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第三章 社畜と昔の彼女と素直になるということ
12.社畜昔ばなし ⑪価値観
しおりを挟む俺と照子が付き合い初めてから、触れ合うようになるまで、そう時間はかからなかった。
俺が宣言したとおり、まずは仰々しくデートを繰り返し、手をつなぐところから始めた。俺は手汗がついていないか、心配ばかりしていた。でも照子は「剛の手汗やったらきれいやけんいけるよ」と言って笑った。身体の近づけ方に関しては、照子の方が慣れていた。
駅前をぶらぶらしたり、バスに乗ってとくしま動物園に言ったり、金がなくなった時は自転車で海を見に行ったこともあった。なんのことはない青春の日々だ。
夏休みのコンクールに向けて部活が忙しくなると、デートよりも学校に残って話をする時間の方が長くなった。二人だけで部室に残り(他の部員たちは空気を読んですぐ帰るようになった)、誰にも見られていないところでハグをした。初めてのキスは、ハグをしている途中で照子から頬に軽く触れられた。俺は何か当たったような気がしただけでキスだと気づかず、帰った後にメールで「せっかくキスしたのに!」と照子から怒られた。
一方で、俺と照子による部活の改革は進み、昨年突破できなかったコンクールの県大会で雪辱を晴らした。俺の方針について来てくれた先輩たちや同級生、それに後輩たちから称賛され、絶好調だった。俺自身も、目的に対して戦略的な計画を立て、それを実践するというプロセスを成功させたこの経験はとても嬉しかった。社畜になった今でも生きていることだ。
初めて照子と触れ合ったのは、コンクールの四国大会の前日だった。
会場が愛媛県の松山市で、宿泊場所が顧問の先生の知り合いという道後温泉の温泉旅館になった。もちろん練習はしたが、久々にコンクールで県外に出たこともあり、温泉旅行気分は否めなかった。県大会以上に四国大会の層が厚く、どうせ勝てないから、という気持ちもあった。
入浴の後、俺は照子の泊まっている部屋に呼び出された。そこは四人部屋だが、浴衣姿の照子しかいなかった。他の女子たちは別の部屋に逃げていた。これは照子の策略だった。
部屋に入った俺が唖然としている時、照子は何も言わず、はにかんでいた。
「今から何する?」
「もう、わかっとるくせに。剛のいじわる」
こうして俺たちは、最後の壁を乗り越えてしまった。
終わった後、照子はしきりに「これでうちは剛のものになったけん」と言っていた。どういう意味なのか、俺にはわからなかった。身体を交わしただけで、照子が俺の所有物になるはずがない。でも、本人がそれで満足なら、その気持ちを乱そうとは思わなかった。
翌日のコンクール本番は、俺の声がガラガラで男声パートが大崩れした。
** *
一度触れ合うことを覚えてしまうと、俺は性欲を抑えられなくなった。
照子の家は大学生の下宿のような1LDKで、照子の母親はパートのために日中はほとんどいなかった。俺の家はいつも家族がいるから、することは限られる。というか、俺は家族に彼女を見られるのが嫌で、一度も自宅へ連れて行かなかった。照子は挨拶したがっていたようだが。
午前中の部活が終わった後、そのまま照子の家になだれ込み、だらだらしながら身体を交わすのが日常になっていった。
お互いに用事があって、どうしても時間がとれない日もあった。そういう時は、学校でもしていた。はじめは照子が拒否していた。「人に見られたら嫌じゃ」という理由だ。でもお互い欲求不満が続くと、お互いにタガが外れてしまい、夜遅くの部室でしたこともあった。本番までしなくても、二人でいる時はしょっちゅうお互いの身体をまさぐりあっていた。
俺も照子も、身体の触り方には慣れていなかった。木暮先輩としなかったのか、と聞いたら、「あの時は好奇心いっぱいだったけん何回かしたけど、そんなにしてないよ」と言っていた。
照子にとって、木暮先輩は高校デビューした時の思い出だと認識されていた。
異性の身体をどう触ればよいのか、二人ともはじめて試していた。
避妊だけは怠らなかった。コンドームは交代で買ってきた。「ごっつ恥ずかしいんじょ、もう!」と照子は怒っていたが、そんな姿を見るとすごく可愛らしかった。
こうして俺は、部活の他に照子との恋愛という新たな日常を手に入れた。
忘れてはならないのは、バンド活動の事だ。
二年になった俺達は、三年の五月にはなはるバンドコンテストに出て集大成とするつもりだった。徳島県内では、チャットモンチーも出演したというはなはるバンドコンテスト以外に目標とするものがなかった。それに三年になったら皆受験に集中するから、三年の五月がちょうどいいやめ時だった。
バンド活動は岩尾、俺、照子、赤坂さんの四人で継続して行われた。俺と照子が近づいている間に、岩尾が赤坂さんに告白した。一度振られ、あきらめるかと思ったら何度も告白していた。最終的に七回目の告白で赤坂さんが折れた。こういうアプローチの仕方もあるのか、と俺は感心した。ポジティブな岩尾らしいやり方だったと思う。
岩尾と赤坂さんが付き合うことは祝福すべきことだ。でもそのせいで照子と、ちょっとした諍いが起きた。とある練習の日、俺と赤坂さんが二人でスタジオの外で話していた時のことだ。
「赤坂さん、岩尾とは付き合わんと思っとった」
「んー。最初はうちもそう思っとったけど、亮(岩尾の名前だ)、うちが『音楽的に刺激になる人と付き合いたい』って言ったら、それに合わせてひたすら練習しよったんよ」
「そういや最近、だいぶ上手くなったよな。なんつーか、演奏の精度が上がっとる」
「うちも勝てんくらいの練習量やけんな。あのレベルだったら付き合ってもええかな、って」
なるほど、赤坂さんを動かしたのは岩尾の外見や性格ではなく、あくまで音楽的な実力だったのだ。それなら納得できた。
「今更やけど、宮本くんはなんで照子と付き合うことにしたん?」
「え?」
「最初は、付き合ってないってずっと言いよったやん。照子に告白されたけん付き合った、ってそれだけなん?」
それだけなのだが、流石にそうは言えなかった。照子と付き合う前に好きだった江南さんの事は、もうほとんど忘れていた。何回も身体を交わらせ、俺は本音で『照子が好き』と言えるようになっていた。
「照子に告白される前に、好きな人とかおったん?」
俺は目を泳がせた。今忘れているとはいえ、江南さんを好きだったことは覚えていた。
「おったんやな。それなのに付き合ってくれそうな照子を取ったんか。悪い奴やな」
赤坂さんが俺の肩を小突いてきた。
その瞬間を、スタジオから出てきた照子に見られた。
照子は急に涙を浮かべ、「帰る!」と言って逃げてしまった。
「おいおい、待てよ!」
俺は全力で追った。自転車で全力疾走する照子はけっこう速く、お互い息切れしながらもつれ合うように近くの公園にたどり着いた。
「どしたんな」
「……話、聞っきょった」
「赤坂さんとの話?」
「うん。剛って、涼子ちゃんの事好きやろ?」
「は?」
思いもしない言葉だった。赤坂さんとは親しくしているが、そういう目で見たことはない。ストイックな音楽家として、一歩距離を置いている感すらある。
「なんでそうなるんな」
「いつも仲良くしよるやん。今日も二人で話しよったし」
「音楽の話しよるだけじゃ。好きとかそういうんとちゃう」
照子はぐずぐずと泣き出した。女の子の泣いている顔を見るのはこれが初めてだった。とても悪いことをしてしまった、という気持ちがして、こちらが泣きそうになった。
「でも、うちも人のこと言えんのよな。木暮先輩と付き合いながら剛に告白したけん」
どうやら、照子にとってはそれが一番の負い目らしかった。仮に俺が他の誰かを好きだとしても、照子にそういう経験があるから、追求できないのだ。
「あのなあ、照子。確かに何人か気になる女子くらい俺にもおったけど、赤坂さんのこと好きになったことはいっぺんもないぞ。ほんまに。もし好きだったら岩尾みたいにさっさと告白しとるわ」
「ほんまに……? ほな、誰が好きだったん……?」
「全部言わんとだめか? お前やって俺や木暮先輩以外に気になった男子くらいおるだろ? ほれとおんなじじゃ。今はお前のことが好きなんじゃ」
これで照子の機嫌は治った。滅多に直接『好き』と言わない俺からその言葉を引き出せたことが嬉しかったらしい。
この日はこれで何とか仲を取り持ったが、もしかしたら照子が俺と触れ合うことを急いだのは、赤坂さんから俺を引き離すためかもしれない、という考えが頭をよぎった。だとしたら恐ろしいことだった。女という生き物は、好きな男のためなら喜んで身体を許すということだ。
照子との恋愛は、とにかくいろいろな意味で俺の常識を破壊した。でも長い時間を経て、生活の中に照子がいるほうが常識になっていった。
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