武士の娘

団 周五郎

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武士の娘

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  一
 富国強兵の明治から時代が大正に変わり、大正デモクラシー、女性解放といった言葉が井戸端でも囁かれた頃だ。女達は、これから私達も西洋のように自由に生きていけると期待に胸を膨らました。
 だが、男社会のこの国は、そう簡単に変わらない。女は相変わらず肩身の狭い思いをして生きたのである。
 大正七年の夏、札幌で北海道博覧会が開催された。人気が予想以上で運営事務局は安堵したのだが、大きな問題が発生していた。欧米からの招待客に英語ができて礼儀正しく対応出来る人材が少なかったのである。なんとかならないかと探していたところ、その要望に応えたのが札幌を代表する学校の札幌一中と札幌高等女学校だった。学校の推薦を受けてやってきたのが山中浩二と根本千代だ。
 二人は供に十六歳、浩二は札幌一中、千代は札幌高等女学校に通っていた。
 山中浩二の家は、代々続く医者の家系だ。子供の頃からネーティブの英語教育を受け外人と普通に話をすることが出来る。その上、両親から受け継いだ頭の回転の良さで一を聞けば十を知る能力があった。
 根本千代の家は元士族の家柄だ。父からは、「女の本懐は、男を出世させることにある」という武士の考えで、作法を厳しくしつけられていた。性格は奥ゆかしく優しい。そして日本女性の持つおもてなしの心を持っていた。
 丸顔でくっきりとした目、口角の上がった唇、お下げ髪でセーラ服姿が似合う千代が受付に立つと招待客の顔はほころんだ。浩二と千代は二人並んで受付に立つことになったが、来客のほとんどは、かわいくて笑顔の素敵な千代に話しかけてくる。かわいいだけでなく、しなやかなおもてなしのできる千代は評判になり事務局の大人達を大いに喜ばせた。
 しかし、その評判が千代を苦しめる。横で仕事をしている浩二の面目を潰しているのではないか、それが気になって仕方がなかったからだ。浩二を差し置いて自分ばかりが招待客に声をかけられることに戸惑っていた。
 しばらくすると、千代は受付に立つのをやめた。浩二の後ろで雑用の仕事ばかりをするようになったのだ。
 浩二が前面に出て、その後ろで千代が浩二の手伝いをする。二人で話をしたわけではないが、いつの間にかそれぞれの分担が決まっていった。
 お互いの関係にそれぞれが納得すれば仕事も楽しい。楽しくなれば二人の距離が縮まってゆく。浩二の後ろで目立たぬよう働く千代。
 招待客のいないときは、浩二にお茶や濡れタオルを用意した。見せかけの優しさではなく、心からの気配りに浩二の心が揺れ動く。いつの間にか、千代のことがたまらなく好きになっていたのであった。
 千代は恋をしたことがない。ただ流ちょうに英語を話す浩二に憧れた。
 夏の夕方、博覧会場が閉まった後だった。浩二は、会場の公園を歩こうと千代を誘った。男性からの誘いに千代は戸惑った。しかし首を振ることが出来ない。千代は浩二に誘われるまま公園の中を歩いた。
 次の日、浩二は、また千代を誘う。そして、これが何日も続いた。最初、浩二の話にうなずくだけだった千代も時が経つと自ら話もするようになった。それが二人の距離をさらに縮めた。
 夏も終わりに近づく頃、「千代さん」と浩二は呼ぶようになり、千代も浩二に諭され「浩二さん」と呼ぶようになっていた。
 日の落ちるのが早くなる。公園での二人の話は夕闇まで続いた。長い話に終わりが来たとき、辺りは真っ暗だった。
 ベンチの二人に微妙な空気が流れる。恋する女性がすぐ隣にいるのだ。浩二の心臓がうなりを上げた。喉が渇いて思わずつばを飲み込む。あらぬ事が頭の中を駆け巡る。打ち消しても、打ち消してもこみ上げてくる欲情。浩二の手がブルブルと震え出す。そしてその手が千代の肩の上に伸びていった。浩二の手が千代の肩に触れたとき、千代も胸の鼓動が破裂するくらいときめいた。今まで男性に対して面と向かって拒絶したことがない。男尊教育をたたき込まれた千代だ、どうして良いかわからずうつむくことしか出来なかった。肩に置いた浩二の手に力が入る。千代は浩二の胸の中に抱き寄せられた。肩をすくめ身を縮める千代。
 周りに誰がいても浩二はかまわなかった。目を閉じていた千代の唇の上に自分の唇を重ねた。千代は抵抗しなかった。それが女のあるべき姿だと思っていたからだ。浩二の腕の中ですべてを任せた。
 数日後、二人はついに男と女の関係にまで進んでいったのだ。
 交際していることを誰にもわからぬよう気をつけていた二人だったが、大人の目で二人をみればすぐにわかる。秋が深まった頃だ。二人の噂が浩二の家庭に飛び込んできた。
 受験を控えたこの時期に…… 母親は怒り、執拗に浩二を問い詰める。なんとしても真相を糾明し、浩二を学業に集中させねばならぬと考えたのだ。
 母親の厳しい責めに浩二が折れた。千代と交際をしていることを告白したのだ。話を聞いた母親は立ち上がり千代の家に駆け込んだ。
 千代の家は、父親が日露戦争で傷を負い五年前に死亡していた。母親は半年前にスペイン風邪で亡くなった。  
 千代だけが一人で家に暮らしていたのである。
「あなたが千代さんね。話は浩二から伺いました。今後は浩二に近づいてはなりません。浩二は医者になるべき義務があるのです。あなたとお付き合いしている時間などありません!」
 声を震わせて母親は語った。
「お母様、ほんとうに申し訳ありません。こんりんざい会わぬようにいたします」
 千代は、膝に手をあてて深々と頭を下げた。母親はキッと千代をにらみつけると何も言わずに帰っていった。
 次の日、「会いたい」と書いた浩二からの手紙が届いた。それだけではない。その後何通も浩二から手紙が届いたのだ。返事を書きたい! でも千代は書かなかった。出しても浩二の元に届くとは思えなかったからだ。浩二の体を受け入れて以来、浩二への千代の思いは浩二以上になっていた。
 せめてもう一度会って、強く抱き締めてほしい! それだけかなえばもう会えなくなってもかまわないと思うようになっていた。
  二
 思案のあげく、千代は子供の時から親身に考えてくれる祖母のもとを訪れた。祖母はしばらくぶりに見る千代を見て暖かく迎えた。
 祖母の優しいまなざしに、千代はすべてのことを話してしまうのである。
 静かに話を聞いてくれる祖母の前で、千代はあふれる涙を抑えることが出来なかった。
 次の日、祖母が首飾りを持って千代の前に現れた。
「おまえの望みは、もう一度だけ好きな殿方に会いたいと言うことじゃったのぉ。間違いはないか?」
「はい、せめて最後に一度だけ会えれば、満足です」
 千代の本心だった。
「この首飾りはガラシャの飾りと言って、苦難を乗り越えることができるお守りじゃ。苦難に向かい合ったとき、苦を乗り越えたいという思いを込めて数字の九を唱えるのじゃ。しかもそれを英語で言うことじゃ。そうすれば苦難が消えてしまうはずじゃ」
「苦を乗り越える? 英語で?」
「そうじゃ、ナインと唱え、へその上に手をあて祈るのじゃ。そうすれば願いはかなう。さぁ、これを持っておまえが好きになった殿方の元に行くがええ」
「でも、おばあさま、彼の両親が私を家の中に入れてくれません」
「心配はいらん。この飾りがすべてを解決してくれるはずじゃ」
「おばあさま、私、行ってみる!」
 千代は祖母から貰った飾りを首にかけて浩二の家に向かった。
 浩二の家の玄関に立ち、呼び鈴を鳴らすと、しばらくして玄関の引き戸が開いた。
「どちら様で? あら……」
 浩二の母親は、千代を見るなり形相が一変した。
「あ、あなた、うちに来てはならぬと申しつけたでしょ!」
 あまりの勢いに千代は二歩三歩後ろに下がる。
「は、はい。承知しております。でも……」
「浩二に会わせるわけにはいきません。今すぐ帰りなさい。警察を呼びますよ!」
 母親はこれ以上無い形相で千代をにらみつけた。
「ごめんなさい。でも…… もう一度、最後の最後にもう一度だけ……」
「浩二はあなたの顔など見たくないはず。早く帰りなさい!」
 母親は、帰ろうとしない千代を玄関から追い出そうと肩を押した。
 そのときだった。千代はついに運命の言葉を吐いたのだ。
「ナイン…… です」
 そして、へその上に手をあて願いを込めた。
「はぁ? ナインですって? 何がないの? おなかを押さえて…… アッ!」
 一を聞いて十を知るほど頭の回転の速い母親は、十どころか百まで先を推察した。半年後の千代の姿が脳裏に浮かんだのだ。母親は千代のおなかを見つめたまま、声が出なくなってしまったのである。
 そこに騒々しい玄関の様子に家の奥から父親が出てきた。
「君は何者だ!」
 若い女に見当がつかない父親が叫ぶ。母親は父親の耳元で事の顛末をささやいた。
「何~!」 
 母親の倍以上頭の回転の速い父親は、浩二の行く末、目の前の女の行く末までを案じてしまった。思いあぐねた父親は、しぶしぶ家の中から浩二を呼び出した。
「千代さん、千代さんじゃないか!」
 家から出てきた浩二の目が大きく見開いた。
 そして、思わず千代に駆け寄った。
「会いたかった。千代さん、もう離れたくない!」
 そばに父親と母親がいることも忘れ、浩二は千代を抱きしめた。
「浩二さん。私も会いたかった……」
 やっと会えた。そして抱きしめてもらった。思いのかなった千代の目頭が熱くなる。
「千代さん、もう僕は君を離さない!」
 思わず「はい」とうなずこうとした千代だったが、
「女の本懐は男を出世させることにある」
 と教えられた父親のしつけがそれを妨げた。浩二の言葉に初めてNOで返事したのである。
「いいえ、浩二さん。私、浩二さんには医学の道を歩んで欲しいのです。だからもう…… あなたにお会いできません。これが最後、会えてうれしかった…… さようなら」
 そう言うと千代は、浩二と浩二の両親に深々と頭を下げた。
 あふれ出そうになる涙に、
「流れるな、涙、心で止まれ」
 と自分に語りかけ、千代は浩二の家を去ったのであった。
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