in Cells ~花眠病~

もりえつりんご

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Part2. Professor

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見ていてごらん、
今に私の時代が来る。
              ——グレゴール・ヨハン・メンデル






 生命が繋ぐのは愛ではない。遺伝子と呼ばれる情報だ。
 分離の法則に基づき、平等に分配され、独立の法則に従い不平等に受け継がれる。発現する。
 その存在を謳った研究者の死後、脚光を浴びた遺伝子の在り様はおそらく、存在する全ての生命の生き様を物語る。
 生とは、死を終えた後にはじめて手にすることのできる価値なのだ、と。






  --------



 青葉に光が跳ね返る、夏の日だった。
「……この木が残っていられるのも、あと何年ぐらいだろうかと思ってね」
「そんな不吉なこと、言わないでください」
 木漏れ日の下で交わした言葉に他意は無く、絶望だけが確かにあった。
 終わりへ。収束に向かう過程を進化と呼ぶにはあまりにも残酷で、後退と呼ぶには優し過ぎる淘汰を、果たしてどれだけの人間が受け入れ、抗うことだろう。
 ノアが箱舟を用意したように、人類もまた、宙船を用意すべき時が来たのかもしれない。
 共に連れて行ける命は何だろうか。人は考えるだろう。己の生命を遺す為、繋ぐ為に、必死になって生きようとすることだろう。
 まさにその姿こそ、醜く、尊いと言わしめた人類の成れの果てだ。




 花眠病かみんびょう日本上陸の話は、瞬く間に全国に広まった。
 対応に慣れた病院は情報発信に合わせて記者会見を開き、慎重な判断と準備を呼びかけた。一方、新聞は好き勝手に煽りを付けて事実を知らしめ、読む者の不安を煽り立てた。
 報道関係者は日の重なりとともに数を増やし、その足をついに大学にまで伸ばし始めていた。慌ただしく対応に追われ、近隣住民からの苦情も相まって、教務はてんやわんやの有様である。
 変わらない在り方が、異常を日常に落とし込んでいるようだった。
 ブラインドの隙間から差し込む光を、眼鏡のレンズが反射する。興味の無さそうな黒い瞳に白塗りの車が写り込む。ブラインドを押さえる指が離れると、ぱちんと大きな音が鳴った。
「話があると言ったね、水野くん」
「……はい」
「君がようく考えて来てくれたのは分かっている。でもね、今一度、確認をしておかねばならないことがある」
 神妙に座る水野瑤子ようこを振り返り、香椎惠子かしいけいこは努めて優しげな笑みを浮かべた。
「君が話せば、君だけが究めるという選択肢が一つ消える。それは構わないね?」
「……勿論です」
「うん。話を聞こう」
 椅子に座り、用意された珈琲に手を伸ばす。枯れた表情筋の強張りが、湯気を受けて解けていく。
 啜りながら、鋭い視線が机上のノートに注がれた。
 伊崎日依と名前の残されたそれには、本人が花眠病に意識を奪われる前日までの経過が記録されている。母親を通じて、宛て主へ届いただけでも奇跡の代物だ。
「伊崎さんの件です」
 瑤子が深呼吸を置いて語り出す。その姿に過去の記憶が重なって、惠子は僅かに目蓋を落とした。
 花眠病が登場した頃、世間は呑気なものだった。
 物理の栄華と恩恵を讃え、堪能し、半世紀以上も昔の夢を取り上げて喜んで、地球の裏側で起きた植物の侵攻など対岸の火事よりも遠かった。雇用の安定、最低賃金上昇、経済成長。当時の日本人にとって、今の生活を乗り越えることが何よりの目標であり、火事は誰かが消せばいいだけの話だった。
 深堀された専門が複雑に絡み合い、通信技術を中心とした分野が日進月歩に発展し、世界は随分と狭くなった。やがて、再生医療が治験を成功させ、緩やかだった臨床は変化が早足になり、根拠のない夢が其処彼処に散らばっていく。
 そんな浮き足立った人間の足下を駆け抜け、蔓延った花眠病──Flowering asphixia。
 多くが日陰者で終わる研究者は、時代の波に呑まれながらも、人類の生活の大半を支えてきた。研究の積み重ねを日常の便利さに還元し、快適に暮らす事を極める者が多かった。明確な目標が道標となり、生きる意味にも似て、力強く研究意欲を引き上げた。
 自己肯定感すら実力で積み重ねてきた彼らは、誰よりも意識が高く、誰よりも早く、危機を察知し殻に籠った。
 乗り越える気力もない者に、真実は刃のように鋭く刺さる。生の価値が変容するのも致し方ないというものだ。絶望を前にした彼らは、それはもう憐れなほどに落ちぶれて、自身の積み重ねに縋ることもなく、神と人類の智慧に祈りを捧げた。
「症状も検査記録も記されています。主観評価なので私の記憶を元にした評価も追加し、診断に使える項目を洗い出したいと思います」
 しかし、彼らが人間であるように、動く者もまた人間の中に居た。
 花眠病に目を向け、立ち向かったのである。
 人間に返らぬ他種の研究に熱意を注いだ研究者達は、この奇妙不可解な寄生植物に、勿論興味を引かれた。自らが発症者となればむしろ都合が良いと言わんばかりに接近し、研究を重ねた。
 発症者が世界中で三桁を越えた今、花眠病に関する研究もまた鰻上りに増えているのは、そういうわけだ。
 そこに、奇跡とも呼ぶべき一石が投じられる。
 伊崎日依ひよりの残したノートは、そのくらいの価値を持つ。可能性の話ではない。人類の誰もが未だ到達していない場所へ繋がる、貴重な情報だ。現時点では。
「伊崎さんの部屋にあった植物は、全て回収、大学病院の検査室に保管されているそうです。まずはその購入ルートと原産地、経由場所を調べようかと。無論、大学病院でも既に研究が始まっていると思いますので……先生には私の動き方について、相談に乗って頂きたくて」
「その、扱いについてかい?」
「はい」
 返事こそ力強いものの、瑤子の視線は下方へ移る。出来れば、研究室で共有したいんです、と申し出る声も少しばかり弱々しかった。
 彼女の苦悩は推して測れる。
 一人の力では、このノートの価値を守りきることも、うまい使い方も思い付き難いことだろう。たとえ考えついたとして、彼女の力の及ぶ範囲はたかが知れている。大学病院の検査者が日依の両親を伝って、いつこのノートの存在に気付くとも知れない。守りきるには、専門家の知識も必要となる。
「君の博士の研究は、高山植物の持つ遺伝子の解析・応用だったね」
「勿論、それもちゃんと研究します。それと並行して、花眠病についての研究もしたいんです」
 早くなる話の流れを抑えるように片手を挙げ、惠子は呼吸に合わせて瞬きをした。
 瑤子が自身の焦りを恥じて、肩を竦める。
「構わないよ。それはそうとして、踏まえるべき手順を確認しなくてはね」
「は、い」
 不自然に動いた自分の右手を横目に、惠子は頬杖をつく仕草で苦笑いを隠した。売買が制限されるようになって久しいこの時代に、煙草が吸いたくなるとは思いもしなかった。
 トン、トンと二度机上を指先でノックし、声を発する。
「まず、君がノートの存在を明かした以上、所有者の君が私に対して契約書を書かせる必要が有る。ノートの情報を他へ譲らぬこと、研究以外で用いぬこと、ノートの存在を他者や他機関へ伝えぬこと。少なくともこの三つは早急に必要だ」
 右手を掲げ、条件を提示しながら指を立てていく。慌てて取り出したルーズリーフにメモを取りながら、瑤子は視線で頷き返す。
「加えて、このノートを研究室で共有する場合、鍵付きのロッカーにしまうのか、私が所持し続けるのか、管理方法を設定する必要がありますよね」
「……水野くん。その前にね、君はこの研究室の全員に、確認しなくちゃあいけない」
「確認、ですか?」
 不安そうな面持ちで尋ねる瑤子を、惠子は真っ直ぐと見つめ返す。
「先生と同じ、契約書のことでしょうか? それとも、花眠病に関わるかどうか……?」
 視線を動かし思考の手掛かりを探る様子に、若々しさを感じる。彼女も研究者の端くれだ。論文で条件設定は嫌という程読んできただろうが、何れもこれまでの仕来りに則ったものが多かったと見える。
 最初に弁え、覚悟を決めておかねばならないことが、一つ、抜けている。
「そうだね。花眠病に……『今後も君に関わるかどうか』について、まずは確認しなくちゃならないね」
「それは……どういう、!」
 白壁に囲われたこの部屋の、空気が騒ついた。
 聞き返す最中に思い至ったか、瑤子の目が見開かれ、不安と震えが表情に蘇る。
「花眠病用の検査はあるが、そもそも、発症経緯の分からない病だ。伊崎くんの側にいた君が、次の発症者だと考える者は居るだろう。あるいは、ここにいるだけで花眠病にかかると思う者もいるかもしれない。
 だから、状況を理解し納得した者にだけ、協力を仰がなくてはならない」
 震える指先はまるで縄のようだ。どれだけ慎重に動こうと、吐息のように静かに、当たり前に、周囲の変化は彼女を襲う。それに耐えられるか、耐え得る時間を増やすために動いているのだと、果たして当人は理解しているかどうか。
 姿勢を正し、キィと椅子を引く。テーブルの上で両手を重ね、そっと、言葉ですくい上げる。
「どのみち、この研究室と関係者は検査を受けなくてはいけない。その後、一人一人と面談をして、今後の研究室の存続を考えるつもりだ。君は、その時素早く動ける様に準備をしなさい」
 ルーズリーフの上にペンを置き、瑤子が膝に両手を戻す。事情が分からない子供ではない。現状の厳しさを、実感として受け止めるのがまだつらいだけだ。そう観察して、惠子はやや冷ややかな声を出した。
「一週間で用意はできるかい? 契約書類と研究計画の」
 とうとう俯いてしまった瑤子の頭頂部を見つめても、同情や憐憫の色が惠子の瞳に滲むことはない。用は済んだと立ち上がり、コツコツと音を鳴らして机に向かう。
 引き出しから探りだした一枚の名刺を持って、惠子は瑤子の隣に並んだ。
「一人、知り合いを紹介する。書類については彼を頼りなさい。期限は守れなくてもいいから、なるべく早くに行動をするように」
「……わかりました」
 絞り出された声の頼りなさに、眼鏡の奥に潜んだ黒目が細められた。




 研究室を出て行く瑤子の後ろ姿を横目に見届けて、惠子は冷えた珈琲を片手に隣の部屋へ向かった。
 大きなテーブルと画面が一つあるこの部屋は、ゼミを開いたり研究室に所属する者が一堂に会する場として設定されている。談話室とも呼べなくもないが、会議にも駆り出されるため名称は曖昧だ。院生室とは別に、電子レンジや冷蔵庫、ハンガーラックが用意されており、プリンタもあるので、日常的に誰かしらがが常駐する部屋でもあった。
 例によって、今日も二名ほど人が居た。
「お疲れ様です、先生」
 秘書の浅香汐梨あさかしおりと研究生の李浩宇が顔だけをこちらに向け、再びパソコンの画面に戻った。
 浩宇は修士課程から京都の大学に留学し、企業に就職後、研究者としてこちらに派遣されてきた一人だ。汐梨との付き合いも長く、同年代ということもあって二人の仲は良い。
 彼のように、香椎研究室には社会人研究者が多く居る。厄介であると同時に非常に有益な人物達は、適度な無関心を装いながらこの場所との繋がりを維持していた。会社や団体からの呼びかけが有れば、応えて退却しても構わない旨を伝えている。
(そんな呼びかけに応じる者なら、とうにここに残っていないか)
 電子レンジに珈琲を入れてツマミを回す。ジジ、と古めかしい音を立てて稼働するそれの前に立ち、ふうと吐息を零した。
「先生。今よろしいでしょうか?」
「うん」
「花眠病の検査、どうしましょうか」
 思い出したように、入れ違いで研究室へ入った汐梨が茶封筒を片手に戻ってくる。彼女がそれから指して示したスケジュール管理用カレンダーには、既に何人かの名前と時間が記載されていた。
 教務から届けられた茶封筒には、大学病院からの指定を受けて用意された、花眠病検査の申請書が入っていた。
 発症者が出たのだ、周辺に予備群がいると考えるのは正しい。研究室だけでなく友人、家族間は念入りに検査をする必要があるだろうし、本音を言えば、今後のためデータを集めたいというのもあるだろう。
 なにも、水野だけが特別なのではない。発症者本人に関わらずとも、発症経過を探るべく動いている人間は既に居る。その者たちが情報を入手したとしても、公に発表しないうちはあのノートに価値がある。ただそれだけのことだ。
(時間稼ぎをする、と、意味は果たして伝わったかねえ)
 温まった珈琲を取り出し、飲むことで返答時間を稼ぐ。検査をすることに問題はなくとも、検査を受けたことで起こりうる反応は想定に入れておかねばなるまい。
 本人が希望しても、周囲の金回りや偏見が研究を邪魔することもある。
「……まあ、都合を聞いてもらわないことにはね」
「分かりました。早めに対応します。……学生さんから優先させますか?」
 様子を伺われても眉ひとつ動かさずに返答し、緩やかな微笑みすら浮かべてみせる。たじろぐように一歩退いて、汐梨が続きを言いかけた唇を閉ざした。
「授業もあるだろうし、一先ず、明日来る予定の人達に連絡をお願いできるかい?」
「それはそうですが……そうですね」
 指示を受け、自分の机へと戻る汐梨の後を置い、惠子も部屋へ戻る。
 瑤子の話を汐梨に伝える気はさらさらない。
 選別が必要なのは、なにも研究者だけではない。汐梨もその対象者だ。仕事ぶりは頼りにしていても、研究者としての惠子の本心は非情である。
(こんな面白い機会なんて、人生に幾つもあるもんじゃあない)
 千載一遇の好機を見逃すくらいなら、研究者などとうに辞めている。人を使い、自分をも巧く扱う者にこそ許された積み重ねは確かにあり、それを逃さないことで次に進める。研究を守り、維持し、効果的に使うことのできる人員が必要だ。
 ず、と珈琲と共に興奮を胃の腑に落とし込み、染み渡る熱にもう一度、惠子は密やかに口元を緩ませた。 




 高槻光太郎と書かれた名刺には、小さな文字で放射線遺伝学研究室と添えられていた。
 滅多に見ない大学ホームページで学内案内図を検索すれば、場所は医学部構内の中央の研究棟にあるらしいことが分かる。
「G棟ってどこよ……」
 元理学部の瑤子には医学部の居場所すら初めてだ。迷わずに行く事ができるかどうかを問われれば、不安が高まる。念の為、端末にリンクをコピーしてからメールサーバーを立ち上げた。
 新規のメールを送るのは久しぶりだ。自己紹介と香椎教授に紹介された旨を書き込み、アポイントのメールを送る。そこまでやりきって、瑤子は勢いよく机に伏せた。
(……あー……怖かった)
 脳裏に思い起こされるのは、香椎の微笑みだ。
 普段はおっとりした女性のような顔をして、その実、芯から研究者なので抜け目もなければ容赦もない。爪を隠さぬ鷹そのものだ。味方につければ心強いが、いつ爪でひと突きにされるか知れたものではない。
「はー……よく生きた私」
 ごろりと顔の向きを変えると、コンクリートの壁と室外機が窓の向こうに見えた。
 院生室のあるこの棟の真向かいには、再生研と呼ばれる再生医学に関わる研究棟が建っている。見晴らしの良い敷地故に未来的な建築物が増築されており、窓から見える景色はその分つまらなくなってしまった。
 春から夏に移ろうにつれて青みを増していく空を見上げて、瑤子は下唇を持ち上げて前髪を吐息で払った。
 静かだ。日依の事があってから、実験室も含めて院生室への学生の立ち入りが禁止されたせいなのは分かっている。香椎の言っていた検査も、近いうちに入る。瑤子は検査を既に受けていることを理由に見逃してもらえたが、もうそれもできない。
 名刺を滑らせ、視界に入れる。大学で印刷してもらえる上質紙の名刺からは、高槻光太郎という人物の情報は読み取れない。
 信頼はあるが、香椎と繋がっているところに恐怖に似た一抹の不安があり、瑤子の胸の濁りを滞らせる。
「私、これからどうなるんだろ。ひよりん」
 願われ祈り決めた道とはいえ、予測の立てようもない状況を憂うことは止められない。
 せめて、もう少し話しやすい人でありますように。
 胸中で呟いて、粗雑な手つきでパソコンを閉じた。




 アポイントは、それから二日後の土曜日に取ることができた。
 土日祝完全休日の公務員と思われている教職員だが、それは本人にその気があればの話であって、全員が全員有意義にワークライフバランスを保っているわけではない。植物の世話や細胞周期の管理など、一日中在室する必要はなくとも、研究室に行かねばならない理由があれば大学に行く。
 ゆるい考えの者ほど馴染みやすく、しっかり者ほど自分を潰す。端的に言えばそんな伝統が、アカデミーには未だ生き残っていた。
 高槻光太郎は前者に分類される人間だった。瑤子の第一印象が、それだ。
「ああ、香椎教授から聞いてます。災難でしたね」
 線の細い痩せたその中年男性は、薄汚れて草臥れた白衣を脱いでしまえば、無職の男と言われても仕方のない風貌だった。短いながらも無法地帯よろしく跳ねた髪、剃り残しのある顎をぼりぼりと深爪の指で掻いて、煙草の箱を引き出しに仕舞う。
 おーい、それは違反じゃあないのか、などというツッコミを脳内で決めてから、瑤子は短く息を吸った。
「初めまして、水野瑤子です。……高槻先生のことは、大学のホームページを見て知りました。放射線を用いた研究をされているそうで」
「ええ、まあ。それで、計画書と契約書でしたっけ」
「あ、はい」
 おべんちゃらを舌の上で転がしかけて、話の切り替えに慌てる。
 促された椅子に鞄を置いて、中から印刷したばかりの紙を取り出した。手渡し、高槻がそれに目を通している間に、改めて着席した。
 室内の昏さに目が気付いたのは、それからだ。
 窓からは青い影と緑の光が落ち込んで、こちらに見えている高槻の姿がぼんやりとする。比較的建物の新しい瑤子達の研究棟と違い、ここ医学部構内の建築物は大学建設当時から残っているものが多い。謂わば建物自体が文化財だ。隣の棟との間隔は広く、周囲に木々が生い茂り、窓から外を眺めるだけでも気分が癒される。
 しかし、花眠病が広まれば、この緑もいずれ消え逝く。
 それがどうしてか、少しだけ切なさを呼んだ。
「水野さん」
「! はい」
「よく出来ていると思います。修正箇所を指示するので、メモを」
「ありがとうございます」
 赤ペンを片手に、自分用の書類を取り出す。言われた部分に線を引き、変更内容や追加項目を書き込んでいく。見た目と中身の有能さに因果関係はない。彼の指示は分かりやすく、なぜその項目が必要なのかも欠かさず説明を入れてくれるし、瑤子の反応を見ながらなので過分になることもない。
 十数分も経たない内に、瑤子の持ってきた書類はすっかり真っ赤になっていた。
「香椎教授からは、なんて?」
 自分が書き込んだものと合わせてファイルにしまいこんでいると、目の前に書類が差し出された。
 受け取りついでに、首を傾げる。
「締め切りのことですか?」
「それもだけど、部屋のこと。うち、院生少ないから。なんだったら部屋を貸そうかと」
「えっ」
「それに、花眠病を扱う研究者同士、繋がりがあると便利だろうし」
 あまりに軽やかな口調で言われたが、内容はなかなかの衝撃だった。クリアファイルに入りきらなかった書類がぐしゃりと歪んで、直そうとする手の動作がもたつく。
 すたすたと先行して部屋を出る高槻を追って、鞄を片手に、瑤子も廊下に出た。
 初めて来た時は、単純に土曜日だから学生が少ないだけなのだと思っていた。
 人肌に触れていないようなひんやりとした空気に満ちた廊下には二人の靴音がよく響き、扉の開け閉めだけでもびくりと身構えてしまう。
「ここが冷凍庫、声かけてくれたら使い方は教える。院生室はこっち、使われているのはデスクトップのある二つだけ。残ってる参考書や論文は適当に使っていい。実験室は広いけど、人が少ないから空いてるところを陣取ってくれて構わない。培養とPCR、遺伝子解析機は隣の部屋、あー、GFPって使う? 向かいの暗室で、」
「高槻先生、あの、待ってください」
 この人はこんなに饒舌だったのかと驚くほどに淀みない説明に、なんとかタイミングを掴んで声を挟む。暗室のカーテンを開けた腕をだらしなく落として、高槻が瞬きをした。子供のような、あどけない表情だった。
「……」
「……えーと、あの」
 しばしの見つめ合いが気恥ずかしく、苦笑いで視線を誤魔化せば、のんびりと高槻が首を掻く。
「いや、待ってって言うから、何かあるのかと」
「あー! はい、はい、そうですね! ええと」
 やりにくいなあ、と胃の中で愚痴を消化して、自棄になって微笑む。
「一週間とは言われましたが、検査が終われば戻るつもりです。それに、私、花眠病の検査は受けたけど、疑いが晴れたわけじゃないので、……なので」
 最後に見せた日依の微笑みがぞわりと恐怖を煽って、瑤子の肩に緊張が戻る。
「お気遣いなく。ありがとうございます」
「そう」 
 顎を引くようにして頷いて、高槻はそれ以上何かを言うこともなく、瑤子に背を向けた。
 自分で言っておいて孤独を感じるなんて、我儘のすることだ。深呼吸をして気持ちを切り替え、高槻の後に従う。見える範囲の紹介は大方されただろうということもあり、気を楽に努めて歩みを進める。
「年寄りの言うことだから、余計なお世話かもしれない」
「?」
「香椎教授が私を紹介したのは、君を、あの研究室だけに置いておけないからだと思う」
 多分ね、と付け足して、彼は自分の部屋の扉をくぐる。
 開け放たれた扉の前に立った瑤子を見下ろし、その道の先を行く彼は、初めて、苦笑いを顔に浮かべた。
「研究というのは、もともと一人でするもんじゃないし。気楽に来るといい。隣人を愛せ、とかなんとかだ」
 ひらりと手を振って、高槻は瑤子に背を向ける。
 身なりの割に整然とした研究室の真ん中、書類が何十枚と積み重なった山の中に置かれた、ノートパソコン。それを開くと、彼はもはや瑤子の存在など見えなくなったかのようにぱちぱちと文字を打ち始める。
 余りに素っ気無く、取りつく島もない反応が、瑤子の中に羞恥と罪悪感を呼ぶ。
 花眠病となった日依に託されたから、研究をしようと思った。自分が花眠病の予備群だと思われるかもしれないと指摘されて、それもそうだと思ったから、あまり協力者は得られないのだろうと推測していた。
 そういった、決意をしたせいであやふやになっていた部分を高槻に突かれてやっと、気付いた。瑤子の発言も態度も、同じ研究者の前では、愚行以外の何物でもなかったのだ。
 呆然と突っ立っているわけにもいかず、ぺこりと頭を下げると、熱の集まる顔を押さえて、瑤子は逃げる様に駆け足で階段を降りていった。




「酷なことをするもんだなあ、あの人は」
 階段を駆け下りる音が聞こえなくなってから、光太郎は引き出しにしまった煙草を片手に、廊下の先、透明扉の向こうにある非常階段の踊り場に出た。
 ライターで先端に火を灯し、生温い風にしばし、目を瞑る。風の勢いに火の周りが早く、灰になった先から散り散りに空へ飛び立つ。
 花粉であれば、これも制限されずに済んだろうに。
 つまらない言い訳を考えながら煙を吸い、長い息に乗せて吐いてやる。
 ありとあらゆる学問が進化し日常生活に浸透した現代において、水野のような学生は、かつての学生・研究者よりも潜在能力が高い。光太郎が大学で学んだ知識を彼女は中学高校で学び、昔よりも多くの知識を習得してから大学へ進学する。
 だが、知識の多さは運用してこそ活きるものだ。生き字引が一人居たとして、それを使う場所と使う人間があって初めて知識や技術というものは意味を獲得する。
 花眠病を研究するというのなら、それを使おうとする者は必ず出てくる。知識でも技術でも、使えるものなら何でも利用しようとやってくる。
 香椎のように抜け目のない研究者であれば尚更、光太郎の元へ遣わせたように、親切なふりをして人を使う。光太郎もまた、のこのことやって来られた以上、水野を使わないで研究を進めることはしないだろう。
「シビアなもんだ。協力するなんて言葉は」
 かつてその言葉に痛い目を見たが、時が経ち、今度は自分が相手の番になっている。
 同じ轍を踏まぬようにと思いながら助言をした割に、うまく言葉にできたかどうか、自信がないのだから情けない。
 めげずに、彼女が来週も研究室に来ることを願って、光太郎は両の手を白衣のポケットにしまった。
 肩の力を抜いて、唇で挟んだ煙草の煙を大きく吸い込む。初夏に滲み行く空の下に、灰色になった煙はぷかぷかと生き物のように泳いでいった。


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