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第五章 社畜と本当に大切なもの

4.社畜と煙草

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 篠田と『最後の晩酌』をした次の日、古川から電話があった。

 要約すると「理瀬から色々なことを聞いた。これまでの事と、今後の事について話がしたい」との事だった。古川が多忙なため、会って話せるのは三十分程度。詳しい話は会ってからしたい、とのことで、何が狙いなのかはわからなかった。相手の動きが予測できない状態で会うのは不安だが、お前と話すことは何もない、と突っぱねるのもおかしいので、俺は了承した。

 その事を前田さんに話すと、次のように助言をもらった。


「まあ、全くコンタクトが取れんよりかは、何回か話したほうがええですし、別にええんとちゃいますか。ただ、この二つは守ってください。一つは、宮本さんが豊洲のマンションに住み続けるという話は絶対に拒否することです。相手の思惑通りになるのは気色悪いんで。まあ、向こうは物件を維持するだけなら、管理会社に頼めばいいだけの話ですし、本気で断られたら諦めるでしょ。二つ目は、私と宮本さんが通じとることは絶対秘密にしといてください。なんか新しいことがわかったら、後で私に教えてくれれば、何かしら考えますわ」


 そんな訳で、俺は霞が関付近にある喫茶店へ向かった。

 指定された午後四時の五分前に到着すると、そこにはすでに古川と、若い女性の姿があった。

 二人の姿を見ながら、俺は驚いた。古川と一緒にいる若い女性が、理瀬のように見えたからだ。

 きれいな黒髪のポニーテールに、きりっとした顔立ち。眼鏡をかけているのも、理瀬と同じ。スカートスーツを着ていて、出で立ちはどう見ても社会人なのだが、とにかく雰囲気が理瀬と似ていた。冷静で、理知的で、何でも見通しそうな厳しい心を持ち合わせていて、外見だけで相当優秀な人物だとわかる。そんな女性だった。


「理瀬だと思いましたか?」


 驚いて何も言えない俺に、古川が笑いながら話しかけた。つられてその若い女性も笑った。俺はそこで初めて、その若い女性が理瀬ではないと気づいた。理瀬は、相方に合わせて器用な愛想笑いをするような子ではなかったからだ。


「……理瀬さんだと思いましたよ、本当に」

「驚かせて申し訳ありません。こちらは私の元部下で、伏見京子といいます」

「秘書さん、ですか?」

「いえ。今は仕事上、直接のつながりはほとんどありません。実は、理瀬を引き取ってから、伏見に理瀬の進路や、生活のことを相談してもらっているんです」


 伏見京子と呼ばれた女性が、非常にビジネス的なお辞儀をした。


「伏見といいます。突然押しかけてしまって申し訳ありません。宮本さんのことは、理瀬さんに色々聞いています」

「まあ、ここでは何ですから、店に入りましょう」


 古川が指定した店は、雑居ビルの二階にある古風な喫茶店だった。階段を登り、入り口を開けなければそこが喫茶店だとはわからなかった。秘密の話をするにはうってつけの場所だ。案の定、席も個室のような作りだった。

 古川と伏見が並び、俺がその対面に座る。メニューを見ると、一番安いブレンドコーヒーが一杯二千円もした。「今日は私が持ちますから、何でも頼んでください」と言われたが、流石に遠慮して、ブレンドコーヒーのみにした。古川持ちだと聞いたときは、つい安心してしまった。これは安月給の社畜の性だから仕方ない。


「すいませんが、煙草を吸わせていただいてもいいですか」


 古川がテーブル脇の灰皿をちらちら見ながら言う。


「ああ、いいですよ。俺も一時期は吸ってましたし、業界的に喫煙者が多いので、特に嫌ではないです」

「そう言っていただけると、助かります。最近、一服できる場所が本当に少なくて」


 古川は自前のシガーケースから長い煙草を一本取り出し、火をつけた。多分ザ・ピースだろう。普通の煙草の倍くらいする高級品で、缶に入っているからシガーケースに移さないと持ち歩けない。さすが金持ちは嗜好品からして違う。


「ザ・ピースですか」

「おお、ご存知ですか」

「大学生の頃、友人に吸わせてもらったことがあります。俺は金がなくて、わかば吸ってましたけど」

「私も若い頃はもっぱら、わかばでしたよ。あれもいい煙草でした。今でもたまに吸いたくなる時があります。もう売っていませんが」

「えっ、そうなんですか」

「ええ。葉巻に変更して売っていますが、紙巻きとは味が違うので、私はあまり好きではないんですね」


 ザ・ピースの甘い香りと、予想に反して柔らかい古川の対応に、俺は思わず心を許しそうになった。これが官僚のトップまで上り詰めた男の話術なのか。運ばれてきたコーヒーを一口飲み、気を取り直す。


「すいません、本題に入りましょう」


 古川は煙草の火を消し、真面目な顔に戻った。


「理瀬から宮本さんの話をいろいろと聞かせていただきました。胃が悪かった理瀬へ病院に行くよう勧めたり、料理や洗濯といった家事全般を教えてくださったり。それから保護者代わりに宮本さんのお付き合いしていた女性と一緒に住む、という理瀬の無茶な要求にも答えてくださり、大変ありがとうございました」

「はあ」


 話が読めない。

 初めて会った時、古川の表情はもっと険しかった。「娘を返せ」ぐらいの気迫を感じたものだが、今は一転して、そのような気配がない、俺を褒めちぎって、一体何を言いたいのか。


「親としては、これまで理瀬の面倒を見ていただいたお礼をしなければならないと思いまして」


 古川は鞄から、分厚い封筒を取り出した。


「ここに一千万円あります」


 思わずごくり、と唾を飲み込んでしまった。

 一千万円という現金。生で見るのは初めてだった。まさかそんなものが出てくるとは思わず、俺はかなり驚いてしまった。その表情は古川にも感づかれたことだろう。

 普通に欲しかったが、今後のことを考えると、どう考えても受け取るべきではない。理瀬との手切れ金という意味かもしれないのだ。


「いえ、このお金は受け取れません」

「遠慮なさらないでください。政治家や財界の有名人が子供のために雇う家庭教師は、これ以上の報酬をもらっているものですよ」

「いえ……確かに私は理瀬さんに色々と教えましたが、全て自発的にやったことですし、何より豊洲のマンションでルームシェアをする、という理瀬さんにしか出せないものを受け取っていました。うちの社員はあそこに住めるほど給料がよくないので、職住接近するためなら理瀬さんの面倒を見ることくらい、なんともなかったです。加えて金銭を受け取るような取引ではありませんよ」


 ルームシェアの対価として生活のいろはを教える、というのはそもそも理瀬が言い出したのだ。今でも俺の中では、その契約が成立している。俺はそれを守るまでだ。


「……そうですか。失礼しました」


 古川は意外にあっさりと現金を取り下げた。金では動かない、と判断したのだろうか。

 現金を鞄にしまい、二本目のザ・ピースに火をつけ、古川がまた話しはじめる。


「しかし、今の話を聞くと、やはり今の家に住み続けている方が、宮本さんとしては快適なのでしょう」

「確かに、楽は楽ですよ。ただもう理瀬がいないので、あの子に何かを教えるという約束は守れません。何の対価も払わず、ずっと居座るつもりはないです。実はもう、引っ越しの準備もしています。そろそろ古川さんにも話して、退去しようと思っていました」

「……私としては、見ず知らずの相手よりも知っている方が住んでいるほうが安心なので、十分な対価だと解釈しているのですが」

「いえ。俺が納得できないので。家の管理なら、マンションの管理会社にお願いしてください。費用はかかると思いますが、残業ばかりでろくに掃除もしない俺よりはずっとマシです」

「……そうですか。では、あの家にはもう住まない、ということですね。申し訳ないですが、すぐに管理会社と話をつけますので、それまでは住んでいただけますか」

「いいですよ。オートロックのマンションなので、俺がいなくても問題はないと思いますが、誰も管理していない状態はまずいでしょうから」


 この話も、古川はあっさりと俺の要求を受け入れた。

 俺としては有利だが、こちらの要求を一方的に飲むためにわざわざ俺と会っているとは思えなかった。まだ何か話があるのだろう、と俺は思う。逆に言えば、この二つの要求だけで話を終わらせれば、この交渉は俺の勝ち。さっさと切り上げた方がいいのかもしれない。

 古川は、腕時計を大げさな様子で確認した。俺もつられて腕時計を見ると、四時十五分くらいだった。


「……すみません、わざわざお越しいただいて申し訳ないのですが、実は五時から打ち合わせがありまして、なるべく早く出たいのですが」

「私はいいですよ。むしろ、お忙しいのにわざわざ時間を作ってもらって感謝しています」

「いえいえ、娘のためですから当然のことですよ。それより今日は、伏見のことをお話したくて」


 古川の隣でザ・ピースの強い匂いにも微動だにせず、ただ黙って話を聞いている伏見。


「娘の世話をしていただいた恩人に、このような話をするのは大変不躾かもしれませんが……宮本さん、あなたは今独身で、交際している方もいない、と理瀬から聞いているのですが」


 古川が、怪しく微笑んだ。何を考えているか全くわからないのに、その笑顔には恐怖感を覚えた。俺はこの時、会話のターンが切り替わったのだと直感した。
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