貴方色に染まる

浅葱

文字の大きさ
上 下
39 / 117
本編

39.再見

しおりを挟む
 北京の夏は日の出が早い。
 盛夏とも言えるこの頃、馬車に乗った時間はすでに東の空が明るくなってきていた。
 前日、翌朝が早いから紅夏ホンシャーの部屋に泊まるかなどととんでもないことを提案されたが、紅児ホンアールは丁重にお断りした。婚前に性行為をすることのタブーはないが、紅夏に抱かれたいと思うほど好きとはまだ思えなかったからだった。
 実際何事もなかったにしろ好奇の目にさらされることは避けたい。そうでなくても昨夜は質問責めにしようと手ぐすねを引いて待っていた侍女たちに、朝が早いからと遠慮してもらったのである。その分今夜は避けられそうもないのだが……。
 ふわぁ……とあくびをしかけて急いで口元に手を当てる。そんな紅児をすぐ横で紅夏が優しい眼差しで見つめていた。

「まだ眠いだろう。着くまで我にもたれているといい」

 頭を紅夏の肩にもたせかけられる。紅児は頬を染めた。

 これではまるで恋人同士のようではないか。

 けれど誰が見ているわけでもないし、逆らう理由も思い浮かばなかったので紅児は素直にその提案を受け入れることにした。
 そんなところがすでにほだされている証拠なのだが、鈍い紅児にはまだわかっていない。紅夏は内心ほくそ笑みながら紅児の髪を優しく撫でた。それが気持ちよかったのか、マーの家に行くまでの短時間に紅児は少し眠ってしまった。

「紅児、着いたぞ」

 耳元で心臓に悪いテナーで囁かれ、紅児は一気に覚醒した。

「あ、あああありがとうございます!」

 紅児は思わず耳を押さえた。一歩間違えば目覚める前に昇天してしまいそうだと思うほど紅夏の声は甘かった。
 顔は真っ赤だが仕方がない。気を取り直し紅夏にエスコートされて馬車を降りる。
 そこはバラックと言っていいほど粗末な家だった。馬の家だけではなく、そこら一帯の家が全てそんなかんじの造りである。道も一応敷石で舗装はされているが、いろいろな物が落ちていて進むのがたいへんそうに見えた。
 紅夏が家の扉を軽く叩くと中から馬が出てきた。

「お、ホントに来られたんですかい。ちょうどよかった」

 そう言って馬は一旦家の中に戻り、しばらくもしないうちに養父を伴って出てきた。

「……紅児」

 養父は紅児の姿を見て目を見開いた。

「おとっつぁん、ごめんなさい! どうしてもおとっつぁんの見送りをしたかったから、わがままを言って連れてきてもらったの!」

 紅児は否定の言葉を聞きたくなかったから、遮るようにして一気に言い、俯いた。
 養父の反応が怖くて、紅児は顔を上げることができない。養父はしばらく黙っていた。
 紅児は何を言われるのかとどきどきして心臓が壊れてしまいそうだと思った。
 その肩をそっと大きな手が抱く。顔を上げずともわかる。そんなことをするのは紅夏に違いなかった。

「……そうか」

 ぽつり、と言った科白はどうしてか泣いているように聞こえた。
 紅児は弾かれたように顔を上げる。
 養父が片手で顔を覆っていた。
 馬がそれを優しく笑んで見守っている。

「……おとっつぁん?」

 もしかして養父は泣いているのだろうか。おそるおそる声をかけると、養父は覆っていた手で顔を拭った。

「……だから嫌だったんじゃ。お前の顔を見たら、泣いちまいそうじゃったから」

 なんでもないことのように言う養父の目は赤い。

「おとっつぁん!!」

 紅児は思わず養父に駆け寄り、抱きついた。養父は少しよろけたが、それでも紅児をどうにか支えた。

「……全く、今生の別れでもないんじゃがなぁ……」

 そう呟く養父は、それでもきっともう二度と会えないことも覚悟しているのだろうということはわかった。

「そう、そうだよね……でも……」

 紅児もまた涙腺が決壊したようだった。後から後から涙が溢れてくる。

「寂しいよ」

 3年間支えてくれた養父母に会えなくなるのは、心にぽっかりと穴が空いてしまいそうなほど寂しい。
 素直に心情を吐露した紅児の背を、養父はぽんぽんと軽く叩いた。

「寂しいのはお互い様じゃ。ここに『思い』があるから、寂しいんじゃ」

 紅児は養父に抱きついたまま何度も何度も頷いた。

「参りましょう」

 紅夏に促され、養父は荷物をしょって馬車に乗り込んだ。

「お世話になります」

 長距離の馬車は行き先によっては1日に1便しか出ないこともある。紅児は申し訳ない気持ちになり俯いた。
 馬車の中で紅児は養父母たちが当座必要になるであろうお金を渡した。養父は難色を示したが紅児も引きさがらなかった。

「今まで迷惑かけ通しだったんだから、少しは親孝行をさせて!」

 と言ったら、養父は照れたように笑ってどうにか受け取ってくれた。
 金額がそれほど多くなかったというのも理由の一つかもしれない。残りは後日店に直接届けてもらうようすでにこっそり話は通してある。あまり大金を持たせて狙われてもかなわないし、それに金額が大きければ大きいほど受け取ってもらえないだろうと思ったからだった。
 馬車はそれほど経たず、目的地についた。
 長距離乗合馬車の乗り場は朝も早い時間だというのに活気づいていた。

「天津! 天津!」
「石家庄! 石家庄!」
「唐山! 唐山!」

 馬車の前で男たちが行き先を叫んでいる。その行き先を頼りに馬車を探すのだ。
 紅児は目立たないように頭に布を被り、養父に付き添っていた。

「ここまででええ」
「うん……」

 途中まで行く馬車も特定できたし、早く乗せないと人でいっぱいになってしまうだろう。
 わかっていてもいつまでも名残惜しく付いていく自分が紅児は嫌だった。

「おとっつぁん、元気で……」
「紅児もな。……紅夏様、紅児をどうかよろしくお願いします」

 少し離れたところで2人を見守っている紅夏に養父は声をかけた。
 喧騒に紛れて届かないだろうと思ったが、振り向いた紅児には紅夏が頷いたのが見えたような気がした。

「おっかさんによろしく!」
「ああ」

 養父が馬車に乗り込み、姿が見えなくなる。けれど紅児はその馬車が出発するまで離れたところでじっと見守っていた。
 いつまでもいつまでも。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

ぽっちゃりな私は妹に婚約者を取られましたが、嫁ぎ先での溺愛がとまりません~冷酷な伯爵様とは誰のこと?~

柊木 ひなき
恋愛
「メリーナ、お前との婚約を破棄する!」夜会の最中に婚約者の第一王子から婚約破棄を告げられ、妹からは馬鹿にされ、貴族達の笑い者になった。 その時、思い出したのだ。(私の前世、美容部員だった!)この体型、ドレス、確かにやばい!  この世界の美の基準は、スリム体型が前提。まずはダイエットを……え、もう次の結婚? お相手は、超絶美形の伯爵様!? からの溺愛!? なんで!? ※シリアス展開もわりとあります。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

処理中です...