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第二幕
第9話【まだあげ初めし前髪の】
しおりを挟む「おや、髪を結んだのですか?」
「ああ、鬱陶しくてな」
「言われてみれば、随分と伸びましたね」
前髪をてっぺんで結んで書き物をする姿に、思わず魅入った。伏せられた目元には長い睫毛が影を落とし、物憂げで哀愁の漂う色気がある。その髪型を初めて見た時、改めて君の美しさを知った。
それからも君は髪を切らず、やがて定着したそれをもて囃し、周囲が様々な髪飾りを贈り始めた。
「夕立さまー! これ、もらってください!」
「髪留め? もう腐るほどあるっつーの」
「月出が、〝近ごろ、夕立様が髪を結っていらっしゃるから作ったんだけど、僕なんかが畏れ多くて渡せないよぉ〟って言うから、代わりに俺が渡しにきました!」
「お前それ、声マネか? 俺に言うのもどうかしてるし、悪意が見えるぞ。聞いた感じじゃ絶対、丑生の独断だろ」
「えー? むしろ善意ですよー。恥ずかしがり屋の親友の代わりに恋文を渡す、みたいな感じです。頼まれてませんけど!」
「もういい、黙ってろ。月出が可哀想になってきた。これは受け取ってやるから、てめぇはもう先走るんじゃねぇぞ」
「はーい!」
律儀な彼は仏頂面をしつつ、断ることも捨てることもしない。そのうち、毎日変わる髪飾りを見るのが楽しみになった。
「夕立様ったら、いつも素敵な髪飾りをしてるわねぇ。髪、伸ばしてるの?」
「別に、面倒なだけだ。切りに行く時間もねぇしな」
「あらぁ、そうだったのね。あたしが切ってあげましょうか?」
鬼女とのそんなやり取りが聞こえてきて、酷く気分が悪くなる。その髪型が好きだというのもあったが、何より彼の綺麗な髪に触れられるのが厭だった。誰かが君を変えることが、厭で厭で仕方がなかった。
「気持ちはありがてぇが、このままでいい。切っちまったら、大量に押し付けられたモンが無駄になるしな」
「そーお? まぁ、この髪も似合ってるし、可愛いからいいけれど」
「可愛いは余計だ。それよりお前、こんな所で何してんだよ。仕事はどうした」
「やだわぁ、夕立様のお顔を見に来たに決まってるじゃないのぉ」
「俺に対して堂々とサボり宣言たぁ、いい度胸だな。玉藻に見つかる前にさっさと戻りやがれ」
「はぁーい。今度はご飯、一緒してね」
「分かった、分かった。はやく行け」
しっしっ、と追い払う真似をする彼の姿に安堵する。嫉妬と呼ぶにはまだ浅く、とろ火で炙られるような焦燥だ。
本人は気付いていないが、彼は男女問わず、人望や信頼を勝ち取ることに長けている。無愛想でぶっきらぼうで乱暴なくせに、世話焼きで素直で思いやりがある。彼は言葉ひとつで人を動かす、不思議な魅力を持っているのだ。
「おい、陀津羅。どうしたんだよ、ぼーっとして」
知らず見蕩れていた私へ、彼が声をかけてきた。
「ああ……いえ、何でもないです。どうしたんですか?」
「飲みに誘おうと思ったんだが、調子悪そうだな」
「いいえ、大丈夫です。行きましょう」
「ホントかよ。無理してねぇだろうな」
「本当ですよ。私も飲みたいと思ってましたから」
「そうか。じゃ、行こうぜ」
「ええ」
君は知らないのだろう。君がそんな誘いをかける相手がほんのひと握りで、それに含まれていることを、私がこんなにも喜んでいるなんて。
「お疲れ」
「お疲れ様」
涼やかな音を立ててグラスを合わせ、一日の激務を労い合う。その日の私の胸中は、君に選ばれた優越感と、少しの卑屈がせめぎ合っていた。酒の勢いもあり、私は酷く私らしくない発言をしたと思う。
「……私なんかと一緒で、良かったのかい?」
「なんかってなんだよ。俺が誘ったんじゃねぇか」
「だから、そのお誘いさ。昼間、衆合の獄卒に声かけられてたでしょ」
「ああ、あれか。いーんだよ。誰とメシ食おうが、俺の勝手だろ」
「それはそうなんだけれど……。いつも丑生や月出にねだられているし、お誘いも多いだろうなと思ってさ」
「あいつらのはもう挨拶みてぇなもんだし、昼はよく一緒に食ってる。夜は大体、いつも残業ばっかで時間合わねぇしな。お前くらいだろ、俺と同じ予定で動いてんの」
君はそうして、いつも望んだ以上の答えをくれる。だから私はつい、その無意識の好意に甘えてしまったのだ。
「……だったら尚更、毎日見ている顔では新鮮味に欠けるだろうに」
「やっぱり変だな、今日のお前」
胡乱な表情で眉をひそめる君に、しまったと思った時にはすでに遅かった。君は見ていないようでいて、相手が思うより遥かによく見ているタチなのだ。
「いや……いつも通りだよ」
「分かりやすい嘘つくんじゃねぇよ、めんどくせぇ。なにが言いてぇのかはっきりしろ」
「……私は、ただ……君に不釣り合いだと思ったのさ。君と過ごしたいと願う人は多いんだから、私なんかが独占するのは申し訳ないでしょう」
それを聞き届けた君は煙管を咥え、ゆるりと紫煙を吐いた。
「それを言うなら、お前と過ごしたいヤツらを俺が押し退けてるわけだが、俺は申し訳ないなんて微塵も思ってねぇぞ。だって、お前が俺を選んだんだからな」
不遜な顔で言う君の持論は強く、真っ直ぐで迷いがない。私はそれがたまらなく嬉しかった。思わずこぼれた吐息で酒が波紋を広げるのを見ながら、私は君の情けにすがる。
「分かったらそんなシケたツラしてねぇで食えよ、ほら」
口元へささげられる仙桃のひと切れと、君の優しい眼差しに、酔いつぶれてしまいそうな気がした。君がそう言うのなら、私は君の時間を思うがままに独占してやろうと思うのだ。
「この後は部屋へ戻るのかい? 良ければもう一軒どうかな。飲み足りないんだ」
「おお、良いぜ。じゃ、次の店はお前が──と、電話だ。ちょっと待ってろ」
「うん」
君は懐から振動する端末を取り出し、離れて行く。なにやら短いやり取りをして戻ってきた君は、すまなそうに眉尻を下げていた。
「……わりぃ、急ぎの用ができちまった」
「ああ、かまわないよ。また今度にしよう」
「おう。たまにはお前からも誘えよ。じゃあな」
「あ……うん、おやすみ」
ひらひらと手を振って遠ざかる君の背を見送りながら、残念な気持ちより最後の言葉に舞い上がる。言われてみれば、私から誘ったことは一度もなかったと気づき、優越感が込み上げた。思っていた以上に、私は他の人たちよりもずっと、君の特別だったのだ。
翌日、さっそく君を独占するために声をかけた。
「おはようございます、夕立」
「おー、陀津羅。昨日は途中で帰っちまって悪かったな」
「いえ、気にしないでください。ところで……」
眠そうに伸びをする君のうなじに、赤い痣を見た。滅多に約束をくつがえさない君が夕べ、後から入った予定を優先した理由は、それだったのかとようやく気づく。
やはり、私が君を独占することなど不可能だった。ずっと前から知っていたはずなのに、君があまりに優しくて、忘れたふりをしていた。赦された気になっていた。
「なんだ、今なんか言いかけなかったか?」
君からほのかに薫る白檀が、私の口を閉じさせる。
「浮かぬ顔じゃのう、陀津羅よ。どうかしたか」
より一層、濃く立ちのぼるそれが、私の心を押し込めて蓋をする。
「……いいえ、なんでもありません」
私はそうしてまた、見て見ぬふりをし続ける。君が君である限り、私が私である限り、きっとこの距離は永遠に縮まらない。
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