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第三章 社畜と昔の彼女と素直になるということ
17.社畜昔ばなし ⑯おしまい
しおりを挟む俺の就活は大学四年のGW前に終わった。
希望どおりの電機メーカーから内々定を貰った。最大手はことごとく落ちたが、その二番手くらいの有名な大企業だ。今の会社である。
すぐに照子へ話した。照子からすれば名前も聞いたことのない会社だ。でも俺が苦戦していたのを知っていたから「良かったなあ」と素直に喜んでくれた。
こうして俺は就活を終え、卒論作成に向け研究室に引きこもる日々が始まった。
理系大学の研究室はブラック企業並の待遇だ。学部の成績が良くなかった俺は、教授に言われるとおり朝から晩まで実験をこなし、とにかく卒業できるように努力した。
照子と作曲をする機会は、徐々に減っていった。
有名になりつつあった照子のスケジュールが埋まっていたこともある。ただ、俺としては研究室より照子との用事を優先する気になれなかった。照子のことが嫌いになった訳ではないが、何事にも優先順位はあるし、恋愛が全てという訳にはいかない。
それは照子も理解してくれているだろう、と俺は思っていた。
そんな日々が続き、実家にも帰らず研究室にこもっていた大学四年の八月。久々に照子の作曲手伝いをした時、照子からこう切り出してきた。
「剛、歌手でソロデビューしてみん?」
「……は? 俺が?」
「うん。今仕事貰ってるレーベルのディレクターさんが、剛の声聞いてけっこういける、って」
「なんで俺の声を聞いてもらってるんだよ?」
「練習した時の剛の声、全部録音して持って帰りよるもん。完成した曲に剛の声がのっとるやつ、聞いたらしいんよ」
「ふーん」
俺としては、この時すでに社畜となる覚悟を決めていた。
今更歌手でソロデビュー、なんて考えてもいない。そんな事をしたら、せっかく貰った大企業からの内々定を取り消されるかもしれない。そのほうが怖い。
「俺はいいよ。お前がこうやって作曲できてるんだから、俺がわざわざ歌手にならなくていいだろ。俺は普通に働きたい」
「サラリーマンより歌手になる方が難しいんじょ? もし失敗したら、最悪うちが養ってあげるけん」
この時、すでに照子は極貧生活から脱出し、俺を養えるくらいの収入はあった。
でもそんなのはダメだ。男が女に養ってもらう、なんて格好悪い。
「お前だっていつまでブームが続くかわかんねえだろ」
「ひどっ! でもほんまにそのとおりなんよな。剛がおらな上手く作曲できんし」
「作曲の手伝いだけなら、会社員になっても今みたいにできるから。心配するな」
「ほんまかなあ……」
照子はまだ疑っていた。
俺は研究室疲れがひどく、照子とスタジオへ入ったのに二、三回歌っただけであとは寝ていた、という日も増えていた。
照子は、いつか俺が自分から離れるのではないかと、焦っているようだった。
「一回だけ、一回でいいけんディレクターさんと会ってみん? メジャーレーベルで売り出せたら、すぐヒットするわ。インディーズとは大違いやけんな」
「ヒットするのは俺の歌じゃなくてお前の曲だろうな」
「うちの曲は、剛が歌った時がいちばん綺麗なんじゃ!」
俺より歌が上手い歌手はいくらでもいる。照子の曲だからといって、俺がうまく歌いこなせていたようにも思えないのだが。
「もう帰るわ」
研究がうまくいかずストレスが溜まっていた俺は、照子の話を本気にせず、先に帰ってしまった。
** *
終わりの時は、思わぬ知らせから始まった。
照子にメジャーデビューの話をされてから一ヶ月後のことだ。
大学の研究室にこもっていた時、外の自販機まで行こうと建物を出たら、玄関のすぐ外にある喫煙所でタバコを吸っていた男子学生に、突然足を引っ掛けられた。
「……あっ? 何すんだよ?」
その男子学生は大学の軽音サークルの部長で『大学で唯一、ガチでロックやってる男だから』とよく言っていた。俺が都内で活動していることを知られ、軽音サークルに勧誘された事もある。どうやら勝手にライバル視されているらしい、という話も聞いた。
「お前、最っ低だよな」
「は? 何がだよ?」
「何がじゃねえよ。お前、あのYAKUOHJIになんて事させてんだよ」
意味がわからず、ただ黙っていた俺に、その男はスマホの画面を向けた。
当時流行り始めていたTwitterで、とあるバンドメンバーどうしの長々と続くリプライ会話だった。
『YAKUOHJIこの前本物見たよ。すげーかわいい。けどEJ社のディレクターに枕してるらしいから俺はパス』
『えっ、あれ枕で仕事取ってんの?』
『作曲は実力だけど、彼氏を歌手デビューさせたいとかいう噂聞いた』
俺は、頭が真っ白になった。
「まさか知らなかったのか? 都内ではけっこう有名な話らしいぞ」
教えてくれたそいつとはろくに目を合わさず、そのまま研究室の机に戻った。周囲にいた学生や教授が心配して声をかけてくるほど、俺は憔悴していた。
ちょっと腹が痛い、という小学生の言い訳みたいな理由で早退し、俺は電車に乗っていた。そのまま世田谷にある照子のアパートへ向かっていた。
チャイムを鳴らすが、照子は出ない。
俺は待った。
アパートの玄関の前で、三角座りをして、ただ時が過ぎるのを待った。
何時間も待った。
日付が変わるくらいの時間になって、アパートの前に一台の高級車が止まった。
運転席には、五十歳くらいの、いかにもチャラい格好をした、派手なおっさん。
助手席には、照子の姿があった。
照子は車から降りた後、「ありがとうございました!」と礼をした。そのまま車は走り去った。
車の向こうに俺がいると、照子が気づく。
「……剛?」
「気持ちよかったか?」
「っ!」
俺のあまりに品のない言葉に、照子の顔が凍りつく。
「知っとったん?」
「都内でバンドやってる奴らの間では、有名らしいぞ」
「そんな……」
自分が噂されているというのは、案外気づきにくいもの。照子は、俺が何も知らないと思っていた。
「と、とりあえず部屋入ろ?」
二人共黙って部屋に入り、定位置のソファに並んで座った。照子からは、いつもと違うシャンプーの香りがした。
「なあ……俺がいつ、そんなことまでしろって言った?」
「……」
「俺はもう、歌手になりたいなんて思ってない。会社員として働く。お前にもそう説明しただろ? そこまですることかよ? あんなおっさんに体売ってまで俺と歌いたいのかよ?」
「違うもん……そんな、してないもん……」
「こんな時間に帰ってきて、何もしてないって?」
「……本番、は、してないもん」
そんな生々しい話、聞きたくなかった。
照子があのおっさんに体を許しているところなんて、一秒も想像したくなかった。
「アホ!!」
俺は、今まで気づいてやれなかった自分が許せなかった。
俺が照子に、歌手にはならないと強く言っていれば。
就職して二、三年で結婚するという人生プランを、もっと詳しく話していれば。
こんなことにはならなかった、全て俺が悪いのだ。
心の奥底ではそう思っていた。本当に。
だが、俺は自分の弱さを認められなかった。
すべて照子のせいにしようとしたのだ。
「二度とせん……もう……二度とせんけん……」
照子は泣き出した。俺が照子に、というか他人にここまで怒りを見せたのは初めてのことだった。泣いてしまうのは当たり前だ。
「泣いたら許してもらえるとでも思ってるのか!」
だがこの時の俺は、どこまでも醜かった。
俺は、照子を突き飛ばしてしまった。
照子はどん、と力なく床に倒れ、そのまま起きあがることもできず、カーペットを涙で濡らし続ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣きながらもひたすら謝る照子を、俺はソファに座りながら見下ろした。自分が暴力をふるった、という事実を初めて認識した。今度は、急に自分が恐ろしくなった。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
俺は地団駄を踏み、苛立ちを押さえようとした。だが、心も体も沸騰していて、どうにもならなかった。
結局、そのまま照子の家を出た。
終電の時間はとっくに過ぎていた。俺はコンビニでウイスキーの大瓶を買い、大瓶のままストレートで一気に飲んだ。その後のことはよく覚えていない。目が覚めた時は、家にいた。体がものすごく冷たく感じ、一週間ほど大学を休んだ。
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