in Cells ~花眠病~

もりえつりんご

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part.5 Reviewer -2

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 コポポと呑気な泡を立てて、茶色い液体が渦を巻く。ぽた、ぽたと硝子の容器に雫を垂らして、汐梨の手元から芳しい香りが沸き立つ。
「お疲れ様、水野さん。よく時間を稼いでくれたわ」
 長卓に突っ伏していた瑤子は、優しい言葉掛けに感動して、気合を入れて上体を起こした。一番の苦労者は汐梨に他ならないのに、役者を演じた瑤子を労わり、卒なく珈琲まで注いでくれる。両手を組み、感謝というよりは祈るように、瑤子は汐梨に泣き付いた。
「こちらこそ~! ありがとう浅香さん。喋っちゃいそうだった!」
「危ない危ない。よかったわ、変だなって思って」
 ほれ、と淹れ直された珈琲を両手で受け取り、緩むままに涙腺を解放する。
 ──一先ずの安堵と安心が得られたのは、間違いなく汐梨のお陰だった。
 福永宙の来訪は、瑤子に少なくない衝撃を与えた。アポイントの記憶も無ければ、わざわざアクセスされるほどの経歴も未だ無い。そんな瑤子を尋ねる人物など、こちらからしてみれば怪しい以外の何者でもないからだ。加えて、香椎研究室では、院生はもれなく個人の面談や話し合いのために部外者を研究室に呼ぶことを禁じられており、研究関連で人を呼ぶ場合、汐梨と相談して準備をするよう決められている。
 然るべき手順を踏まなかった時点で、宙は要注意人物だった。
「浅香さんも危なかったでしょ。気をつけて下さいよ」
「うーん、そうは言ってもこの業界だしねえ」
 瑤子とのアポがあると語って訪れた彼を追い返さなかったのは、汐梨の機転による。
 只でさえ、花眠病で賑わっている本学だ。香椎と関わりのある製薬メーカーや役人ならまだしも、テレビ関係者となると、無下に返せば角が立つ。
 誰にとっても益を生まないなら、研究室に留めておくのが一番だと判断したのだ。
 そして、瑤子に受信メールを確認させ、届いていたアポイントのメールをセキュリティに転送。解析のための時間と、いざという時のために香椎が居るように、瑤子に時間を稼がせた。汐梨自身は、宙が研究室から出ないよう、また、不審な行動を取らないように監視を担当。瑤子と宙が二人だけとなる時間を極力減らし、無事証拠が取れたところで香椎と対面させたのである。
 これを英断と呼ばずして、なんと云えよう。
 吐息で珈琲を冷まし、汐梨はぼやく。
「うちにも警備員必要になってくるかもねえ……。あ、水野さん、時間は大丈夫?」
「大丈夫です。時間稼ぎがてら、やりかけの実験全て回してきたんで」
「そう。じゃあ後は、香椎先生が帰ってくるのを待つだけね」
 二人揃って珈琲を飲み、はあ、と大きく息を吐く。縁側の茶飲み友達よろしく、穏やかな空気感に目元を拭った。
 働かないシーリングファンに、変なところで鳩が出てくる壁時計。京都の街並みが見下ろせる窓は全て日除けのシェードが下され、隙間から零れ落ちる橙色の光が時間の流れを教えてくれる。
 おもむろに汐梨が席を立った。半ば放心状態のまま、ぼんやりと天井を見上げる瑤子を尻目に、廊下へ出て行く。
(……家に帰るの、怖くなってくるな……)
 一人になった途端、考えないようにしてきた不安が形になった。花眠病を患うのも恐ろしいが、生きた人間に狙われる方が直接的な恐怖として認識されるのだろう。
 福永宙はどうして、この研究室を、瑤子を選んだのか。誰かが情報を漏らしたか、調べたか。何故、何のために。
 研究の癖で考えたくなる思考を、額を押さえることで抑制する。
「駄目だわ。そういうのは無理、考えない……」
「水野先輩!」
「うわっ、びっくりした」
 汐梨が戻ってきたと思えば、扉を開けて入ってきたのは顔見知りの仲間達だった。
 後輩の早苗敏生に先輩の李浩宇とは、日依のことがあってから暫く、顔を合わせていない。花眠病の検査が終わるまではメールでしかやり取りが出来ず、瑤子が研究室を移ってからは話す機会も無くなってしまったから、懐かしさが再び涙腺を刺激した。疲労で涙もろくなっているらしい。
「早苗っち~!」
「元気そうっすね、先輩。不審者来たって聞いた時は、びっくりしましたよ」
「そうそう。二人は……無事?」
「無事です、めっちゃ無事。私もびっくりしましたもん」
 端末片手にわいわいと騒ぐ早苗と、所々で早口になる李に汐梨が加わり、一変して研究室が明るく、賑やかになる。
 日依が居た頃は、この四人と非常勤の講師二人を加えて勉強会をよく開いたものだった。あの頃の和やかな賑わいはもう得られないが、再会の喜びは何ものにも代え難い。
「そうだ、先輩。これ見てくださいよ。政府が花眠病対応について発表したんす」
 嬉しさに身を委ね珈琲を啜る瑤子に、早苗が椅子を持ってきて隣に座る。最新モデルの端末を見せ、彼はSNS画面の一つをタップした。
 
  世界保健機関の要請 日本政府は国立感染症研究所にて花眠病の研究請負を検討

 大仰な見出しが、事実を分かりにくくさせる。早苗から端末を預かり、記事に目を通す。
 通常、ヒトからヒトへの感染が確認されるインフルエンザのような病原体は、WHOの方で感染力の段階が設定される。この段階を参考に、各国政府はワクチンや薬の研究に投資し、予防と治療を徹底させる。これによって、世界的な伝染を防いできたのが現代だ。
 一方、花眠病は動物への感染も、ヒトからヒトへの感染も確認されておらず、ヒトへの感染事例も範囲が特定されていない。このために、WHOはフェーズを設定出来ず、花眠病の予防も治療も各国政府の判断に任されてきた。
 けれども、ドクター・バーナビーの発表を経てようやく、WHOも重い腰を上げた。
 花眠病のフェーズを設定し、各機関・各国政府へ花眠病対策を指導、促進を始めた。これを受けて、日本政府は予算案の見直しと国立感染症研究所での花眠病研究を検討すると発表──要するに、やっと本格的な対策を考えますよ、という記事だった。
 朗報なのか悲報なのか、悩むところだ。
「謎なんすけど、マラリアとか違って、花眠病て日本に上陸してるじゃないですか。WHOって関係するんです?」
「うーん、お金的に関係するんじゃない。日本人的にはほら、眠ってるだけならいいじゃんって人もいるし」
「はは、過労で人が死ぬ国なだけはありますねー」
「こら。笑えないから」
 早苗達の会話を他所に、自分の端末を取り出し、検索ボックスに国立感染症研究所を入れて調べ始める。このニュース記事からは、詳細は何も読み取れない。対応機関が何を行うのかは、直接ホームページを見た方が早い。
(国が先導するなら、私がやろうとしてることって、どうなるの?)
 花眠病に関わってから、心が安らぐ時間が極端に減った気がする。迫り来る見えない病と、情報目当ての不審者と、救いにならない治療法の発表。渦中にいるからこそ目紛しく感じる変化に、瑤子の神経は少しずつ削られていた。
 少しの時間をおいて開いた青と白のホームページには、アクセスを見越したバナーがトップに用意されていた。花眠病研究について、とゴシック体を太くしただけのバナーをクリックすると、見やすい大き目のポイントで、花眠病対策への方針と注意喚起が書かれたページが開く。
「……ない」
「え、なんか言いました?」
「あっ、これ、ありがとう。読んだわ」
「どーも」
 端末の画面を落として、平然とした態度で早苗に彼の端末を返す。再び瑤子に話が戻る前に、端末に顔を落とす。
 心臓が、時計の秒針よりも早く、動き始めた。
 花眠病発症者が少ないこと、WHO自身が得た情報自体も不足していることが、そのままホームページの文章に現れていた。過眠や目眩、その症状が進行することで起きていられなくなる。日本人の知る花眠病とは、未だ、そういうものでしかないのだと思い知らされる。
 宙の言っていたことが、今更分かってきた。ホームページで語られる程度の知識が一般常識というのなら、ドクター・バーナビーの話も治療法が見つかったという認識になってしまうだろう。
(混乱、してきた)
 大学病院では日依の検査を開始している。瑤子も高槻と話して、一つの仮説を検証すべく実験を始めたばかりだ。日本国内での花眠病の認識が、他国の花眠病の認識と一致しているとは言い難い。
 事実の確認を繰り返すほど、ギャップに頭が混乱する。最先端を行くかもしれない高揚感と、世間とは異なる認識をせざるを得ない不安と恐怖、何より、自分の知っているあらゆることの取り扱いが難しくなってきていることに、瑤子は焦り、震えた。物理や化学系の友人達は、寝ている暇もないくらいに実験に明け暮れていたが、きっとそれは、こういうことなのだろう。
 誰よりも早く、正しく助けられる方法を見つけられるかもしれない。
 自分でも気付かなかったほどの強く、羞恥すら覚える願望に、顔が赤くなる。
「水野さん? どうしたの?」
 黙したままを不審がって、汐梨が近付いてくる。踏み留まって欲しくて、手を上げ──タイミングよく戻ってきた香椎の姿を前に、ピタリと止まる。
「待たせたね。水野くん」
 絶望の淵へ手を掛けようとした瑤子の理性を、冷ややかな微笑みが現実へ繋ぎ留めた。
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