in Cells ~花眠病~

もりえつりんご

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残花

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※このお話は、本編より少し前の時間軸になります。






 泣いた後の笑顔が美しいことを、瑤子ようこだけが知らない。





「ねえねえ、水野ちゃん。夜桜観に行こうよ、二条城の」

 日依ひよりがそんなことを言い出したのは、卒業式も終わり、退出の順番を待っている時だった。
 涙ながらに抱擁し合う、同期らしい学生の横から離れて、瑤子はパイプ椅子から立ち上がる。
 学部生の時に袴を着たからと、瑤子はパンツスーツにポニーテール。日依は、淡紅色の柄を載せた浅葱色の着物と、深緑の袴。あまりに自分たちらしい格好に二人、笑いを決めたのがつい一時間ほど前。理事長挨拶よりも退出までの時間が長いのは伝統で、参加しない卒業生もいるほどだ。
 日依はセミロングの髪を結ばず、サイドに三つ編みを作り、片方だけに簪を差していた。歩く度に揺れる蜻蛉玉が可愛い。確か、母親が着付けをしてくれるのだと言っていたから、髪型もお手製なのだろう。他の子と違って片付けなりなんなり、気にする必要がないのかもしれない。

「えーっと……ゼミの打ち上げもないし、他の子達は専攻の飲みがあるって言ってたし……いいよいいよ」

 端末を弄りながら人の波に乗り、エスカレーターへ向かう。先を歩く日依に答えて近寄ると、花の香りがした。

「んでもさ、京都は桜咲くの、まだじゃない?」
「ふふふ、さては水野ちゃん、二条城は初めてだね?」

 振り返った顔はにんまりと歪んでいて、ええ…、と戸惑いの声が漏れる。桜なんて、どこでも同じように咲くもんじゃないのか。梅も見られるとかそういう話かな。
 考えながら、記念撮影に耽る院生達の間を縫って、バス停へ。向かいのチェーン店から漂う珈琲の誘惑を余所に、気になった瑤子は、端末で早速、検索をした。
 四季に思いを馳せることが少ないせいで、六年も京都に居るのに、瑤子はそういった行事に疎いのだ。

「あっダメダメ! 行ってからのお楽しみだよ」

 日依が慌てて瑤子の端末に手を伸ばし、画面を落とす。ブラックアウトした画面に、眉をハの字にした瑤子の顔が写った。

「そう言われると気になる~。ポスター貼ってないかなあ、バス……」
「この時期だもん、大学の宣伝が多いかもねえ」

 言っている間に、バス到着までの時間が一分、減る。
 終わりと始まりの儀式。そう呼ばれる卒業式というものを、瑤子は好きではない。
 泣けないし、ぶっちゃけ今の世の中、どこに行こうと行きたいと思えばいけるのだから、別れは悲しいものじゃなくなった。でも、時間なり家族なりの制約が増えていくと、きっとそうは言っていられなくなって、最後には頭を使わないこんな式が救いになったりするのだろう。
 そんなふうに考えていないと、残り少ない卒業式に何の意味も見出せなくなりそうだ。
 一つバスを見送って、大学前を通るバスに乗り込む。バスに乗車する隙間、入り込んだ春の風に、瑤子は肩を竦めた。

「見ちゃダメだよ」
「見ないよ」

 特別感のない会話とともに、バスのドアが閉まる。
(まあ、まだ四年はここにいるもんね)
 揺れて進むバスの中、瑤子は知らず、口元に微笑みを浮かべていた。





 かくして、日依と瑤子の夜桜観賞は始まった。
 二条城へは二◯六系統のバスに乗って三条河原町へ向かうか、京阪電車に乗って地下鉄三条駅まで向かうのが主流だ。三条にさえ出れば、あとは地下鉄で最寄りの駅まで辿り着ける。自転車でもいけなくはないが、こんな佳き日にわざわざ苦労する必要もあるまい。
 大学から近く、日依が移動しやすいようにと、二人は研究室への挨拶を終えてすぐ、京阪に乗った。
 電車に乗ること二分。一駅の所要時間など、高が知れている。

「なんやかんやで夕方か。何時から入れるの?」

 卒業式、退社、卒業旅行や老後の観光などなど、様々な理由で多くの人が交通を利用する。騒めき、人の密度の濃い三条駅で、二人は乗り換えの通路の前で立ち止まった。
 ここから二条城までは、電車で十分かそこら。向こうについても、夜桜というにはまだ明るい時間なのは確実だった。

「暗くなってからが綺麗なんだよねえ。夜ご飯がてらカフェに寄らない?」
「いいよー。卒業祝いで奮発しよ!」
「あ、いいねえ」

 握り拳を振り上げた瑤子の背に、日依が続く。階段を上って、三条大橋の手前に出た。
 咲き始めた桜の花びらが、オレンジ色の鴨川に映える。夕日を背に立ち止まる観光客を避けて、瑤子たちは橋を渡ってすぐにあるレストランに入った。蕎麦や茶漬け、和定食の盛り付けがお洒落な二階建てのそこは、町家のように細く狭く、奥まっている。
 袴だからと、二人は一階奥のテーブル席に案内された。
 通路を挟んだ向こうには小さな石庭があり、カコン、と竹筒が音を鳴らす。
 瑤子は茶蕎麦を、日依は白魚のお茶漬けを頼み、料理が来るまでの間、式前に撮った友人知人との写真を見せ合った。

「後輩との写真って、すごいねえ」
「サークルだからねえ。ひよりんの友達は上品だねー」

 国籍問わず、時代を問わず。昔から二次元から三次元までのありとあらゆる登場人物になって卒業することが許される本学だ。日依と一緒に写真を撮った人物はみな、スーツと袴以外の格好をしていた。瑤子のお気に入りはアオザイというベトナムの衣装を着た彼女で、日本人とは思えないスタイルの良さと白の上品さが素敵だった。
 端末を脇に避け、水を飲む。

「お金足りないから、もう新歓には行かないけどさ。大学でも後輩がいるって、良いよね」
「……そうだねえ」

 高校までと違い、大学では、望まなければ、人の繋がりも発展も、何もない。論文や数多くの書籍と向き合っているのも悪くはないが、そんなものはこれから嫌という程続けていくのだと知っていた瑤子は、学部の間は、サークルや同期との繋がりを優先して過ごした。その延長線で、院生になっても交流が続き、今に至る。
 SNSの通知が来た。後でいいか、と視線を上げる。
 笑顔の日依と、目が合った。

「なに?」
「ううん。水野ちゃん、良いお姉さんって感じだもんなあって思ってたの」
「そうかねえ」

 からん。日依の手元で氷が溶ける。

「水野ちゃんは、すごいね」
「何が?」
「大学来たから、もう良いやって思っちゃうもん。私。友達と先生がいたら、良いかなーって」

 大学時代がモラトリアムと呼ばれなくなって久しい。現代において人との交流は、その後の人生に大きく影響する。オンラインでもオフラインでも構わない。如何に人と出会い、交流し、何を生み出し、心に残すか。自分が何を考えて、何を成したか。
 幼い頃から、外に発信することを当たり前にされてきた。だから、日依の閉じていく発想は馴染みがなく、瑤子は苦笑で細かい意見を封じる。

「ひよりんだって、友達たくさんいるじゃん。年の差があるかないかだって」
「……水野ちゃんくらいだよ。そんな風に言ってくれるの」

 ふ、と微笑んで、日依が欠伸を咬み殺す。慣れない袴姿に、移動に式に、疲れが出てきたのかもしれない。
 やっぱり、今日は休んで、明日にしない?
 そう言おうとしたところで料理がきて、美味しい美味しいと話しているうちに、そんな考えはどこかに飛んでいってしまった。




 長蛇の列をお喋りと端末弄りで乗り越え、瑤子たちが二条城に入ったのは、すっかり日も暮れた頃だった。
 暗がりを照らすのは、桜の形をした柔らかな光。水面を歩いているように、人が歩を進めるたびに揺れ動き、はらりと溢れ、隙間を鯉が泳いでいく。
 順路通りに進んでいくと、下から淡い光に照らされた桜が見えてくる。八重、ソメイヨシノ、看板を隣に並べ、蕾と花を付けた桜は、人の手の届かない場所で美しく開き始めていた。繊細な桜の木は、人の手が触れたり、枝を引っ張られたりするだけでもストレスになるという。植物は等しくそう言うものだと知っているから、遠目の美しさを堪能する。

「水野ちゃん、水野ちゃん」
「はっ! なんだいひよりん」
「プロジェクションマッピング始まるよ。ほらほら、眼鏡」

 VRの技術が安価になって、光を使った芸術は躍進した。入り口でチケット代わりに渡されたグラスを掛けると、途端にそこは二次元と三次元の狭間になる。
 まだ開花していないはずの、桜の花が開いていく。夜露が伝い、落ちていく。ピアノの旋律と和楽器の親しみあるリズムに合わせて、南に向く城門の上を鳳凰が飛ぶ。色褪せた城門に光が宿り、桜の花びらを見上げて過ごす昔の人たちの姿があちらこちらに現れていく。
 端末を眺めていた人が、画面に落ちてきた花弁に呼ばれて、見上げた。
 歓声が起こる。現実にいない彼らが桜吹雪に呑まれ、桜の木が顔を出す。

「桜に埋もれそう」

 ポツリと零せば、日依が直ぐ前で肩を震わせた。グラスを外して、振り返る。

「香りがすごいね」

 桜が似合う子だなあと、感動した。肩や胸から下は桜に隠れ、振り向き美人よろしく、化粧や髪留めで整えた外見は、この暗がりでもほのかに光を帯びる。風が吹く。花弁と日依で、視界がいっぱいになる。
 なんだか守ってあげないといけない気がして、スーツなのをいいことに、瑤子は日依の少し前に進み出た。音が引いていくにつれ、人の波に動きが生まれる。

「足元、気を付けて」
「水野ちゃん、かっこいー」
「でしょ。もっと言って言って」

 流れに乗ってグラスを返し、その先の門を潜る。
 桜の咲く庭に出た。ここが、メインの観賞場らしい。
 人だかりが一番酷く、桜の数も多い。開花時期よりも前だからか、満開の枝にばかり人が集まって、空いているところが蕾なのだとすぐ分かる。
 手を引いて、瑤子は蕾の方を選んで歩いた。

「蕾だって可愛いのに」
「しょうがないよ。みんな、桜の花びらを見にきたんだもん」
「入り口でも仮想バーチャルでも観たってのに」
現実リアルがいいんだよ」
「そんなもん?」

 手持ちの巾着袋に、日依が片手を入れる。その僅かな間に、瑤子は自分の言葉を悔やんだ。
 夜桜は綺麗だった。でも、瑤子がそう思ったのは、実際の、枝葉を伸ばす桜にだけだ。
 体験は、嘘ではない。オマージュも文化的には重要なはずで、だから桜の光やVRなんてものが桜観賞に採用される。すごいなと思った。いいな、ワクワクするな、なんて言葉で表す感情が、確かにそこには在ったのに。
 人の欲とでも言えばいいのだろうか。全てを満たしてもなお、満足には届かない。
 人の手で創り出したものだと思った途端、手品のタネを見てしまったような、そんな気持ちになってしまう。

「写真撮ろ」

 日依が端末を前に掲げる。肩を寄せて、笑顔をパシャリ。
 この一瞬だって、誰とも重ならない大事なものだと瑤子は思うのだ。
 思うけど、言葉にはならない。言葉にできない。
 唐突に、瑤子は自分の矛盾を見つけてしまった。

「……水野ちゃん?」

 自然に伸ばされてきた手に頬を拭われて、びっくりする。
 それから、気付いた。
 泣いていた。

「なん、なんでもない。えっ、なんで?」
「大丈夫だよ、こっち、そんなに人居ないから」

 慌てて袖で顔を拭うと、真っ白い袖が化粧で汚れた。そんなに涙が出ていることにも、自分が誰かの前で泣いていることにも、瑤子は戸惑う。
 雫は手の甲を伝って、地面に落ちる。砂に吸い込まれて、花のような靄を作る。

「夜桜ってさ、なんでこんなに、綺麗なんだろうねえ」

 日依に手を引かれながら、桜を見上げる。
 香りが、淡い色の花弁が、ビクともしない木の幹が、変わることない美しさをそこに存在させる。

「……わかんないよ、なんでかなんて」
「そうだよねえ。……でも、なんでかな、心が引っ張られるんだよね」
「なにそれ、変なの」
「そんなもんだよ~、人間の心なんて」

 洟声はなごえで返して、ハンカチで濡れた跡を拭う。
 日依が瑤子を見上げて、ふふ、と笑う。妙に達観したことを話すのは、泣いたことに触れられたくない瑶子を気遣ってのことだろう。
 沈黙に全てを流して、瑶子も顔の緊張を解く。
 一瞬の感覚は、刹那だからこそ、意味がある。明日には茶化してしまうかもしれないこの時間も、気付いてしまった今だけは、思うままに味わってもいいはずだ。
 誘ってくれてありがとう。泣いても嫌な顔せず居てくれてありがとう。
 一緒に、桜を見てくれて、ありがとう。
 そんな想いを、久しぶりに実感した。

「そーね、……綺麗だなって思う気持ちは、わからんでもないかも」

 力の抜けた声に想いが紛れて、夜桜の影に落ちていく。
 




 泣いた後の笑顔が美しいことを、瑤子だけが、知らない。



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