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第六章 社畜と女子高生と二人の選んだ道
17.社畜と墓前
しおりを挟む午後、式田さんの車に乗せてもらい、和枝さんの墓へ向かった。
アメリカの墓地は、日本と違ってだだっ広い公園のような感じで、陰鬱さはなかった。墓石の形が色々あって、何も知らずに見れば公園のオブジェのように見えた。墓地の中では野生のリスが駆け回り、ウォーキングをしている人もいた。
和枝さんの墓は、墓地の隅にあった。日本と違ってアメリカは土葬が主流だから、四角い棺を埋めるスペースの後ろに、板状の墓石があった。和枝さんは荼毘に付されたはずなのだが。
俺たちは途中で買った花束を墓前に添え、手を合わせた。アメリカ式のお祈り方法は知らなかったので、日本でよくやる方法で祈っておいた。
「ああ。雪で汚れてるわね。私、掃除用具を取ってくるから、しばらくここにいてください。三十分くらいで戻ってきます」
「俺も行きますよ」
「ちょっと車で走るだけだから気にしないで。せっかく来てあげたのにお墓が汚れてるなんて、日本人としてはありえないでしょう。暇だったらそのへんを散歩していてもいいですよ」
そう言って、式田さんはその場を去った。
アメリカにいるのにそういうところは日本人っぽいんだな、と思ったが、よく考えたら、俺と理瀬を二人きりにするため、気を使っていたのだ。
二人で無言のままは気まずいので、俺から先に話しかけた。
「和枝さん、いい人だったよな。亡くなったなんて、まだ信じられないよ」
「私が中学生の頃から、病院によく行っていて、なんとなく心配してたんですけど……まさか、こんなに早く亡くなってしまうとは思わなかったですよ」
「ああ。俺も、まだどこかで生きてるんじゃないか、と思ってる」
「お母さん……」
理瀬が辛くなってきて、涙を浮かべた。
和枝さんが亡くなってから古川の家に行くまでは、ドタバタの連続だったから、あらためて墓と対面すると、和枝さんは本当に亡くなったのだという実感が湧いてきた。それは理瀬も同じだと思われた。
「泣きたいなら、泣いた方がいいぞ」
「……」
「俺みたいなおっさんになったら、もう涙なんか出なくなるからな。若いうちの特権だよ」
「なんですか、それ……」
理瀬は耐えきれず、ぐすっ、と泣き始めた。俺は理瀬の肩を抱いた。篠田が近くにいる今の状況で悪いとは思ったが、そうしないと理瀬は一人で立っていないように思われた。理瀬もそれを受け入れて、俺の胸に顔をあててしばらく泣いていた。少し心配になるほど、強くふさぎ込むような泣き方だった。しかし最後は自分で涙を止め、俺から離れた。
「あの。これ、本当はお見送りする時に渡そうと思ってたんですけど」
理瀬がハンドバッグから、鍵束を取り出した。あの豊洲のマンションの鍵だった。
「私はしばらくアメリカにいるので、賃貸にでも出そうかと思ってたんですけど、知らない人に住まれるのはなんか嫌ですし……思い出が消えてしまいそうな気がするので。ここまでお世話してくれたお礼に、宮本さんと篠田さ……今は結婚したから両方とも宮本さんですか。お二人で住んでくださいよ」
「ああ……気持ちは嬉しいが、俺と篠田は社宅に入るって決まってるんだ。俺たちの給料であんな高級マンションに住んだら、会社から怪しまれるし……それに、あそこでの思い出は楽しかったけど、篠田とは一度、はじめからやり直したいっていう気持ちがあるんだ。あそこにいたら、色々思い出してしまうだろう」
「そうですか……それを聞いて安心しましたよ」
「どういう意味だ?」
「宮本さんは、ただあの家に住むためだけに私のお世話をしてくれてたんじゃなくて……私のために住んでいてくれたんだって、わかったからですよ」
「……ああ、そうだな」
「住まなくてもいいので、鍵は持っていてください。正直アメリカにあっても困りますし」
「……そうか。預かっておく。日本に帰ってきた時はいつでも言え。俺と篠……彩香でキレイにしておくから」
「ありがとうございます。もし喧嘩したら、そこに家出してもいいですよ」
「しねえよ。っていうか、家出先があんなに心地いいところだと帰りたくなくなるわ」
くすり、と理瀬が笑って、俺は安心した。
遠くの駐車場に、車が止まる音がした。式田さんのスバル・レガシイだ。二人きりで居られる時間も、あとわずかだった。
「本当は、今でもすごく心配なんだ。お前がアメリカに一人で住むことが」
「……中学生くらいの頃から、お母さんと一緒にそのための訓練はしてたので、大丈夫ですよ」
「そういう意味じゃなくて。お前が、俺の近くにいないことが心配なんだよ」
「それは……親とか、お兄さんとか、そういう気持ちに近いですか」
「うーん。それはちょっと違うかもな。でも、何に近いかと言われると、正直わからん。強いて言うなら、俺はただのおせっかいなおじさんだから」
「私だけの、おせっかいなおじさん」
「……そうだな。理瀬だけの。理瀬だけの、おせっかいなおじさん」
遠くで、式田さんがバケツとデッキブラシを持って歩いてきている。その背後にはロッキー山脈の巨大な雪山が広がり、永遠に届かないような遠さに見える。
理瀬と二人でいるのは、あとわずか。
これで全て、もう終わりだ。
そう思うと、俺の瞳から、自然と涙がこぼれていた。
「あ――」
経験したことのない現象だった。嗚咽がこみ上げる訳でもなく、感情的に何かを我慢している訳でもない。理瀬は式田さんに面倒を見てもらって、俺は篠田と一緒に生きる、と決めたのだから。しかし俺の意思に反して、体が涙をこぼしていた。
式田さんは遠慮することなく、こちらへ近づいてくる。
「理瀬――」
理瀬の名前を呼ぶと、不思議そうな顔をして俺の顔をじっと見つめていた。
「すまん――大人が子供の前でこんな顔見せるなんて、あってはならないんだが――」
言葉が出ない。
どうしたんだ、俺は。
これまでの人生で、たとえば高校の後輩と卒業を機に別れたり、会社の後輩を別の職場へ見送ったり、別れの機会は色々あったはずじゃないか。
先に逝ってしまった和枝さんともう会えないように、永遠の別れ、という訳でもないのに。
二度と会えない訳ではないのに。電話でも、メールでも、理瀬と話はできるのに。
なのに、どうしてこの理瀬の前でだけは、冷静でいられないんだ。
冷静さを失い、俺はついに頭を垂れ、地面に涙をぽとぽと落としはじめた。
雪でぬかるんだ地面に、俺の小さな涙が落ちていく。その様子をじっと見つめる。このまま、時間が進まなければいいのに、と思う。
式田さんが、ここまで歩いてこなければいいのに。
何もかも忘れて――アメリカで、理瀬のことをずっと見守ってやれればいいのに。
そんなことを考えて、思考回路がショートしそうになっていた。
ふと、俺の視界に、小さな手が飛び込んできた。
理瀬の、小さな手だった。
「私は、大丈夫ですよ!」
ふと頭を上げると、理瀬も泣いていた。
しかし、完全に落ち込んでしまった俺とは違って、必死に、笑顔をつくっていた。
「あ――」
「宮本さんも、これからは篠田さんと一緒に、頑張ってくださいよ」
理瀬は泣いたまま、俺にずっと手を出していた。アメリカ人が挨拶でよくするように、握手を求めていたのだ。
もし、豊洲のうんこ公園で一人絶望していた頃の、自分以外の世界を理解してない理瀬だったら――こんな事はしなかっただろう。こういう時に、できる限りの笑顔をつくって、ちゃんとした挨拶ができるようになったのだ。
これまで色々なことがあって、俺が与えられたことはごく僅かだが――理瀬は、ちゃんと成長していたのだ。
「――ああ。そうだな。頑張るよ」
結局、俺は最後まで大人としての威厳を理瀬に示せなかったと思う。勝手に泣いて、女子高生に手をつないでもらって、それで泣き止んだのだから。
「色々思い出してしまったみたいですね!」
式田さんがそんな時間を裂くように、デッキブラシとバケツを地面に置いて、がらっと音を立てた。
「ほら。掃除しますよ。和枝はきれい好きだったでしょう」
式田さんはぶっきらぼうだったが、俺達に顔を見せないようにしていた。最後までわからなかったが、もしかしたら彼女も、辛い顔をしていたのかもしれない。
こうして俺たちは、雪にまみれた和枝さんの真新しい墓石を磨き、最後に皆で手を合わせて、墓地を離れた。
** *
この後、俺は式田さんにドリスさんの家まで送ってもらい、篠田と合流した。
篠田は一人でボルダー市の商店街をうろうろしていたら、キリスト教系の勧誘に捕まって、教会でわけのわからない話を延々と聞いていたらしい。俺にそれを話した時、相当な恨み節がこもっていて、隣にいた理瀬が笑っていた。
最後。俺と篠田は、順番に理瀬とハグをしてわかれた。アメリカでは親友と別れる時はそうするから、と式田さんに提案されてのことだ。
ハグの瞬間、少しだけ理瀬と最も近かった頃の感覚が蘇った。だがすぐに、隣にいる篠田に順番をかわったので、忘れた。
そして俺たちは式田さんにボルダー市郊外の観光用ホテルに送ってもらい、理瀬との長い長い旅は、ついに終わりを迎えた。
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