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8章【そんなに惚れ直させないで】

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 恋愛において、誰もが口にする『押して駄目なら引いてみろ』とはよく言ったものだと、ツカサは頭の片隅で思う。

 そんなことをしてしまっては、もしかするとカナタが誰かに盗られるかもしれない。
 ツカサが一歩引いたその瞬間に、カナタが『これ幸い』と離れてしまうかもしれないのだ。

 ならば、ツカサは行動するしかない。
 それでも、ツカサには正しい【押し】が分からなかった。


「変わらないでよ、カナちゃん……ッ。イヤだよ、カナちゃん……ッ!」


 ──裏切り者を、殺してしまえ。

 ──カナタに、嫌われたくない。

 同時には叶えられない願望が、ツカサの内側でグルグルと激しく渦巻いた。

 しかし、どこかまるで警鐘のように、内なる悪魔が囁く。

 ──『人間のフリをやめろ』と、甘く囁くのだ。


「う、ぅ……く、ゥ……ッ!」


 床に膝をつき、ツカサは頭を抱える。

 乱れることも気にせず、ツカサは何度も何度も頭を掻きむしった。


 * * *


 コンコンと、控えめなノックの音が聞こえた。
 顔を上げたツカサは、そこでようやく【いつの間にか深夜になっていた】と気付く。

 床に手をついて、なんとかバランスを保つ。
 立ち上がったツカサは、ゆっくりと鍵を開けた。
 そして、相手が誰かも確認せずに扉を開ける。

 ……そこに立っていたのは、カナタだった。


「……カナ、ちゃん」
「こんばんは、ツカサさん」


 どことなく不安そうな顔をしていたカナタが、ホッと安堵の息を吐く。


「えっと、ツカサさんがオレの部屋に来ないので。その、なんだか落ち着かなくて、ツカサさんになにかあったのかと思って……っ」


 夜になると、いつもツカサが会いに来てくれた。

 ツカサがそばにいることを、カナタは【当然のこと】として受け入れてくれている。
 それはツカサの存在を、カナタは【人生の一部】として受け入れてくれているという証拠だ。

 心にかかっていた靄が、優しい手つきで取り払われていくようで。
 ツカサは少しだけ、心を落ち着かせることができた。

 ──しかし。


「大丈夫ですか? なんだか、顔色が悪いですよ?」


 ──それは、一瞬だけだった。

 心配そうに覗き込むカナタの目に、ツカサが映る。

 もしもこのまま、カナタがこの部屋から出たとしたら。

 ──カナタはその目に、ツカサ以外の誰かを映すのだろう。

 そう考えた瞬間に、ツカサは──。


「うわ、っ!」


 ──即座に、ツカサはカナタの腕を引いた。

 そしてそのまま、ツカサはカナタの体を床に押し倒したのだ。


「いた……っ! ツ、ツカサさんっ? いったい──」


 戸惑うカナタを見下ろして、ツカサは叫ぶ。


「──カナちゃんの目玉、今すぐえぐり取らなくちゃ……ッ!」


 悪魔の囁きは、もう聞こえない。
 音を立てて近付いていたはずの鋭利な感情も、今ではもう近付いてくる気配がなかった。

 それも、そのはずで……。


「目玉をえぐれば、カナちゃんは誰のことも見ない。……そう、だ、舌。舌も引き抜こう……ッ。そうすれば、カナちゃんは誰とも話せなくなる。カナちゃんが、他人なんかに理解を求めなくなるんだ。そうだ、そうしよう。えぐって、引き抜いて、カナちゃんを守らなくちゃ……ッ。カナちゃんを守らなくちゃ、守らなくちゃ守らなくちゃ……ッ」


 ──ツカサは既に、自分とは別物だと思えないところにまで、悪魔と鋭利な感情の侵入を許してしまっていたのだから。
 



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