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第1章

1話 オバちゃんの受難

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 柔らかいピンク色を基調とした病院の待合室には、大きなお腹を大切そうにさする者、将来への期待で顔を綻ばせる若い夫婦。
 そして、生まれたばかりの孫を抱いて目を細める老夫婦がいる。

 そんな暖かく優しい空気の中で、里子さとこはひとり居心地の悪い思いをしながら会計を待っていた。
 名前が呼ばれ、里子は診察代を支払うと足早に玄関ロビーを出る。
 自動ドアが閉まると同時に大きな溜息を吐くと、冬晴れした空を見上げた。


「……癌かぁ」


 晴天の霹靂とは、まさにこのことだろう。

 里子は今日まで、平凡ながらも幸せな人生を歩んできた。
 優しい両親に大事に育てられ、20代でしっかり者の旦那と結婚。
 目の中に入れても痛くない、大切なひとり娘にも恵まれた。
 多少の苦労もあったけれど、子供の頃からの趣味であるコミックやアニメ、小説にゲームを糧に子育てや家事を乗り切り、のほほんと専業主婦を満喫。
 なんの取り柄もない里子にとって、これ以上ない贅沢な暮らしであった。

 そして気づけば45歳。

 だんだん更年期障害が気になり出したところに、旦那の会社からタイミングよく送られてきたのが『配偶者健診申込書』。
 普段の里子なら「面倒臭い」とゴミ箱に直行なのだが、年齢も年齢だし、娘も成人したしと、軽い気持ちで受けてみることにした。
 それなのに、いざ蓋を開けてみると最初の検査で引っかかり、あれよあれよと精密検査を受ける羽目に。
 結果、子宮に癌が見つかってしまったのである。
 幸いにも早期発見とは言え、病名が病名だけに里子をかなりへこませた。

 里子は「はぁー」とまた深い溜息を吐き、肩からずり落ちた鞄をかけ直す。そして、冬の寒さにコートの襟をかき合わせると、背中を丸め自宅へと歩き出した。


 ◆◆◆


 帰り道。

 トボトボ歩く里子は、普段なら何気なく通り過ぎてしまう神社が、とても気になった。

「……お参りしとこうかな……落ち込んでても仕方ないし」

 そんなことをブツブツ言いながら、里子は石の鳥居をくぐり抜けた。
 人気がなく静かな境内に足を踏み入れると、真正面に拝殿はいでんが見える。所々に大きな木が植えてあり、手入れがしっかりとされていた。

「おお。結構、古そうな神社。隠れたパワースポットだったりして?」

 誰に言うでもなく里子は呟き、景色を楽しみながらのんびりと参道を歩く。
 せっかくだから、写真でも撮ろうと里子は立ち止まった。
 その瞬間、腰のあたりに軽い衝撃を受ける。驚いて目を向けると、そこには小学生くらいの少年が尻餅をついていた。
 里子は慌てて少年を引っ張り起こし、服についた埃を払いながら声をかける。

「ご、ごめん。大丈夫? 怪我はない?」

「…………」

 少年は何も答えない。そればかりか顔は引き攣り、眼はオドオドと怯え、まるで落ち着きがない。
 里子はそんな少年の前にしゃがみ込むと、ワザと明るく尋ねる。

「あれ? ねぇ、君。もしかして……迷子になっちゃった?」

 そこで初めて里子と目を合わせ、少年は小さくかぶりを振る。

「そっか、違うか……うーん。じゃあ、何かあった?」

「……ボ、ボク……あの……ボク……」

 少年は、気の毒なほど心がうわずっていて要領を得ない。
 少しでも落ち着かせようと、里子は少年の肩に優しく手を置いた。

「大丈夫、落ち着いて。ゆっくりでいいよ。そうだ! オバちゃんと一緒に、深呼吸でもしようか? じゃあ、いくよー。せーの! スーハー……」

 里子の突飛な行動に目を丸くした少年だったが、やがてぎこちなく一緒に深呼吸を始めた。何回か繰り返すうちに、少年の表情が和らいでいく。

「スーハー、スーハー。いやー、深呼吸って割と効くね。実はさー、オバちゃん、さっき嫌なことがあってさー。頭の中がモヤモヤっとしてたけど、何だかスッキリしたみたい。君は、どう? 落ち着いた?」
 
 戯ける里子に、少年はコクンと頷くと笑顔を見せた。
 その姿に里子は驚く。改めて見ると、随分と可愛らしい子供なのだ。
 色素の薄いフワフワな髪に大きな黒い瞳。マシュマロのような頬に、笑うと出来るえくぼが愛らしい。

(うわっ! 何、この子。アニメに出てきそう!)

 里子の思考が脱線し始めたところで、少年が躊躇いがちに口を開いた。

「……さっきは、ぶつかってごめんなさい」

 いきなりの謝罪に、妄想モードだった里子はしどろもどろになる。

「えっ? いやー、君だけが悪い訳じゃないから……だから……えっと。あっ、君は、大丈夫だった? どこか痛いところはない?」

 きょとんとした顔で里子を眺めていた少年は、次第にクスクスと笑い出す。

「君じゃないよ、ルカだよ!」

 言葉の意味が分からず、目が点になる里子。
 すると少年は自分を指差して「ルーカ!」と言う。
 無邪気な自己紹介に、里子は自然と笑みが溢れた。

「おお、ルカ君か。私は、里子って言います」

 ルカが首を傾げ「さとこさん?」と聞き返す。
 名を呼ばれた里子は、一瞬呆けた。
 自分で名乗っといてなんだが、下の名前を呼ばれるなんて随分久しぶりだからである。いつも「母さん」とか「奥さん」としか呼ばれない。とても新鮮であった。
 とはいえ、娘より小さくて可愛い子供に呼ばれると、何だか居た堪れない気持ちになり里子は「……なんか、ごめん」と頭を掻く。
 そんな里子が面白かったのか、ルカは「プッ」と噴き出し、笑い声を上げた。
 やがて里子もそれに釣られ、二人で笑い合う。
 和やかな空気がこの場を包んだ。

 そんな時、不意に鈴を転がすような声が境内に響き渡る。

「ここにいたのぉー? ……鬼ごっこは、もうおしまい?」
 
 その瞬間、ルカの顔から笑顔がスッと消えた。
 異変に気づいた里子は、辺り見回す。
 するとかなりブッ飛んだ……いや、異彩を放つ少女が、里子の目に留まった。その少女は鳥居をくぐり、真っ直ぐこちらに歩いて来る。

 黒く長い髪。少しキツそうな目鼻。色白の顔にくっきりと浮かぶ真っ赤な唇。ほっそりとした肢体を黒いワンピースとケープコートで包み、全身黒ずくめのゴスロリ人形のようだ。人間味が感じられない。

(うわっ! 凄いの来ちゃった……)

 あんぐりと口を開けガン見する里子を余所に、少女はツカツカと二人の前に立つと、ルカだけに視線を注ぐ。そして当然とばかりに嫌がるルカの手を掴み、強引に拝殿へ向かおうとした。
 完全に放置された里子はさすがにムッとして、すかさず少女の前に立つと行く手を阻むように両手を広げた。

「ちょっと、待った! ねぇ、あなたはルカ君の友達?」

 立ちはだかる里子に、少女は面倒臭そうな声と鋭い視線を寄越した。

「はぁー? 友達? ……不正解、ワタシはルカの姉。で、何?」

 姉弟と聞き、一瞬言葉を詰まらせる里子であったが、思い切って意見した。

「……でもルカ君、嫌がってるよ。無理やりはよくないんじゃない?」

「なんで、オバサンにそんなこと言われなきゃならないの? 関係ないでしょう? ……ああ、それとも……関係あるのかしら? ねぇ、ルカァ?」

 少女は里子に言い返しながら、意味ありげな視線をルカに向けた。
 するとルカは目を大きく見開き、慌てて少女に取り縋った。

「ち、違う! 里子さんは関係ない! ……ボク……ルイ姉さんと一緒に行くから。それでいいでしょう? だから、お願い」

 そして里子を見ると、ルカは無理に笑顔を作った。

「ルカはこう言っているわ? 別に嫌がっていないみたい……では、失礼」

 ルイと呼ばれた少女は、勝ち誇ったように捨て台詞を吐いた。そしてルカの手を取り、里子の横を通り過ぎる。
 里子はそれを黙って見ているしかなかった。ルカに「何もしないで」と止められているような気がしたからである。

 大人しく手を引かれていたルカが、ふと足を止めた。
咎めるルイに、ルカが何か耳打ちすると里子へ向かって駆けて来る。そして迷うことなく、里子に飛びつき「……ごめんね」と囁いた。
 里子の身体が自然と動く。ルカの頭に腕を回し、包み込むように抱いていた。

「なぜ、ルカ君が謝る?……ねぇ、大丈夫なの?」

 ルカが里子の腕の中で顔を上げると、満面の笑みで答える。

「深呼吸すれば大丈夫!」

 そこにルイの催促が聞こえてくる。

「ルカァー! まだぁー?」

 ルカは里子にもう一度ギュッとしがみつくと、ルイのもとへ駆け出した。

「ルカ君! バイバイ!」

 里子はルカの後ろ姿に、大きく手を振った。
 走りながらルカも振り向き「バイバイ!」と告げ、石段を登りルイの待つ拝殿へと向かう。
 笑顔で見送っていた里子は、ふとおかしな点に気づいた。

「う、うへぇ? な、なんで拝殿? ……ちょっ、ダ、ダメだよ! そんな所に入ったら、バチ当たるよ!」

 素っ頓狂な声を上げた里子は、二人を止めるべく追いかける。
 老体に鞭打って、石段を駆け上がった里子の健闘も空しく、二人は消えていた。
 里子は周りを見回し「失礼しまーす」と呟きながら、恐る恐る拝殿の中を覗く。

 誰もいない。人影も見えない。

 ただ、磨き上げられ黒光りする床と、御神体をまつる祭壇が見えるだけ。
 里子は奥まで確認しようと、扉を掴み頭だけ中に入れる。

 途端、背後からダンプカーをも横転させるような突風に襲われた。
 扉にしがみつき必死で抵抗するが、凄まじい風に勝てる訳もなく、無情にも里子の身体は拝殿の中へと吹き飛ばされる。

 里子は「床に叩き付けられる」と身構えた。

 その予想に反して、内蔵がフワッと浮き、次に高い所から途轍もないスピードで落下する衝撃が彼女を襲った。
 あり得ない衝撃はどこまでも続き、やがて里子は意識を手放した。
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