【完結】両性を持つ魔性の王が唯一手に入れられないのは、千年族の男の心

第2章 十年前の話

山を降りた男

　ある日、我々の中の一人が掟を破って山を下りてしまった。

　俺より年上の男で、名前は金色の壊中時計。
　役目は薪割りだった。

　唐突にいなくなった懐中時計を、探す者はいなかった。長老も、他の大人たちも、掟を破った者のことは忘れるという主義だったのだ。

　退屈な生活に飽きて、山を下りる者は少なくなかった。そして、みな下りたっきり帰ってこないのだ。
　
　しかし、金色の懐中時計は山を登り戻ってきた。

　戻ってきた懐中時計は変わり果てていた。
　早口で訳のわからないことを喋り、長老たちに、今すぐ山から下りるべきだと促した。

　しかし誰も彼に取り合わなかった。『獣』に襲われ、気が触れたのだと言われていた。

　俺は懐中時計に、下の世界はどうだったのかと尋ねた。
　彼は、信じられないほど鮮やかに笑った。まるで夢に出てくる『獣』達のように。

　金色の懐中時計は言った。

「気性の荒い獣に心を食いつぶされるという迷信があるが、あれは嘘だ。

　心を食いつぶされるのではない、心を奪われてしまうのだ。
　雪に埋もれた白い世界の中、ただ死に向かって漠然と生きているだけの我々に、『獣』たちの世界はめまぐるしく、眩しすぎるのだ。

　『獣』達の一生は我々にとっては酷く短い。
　しかし花は散るから美しいように、だからこそ獣達は滑稽で、愛おしい」、と。


　しばらくして彼は死んだ。眠るように安らかな顔をしていた。

　死ぬ前に教えてくれた。

　彼は、『獣』の一人に恋をしたのだと言う。

　恋の味を教えてくれた彼女が死んだから、もうこの世にとどまる意味は無いのだと。

　俺は、彼が羨ましかった。

　このまま、番犬のまま死ぬのは嫌だった。

　『獣』達は狩るときに、聞き取れない言葉の速さで怒り、絶望し、驚き、哀しみの表情を見せた。

　それは、決して我々はしない表情だった。