虹の向こうへ

もりえつりんご

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第3章

 古い記憶と重なって

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 予期せぬ形の航海は、順調に進んだ。
 聞いたことのない鳥の声が頭上で響き、聞こえないはずの鐘の音を、恋しく思わずにはいられない。水平線に橙と朱の入り混じった線が点々と走り、白い光が波に乗ってゆらゆら揺れる。
 静の告げた通りの、夕暮れ刻。
 透火の金髪が朱に染まり、本来の色を忘れる時間帯だ。
 潮風が、汗ばんだ肌をじとりと撫でて、鼻腔に馴染まぬ香りを運ぶ。

「まだかな」

 透火は頬杖を付いて、甲板から芝蘭達の乗っている船を見ていた。
 芝蘭と占音、そして条件にあった透水を含めた要人が珠魔の船へ乗り、透火達は後追いという形で承和家の船で島へ向かった。当初の予定と異なる配置にはなったが、透火と銀の守護者の後追いは拒まれず、こうして到着に差が出ることもなく済んだのだから結果良しとする。
(心魔だから、か)
 想定していたよりも港は小さく、芝蘭達の乗っていた船の荷下ろしが終わるまでに時間が掛かっていた。
 透火達は沖で待機を命じられ、仕方なく、遠くからの見守りに徹している。魔法を使えば透火一人の上陸は容易いが、国交が途絶し、特別船しか行き来していない以上、目立つ行動は避けるべきである。
 何より、小さな港に通されたこと自体、透火達心魔が歓迎されていないことを指していた。やきもきすれど、大人しく従う外ない。
 教科書で見たことのある朱塗りの傘が、船から陸へ移動した。周囲の人数から、それが芝蘭の頭上を覆うものだと分かる。
(……やだなあ)
 芝蘭と会話をした時もそうだったのに、離れている方が一層、苛立ちに似た感情が沸き起こる。何故素通りされたのかは、今も理解出来ていない。問い詰めたいような、そうしてはいけないような微妙な不安が、ぴりぴりと毛羽立って透火の思考を制限していた。
 視線の先で、傘が傾く。珠魔の衣装は芝蘭に小さすぎたようで、手首や踝の無防備さが遠くからでも目に付く。
 白生地に黒帯で締め、夕日に煌めいて見えるから、宝石でも散りばめられているのだろう。足元の黒靴に模様はなく、皆の踵が低いこともあり、芝蘭自身の背の高さが際立つ。
 暑さと慣れぬ航海で疲弊していないかが心配で、気付けば身を乗り出していた。気遣うべきは己の身だと分かっていても、長年染み付いた癖はなかなか抑えられないようだった。

「暑い!」
「いたっ!」

 無防備な後頭部に、勢い良く何かがぶつかる。弾みで身体が海の方へ傾き、慌てて柵にしがみ付く。
 自然のものとは異なる空気の流れを首筋に感じて、頭上を見上げた。

「サン」
「暑いよトウカ。氷ちょうだい」

 ぱたぱたと透火の背中を尻尾で叩き、サンが顎を寄せる。鼻筋に生温い風を感じて、良いとは言えない感覚に透火は顔を顰めた。

「日が沈めば涼しくなるよ」
「今欲しいんだよ」

 猫を抱えるように両手で抱き上げ、向き合うように下ろす。厚い皮膚から体温は感じないが、サンの吐く息の熱さに思わず両腕を突っ張る。

「トウカ~」

 翼を羽ばたかせてサンは暑さを訴えるが、おかげで透火は涼しい。
 豪雪地帯に住処を持つ銀竜にとって、夏に入ったこの島は苦手とする場所そのものになる。
 航海中は水魔法で氷が作れる透火にせっついて体温を下げる努力をしていたサンだが、透火とて魔力が無尽蔵にあるわけではない。そう簡単に氷を作って渡すわけにもいかず、適当な間隔を置かないと氷を作らないということで話をつけていた。
「……仕方ないなあ」
 ──というのは表向きの理由で、透火とて暑さを我慢していることもあり、少しだけサンに意地悪をしたくなっただけであった。苦笑いの裏側で謝罪して、氷を二つ生成してやる。
 じきに、空も暗くなる。
 藍色から紺碧に色を変える空へ、氷を咥えてサンが飛び立つ。彼はどの道、上陸を許可されていない。
 今回は国同士、種族同士の動きだから、ヒトの命が保証されていれば、近くで見張る必要がないのだとも聞いている。臨機応変というには曖昧な判断基準で、銀の守護者より珠魔の方が規律に厳しく感じられた。
 後追いの船から上陸が許されているのは、透火だけだ。変わらず、芝蘭の護衛も日向と光河以外の許可が下りなかったというが、咎めることはできない。差別の加害者が心魔側である以上、下手に珠魔の気を荒立たせるわけにもいかないからだ。
 後方で開閉した扉に気付いて、透火は振り返り様に尋ねた。

「そういえば、オーリアさんは?」
「状況報告に行っておりますわ」

 夏に相応しい涼やかな声が漣に乗り、岩礁で弾ける。
 藍色に染まりゆく空を背に、年相応な格好のハークが立っている。白と青を基調にした丈の短いドレスは少女らしい丸みを作り、常の怜悧な雰囲気を視覚的に和らげていた。
 無表情ながらも夕日の影に飾られた顔は美しく、銀髪が穏やかな橙を受けて金色に輝く。今だけは彼女と同じ色を持てるのだと、嬉しさが胸の奥に咲いた。
 顔にかかる銀髪を手で掬い、耳にかけながらハークは言う。

「貴方達が共に行動するのなら、私一人でも対応できますもの」
「そうは言っても、上陸できないんだよね。どうするの」

 言外に職務放棄を仄めかす意味を込めると、視線をやや冷ややかにして、ハークが透火を見上げた。

「貴方は今回、基音として動かぬようなので」
「うん。そもそも、基音として動く気もないし」
「……それとは関係なく。私達から見て、王子に従う貴方の行動は、基音とは異なると定義できます」
「……そうかな?」

 逸らされた視線と言葉に意図を図りかねて、返答を避ける。白波に揺蕩う光を眺めて、波の音にしばし沈黙を委ねる。

「『透火』は、王子の為に動くのでしょう?」

 名を呼ばれたことに耳を疑い、言葉にされた本意に、心を切り付けられた。
 見つめた横顔は凛と澄ましていて、別れを告げる色に染まらぬ銀が月に映り込む。白光が海に消え、急激な夏の冷たさに鳥肌が立つ。答えなければと思う心と問い返したい心とが争い始めて、声が言葉を忘れてしまう。
『上陸準備、開始!』
 混乱する前に現実感を取り戻せたのは、魔石から放たれた声が光河のものだったからだ。

「あ……行かなきゃ、ごめん」

 返答できなかったことを詫びて、彼女の手の甲に口付けを落とす。表情の読めない白皙の顔を横目に、透火は彼女の隣を走り去った。
 上陸者の準備が済んだのは、それから一刻後のことだ。
 透火が上陸後、芝蘭のために用意された食事や衣類を纏めた積荷、交渉のための手土産を下ろし、準備は終了。兵士は当初の持ち場に戻り、透水は軍人達と共にハークと同じ船へ移動した。迎えが来てからの移動で揉めても困るので、早々に沖へ出航する必要があったのだ。
 海と陸とで手を振り合い、翌日の再会を願う。
 暗さを増していく港を、篝火が頼りなく照らしていた。

「待たせたな」

 船が沖で停泊した頃、迎えを呼びにいった占音が籠に乗って現れた。
 結われていた黒髪は留め具の一つも付けずに背中に流され、夜を司る神使のようだ。朱の着物には大きな華が雅に咲き、細かな模様と調和するように留めてある。胸元の紅玉──占音の心臓である魔石は見た目にも柔らかな布の上で存在を主張し、第三の瞳が開いたように鋭い光を湛えている。
 籠から出てきた時は、誰かと身構えたものだ。そのくらい、彼が別人に見えた。

「籠は基本的に一人乗りだ。順に乗れ」

 馬車で移動する心魔と違い、身体能力の高い珠魔は人力で移動する。用意されていた籠は、占音のものを含めて二つ。それぞれを四人が運び、警備らしい人間が前後に三人ずつ、合計十四名と少数の迎えだった。
 問答無用で芝蘭がその籠に入り、残りは徒歩で後に従う。
 灯りを頼りに珠魔の迎えを見渡すと、一人として同じ色を持つ者がいないことがわかる。桃髪や黄色髪はまだしも、黄緑や緑など植物と同じ色を持つ者は心魔には生まれない。肌の露出も多く、剥き出しの筋肉に目を奪われながら、透火はその上で魔石が輝くのを認めた。
 一人残らず、心臓に等しいその場所を見えるように衣装が調えられている。肩や肘、脇腹や太腿など場所は様々で、男女を問わず、引き締まった身体の上に生命の輝きを宿してる。
 季節だけが理由ではない。ここは、そういう文化のある場所なのだと、羞恥に赤くなりそうな頬を叩いて誤魔化した。
(そういえば、ソラとアマトはどうしたんだろ)
 周囲が突然の透火の行動に戸惑う中、透火の思考は別の方向へと飛んでいく。
 灯火の少ないこの道は、港から見て北の方向へ真っ直ぐに伸びている。左右には開けた土地が広がり、青々とした草が風に揺れて涼やかな音を立てていた。
 火月の住まう族長の館を中心に据え、西の入江へ扇を広げるような形で住居が並ぶと聞いている。陽の当たりが丁度良い南に農業区域が、山地の多い北には工業区域が敷かれていることは学園でも習った事項だ。
 海に囲まれた島の為、夜は海風が強く吹く。夜目のきく珠魔達は松明こそ邪魔だろうが、透火はいつ風で篝火が消えるかと内心ひやりとしていた。

「ツキカゲニナクヨルデスネ」
「ひっ」

 遠くに、篝火の焚かれた庭が見えた時だ。
 耳元で囁かれた片言の挨拶に、反射で手刀が出た。まずいと慌てた時には声の主に指先が届きそうで、勢いを去なせない透火の腕を別の手が押さえる。

「ふっふふ、驚かせてしまいました! ご機嫌よう、神の落とし子」

 透火の両手を身体の両側に戻してから、彼女はころころと笑う口元を裾で隠した。
 南部の花のような甘い香りが鼻に残る。浅葱色ほどに色素の薄い瞳がずいと透火の眼前に近寄り、瞬く間に離れた。猫のような珠魔だ。

呉藍くれないです。占音様と火月様に仕えています」

 胸を張り、彼女は夜の太陽よろしく笑顔を咲かせた。
 両耳の後ろに朱色の髪飾りがあり、灯りで橙に染まる翡翠の髪と上手く調和する。女性らしい曲線を着物の稜線で美しく視覚化し、腹部に輝く魔石と素肌を見せる。ひらひらと腰から広がる薄布の下には踊り子がよく着る雫型の下履きを合わせ、足首を晒していた。薄い布靴ながらも音を立てずに動くその所作は、透火達軍人にも勝る洗練さがある。

「……透火です、っ」

 にこにこと微笑んだまま話し出さない彼女に折れて、透火も名乗る。非公式の場とはいえ、上陸する者が少ないのだから、隠しても意味がないと考えた。
 後方を歩く警備の足が、透火の踵に当たった。背後を振り返る前に、呉藍が透火に肩を寄せる。

「覚えておりませんか? アナタのお世話係だったんですよ、わたし」
「そう、なんですか?」
「そうですよお。大きくなられましたねえ、透火様」

 慌てる透火の片手を掬い、呉藍が軽やかに歩き出す。占音の籠を通り過ぎ、籠の前方を担ぐ珠魔の隣に並ぶ。珠魔の中では背の高い方だろう、透火と同じ目線になる。

「嘘はいけません」

 短髪の男性が口を挟む。顔立ちがはっきりしている彼は、伸びやかな低い声で呉藍の次の一歩を止めた。

「共に遊んだ程度です」
「嘘じゃないのにー。あ、彼は二藍ふたあいです。わたしの弟なんですよお」
「へ、へえ……どうも」

 二人の間に挟まれ、一先ず半笑いを浮かべてやり過ごす。前方を歩いていた警備の一人が、透火を振り返った。
 背の低い女性の珠魔だ、と判断した脳が、記憶に合致する顔を脳裏に並べる。あ、と声を漏らした時には、彼女は既に前方を振り返っていた。
 アマトだ。髪色や顔立ちの印象が薄くて、直ぐに彼女と判別できなかったのだ。

「どうかしました?」
「あ、いえ。……紅茶のこと、伝え忘れたなって思って」
「透火様もお茶がお好きですか! 嬉しいなあ、わたしもなんですよお」

 呉藍との形ばかりの会話を繋ぎ、道中をやり過ごす。珠魔の中にも味方がいるとわかった途端、彼女にはぐらかされていた緊張が戻ってきたのだ。
 繋がれた手に、汗を感じる。
 どうして、今になって怯えるのか。降り積もった不安が形を得て溶け出すように、透火の表情が強張っていく。

「火月様も、喜びになられますね」
「これほどまでに似ていらっしゃるのならな」

 透火を挟んで交わされる会話の親しさが、肌を引っ掻く。喉に感情が引っかかって、相槌すら打てない。
 紫亜が言語統一を確立したことで、会話の齟齬は生じない。それが、逆にありありと周囲と透火の理解の差を見せつけていた。親しまれる謂れを頭で理解できても、実感として認識されない。
 星しか頼るもののいない道中が、ひどく心細い。
 やがて、透火にもそれとわかる景色が見えてきた。
 煌々と露営火が庭の中央で焚かれている。その向こうに左右対称に広がる、屋敷。心魔の土地で見るものと比べ、高さは無く、横に広い。裾の広い屋根の先端には飾り灯が提げてあり、近寄った虫が息絶えていく様子を見るに、虫除けの香が焚かれているのだと推察された。
 露営火の周囲には藺草で造られた座が四角形を作るように並べられ、上座だけ分厚い土台と小型のソファが用意されている。
 炎の向こう、時間帯と光源の為に飴色に染まった髪に光沢を乗せ、男性が佇んでいる。珠魔にしては珍しく眼鏡を掛けており、その瞳の色は光の反射で窺えない。
 後方で、籠の開く音がする。呉藍と二藍が、徐に膝を折った。

「透火」

 自分が先だと分かっていたからだろう、驚きを声に乗せて、芝蘭が透火を呼ぶ。

「透火?」

 訊き返したのは、人生の深みを識る、男性の掠れた声だった。
 透火と芝蘭が正反対の色の瞳を向けた先で、微笑みが咲く。

「これは驚いた。水月みづきによく似たな、透火」

 砂利を踏む音が響いた時には、二人の目の前に彼が立っている。
 身の丈は、透火より僅かに劣る。星の光と炎の影が、男性の顔立ちをはっきりと透火に示し、否が応でも彼が自分と血で繋がっているのだと思い知らせた。瑞々しさはなくとも、弛まず鍛え抜かれた身体を纏める皮膚は張りがあり、聞いていた年齢よりも若い印象を与える。黄土色と山吹色で整えた衣装は芝蘭と同じ型の物で、腰帯の朱色と金色が彼の上等さを質で証明していた。
 弟が年をとれば、きっと彼のような顔立ちになる。顔だけではない。五感に知らされる。血の繋がりの、気配を感じさせられる。

「……貴方が、」
「貴殿が、天星火月殿だな。夜分に失礼する」

 透火を庇うように、芝蘭が口火を切った。今更だが、透火達を家族として迎え入れた芝蘭にとって、火月達はどのように見えているのだろう。本当に今更、思い至った。
 あの時素通りしたのも、もしかして彼自身も不安を感じていたからではないのだろうか、と。

「ああ。そういう貴方は、青紫亜殿の息子、芝蘭殿だな」

 彼は、全身を着物で覆っていた。他の珠魔と違うのかと探る透火の視線の先で、彼の右手が鈍く光る。裾の短さに気付かなければ、透火は芝蘭の手を止められなかっただろう。
 握手を止めた透火に、火月が薄く微笑む。
 右手首の灰簾かいれん石を左手で押さえ、もう一度、火月が手を差し出した。

「よく物をっているようだ」

 手の大きさは、芝蘭と変わらない。子細を目で確認する透火を見て、握手のついでにと火月は自身の手首を掲げてみせる。ぴったりと隙間なく肌に吸い付いた金環が、手首の内側に埋め込まれたひし形と合体している。

「心配は要らない。私のこれは、金属魔石と魔法で制御しているからね」

 太い指先が指すのは、魔石の周囲を象る金属枠だ。
 金属魔石と称されるそれは、その名の通り見た目は金属とさして変わらぬ魔石である。土ないし風と属性は固定されるが、防護に長けた術式が嵌りやすく、心魔では盾に使用されることが多い。隠れているが、芝蘭の左手首に嵌められた金環も、その類である。

「それも含め、今夜はじっくりとお話を伺いたい」
「勿論だとも。どうやら遣いが貴方達を脅かしたようで。詫びにもならないが、熟れ時の果実を用意した。口に合えば良いが」

 火月は透火と芝蘭の背を支え、自ら席へと案内する。
 屋敷を背に占音と火月が並び、火月を挟んで反対側に芝蘭が座る。透火は占音の隣に着座させられ、日向と光河は芝蘭に近い辺に控えることとなった。空席と思われた場所には果実や楽器が置かれ、道中警備に当たった珠魔は、継続して庭の周囲に控える。呉藍と籠持ちの男性が一人、そしてアマトだけが、透火に近い側に席を持っていた。
 料理を台座に乗せ、召使らしき男女が、入れ替わり立ち替わり物を運んでくる。動きやすさと雅さを兼ね備えた派手な衣が多い。魔石の位置故に、大腿や腹部を大きく開いている女性もおり、透火は彼女達が通るたびに視線を逸らして失礼のないように努めた。

「音楽を」

 弦楽器の麗らかな音色が、夜空に響き渡る。
 どれもが初めての体験である。野宿でもないのに外で火を焚き、台座の上に皿が置かれ、一人分の食事量が決められている。肉は少なく、魚や山菜が主な食事は味付けが細やかで、上等な食事を摂ってきた芝蘭の舌も満足したようだ。会話をしながらも、食事の手は止まらない。
 酒や水は召使が細やかな気配りでもって空く前に満たされ、火月が言ったように、熟れた果実がそのまま台座に用意される。切り込みを入れられた皮を剥ぐと、甘い香りが汁とともに手の甲を伝い、陶器の皿の上に溢れた。

「桃か」

 毒味をした光河から果実を引き取り、芝蘭が声を弾ませる。
 皮の色がソニアと同じ色だとは思っていた。
 その果実とは思い至る前にすっかり食べきってしまい、透火はぼんやりと芯を見つめる。甘いのに後味は爽やかで、水気が多いから喉も潤う。掌ほどの大きさを一つ食べただけでしっかりとした食べ応えがあり、古典に登場する人物達が桃を重宝した理由が推察される。

「すみません、手巾を」

 乾くと糖分で手が汚れることだけが難点だが、濡らした手巾で拭けばなんてことはない。透火はすっかり気に入って、もう一つ桃を運んでもらった。

「透火は桃が好きか」
「あ、……美味しかったので」
「そうだろうそうだろう」

 親しげに何度も頷き笑う火月を見ていると、気の引ける思いを抱く自分が悪いように感じる。
 食事の開始から芝蘭との会話も親しげで、非公式の食事会ということを示してくれているのだろう。一番に酒を飲み、愉しんでいる。

「気にすんな」

 占音が菓子を分け与えるついでにと、声をかけてきた。
 掌に転がされた鞠のような焼き菓子だ。表面を固く焼いているようで、さくさくとした食感が顎と舌を楽しませる。笑い返すだけに留め、気を取り直して、新しい桃を剥いて食べることに集中した。
 食事の台が下げられ、あとは酒や茶を愉しむだけとなる頃合いで、二胡の響きに琴の調べが合わさった。鈴の音が、篝火の前で踊り出す。

「宴もたけなわ。味にご満足頂けた後は、我ら珠魔の音の結晶をご覧あそばせ」

 お辞儀をする呉藍の凛々しさに、目を見張る。人違いと疑うほどに表情がそぎ落とされ、演者としての気迫が漲っている。片手に開いた扇には鈴紐が二本備えられ、彼女が腕を動かす軌跡を音で描く。
 リン、と鈴の音がリズムを刻み、弦楽器の旋律に拍を付ける。
 その音が声だと気付いたのは、呉藍が透火の前に移動してきたからだ。古語だろう、古い音律が音楽に寄り添い、呉藍の独特な円みある声に馴染む。
 例えるなら、泡沫が弾ける音のようだ。名前にそぐわぬ白を帯びた、清らかながら生命の力に満ちた、人間の声。踊りと歌と音楽と。全身で音を成り立たせるような舞に、感嘆の息が溢れる。
 シャンと繊細な音とともに、透火の前に扇が開かれた。

手繰たぐり歌です」

 そう言って、呉藍の繊手が透火の手を取り、立ち上がらせる。リズムは変わらない。踊れということかと、芝蘭と占音に目配せをするも、芝蘭は火月に話しかけられ動けぬし、占音は面白がって黙っている。日向と光河に至っては、芝蘭ばかりを見て素知らぬ顔だ。
 温かい手が、透火の頬を掴んだ。耳の下を撫で、首筋をなぞると彼女は謡い上げる。

「 しろたへの 導く風に 雪が舞い 」

 音が、変わる。どういう仕組みか、鈴の音を鳴らさずに扇を振って、呉藍が透火の手を引く。聞き覚えの旋律は前奏を終えようとしていて、呉藍の視線が始まりを透火に教えてくれる。手繰り歌すら何かも分からないのに、何を思って誘導するのか。──一瞬だけ、その微笑みに違う誰かを視なければ、透火は困惑のまま、人形のように踊るしかなかっただろう。
 歌の始まりが訪れる。口をついて出たのは、初めの一小節。

「 月影に啼く 鳥が運んだ夢が咲く 」

 それは、いつか『彼女』が歌い聞かせてくれた、子守唄だった。

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