虹の向こうへ

もりえつりんご

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第2章

夜の異変

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 感情が暴走するまま走りに出た透火は、王城から塀内へ移動していた。
 敷地を囲む塀は一階が軍人専用の訓練場を兼ねており、幅も広く、壁は煉瓦を重ねて所々に登攀の練習用煉瓦が混ざっている。二階は戦のための武器設置場所となっており、遠距離射撃用の魔具や大砲が置かれていた。塀を一周するにはそれなりの時間を要するが、一定距離を置いて移動装置が設置されており、適当な間隔で正門や屋上に移動することが可能だ。
 冬の長い土地だ。氷点下になる環境での訓練など自殺に等しい。一方で、他種族と比べて寒さに強い性質を持つ心魔ならばこそ、いつ攻められようとすぐ動けるよう、そんな環境下でも身体を鍛えておく必要があるともいえる。そのための塀内訓練場だ。
 早朝というにはまだ早いのもあって、使用する者は透火以外誰もいない。
(……なんだよ、あれ)
 靴音を抑えて走りながら、薄暗い感情を胸中で形にする。もやもやとしたものが内腑の底に沈む。
(なんで俺も落ち着かないんだろ)
 慣れない状態に首を傾げながら、本調子ではないからかもしれない、と理由を挙げてみる。これまで冷静に対処してきた経験があるからこそ、今回の動揺に透火自身が驚いていた。
 従者を辞めて、基音になった。それだけのはずで、透火自身は何も変わっていない。

「……別に、なんでもないし……なあ?」

 走りながら呟いて、感情を削ぎ落とす。このまま考えても、思考の沼に落ちていくだけに思われた。
 一刻ほどして、通信機と移動魔石の置かれた小空間に出た。ここには階段も設けられていて、有事の際以外はそれを使うようになっている。
 新月の夜は過ぎ、三日月の時期なのか空は暗い。
 空には星が明滅し、次の朝を祝福していた。

「……?」

 風が吹いたか、木々の影が不自然に大きく揺れる。影の途切れた合間から反対側の塀が見えた。
(プラチナ?)
 その姿は、屋上にあった。
 暗い空を背景にくっきりとその外縁を示し、純白の制服が貴い光を帯びて目に写る。肩に小さな影を乗せ、筒のような物を宙に翳すのは、透火の監視役としてこの土地にやってきた銀の守護者プラチナガーディアンハーク・ジッバ・ラティ。
 同じ姿で静止していた彼女が首を振ると、小型の影がふわりと宙に浮かび、葉擦れの音とともに変容していく。
 透火の目にもはっきりと見える形でそれは蝙蝠の羽を備えた蜥蜴のような姿をとった。竜である。
 窓に近寄り、目を凝らす。
(なにをして……)
 二重に作られた窓枠に手をかけたところで、指先がチリと何かを感じ取った。
 途端、全身の毛が峙つ。
 刹那の変化に気付いた時、透火の耳にカタカタと床の上で震える小石の音が聞こえた。

「う、わ」

 次に起きたのは、地面の揺れだった。ドンと身体に響く音ともに揺れは激しくなり、肌を刺すような冷気の震えと足元からの揺れが透火の体勢を崩す。
 壁に手をついて透火は辺りを見渡す。

「え、えっ、な、なに」

 地が揺れるなど、聞いたことがない。
 煉瓦造りの塀はガタガタと恐ろしい音を室内に響かせ、震えている。造りは強固だが、地が震える経験などほとんどない土地の建物だ。いつ崩れるか知れたものではない。
 立ち続けるのも難しい振動に身の危険を感じた。
(外に、出ないと)
 よたつきながら壁を伝い、備え付けの魔石に魔力を込めた。
 一瞬で、凍てつく空気が透火を迎える。
 視界が開け、暗くなる。塀の屋上に移動したのだ。

「ふう……収まった、のかな」

 確りと踏みしめた床は微動だにせず、先ほどの異変が嘘のように感じる。
 城の様子はどうだろうかと塀から見てみるが、一見したところでは崩れたところはなさそうだ。あとは内部にいる多くの人が無事かどうか。再び塀内に戻り、通信魔石を使おうと階段に向かう。
 そこでふと違和感を覚えた。こんな時間に足元がよく見えるなんて、珍しい。
 空を見上げた透火の唇から、は、と白い吐息が溢れて凪に消える。

「……なに、」

 異変は、先程の地揺れだけではなかった。
 日が昇るには、まだ早い時間だ。それでも透火がそれをはっきりと見ることができるのは、紛れもなく日の光がそこにあったから。
 寒さで赤くなった指先が、橙色に塗られていく。
 空は、暗かった。その暗い空に、一つの太陽と一つの月が並ぶ。どちらも円形で、赤い炎を纏った太陽と青白い炎を纏う月の下には陽炎が揺れている。
 普通の太陽ではない。光があるのに影は出来ず、朝日のような暖かな光でもない。喩えるなら、突然現れた鏡の月のよう。

「月影が笑う夜だ」

 ばさりと音がして、靴音が背後に飛ぶ。
 見知った声に透火が振り返れば、銀の翼が陽を浴びながら閉じていくところだった。彼はそれに乗ってきたのだろう。当然といえば当然、彼は透火と同じく銀の守護者の監視を受ける者だ。
 漆黒の髪が弧を描く。精悍な肌は陽の光で赤みを増し、鴉の濡れ羽色の瞳が輝いていた。黒い外套が風にふわりと浮かび、細い脚が着地するとともに閉じていく。
 透火は彼を知っている。心配をする暇もなく助けてくれた、良き隣人だ。

「『月影に啼く夜』じゃなくて?」
「予言だからな」

 北に住む心魔の挨拶を唱えれば、無下にされる。続きを彼が言う前に、別の声が先を謳った。

「月影が笑う夜の後、地は怒り、空は哀しみ、海は楽を飲み込む……三人のヒトが目覚めると、穢れは目に見えて一層激しくなるといいます」

 彼の色が全て黒に結び付けられるように、彼女の色もまた、銀に結び付けることができる。
 毛先に近付くほど内側に弧を描く。青を帯びた銀に陽が混ざり、紫を帯びる。透火の見慣れた銀髪とは異なれど、彼女のそれもまた美しい銀糸のようだ。澄んだ瞳は空に溶ける海の色で、ハークよりも淡くおとなしい。
 極め付けの、彼女の白い額に煌めく菱形の魔石。翡翠に似た色味を持つそれは、小さな魔石を周囲に散りばめてなお、彼女の肌に馴染んで命を灯す。背はソニアより低く、ハークよりも高い。すらりとした痩身を白い制服で飾り、黒靴で影を踏む。
 透火の人生で二人目の銀の守護者だ。

「初めまして、基音。壱音の監視役を務めております、銀の守護者ナイシャ・レティ・オーリアです」

 例えるなら、清流の響きに近い。ハークのような怜悧さはなく、春のうららかさを歌う声だ。
 彼らの後ろで、銀竜が大きさを変えていく。

「はじめまして。それで、予言って何ですか?」

 言うべきことや聞きたいことはたくさんあるが、先ずは先ほどの現象について言及する。が、し、と人差し指を立ててナイシャが片目を閉じる。

「ナイシャ」

 合点が行く前に、凛とした声と翼の羽ばたきが透火の背後から飛んでくる。空で一回転し、着陸する大きな影。
 サンとハークだ。
 軽い身のこなしで竜の背から降り、ハークが透火に近寄る。

「こちらにいましたの」

 二人を同じ視界に入れて、ハークが絵画的な外見に対し、ナイシャは人間的に造詣の整った顔をしていることに気付いた。外見の基準でも設けられているのかと疑うほどに美しい守護者達は、先ほどこの地を襲った異変について詳しいようで落ち着いており、占音も黙って壁に凭れている。

「まあ、うん」
「プラチナ、彼からの連絡は?」

 透火の返事に被せてナイシャが問い、ハークは首を振る。

「まだですわ……南の方ですから、こちらまでの伝達に時間がかかるのでしょう。他の守護者との連絡はどうですの?」
「できていない。やっと貴女と通じたくらい」

 今度はナイシャが首を振り、相棒の竜と顔をあわせる。ハークの相棒サンと同じく、銀竜の額には虹色に輝く魔石がある。その色を持たない灰の瞳が、慰めるように柔らかな光をナイシャに向けた。

「貴女の感知能力だけが頼りだわ。夜」

 キュウ、と応える竜の尻尾が揺れる。末尾だけが古語なのをみるに、名前なのだろう。其々相棒への呼び名があるのだとぼんやり思いながら、透火はじっとナイシャを見ていた。
 不意に、目が合う。ハークよりも柔和な顔が一瞬で表情を失くした。

「君が、今代の基音ね」

 高く通る声はソニアよりも年長の艶を走らせており、鋭い視線は気の強さを思わせる。

「名乗ってませんでしたよね、名前は直井——」
「いいえ、結構です。私が貴方の名を呼ぶ事はありませんから」

 差し出した掌ごと、言葉で跳ね退けられた。
 鳩が豆鉄砲をくらった顔で口を閉ざした透火に背を向け、ナイシャは占音の方へ歩み寄る。

「壱音。お話があるのでしたら、ここで」
「お前達が離れてからな」
「ご随意に」

 それまで閉じていた片目を開いて、占音が念を押す。ナイシャは吐息一つで視線を受け流し、相棒に向かって頷いた。ポンと煙が溢れ、銀竜の姿が大型化する。

「監視しております、……くれっぐれも、お逃げになさらぬよう」

 素の彼女と思わせる年相応の態度で応じ、素早く相棒の背に乗って飛び立つ。
 同胞のそんな様子に驚いたのか、ハークがぱちりと瞬きをした。

「聞いてたな。お前もだ」

 黒曜石で貫くようにハークを見据え、占音が脅す。サンがハークを庇うように前に飛び出、直ぐさま大型化した。

「ふんだ!」

 ぷきゅう、と不可思議な音だか声だかで威嚇し、ハークを背に乗せるとサンが飛び立つ。二頭の竜が透火たちの頭上でぐるぐると旋回をする光景は、ある意味で異様だ。
 置いてきぼりにされていた透火は、ようやく占音と会話が出来る状態になったのだと気付いた。

「悪かったな。あんな形で基音にさせて」
「いや、それはもう気にしてない……というか、占音は大丈夫なの?」

 透火が紫亜と対峙したとき、彼は鎖で拘束されていたはずだ。見るからにひどく手荒な真似をされていたから、透火は助けに行かなくてはと考えていた。体調のせいで動けず、今日まで長引いてしまったけれど。
 透火の心配を慰めるように、占音が唇を綻ばせる。

「捕らえられはしたが、別になんてことはねえよ。取引も終わったしな。

 それより俺は、お前とまた会えて嬉しい」
 引き寄せられる。透火の肩に額を預けて、占音の太い腕が背中に回った。薄っぺらい透火の身体とは違う。全てが詰まったしっかりとした身体だ。
(あれ……)
 視界の端に流れる黒髪に、既視感を覚える。自然な抱擁に呆然としているうちに、彼の腕から解放された。
 晴れ晴れとした顔で、彼は言う。

「これからの話をしよう。まずは予言の話か」
「そう、それ。俺は聞いたこともないし、創生虹記そうせいこうきにも載ってないと思う」

 透火達の住まうこの世界は、緑紫と呼ばれる。
 創生虹記には緑紫の創造を担った空の神、そして空の神の造った三人のヒトについての記載があり、章を重ねるとヒトの働きや世界の穢れについて読むことができる。
 心魔の持つ創生虹記は絵本のような薄さで読みやすく、老若男女に親しまれているものの、国としての歴史の浅さから南の端までは信仰が行き渡っていないことが常識となっている。とはいえ、大陸の南側はかつて他種族との交流があったため、他種族の創生虹記なら信仰がそれなりにあるかもしれない。

「歴史的に考えて、心魔の創生虹記だけが新しい。誰かが意図的に作り替えたか、あるいは……まあいい、それはプラチナと一緒に調べてくれ。歪であれ、信仰があるなら問題はない。俺たちは予言を踏まえた上で動く必要があるだけだ」

 占音が語ることには、三人のヒトが次の空の神となるべく力に目覚めると、世界の穢れは加速するらしい。膨大な魔力の塊が地上に降り立つことで、緑紫の魔力の流れや均衡が変わっていくことが主な理由だという。銀の守護者がヒトの監視をする理由も、そこにある。

「さっきプラチナが言っていたように、『月影が笑う夜の後、地は怒り、空は哀しみ、海は楽を飲み込む』ってのが予言だ。今がその『月影が笑う夜』に当たる」
「さっきの揺れは?『地は怒り』じゃないの?」

 生まれて初めて感じた自然の脅威を思い出して、透火は尋ねる。占音は肩を竦めて首を横に振った。

「あんなのはただの『前触れ』だ。あれくらいの地震なんて俺らの島じゃよく起こる」
「ええ……嘘だろ」
「ほんとほんと。予言には期間が書いてないが、お前が目覚めて一週間と少しだろ? あまり余裕はないだろうな」

 あれが前触れだとしたら、本当に予言が実現した場合、心魔はどうなるのだろう。大陸育ちで寒さや雪には強けれど、地面の揺れには不慣れだ。土地によってはそれ以外の被害も出てくるはず。
『このままでは、大地は割れ、人間は空と海に呑み込まれると言われております』
 ハークが最初に説明していたことを思い出して、身震いした。予言が予言でなくなる度に、多くの命が消えていくかもしれない。
 世界の穢れとは、そういうものなのだ。

「それを防ぐには、」
「誰かが空の神になるか、三人のヒトが力を空に返すことが条件になる、らしい」
「……そう、なんだ」

 占音の口振りから銀の守護者から聞いた話なのだと推測がつく。後で透火もハークに確認しておこう。詳細がわからなければ、動きようがない。

「俺の目的は前に言った通りだ。覚えているよな?」
「……国王様の思惑を邪魔したいんだったよね」

 視線を明後日に向けて思い出す透火に、占音が苦笑いを浮かべる。

「えらく大雑把に言ってくれるな……まあそんなところだ。そして、それには多くの根回しが必要になる」

 右手の握りこぶしを透火の視線の高さまで掲げて、彼は人差し指を立てる。

「まず、俺とお前が手を組む。その上で、この国の王子と取引をする」
「芝蘭と?」

 思わぬ名前が挙がった。聞き返してから、紫亜に対抗する為かと考えが思い至る。
 けれど、取引の二文字が透火の油断を追い払った。たとえ占音の頼みであれ、芝蘭が不利を被る話ならこの話は無しにしてもらうしかない。

「何の契約をするつもり?」
「あいつはつい最近継承権を得たばかりだろ。指名つっても能力的には他の候補者の方が勝る。だから、俺があいつの参謀として配下に入る。あいつは俺の力と珠魔を助けることで新たな業績を得、この国に資源を齎す」
「……はあ?」

 突拍子な話にしか思えなかったが、占音は透火以上にこの国のことを把握した上でそれを提示しているようだった。

「王子は労働階級の人間を中心に支持を得ている。貧富の差はさほど激しくないが、衣食住の問題があるからだ。紫亜による貿易制限で商人は商売する物が限られているし、物流の流れは遅い。戦争で痩せた土地の回復ができないせいで、農家の生産量は上がらない。気候に適応した農産業の確立もできていない。それらの問題を全て解決する技術と知識を、珠魔は持っている」
「知識と技術を渡す代わりに、差別をなくせってこと……?」
「そういうこと。そして、珠魔の島や周辺の海域には魔石が多く埋まっている。俺たちは魔石を必要としないから、お互い都合が良いだろ?」

 心魔の人間は寒さに耐性があるが、生まれつき特定の魔法しか使えない。
 研究・開発によって数種の魔法が扱えるところまで幅が広がったが、簡易魔法以外はまだまだ魔具の値段が高く、貴族によっても差がある。
 魔具の価格が高いのは、魔石がそれだけ希少だからだ。原石に触れれば魔力の低い心魔は命を吸われるため、加工を重ねて魔具とすることで初めて使うことができる。
 だが、加工を施すことの可能な魔石自体の数が限られており、一層価値は上がっていた。

「占音の方に、利益はあるの?」

 心魔即ち芝蘭の方に利の多い話に聞こえて、怪しむ気持ちは拭えない。
 占音は半目になって二本目の指を立てた。

「取引が成立したなら、王子には珠魔の長と和解交渉を始めてもらう。基音であるお前と二人、こちらの島に話に来い。それが珠魔の長が提示した条件だ」

 国王と珠魔の長は、一時期、基音捜索の関係で交流があったという。それが訣別し、現在は国交が途絶した状態にある。
 その国交を復活させるために、息子である芝蘭に動けと言っているのだ。

「……だからそんな条件なの?」
「そうだ。羅魔の内戦は有名だが、珠魔だって規模が小さいだけで内部の対立がある。それも王子に収めてもらう」

 利益があるどころか、不利益の方が大きい。
 魔石という資源を得られるのは良いことだが、わざわざ国交のない土地に訪れ復活させるだけの意義があるとは思えない。内戦の話も、収めるためにどうしてわざわざ一国の王子が出る必要があるのか。長がいるというなら、どうしてその長は種族をまとめないのか。
 顎に手を当て、話を整理する。そういえば、可笑しな条件があった。

「占音が参謀に、ってどういうこと?」

 塀の端に腰掛け、占音が俯く。春を運ぶ風が、艶やかな黒髪を闇に流した。
 空は変わらず夜明けを待ち望み、月と太陽がゆっくりと地平線に近づいていく。

「黒髪黒目に、紅玉。この国でお前の特徴が特別なように、俺の種族にとって俺の持つ色は特別なんだ。珠魔の宝とも呼ばれるくらいには重要で……分かりやすく言や、お前にとっての王子みたいなもんだ」

 要するに、種族にとって最も尊い宝を差し出す代わりに種族を救って欲しいのだと、そんな風に聞こえた。
 ところで、透火にとって占音は、まだ知り合って間もないにも関わらず、それなりに実力のある有能な人間に見えている。紫亜とエドヴァルドに捕まえられておきながら、大きな怪我もなくこうして透火の前に立っていることがなによりの理由だった。
 だからこそ、有能な彼ですら頼るほど芝蘭には人望や期待といったものがあるのかと錯覚して気分が良くなった。

「……それに、俺は紫亜に引き取られて育った。公にされていないだけで継承権は持っているし、能力の高さと脚の軽さならお前を勝る自信もある」

 無論、それは気の所為どころかただの自惚れに他ならない。
 驚いて声も出ない透火に対し、占音は髪を弄りながら続きを話す。

「お前と同じくらい、俺はここにいた。学んだことは多い。王子が動けないことだって俺は動くように言われ、秘密裏に事を収めてきた。あの王子が今持っていない、だが、今後確実に必要になってくる役目を担えると俺は思う」

 透火の呆然とした顔を見て、占音はゆるく手を振った。

「まあ、んな話はいい。珠魔を救ってくれるっつーなら、最大限の力で王子を助けよう。そういう取引をしようとしているってことな。次、最終目標だが」
「待ってよ。芝蘭が乗らなければ、そんな作戦、無理じゃん」
「乗るよ、あいつは」

 間髪入れず返された言葉に、踏み出しかけた足がたたらを踏む。
 闇をも飲み込む二つの黒が、透火の月の瞳に写る。
 逸らせない。拒めない。
 透火はこの感覚に覚えがあった。たったの、一度きりだけれど。

「なんでそんな、自信を持って言えるんだ……?」

 問い返せば、占音は少し困ったように笑い、肩を竦めた。

「お前ならそのうち、嫌でもわかるよ」
「……変なの」

 わけの分からなさに、透火も思わず笑いが溢れる。
 上に立つために教育された人間は、それ故に人を惹きつけるという。透火はそういう力に弱いのか、理由もないのにすっかり占音を信用していた。彼の言う通りに、なるような気がした。
 どの道、彼らの話がうまく行けば、互いに好都合なのだ。透火が口を挟む話ではない。
 上空で監視を続ける銀の守護者を見上げながら、占音が口を開く。

「最終的に始音と交渉し、和解することが理想だ。けど、始音が引き継ぎである以上、難しいと見た方がいいだろ。
 実力行使にはなるが、殺さないこと、魔力の授受を防ぐことで形式上の和解を取り成すことはできるから、俺はその方針で今後動きたい」
「……そう」

 この場にいない代表を思って透火の視線が下に落ちる。
 前回のヒトの戦いは、熾烈を極めたという。
 戦火や戦績しか記録は残っていないが、それがきっかけで占音達の種族が多大な被害を被ったことを考えれば、前代基音に負けた始音も同様の痛手を負ったと考えて問題はないだろう。

「俺はこのくだらない争いに乗るつもりはないし、後世に引き継ぐつもりもない。だから、創生虹記の流れを汲もうとする動き全てを阻止する」

 彼は以前、紫亜が彼らの種族を虐げ、基音を空の神にすることを目論んでいると言った。差別化がこの争いを加速させる理由になることは明白だ。透火とて、それは避けたい事項である。

「そのための一歩に、王子を使いたい」
「占音」

 相槌を打って頷いていた透火だったが、言葉の締めに敏感に反応した。占音の胸倉を掴んで、引き寄せる。身長差のある二人だ、透火に引っ張られて占音の踵が浮く。

「言い方が悪い」
「っ、うるせえ」

 珍しく、透火が彼と話している中では初めて、占音の反応が遅れた。透火の手を素早く振り払い、彼は再び塀の端に逃げる。

「撤回してよ。俺はお前に賛成するけど、それだけは嫌だ」
「それはあいつ次第だ」
「……」

 突っ撥ねる占音に対してむくれていると、視界の端に城内の光がちらつく。先程の地揺れの被害を確認しているのだ。
 いつの間にか、塀の下には篝火が焚かれていた。
 それを見下ろしながら、占音が片手を腰に当てる。
遠い橙色の光が、彼の黒を、服の紅を、妖しく闇に浮かび上がらせる。

「大体の方針は伝えた。お前が望む望まないに関わらず、俺はいずれ王子と接触するから。お前と動くのは、それからになる」

 綺麗な横顔が空を見上げ、それから森の方を見た。

「最後に。珠魔の方で不穏な動きが出ているらしい。この国の裕福な人間を連れ去って人質にし、要求を呑ませようとするとか……くだらねえが、そんな真似をされて俺の分が悪くなるのは困る。こちらでも気をつけるが、お前も気を付けろ。特に、王子の出席する夜会には気を付けておけ」

 塀の手摺に登り、占音が透火の身長を越える。
 どうするつもりなのだろう、嫌な予感がする。

「お前に連絡したい時は、どうすればいい?」

 忠告をくれた占音に近寄り、手を差し出した。
 その掌には、翡翠色の魔石を嵌めた耳飾りが乗っている。城内では常に携帯を欠かさない、透火だけの通信魔石だ。芝蘭にも渡していない貴重な魔具を占音に渡そうと思ったのは、彼が透火にとって唯一の同志からかもしれない。
 壱音と、基音と。立場こそ異なれど、それぞれの持つ意味は同等、対等だ。

「……なら、これをお前にやるよ」

 厚い掌に渡すと、占音はそれを耳に付けてから、髪の毛を一本、プツリと引き抜いた。
 彼が掌を返すと一枚の札に変わる。芝蘭がよく使う術符と形が似ていた。
 それを受け取り、指の腹でなぞる。

「破るなよ。じゃあな」
「うん。ありがと」
「……またな」

 名残惜しげに占音の指が透火の掌を擦る。
 抱擁といい、彼らの種族の挨拶なのだろうか。分からないので、励ますように笑うと、占音は森の方に去っていった。
 そのまま見守っていると、見覚えのある外套が二つ後を追って森に消えた。ソラとアマトだ。負傷していた記憶があるが、あの様子なら大丈夫なのかな、と彼らの消えた方向に背を向ける。
 月と太陽はいつまでも等間隔に離れて並び、けれどどちらかが消えることはなく、静かに地に飲まれていく。反対の方角から空が白澄んできた。
 朝だ。
 薄明の空に少しずつ本物の太陽が顔を出す。
 透火もそろそろ戻らねばならない。
 城内は今頃さっきの地震の話で持ちきりだろう。芝蘭はよく眠れただろうか。あの従者がうまく誘導してくれていればいいけれど。
 透水にも連絡をして、無事かどうか確認をしなければ。部屋で一人、怯えているかもしれないから。
(さっきは全然、考えてなかったなあ……)
 当たり前に思ってきたことが、少しずつ、当たり前ではなくなっていくような心地がする。
 それは、透火が基音になったからこその変化なのかもしれないが、あまり良くない変化に思われる。自分のことだけで頭がいっぱいにならぬよう、気を引き締めて行かないといけない。
 もう戻れぬ昨日を思いながら、透火は頭上で待つハークとサンに手を振った。二頭の竜が主人を乗せ、ゆっくりと降下する。
 朝日を纏う銀竜の姿は、神秘的で眩しい。

「あーっ! 勝手に逃がさないでもらえます!?」

 凛々しい女性の声が早朝の空に響き渡ったのは、それからもう少し時間が経った後の話。
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