緒に立って待っていた。
「若様、無事二人を見つけだされたのですね、安心しました」
中年の男がため息をつき言った。
「二人を屋敷まで送ってゆく」
「承知しました」
今度は冬韻が私と小彩をひょいっと持ち上げると馬の背に乗せた。
見上げた空はさらに暗くなり今にも雨が降りだしそうだ。遠くでゴロゴロと雷のなる音も聞こえはじめた。それでもなんとか雨が降り出す前に橘宮に辿り着く事ができた。
「山代王様、本当に助かりました。命の恩人です。何と言ってお礼をすれば良いかわかりません、このご恩は必ずお返しいたします」
私は感謝の気持ちを伝え静かに頭を下げた。
「気にせずともよい。二人とも無事で良かった。それよりも早く部屋に戻り傷の手当てをした方がいい」
「誠に申し訳ありません」
私はもう一度謝ったものの、申し訳ない気持ちとこんな騒動を引き起こしてしまった自分が情けなくて落ち込んでいた。
「酔い潰れた皆の為に葛花を採りに行ったと聞いた、気を使わせてしまったな」
「いえ、そんな…」
「ではそなたの作る葛花の煎じ薬を待っていよう」
「はい、出来次第すぐにお屋敷にお届けします」
「では、またな」
山代王が馬にさっとまたがった。
「えっ?もう、戻られるのですか?熱いお茶をご用意いたしますので、少しお休みになられたら…」
小彩が慌てて引き留めた。
「いや、軽皇子の具合が良くないのだ。見舞いにいくゆえこれで失礼する」
「お待ち下さい!軽皇子様はどのようなご状態なのですか?」
何も出来ないと知りつつも、思わず余計な口をきいてしまった。
「風邪をこじらせてしまったのかもしれません、先ほどの山で葛根もいくつか採ってきましたので医官様にお渡し下さい。少しは役立つかもしれません。小彩お渡しして」
「はい、よいしょっと、、」
小彩が布袋の中から葛根を取り出し冬韻に渡した。
「すまぬな、きっと役に立つであろう」
山代王が優しく答えた。
「あれっ、燈花様、髪飾りはどうされましたか?」
小彩が急に私を見つめ言った。
「え?」
髪を触るとさっきまでつけていた髪飾りがない。
「やだ、どうしよう、落としたのかしら…山に戻らなくては…」
山代王の前なのをすっかり忘れて動揺してしまった。さっき大事なものだと話していたばかりなのに…
「燈花、落ち着くのだ、いったいどうしたのだ?」
「あぁ、それが、髪飾りをなくしてしまったようです…でも心配いりません、もう一度山に行き探してまいります。落としたであろう場所はなんとなく想像がつきますので、大丈夫でございます。山代王様は軽皇子様のところにお急ぎ下さい」
慌てて弁明したが時すでに遅しだった。
「しかし、そんな足では無理であろう、せっかくそなたを見つけ助け出したのが無駄になる。大事な品なのか?」
仕方ないので正直にこくんと頷いた。
「私が探しに行くゆえそなたは屋敷で待っていなさい。三輪よ薬草を持って先に軽皇子の屋敷に向かえ、冬韻は共について参れ」
「はっ」
「山代王様、いけません。私なら本当に大丈夫です。一人で探しに行けますので、どうかお屋敷にお戻り下さい」
思わず口を滑らせてしまった事を悔やみながら必死に説得したが、山代王は優しくこちらを見て馬にまたがると、冬韻と共にもと来た道へと走り出した。
行ってしまった…
「燈花様、とにかく中に入りましょう」
小彩が言った。空はいよいよ真っ暗になり北からびゅうっと風が吹き始めると、ポツポツと雨が降りだした。
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