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第八話
茅渟王と陵王の舞
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「燈花様、起きておいでですか?」
戸口から小彩のかすれた声が聞こえた。
「えぇ、今、目が覚めたところよ…」
ガタガタっと戸口を開けると、目を腫らした 小彩がしょんぼりと立っている。
「小彩もしかして眠れなかったの?」
「はい…」
小彩がかすれた小さな声で答えた。
「大丈夫、心配ないわよ…」
何の根拠もないが、あんなに泣き腫らした彼女の顔を見たらそう言うしかなかった。
「はい、そうだと良いのですが…」
小彩は暗い表情で力なく答えるだけだった。
「明日は大王様のお屋敷で重要な宴があるのでしょう?そんな腫れた顔ではいけないわ」
「はっ⁉︎そうでした!明日は大王様にも山代王様にも拝謁できるのでしたね!」
小彩は急に何かを思いついたように言うと、大きく目を見開いた。
「燈花様、妙案がございます。お願いです!もし山代王様とお話する機会があれば、昨晩の出来事で私達におとがめがないようにお願いして頂きたいのです。山代王様と林臣様は旧知の仲、兄と弟のようなものでございます。きっと聞き入れて下さるはず!」
小彩が目を輝かせて興奮気味に言った。さっきまでの暗い顔が嘘のようだ。
「まだ話したこともない方にいきなりそんな不躾なお願いなんて出来ないわよ。しかも王族の方なのでしょ?それこそ首が直ぐに飛んでしまうわ」
「はぁ…そうでございますね」
小彩はまた暗い表情へと変わり肩を落とした。
「大丈夫よ小彩何も起きたりしないわよ。さぁ元気を出して、明日の宴の準備をしましょう」
「…はい、そういたします」
小彩はまたしょんぼりうつむくと黙って自分の部屋へと戻っていった。
あんなに小彩が怯えるなんて、林臣様って一体何者なのよ…
その日もまた宴の準備などであっという間に一日が過ぎた。私は役に立たちそうもないので、屋敷の隅で邪魔にならないように、静かに見守る事に徹した。この日も床についた時には夜空にすっかり月が上がっていた。
明日は大変な一日になりそうだわ…何事もないと良いのだけれど…
深いため息をつき目を閉じた。
チュンチュン、チュンチュン、パタパタ、パタパタ。早朝から外が騒がしい。まだ眠い目をこすりながら小屋の外を覗いてみると、小走りしている侍女達が見えた。しばらくその光景を眺めていると、小彩が美しい深紫色の衣をもってやってきた。泣き腫らした目の腫れも消えて、昨日よりもだいぶ顔色が良い。憂はあるものの、大きな宴に出向くのは滅多にないみたいだから、楽しみの方が今は大きいのだろう。
身なりを整えいつもの坂を下り馬車のもとへと急いだ。橘宮から北東方向、小一時間ほど走った山の中腹あたりに大王の宮殿があった。小墾田宮に良く似ていて入口には立派な二本の太い柱の門があり、敷地は土の塀で囲まれている。宮殿の中には既に沢山の客人がいるようで、賑やかな笑い声が外まで聞こえてきた。
「立派なお屋敷ね」
『はい、ここを使われていた先代の大王様が数年前にお亡くなりになり、今は山代王様の兄である茅渟王様が居を構えておられます』
「茅渟王様?…」
茅渟王の事はあまり詳しくわからないけれど、山代王と兄弟?…ということは二人とも日十大王様のご子息かしら?よくわからないけれど、大和朝廷を支える重要人物なのは間違いなさそうね…
「おい、そこの女、何を突っ立っているのだ、怪しい者ではないだろうな?」
門番の男がぶっきらぼうに言ってきた。
「いえ怪しい者ではありません。小墾田宮の中宮さまの使いで参りました。山代王様にお取り次頂きたいのですが…」
小彩が手に持っていた竹簡を門番の男に見せると、男はいかにも疑わしいという目でジロジロと竹簡を見た。
「まぁ、良い。確認してくるから、ここで待っておれ」
男は竹簡を持ち屋敷の中へ入っていった。しばらく門の外で待っていると、今度は別の若い男がやって来た。色白で背が高く身なりも清潔で気品に溢れている。
「中宮様からの使いとは知らずに無礼を致しました、私は山代王様の臣下で冬韻と申します。お屋敷にご案内致しますのでどうぞ」
冬韻の誠実で紳士的な態度にホッと安堵した。初対面ではあるがなせが信頼できると直感的に感じた。私達はうなずくと彼の後について歩き始めた。
宮殿の建物の配置は小墾田宮とも橘宮とも実に似ていた。敷地内の建物は全てコの字に並び、中央は広い広場のような中庭になっている。その中庭の一角に苑池が作られ、更にその上には舞台のようなものが組まれていた。その苑池を囲むように沢山の豪族や、朝廷の高官らしき男達があぐらをかいて座り運ばれてきた酒や料理を飲み食いし、楽しそうに大声で笑っていた。
人だかりの中に先日小墾田宮で会った大臣の小男の姿が見えた。他の高官らしき男達に囲まれさぞかし気分が良いのか顔は真っ赤で、すでにゆでダコのように出来上がっている。隣にいる大男は一生懸命に酒の酌をしながら、わざとらしくうんうんと相槌をし大声で笑っている。この男もどこかで見た顔だ。
あの小男が蘇我蝦夷ね…隣にいる大男って確か一昨日橋の上で会った、、そう!あの男だわ!
“ドスン”
チラチラとそちらばかりに意識が向いてしまっていたせいで、冬韻が急に立ち止まった事がわからず彼の背中に思い切り頭をぶつけた。
「ご、ごめんなさい。よそ見をしていたものだから」
恥ずかしさと痛みを誤魔化すように指で鼻をこすった。いつの間にか大きな屋敷の前に到着していた。
「こちらの屋敷になります。お入り頂きますと右手側が廊下になっていますので、廊下の突き当たりの部屋でお待ちください」
冬韻がとても丁寧に言ったので、素直に頷いた。冬韻は私の後ろにいる小彩を見ると、
「そなた、人手が足りぬのだ。手伝ってくれぬか?」
と言い、心配ないという表情で私を一度見て、彼女を連れてどこかに行ってしまった。冬韻に言われたとおり屋敷の中に入り明るい廊下を奥へと進んだ。
キシッキシッっと床のきしむ音だけが聞こえる。指示された部屋に入ると、中は日差しが差し込んでいてとても明るかった。部屋はさっき通り抜けてきた中庭に面しているにも関わらず、外の騒がしい宴の音が聞こえずとても静かだ。中庭の奥にあの舞台が見えた。
部屋にポツンと一人残され不安だったが、中宮から渡された干し柿の荷をしっかりと抱え直し、その場に座った。
外から入ってくる爽やかな秋の風を感じ、深呼吸をする。見上げた空は高く雲一つない。思えばずっと晴天続きだ。まだ飛鳥に来て雨に打たれていない事に気がついた。
これからどうなるのだろう…現代に戻れるだろうか…
急に不安な気持ちが込み上げ涙が溢れた。涙は頬を伝い、ポトポトと床に落ちた。
「どうしたのだ?」
突然男の声が背後から聞こえた。驚いて振り返ると小墾田宮で会った青年が部屋の戸口の前に立っていた。そう、彼は山代王だ。私の涙に気がついた彼は急に表情を変え、焦った口調で言った。
「なぜ泣いているのだ?」
「えっ…あっ、あの私…」
山代王の急な登場に気が動転してしまい言葉が全然出てこない。
「先日、小墾田宮でそなたを見かけた。中宮様からもそなたの話を聞いた。中宮様とは深い縁があるとか…ところでなぜ泣いているのだ?」
「いゃ…その…」
「故郷が恋しいのか?」
「えっ⁉︎」
「そなたは、はるか東国より参ったと聞いた」
優しい声だ。
「…はい、そうなのです。故郷のことを思っておりました」
「そうであったか…都にきてまだ日が浅いのであろう?じき都の暮らしにも慣れよう。…ここは誰も来ない、好きなだけ泣くといい」
実年齢でいったら確実に私の方が上だと思うが、彼の大人びた口調に微塵も違和感を感じなかった。
「ありがとうございます。あっ、あとこの包を山代王様にお渡しするように中宮様より仰せつかりました」
持っていた包みを手渡すと、山代王はその場に座り、静かに開け始めた。中から沢山の白い粉をふいた干し柿が見えた。
「私と兄上の好物だが久しく食べていなかった
…」
山代王はじっとその干し柿をみつめ感慨深げに言った。
「そなたは、よほど信頼されているのだな。中宮様は私にとっても家族同然、とても大切なお方だ。是非とも側で支えて欲しい」
山代王が真っ直な瞳で私を見て言った。若いながらも意思を強く持った凛々しさと澄んだ瞳だ。その大人びた眼差しにどきっとして、思わず目を逸らした。
「はい…」
とだけ答えるのが精一杯だった。ちょうどその時、外から笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。中庭にある舞台の上に面を被った数人の少年達の姿が見えた。
「そなた伎楽を見たことはあるか?」
「えっ⁉︎」
「近くで見てみよう』」
山代王は突然そう言うと私の手を力強く引き外へと連れ出した。手を引かれるがままに屋敷から出ると、来客でいっぱいの中庭をするするとすり抜けた。来た時よりも沢山の人で溢れかえっている。気づくと舞台が目の前の場所にまで来ていた。どうやら特別な場所なのか地面には赤い敷物が敷かれている。敷物の上にはちゃぶ台のような長机が一列に並べられていて、その上には魚や果物などの食べ物や酒が置かれていた。
「山代王よ」
低い声が聞こえ顔を上げると、山代王よりも一回り位年の離れたであろう男が目の前に立っていた。凛々しい顔立ちと、優しい目元が山代王にそっくりな立派な大人の男性だ。
美しい藍色の衣をまとい、金色の糸で刺繍された鳳凰が衣の上で美しくて舞っている。頭にはやはり小さな金色の冠がのっていての赤や青や黄色の小さな宝石が均衡にちりばめられている。彼の後ろには何人もの臣下らしき男達が立っている。
「兄上!どうして?お身体の具合が優れぬと聞きしましたが、大丈夫ですか?部屋に戻られた方が良いのではありませんか?」
えっ?兄上ってことは…まさか、茅渟王?
「いや、だいぶ良くなったのだ…しかし今日は唐の皇帝陛下即位の祝いも兼ねた重要な宴だ…」
「はい、それは十分に承知しておりますが…」
「ところでこの者は?」
茅渟王の視線が急に私に向けられたので、驚いて思わず下を向いた。
「はい、橘宮の女官ですが、この度は中宮様の使いで参ったようです。兄上と私の好物の干し柿を中宮様より頂きました」
山代王が即座に答えると、
「そうか小墾田宮からとは珍しいな、中宮様こそお体の具合がすぐれぬと聞いたが…」
茅渟王はそう言うと、ずっとこちらを見ている。そう、私に聞いているのだ。
「は、はい、大分良くなられたご様子ですが、ご高齢なので回復にはまだ時間がかかるとの事です」
私はうつむいたまま冷静を装い淡々と答えた。
「そうか…大事ないと良いのだが…近いうちに参内すると申し伝えてくれぬか?」
「はい、承知いたしました」
とても不安だった。こんなに飛鳥時代の皇族らしき人達と知り合ってしまっても問題はないのだろうか?歴史は変わらないのだろうか?
いくつもの疑問がよぎった。でも中宮の後ろ楯がなければとっくに殺されていたと思うと、少し歴史が変わったとしても、誰からも恨まれる筋合いはないと開きなおった。
「山代王よ、唐からの使節団が待っているゆえ一緒に来てくれ」
「はっ」
舞台の目の前の宴席には赤い敷物がひかれ、机の上には色とりどりの器に豪華な食事が美しく盛られている。唐の使節団や王家一族、朝廷の高官らは既に着座し、まだかまだかとチラチラこちらを見ている。
「兄上、彼女も共に座っても構いませんか?先ほど一緒に舞を見ようと約束したのです」
「山代王様いけません。私は中宮様の使いで参りましたただの女官です。卑しい身でありこのような立派な宴の席には相応しくありません。用事も済みましたので失礼させて頂きます」
知っている限りの丁寧な言葉を並べその場を去ろうとすると、茅渟王がすかさず言った。
「待ちなさい、ふむ…簡単に約束を破るような君主に民は仕えるだろうか?それでは山代王の顔が立たぬ。これも何かの縁であろう。そなたも共に来なさい」
「えっ⁉︎はっ…はい…」
小さな声で仕方なしに答えたが、本当はすぐにでもこの場を立ち去りたかった。そのまま山代王の隣の席に案内され座った。茅渟王や高官達は通訳官を交えると、先に着座していた使節団となにやら話しだした。
ピーヒャララ、ドンドンドンと演奏が始まると、少年達が舞台の上にあがってきて笛や太鼓の男に合わせて踊り始めた。
なんでこうなるのだろう…
少年達の舞をぼんやりと眺めながらそう思っていた。
あれっ、この舞は…
固く握りしめた両手がじんじんと痺れ始めた。
「そなた知っているか、伎楽とはその昔、呉の国で始まり百済を渡り我が国に伝わってきたのだ。先代の王の時より法事や重要な催しがある時には必ず舞うようにと、決められている」
山代王が得意げに言った。
「そうなのですね…」
しばらく少年達の伎楽の舞を静かに見ていた。使節団の男達も大量の酒を飲み始め、愉快そうに笑っている。
一人の男が酒の瓶を持ちながら立ち上がりフラフラと歩きだした。真っ赤な顔で目はうつろだ。相当泥酔しているとみえ足元がおぼつかない。今にも転びそうだ。男は私を見ると近づいてきてカタコトの言葉で絡んできた。
「この国では卑しい身分の下女でさえも、舞を見る機会が与えられるのか?身分制度をしかと教えませんと中央政権はもとより、国が崩壊してしまいますぞ。フッフッフッ…ハハハハハ」
男が腹を抱えて笑い始めた。黙って聞いていたた山代王も聞くに耐えなくなったのか、ギロりと男を睨み立ち上がった。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
まずいわ…嫌な予感がする…
「お止め下さい山代王様、何も気になさらないでください。皆さん酔っておられますし、唐の皇帝陛下即位の祝いの宴です。卑しい身の私がこの場にいるのがそもそも分不相応なのでございます」
一礼をして立ち去ろうとした時だ。
「その必要はない。そなたもこの舞が終わるまで残りなさい」
この様子を見ていた茅渟王が静かに言い立ち上がると、宴はさらに不穏な空気に包まれた。
「お言葉を返すようだが、我が民や国あらずに天子は存在しない。この国では皆平等に機会が与えられるのですよ」
茅渟王がきっぱりと男に向かって言った。
「何~そなた我が国の皇帝陛下を侮辱しておるのか!! 何を舞っているのかもわからぬ低俗な下々の者と、酒を酌み交わすことなどあり得ぬわ!」
男はさらに真っ赤になり逆上して言った。
一瞬でその場は静まりかえり伎楽の音が止んだ。少年達も凍りついたように舞台の上で動かずこちらを緊張の眼差しで見ている。一触即発とはまさしくこのこと、今にも大乱闘が始まりそうだ。使節団の護衛らしき別の男が剣に手を置こうとしているのがわかった。
私は意を決して震える声で言った。
「お待ちください…これは、蘭陵王入陣曲です…」
そしてもう一度、大きめの声で答えた。
「この舞は北斉の皇族である高長恭、彼の勇猛を称えた歌謡です」
これを聞いた通訳官が慌てて訳すと、使節団が一様にどよめいた。中でも一番年老いた男の表情が豹変した。おそらくこの使節団の団長であろう。静かにこちらを向きじっと見ている。私は続けて言った。
「高長恭こと蘭陵王はたった馬500騎を率いて、北周の10万の軍を破りました。数々の戦功をたてましたが、その勇敢さと武勲がのちの皇帝から羨まれ恨みを買ってしまい33才の時、毒薬を賜り亡くなったのです。勇猛な将軍である一方で、その姿は見目麗しくしく、音容兼美とも史書には明記されています。また軍功を称えて果物を贈られた際も、配下の将兵に分け与え、謙虚で慈悲深い人物でもあったと記されています。高長恭を慕う北斉の兵たちが彼を称えて作ったのがこの蘭陵王入陣曲です」
通訳官が訳し終わると、しばしの沈黙のあと使節団の長老らしき男がゆっくり立ち上がり茅渟王に近づいた。彼は静かに両手を胸の前で合わせると深々と頭を下げた。
「大王殿、此度の我々の浅はかで無礼な言動をどうかお許し下さい。下女でさえもかように勇敢で聡明であればこの国の未来は明るく安泰でありましょう。我が国が理想とする大平の世をまさにこの国で見た想いです」
その発言をもとに使節団の全員が初めは驚いた表情をしていたが一斉に立ち上がると、団長に引き続きこちらを向き両手を胸の前で合わせて頭を下げた。悪態をついた男も一瞬で酔いがさめたのか、バツが悪そうに私を見て渋々頭を下げた。
「唐と我が国の友情に乾杯!!」
誰かが大声で叫んだ。一気にその場は和み、また宴は更に賑やかさを増した。
はぁ…フラフラする…言ってしまった。あれほど言動には気を付けなければならなかったのに…
蘭陵王については以前に中国ドラマで見た事があり彼にどハマりし、とことん調べた事があった。けれどまさか、ここでその調べた雑学を完璧にプレゼンし窮地を乗り切るとは思いもしなかった。
その後はもちろん緊張の糸が切れ、事の重大さを感じたのか足はガタガタと震え力が入らずその場に立っているのがやっとだった。立ちすくむ私のもとに、山代王がやってきて興奮げに言った。
「そ、そなたがそれほどまでに聡明で博識な女人だとは知らなかった、驚いたぞ」
「……」
もちろん言葉は出ない。
「顔色が悪いな、疲れたであろう。屋敷まで送るゆえ、今馬を手配してくるから、ここで待ちなさい」
「はい…」
今できる精一杯の返事がこれだった。
一方、中庭の片隅でこの一大ドラマを面白おかしく眺めている者たちがいた。
「若様、こちらにおられたのですか?探しましたよ、茅渟王様と山代王様にはもう会われましたか?」
遅れて来た側近の猪手が息を切らしながら林臣に尋ねた。
「いや、まだだ。舞を見ていたからな」
「えっ⁉︎まさか舞をご覧になっていたのですか?普段は全く見られないのに…」
「そなたは見ていないのか?今日の舞は格別に面白かったぞか」
「え?どういうことでしょうか?」
側近の猪手は目をぱちぱちさせながら言った。ちょうどその時、背後から山代王が現れた。
「林太郎来るのが遅いではないか、そなたにも今日の舞を見てほしかったぞ、一体何をしておったのだ?」
林臣は苦笑いをしてうつむくと、隣にいた側近の猪手が代わりに答えた。
「実は南淵で狩りをしておりました、数日前よりイノシンが田畑を荒らしておりまして、収穫が出来ぬのです。民からの上奏がありましたので若様と共に明け方から山に入り罠を仕掛けておりました」
「ほぅ、、で仕留めたのか?」
「あっ、、いえ、何度か罠に掛かったのですが、思いのほかイノシシが大きく狂暴な上に逃げ足も早く、撃ち損ねてしまいました」
猪手が悔しそうに答えた。
「そうか二人ともご苦労だったな。さっ、あちらの部屋で食事を用意させるゆえ、話ながら一杯飲もう。その前に知人を馬に乗せ見送りするから先に始めていてくれ、すぐに向かう」
「承知しました」
林臣が頭を下げた。
私はというと、まだ頭がぼっーとして、フラフラしている。慌てて駆け寄ってきた小彩に支えられながらなんとか屋敷の門まで歩いたところで背後から呼び止められた。
「そなた、待つのだ」
ゆっくり振り返ると茅渟王が立っている。
あぁ、、怒られる…まさか、死罪、、、
茅渟王の表情をみるなり即座にそう思った。
「茅渟王様、私の至らぬせいで此度のイザコザを起こしてしまい誠に申し訳ありません…」
死を前に恐怖を感じたからなのか、珍しく自ら弁解し頭を下げた。
「そなたのせいではない、不快な思いをさせてしまいすまなかった。私の不徳のせいだ。許して欲しい」
予想外の返答と、優しく温厚な声に驚き顔を上げた。彼は優しい眼差しを私に向け、口元は微かに微笑んでいた。彼は私の肩に手を置くと、
「また会おう」
と微笑んだ。ちょうどその時、パカパカと大きな音が門の外から聞こえた。山代王が手配した馬車が門の外に到着した。
「行きなさい」
茅渟王はそう言うとクルッと振り返り屋敷の中へと戻っていった。
小彩と馬車に乗り込み少し進んだところで、後ろから誰かの叫び声が聞こえた。
「おーい待て!止まれ!止まれ!」
後ろを見ると山代王が馬に乗りものすごいスピードで追いかけてきている。馬夫の合図で馬車はキキィーと大きな音を立てて止まった。
「や、山代王様⁉︎どうされたのですか?」
小彩が慌てて尋ねた。
「そなたの仕える女官に話があるのだ」
私が驚いて顔を向けると、山代王が嬉しそうに言った。
「次は一緒に馬に乗ろう。私が教えるゆえ、また遣いを出す。気をつけて帰られよ」
突然の誘いに驚き戸惑ったが、断る理由が見つからなくて静かにうなずいた。
「そうだ、そなた名はなんと申すのだ」
「燈花と申します」
「燈花…良い名だ」
山代王は微かに微笑むと、来た道を戻って行った。
今日もドキドキハラハラの一日だった。なぜこんなにも毎日がドラマチックに展開していくのだろうか?既に身も心もクタクタだ。帰りの道で小彩があれこれと小姑のように聞いてきたが、疲れ果てていて返事をする気力はなかった。馬車の大きな揺れも心地良くすぐに寝てしまった。
戸口から小彩のかすれた声が聞こえた。
「えぇ、今、目が覚めたところよ…」
ガタガタっと戸口を開けると、目を腫らした 小彩がしょんぼりと立っている。
「小彩もしかして眠れなかったの?」
「はい…」
小彩がかすれた小さな声で答えた。
「大丈夫、心配ないわよ…」
何の根拠もないが、あんなに泣き腫らした彼女の顔を見たらそう言うしかなかった。
「はい、そうだと良いのですが…」
小彩は暗い表情で力なく答えるだけだった。
「明日は大王様のお屋敷で重要な宴があるのでしょう?そんな腫れた顔ではいけないわ」
「はっ⁉︎そうでした!明日は大王様にも山代王様にも拝謁できるのでしたね!」
小彩は急に何かを思いついたように言うと、大きく目を見開いた。
「燈花様、妙案がございます。お願いです!もし山代王様とお話する機会があれば、昨晩の出来事で私達におとがめがないようにお願いして頂きたいのです。山代王様と林臣様は旧知の仲、兄と弟のようなものでございます。きっと聞き入れて下さるはず!」
小彩が目を輝かせて興奮気味に言った。さっきまでの暗い顔が嘘のようだ。
「まだ話したこともない方にいきなりそんな不躾なお願いなんて出来ないわよ。しかも王族の方なのでしょ?それこそ首が直ぐに飛んでしまうわ」
「はぁ…そうでございますね」
小彩はまた暗い表情へと変わり肩を落とした。
「大丈夫よ小彩何も起きたりしないわよ。さぁ元気を出して、明日の宴の準備をしましょう」
「…はい、そういたします」
小彩はまたしょんぼりうつむくと黙って自分の部屋へと戻っていった。
あんなに小彩が怯えるなんて、林臣様って一体何者なのよ…
その日もまた宴の準備などであっという間に一日が過ぎた。私は役に立たちそうもないので、屋敷の隅で邪魔にならないように、静かに見守る事に徹した。この日も床についた時には夜空にすっかり月が上がっていた。
明日は大変な一日になりそうだわ…何事もないと良いのだけれど…
深いため息をつき目を閉じた。
チュンチュン、チュンチュン、パタパタ、パタパタ。早朝から外が騒がしい。まだ眠い目をこすりながら小屋の外を覗いてみると、小走りしている侍女達が見えた。しばらくその光景を眺めていると、小彩が美しい深紫色の衣をもってやってきた。泣き腫らした目の腫れも消えて、昨日よりもだいぶ顔色が良い。憂はあるものの、大きな宴に出向くのは滅多にないみたいだから、楽しみの方が今は大きいのだろう。
身なりを整えいつもの坂を下り馬車のもとへと急いだ。橘宮から北東方向、小一時間ほど走った山の中腹あたりに大王の宮殿があった。小墾田宮に良く似ていて入口には立派な二本の太い柱の門があり、敷地は土の塀で囲まれている。宮殿の中には既に沢山の客人がいるようで、賑やかな笑い声が外まで聞こえてきた。
「立派なお屋敷ね」
『はい、ここを使われていた先代の大王様が数年前にお亡くなりになり、今は山代王様の兄である茅渟王様が居を構えておられます』
「茅渟王様?…」
茅渟王の事はあまり詳しくわからないけれど、山代王と兄弟?…ということは二人とも日十大王様のご子息かしら?よくわからないけれど、大和朝廷を支える重要人物なのは間違いなさそうね…
「おい、そこの女、何を突っ立っているのだ、怪しい者ではないだろうな?」
門番の男がぶっきらぼうに言ってきた。
「いえ怪しい者ではありません。小墾田宮の中宮さまの使いで参りました。山代王様にお取り次頂きたいのですが…」
小彩が手に持っていた竹簡を門番の男に見せると、男はいかにも疑わしいという目でジロジロと竹簡を見た。
「まぁ、良い。確認してくるから、ここで待っておれ」
男は竹簡を持ち屋敷の中へ入っていった。しばらく門の外で待っていると、今度は別の若い男がやって来た。色白で背が高く身なりも清潔で気品に溢れている。
「中宮様からの使いとは知らずに無礼を致しました、私は山代王様の臣下で冬韻と申します。お屋敷にご案内致しますのでどうぞ」
冬韻の誠実で紳士的な態度にホッと安堵した。初対面ではあるがなせが信頼できると直感的に感じた。私達はうなずくと彼の後について歩き始めた。
宮殿の建物の配置は小墾田宮とも橘宮とも実に似ていた。敷地内の建物は全てコの字に並び、中央は広い広場のような中庭になっている。その中庭の一角に苑池が作られ、更にその上には舞台のようなものが組まれていた。その苑池を囲むように沢山の豪族や、朝廷の高官らしき男達があぐらをかいて座り運ばれてきた酒や料理を飲み食いし、楽しそうに大声で笑っていた。
人だかりの中に先日小墾田宮で会った大臣の小男の姿が見えた。他の高官らしき男達に囲まれさぞかし気分が良いのか顔は真っ赤で、すでにゆでダコのように出来上がっている。隣にいる大男は一生懸命に酒の酌をしながら、わざとらしくうんうんと相槌をし大声で笑っている。この男もどこかで見た顔だ。
あの小男が蘇我蝦夷ね…隣にいる大男って確か一昨日橋の上で会った、、そう!あの男だわ!
“ドスン”
チラチラとそちらばかりに意識が向いてしまっていたせいで、冬韻が急に立ち止まった事がわからず彼の背中に思い切り頭をぶつけた。
「ご、ごめんなさい。よそ見をしていたものだから」
恥ずかしさと痛みを誤魔化すように指で鼻をこすった。いつの間にか大きな屋敷の前に到着していた。
「こちらの屋敷になります。お入り頂きますと右手側が廊下になっていますので、廊下の突き当たりの部屋でお待ちください」
冬韻がとても丁寧に言ったので、素直に頷いた。冬韻は私の後ろにいる小彩を見ると、
「そなた、人手が足りぬのだ。手伝ってくれぬか?」
と言い、心配ないという表情で私を一度見て、彼女を連れてどこかに行ってしまった。冬韻に言われたとおり屋敷の中に入り明るい廊下を奥へと進んだ。
キシッキシッっと床のきしむ音だけが聞こえる。指示された部屋に入ると、中は日差しが差し込んでいてとても明るかった。部屋はさっき通り抜けてきた中庭に面しているにも関わらず、外の騒がしい宴の音が聞こえずとても静かだ。中庭の奥にあの舞台が見えた。
部屋にポツンと一人残され不安だったが、中宮から渡された干し柿の荷をしっかりと抱え直し、その場に座った。
外から入ってくる爽やかな秋の風を感じ、深呼吸をする。見上げた空は高く雲一つない。思えばずっと晴天続きだ。まだ飛鳥に来て雨に打たれていない事に気がついた。
これからどうなるのだろう…現代に戻れるだろうか…
急に不安な気持ちが込み上げ涙が溢れた。涙は頬を伝い、ポトポトと床に落ちた。
「どうしたのだ?」
突然男の声が背後から聞こえた。驚いて振り返ると小墾田宮で会った青年が部屋の戸口の前に立っていた。そう、彼は山代王だ。私の涙に気がついた彼は急に表情を変え、焦った口調で言った。
「なぜ泣いているのだ?」
「えっ…あっ、あの私…」
山代王の急な登場に気が動転してしまい言葉が全然出てこない。
「先日、小墾田宮でそなたを見かけた。中宮様からもそなたの話を聞いた。中宮様とは深い縁があるとか…ところでなぜ泣いているのだ?」
「いゃ…その…」
「故郷が恋しいのか?」
「えっ⁉︎」
「そなたは、はるか東国より参ったと聞いた」
優しい声だ。
「…はい、そうなのです。故郷のことを思っておりました」
「そうであったか…都にきてまだ日が浅いのであろう?じき都の暮らしにも慣れよう。…ここは誰も来ない、好きなだけ泣くといい」
実年齢でいったら確実に私の方が上だと思うが、彼の大人びた口調に微塵も違和感を感じなかった。
「ありがとうございます。あっ、あとこの包を山代王様にお渡しするように中宮様より仰せつかりました」
持っていた包みを手渡すと、山代王はその場に座り、静かに開け始めた。中から沢山の白い粉をふいた干し柿が見えた。
「私と兄上の好物だが久しく食べていなかった
…」
山代王はじっとその干し柿をみつめ感慨深げに言った。
「そなたは、よほど信頼されているのだな。中宮様は私にとっても家族同然、とても大切なお方だ。是非とも側で支えて欲しい」
山代王が真っ直な瞳で私を見て言った。若いながらも意思を強く持った凛々しさと澄んだ瞳だ。その大人びた眼差しにどきっとして、思わず目を逸らした。
「はい…」
とだけ答えるのが精一杯だった。ちょうどその時、外から笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。中庭にある舞台の上に面を被った数人の少年達の姿が見えた。
「そなた伎楽を見たことはあるか?」
「えっ⁉︎」
「近くで見てみよう』」
山代王は突然そう言うと私の手を力強く引き外へと連れ出した。手を引かれるがままに屋敷から出ると、来客でいっぱいの中庭をするするとすり抜けた。来た時よりも沢山の人で溢れかえっている。気づくと舞台が目の前の場所にまで来ていた。どうやら特別な場所なのか地面には赤い敷物が敷かれている。敷物の上にはちゃぶ台のような長机が一列に並べられていて、その上には魚や果物などの食べ物や酒が置かれていた。
「山代王よ」
低い声が聞こえ顔を上げると、山代王よりも一回り位年の離れたであろう男が目の前に立っていた。凛々しい顔立ちと、優しい目元が山代王にそっくりな立派な大人の男性だ。
美しい藍色の衣をまとい、金色の糸で刺繍された鳳凰が衣の上で美しくて舞っている。頭にはやはり小さな金色の冠がのっていての赤や青や黄色の小さな宝石が均衡にちりばめられている。彼の後ろには何人もの臣下らしき男達が立っている。
「兄上!どうして?お身体の具合が優れぬと聞きしましたが、大丈夫ですか?部屋に戻られた方が良いのではありませんか?」
えっ?兄上ってことは…まさか、茅渟王?
「いや、だいぶ良くなったのだ…しかし今日は唐の皇帝陛下即位の祝いも兼ねた重要な宴だ…」
「はい、それは十分に承知しておりますが…」
「ところでこの者は?」
茅渟王の視線が急に私に向けられたので、驚いて思わず下を向いた。
「はい、橘宮の女官ですが、この度は中宮様の使いで参ったようです。兄上と私の好物の干し柿を中宮様より頂きました」
山代王が即座に答えると、
「そうか小墾田宮からとは珍しいな、中宮様こそお体の具合がすぐれぬと聞いたが…」
茅渟王はそう言うと、ずっとこちらを見ている。そう、私に聞いているのだ。
「は、はい、大分良くなられたご様子ですが、ご高齢なので回復にはまだ時間がかかるとの事です」
私はうつむいたまま冷静を装い淡々と答えた。
「そうか…大事ないと良いのだが…近いうちに参内すると申し伝えてくれぬか?」
「はい、承知いたしました」
とても不安だった。こんなに飛鳥時代の皇族らしき人達と知り合ってしまっても問題はないのだろうか?歴史は変わらないのだろうか?
いくつもの疑問がよぎった。でも中宮の後ろ楯がなければとっくに殺されていたと思うと、少し歴史が変わったとしても、誰からも恨まれる筋合いはないと開きなおった。
「山代王よ、唐からの使節団が待っているゆえ一緒に来てくれ」
「はっ」
舞台の目の前の宴席には赤い敷物がひかれ、机の上には色とりどりの器に豪華な食事が美しく盛られている。唐の使節団や王家一族、朝廷の高官らは既に着座し、まだかまだかとチラチラこちらを見ている。
「兄上、彼女も共に座っても構いませんか?先ほど一緒に舞を見ようと約束したのです」
「山代王様いけません。私は中宮様の使いで参りましたただの女官です。卑しい身でありこのような立派な宴の席には相応しくありません。用事も済みましたので失礼させて頂きます」
知っている限りの丁寧な言葉を並べその場を去ろうとすると、茅渟王がすかさず言った。
「待ちなさい、ふむ…簡単に約束を破るような君主に民は仕えるだろうか?それでは山代王の顔が立たぬ。これも何かの縁であろう。そなたも共に来なさい」
「えっ⁉︎はっ…はい…」
小さな声で仕方なしに答えたが、本当はすぐにでもこの場を立ち去りたかった。そのまま山代王の隣の席に案内され座った。茅渟王や高官達は通訳官を交えると、先に着座していた使節団となにやら話しだした。
ピーヒャララ、ドンドンドンと演奏が始まると、少年達が舞台の上にあがってきて笛や太鼓の男に合わせて踊り始めた。
なんでこうなるのだろう…
少年達の舞をぼんやりと眺めながらそう思っていた。
あれっ、この舞は…
固く握りしめた両手がじんじんと痺れ始めた。
「そなた知っているか、伎楽とはその昔、呉の国で始まり百済を渡り我が国に伝わってきたのだ。先代の王の時より法事や重要な催しがある時には必ず舞うようにと、決められている」
山代王が得意げに言った。
「そうなのですね…」
しばらく少年達の伎楽の舞を静かに見ていた。使節団の男達も大量の酒を飲み始め、愉快そうに笑っている。
一人の男が酒の瓶を持ちながら立ち上がりフラフラと歩きだした。真っ赤な顔で目はうつろだ。相当泥酔しているとみえ足元がおぼつかない。今にも転びそうだ。男は私を見ると近づいてきてカタコトの言葉で絡んできた。
「この国では卑しい身分の下女でさえも、舞を見る機会が与えられるのか?身分制度をしかと教えませんと中央政権はもとより、国が崩壊してしまいますぞ。フッフッフッ…ハハハハハ」
男が腹を抱えて笑い始めた。黙って聞いていたた山代王も聞くに耐えなくなったのか、ギロりと男を睨み立ち上がった。今にも飛びかかりそうな勢いだ。
まずいわ…嫌な予感がする…
「お止め下さい山代王様、何も気になさらないでください。皆さん酔っておられますし、唐の皇帝陛下即位の祝いの宴です。卑しい身の私がこの場にいるのがそもそも分不相応なのでございます」
一礼をして立ち去ろうとした時だ。
「その必要はない。そなたもこの舞が終わるまで残りなさい」
この様子を見ていた茅渟王が静かに言い立ち上がると、宴はさらに不穏な空気に包まれた。
「お言葉を返すようだが、我が民や国あらずに天子は存在しない。この国では皆平等に機会が与えられるのですよ」
茅渟王がきっぱりと男に向かって言った。
「何~そなた我が国の皇帝陛下を侮辱しておるのか!! 何を舞っているのかもわからぬ低俗な下々の者と、酒を酌み交わすことなどあり得ぬわ!」
男はさらに真っ赤になり逆上して言った。
一瞬でその場は静まりかえり伎楽の音が止んだ。少年達も凍りついたように舞台の上で動かずこちらを緊張の眼差しで見ている。一触即発とはまさしくこのこと、今にも大乱闘が始まりそうだ。使節団の護衛らしき別の男が剣に手を置こうとしているのがわかった。
私は意を決して震える声で言った。
「お待ちください…これは、蘭陵王入陣曲です…」
そしてもう一度、大きめの声で答えた。
「この舞は北斉の皇族である高長恭、彼の勇猛を称えた歌謡です」
これを聞いた通訳官が慌てて訳すと、使節団が一様にどよめいた。中でも一番年老いた男の表情が豹変した。おそらくこの使節団の団長であろう。静かにこちらを向きじっと見ている。私は続けて言った。
「高長恭こと蘭陵王はたった馬500騎を率いて、北周の10万の軍を破りました。数々の戦功をたてましたが、その勇敢さと武勲がのちの皇帝から羨まれ恨みを買ってしまい33才の時、毒薬を賜り亡くなったのです。勇猛な将軍である一方で、その姿は見目麗しくしく、音容兼美とも史書には明記されています。また軍功を称えて果物を贈られた際も、配下の将兵に分け与え、謙虚で慈悲深い人物でもあったと記されています。高長恭を慕う北斉の兵たちが彼を称えて作ったのがこの蘭陵王入陣曲です」
通訳官が訳し終わると、しばしの沈黙のあと使節団の長老らしき男がゆっくり立ち上がり茅渟王に近づいた。彼は静かに両手を胸の前で合わせると深々と頭を下げた。
「大王殿、此度の我々の浅はかで無礼な言動をどうかお許し下さい。下女でさえもかように勇敢で聡明であればこの国の未来は明るく安泰でありましょう。我が国が理想とする大平の世をまさにこの国で見た想いです」
その発言をもとに使節団の全員が初めは驚いた表情をしていたが一斉に立ち上がると、団長に引き続きこちらを向き両手を胸の前で合わせて頭を下げた。悪態をついた男も一瞬で酔いがさめたのか、バツが悪そうに私を見て渋々頭を下げた。
「唐と我が国の友情に乾杯!!」
誰かが大声で叫んだ。一気にその場は和み、また宴は更に賑やかさを増した。
はぁ…フラフラする…言ってしまった。あれほど言動には気を付けなければならなかったのに…
蘭陵王については以前に中国ドラマで見た事があり彼にどハマりし、とことん調べた事があった。けれどまさか、ここでその調べた雑学を完璧にプレゼンし窮地を乗り切るとは思いもしなかった。
その後はもちろん緊張の糸が切れ、事の重大さを感じたのか足はガタガタと震え力が入らずその場に立っているのがやっとだった。立ちすくむ私のもとに、山代王がやってきて興奮げに言った。
「そ、そなたがそれほどまでに聡明で博識な女人だとは知らなかった、驚いたぞ」
「……」
もちろん言葉は出ない。
「顔色が悪いな、疲れたであろう。屋敷まで送るゆえ、今馬を手配してくるから、ここで待ちなさい」
「はい…」
今できる精一杯の返事がこれだった。
一方、中庭の片隅でこの一大ドラマを面白おかしく眺めている者たちがいた。
「若様、こちらにおられたのですか?探しましたよ、茅渟王様と山代王様にはもう会われましたか?」
遅れて来た側近の猪手が息を切らしながら林臣に尋ねた。
「いや、まだだ。舞を見ていたからな」
「えっ⁉︎まさか舞をご覧になっていたのですか?普段は全く見られないのに…」
「そなたは見ていないのか?今日の舞は格別に面白かったぞか」
「え?どういうことでしょうか?」
側近の猪手は目をぱちぱちさせながら言った。ちょうどその時、背後から山代王が現れた。
「林太郎来るのが遅いではないか、そなたにも今日の舞を見てほしかったぞ、一体何をしておったのだ?」
林臣は苦笑いをしてうつむくと、隣にいた側近の猪手が代わりに答えた。
「実は南淵で狩りをしておりました、数日前よりイノシンが田畑を荒らしておりまして、収穫が出来ぬのです。民からの上奏がありましたので若様と共に明け方から山に入り罠を仕掛けておりました」
「ほぅ、、で仕留めたのか?」
「あっ、、いえ、何度か罠に掛かったのですが、思いのほかイノシシが大きく狂暴な上に逃げ足も早く、撃ち損ねてしまいました」
猪手が悔しそうに答えた。
「そうか二人ともご苦労だったな。さっ、あちらの部屋で食事を用意させるゆえ、話ながら一杯飲もう。その前に知人を馬に乗せ見送りするから先に始めていてくれ、すぐに向かう」
「承知しました」
林臣が頭を下げた。
私はというと、まだ頭がぼっーとして、フラフラしている。慌てて駆け寄ってきた小彩に支えられながらなんとか屋敷の門まで歩いたところで背後から呼び止められた。
「そなた、待つのだ」
ゆっくり振り返ると茅渟王が立っている。
あぁ、、怒られる…まさか、死罪、、、
茅渟王の表情をみるなり即座にそう思った。
「茅渟王様、私の至らぬせいで此度のイザコザを起こしてしまい誠に申し訳ありません…」
死を前に恐怖を感じたからなのか、珍しく自ら弁解し頭を下げた。
「そなたのせいではない、不快な思いをさせてしまいすまなかった。私の不徳のせいだ。許して欲しい」
予想外の返答と、優しく温厚な声に驚き顔を上げた。彼は優しい眼差しを私に向け、口元は微かに微笑んでいた。彼は私の肩に手を置くと、
「また会おう」
と微笑んだ。ちょうどその時、パカパカと大きな音が門の外から聞こえた。山代王が手配した馬車が門の外に到着した。
「行きなさい」
茅渟王はそう言うとクルッと振り返り屋敷の中へと戻っていった。
小彩と馬車に乗り込み少し進んだところで、後ろから誰かの叫び声が聞こえた。
「おーい待て!止まれ!止まれ!」
後ろを見ると山代王が馬に乗りものすごいスピードで追いかけてきている。馬夫の合図で馬車はキキィーと大きな音を立てて止まった。
「や、山代王様⁉︎どうされたのですか?」
小彩が慌てて尋ねた。
「そなたの仕える女官に話があるのだ」
私が驚いて顔を向けると、山代王が嬉しそうに言った。
「次は一緒に馬に乗ろう。私が教えるゆえ、また遣いを出す。気をつけて帰られよ」
突然の誘いに驚き戸惑ったが、断る理由が見つからなくて静かにうなずいた。
「そうだ、そなた名はなんと申すのだ」
「燈花と申します」
「燈花…良い名だ」
山代王は微かに微笑むと、来た道を戻って行った。
今日もドキドキハラハラの一日だった。なぜこんなにも毎日がドラマチックに展開していくのだろうか?既に身も心もクタクタだ。帰りの道で小彩があれこれと小姑のように聞いてきたが、疲れ果てていて返事をする気力はなかった。馬車の大きな揺れも心地良くすぐに寝てしまった。
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