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おだやかな午後

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 シュレンたちが帰った後、カイルはなんとなく家の入口の横の石に座って、庭の隅で木に繋がれているロバを眺めた。ずいぶんのんびりした気性らしく、突然連れてこられたにも関わらずムシャムシャと辺りの草を食べている。

「……水がいるな」

 それに荷物を家に運び込んで片付けないといけないし、中の掃除だってしたい。カイルは勢いをつけて立ち上がると昨日港と町を眺めた家の裏手に回る。そしてその時見つけた丸い煉瓦の囲いの上に乗せられた木の蓋を取った。

「やっぱり、井戸だなこれは」

 傍らには縄に括りつけられた手桶が転がっている。試しに中に桶を下ろしてから引っ張り上げてみると、ありがたいことにかなり綺麗な水が汲めた。カイルは一度家に戻って別の桶を取って来ると、そこに水を注いで運んだ。
 物置で見つけたボロ布を絞ってとりあえずテーブルや竈周りなどを拭く。そして埃だらけの床を見下ろしてモップがないことに気が付いた。

「お隣さんから借りられないかな」

 ならば、と庭に戻って運ばれてきた木箱を開ける。中には着替えやリネン類などの外に、母に持たされた大量のジャムの瓶とお茶の葉、そして芥子の種などが入っていた。

「相変わらず、ちょっとした病気ならスグリのジャムとお茶とカラシナの湿布で治ると信じているんだな、あの人は」

 カイルは丁寧にラベルの貼られた瓶を手にして微笑む。
 母エリザベスは最後の最後までカイルがここへ来ることを反対していた。いわく、そんな未開の土地にはどんな病原体があるかわからない、未知の病にでもかかったらどうなるのか、《旧世界》の野蛮なアルファにカイルが誘惑されてめちゃくちゃにされてしまったらどうしてくれる、と。

(まあ、でもアルファに誘惑されてってのは今後もなさそうだな)

 万が一力で押されたらさすがのカイルも彼らには敵わないだろうが、あそこまであからさまに迷惑がられていれば向こうがその気・・・になる可能性は皆無だろう。
 とにかく、縁談うんぬんはともかくこの故郷を離れて味わえるあまりに貴重な自由を思いっきり満喫しようとカイルは心に決めている。
 カイルはジャムの瓶を一つ取ると再び藪をくぐってお隣へ行った。

「ミセス パドマ!」

 カイルが大声で呼ぶと中からエプロン姿のままのパドマが出てくる。カイルはニコニコしながらさきほど借りた籠と一緒にはしりのイチゴの瓶詰を差し出した。

『これ お礼 ありがとう』

 カイルは知っている限りの単語を並べ、さらに身振り手振りも加えて『これはパンに塗って食べるものだ』と伝える。パドマは目をとんがらせた疑い深い顔でカイルと瓶を見ていたが、やがて受け取った瓶の蓋を開けて中の匂いを嗅いだ。そして指で掬って舐める。次の瞬間、黄色の目がパッと丸くなった。

「美味しいでしょう? うちのジャムは」

 ふいにパドマの顔の半分近くを占めている大きな口がにんまりと弧を描く。そしてまたペラペラとこちらの言葉で何かをまくしたてた。それをわかったようなふりで頷きながら「すみません、箒をお借りしたいんですが」と頼んでみる。そして扉の横に立てかけてある例の箒を指さすと、パドマは頷いてカイルに箒を差し出した。それから瓶と籠を持って家に入り、代わりに桶や布を持って出てくる。

「えっ、手伝って下さるんですか?」

 カイルの住まいに向かってスタスタと歩き始めた彼女の後について行きながらまた「ダンニャワード、ダンニャワード」と繰り返した。

 結局二人で半日かかって薄暗い小屋の木戸を全部開け、あの鍵が掛かった部屋を除いてすべての場所を上から下までひっくり返す勢いで掃除をした。あの物置部屋も整理してなんとか寝床らしい場所を確保する。
 途中、食堂兼台所にあるただ一つの椅子がカイルにとっては大きすぎるのを見て、パドマはまた何か言った後家を出て行った。そしてもう一人トカゲ人を連れて戻ってくる。擦り切れたシャツとゆったりとしたズボンを履いたそのトカゲは、どうやらパドマの夫のようだった。スボンの尻の部分には穴が開いていて、根本が太く先端にいくにしたがって細くなる尻尾が地面まで垂れているのが見える。うっすらと鱗に覆われた尻尾はまさしくトカゲそのものだが、昨日見たヴィハーンのやたらと太くて巨大な尾と比べればずいぶんとかわいらしいものだ。
 そのトカゲ氏は自分の胸を親指で突いて「ダラー」と言う。カイルはまた例の自己紹介を述べながら頭を下げた。

 ダラーはどこからか木の板と丸い棒をいくつか持って来ると、たちまち背が高くて背もたれのないバースツールのような椅子を拵えてくれた。しかも下の方に横棒を渡してくれたので、そこを足掛かりして容易に座ることができる。

「なるほど、これならこのテーブルの高さにも合うし、上り下りもしやすいわけか」

 カイルはダラーの見事な手際に感動して思わず拍手した。するとまんざらでもなさそうにダラーの尻尾がブンブンと左右に揺れる。
 それから三人は庭に出て適当な古布を敷き、カイルが開けた瓶詰のジャムとパドマが家から持ってきた薄焼きパンとで食事にした。
 どうやら夫婦はともにおしゃべりなようで、あれこれずっと話し続けている。それを聞きながら知っている単語が出れば相槌をうち、時折いろんなものを指さしながらこちらで何というのか尋ねたりした。

 藪を抜けて家に帰っていく二人を見送り、カイルはあの眺めのいい家の裏手の崖に回る。カイルが乗ってきた船はまだ港に着岸したままだ。お役人たちは一刻も早く国に戻りたがっていたようだが、燃料や食料などの積み込みにはもう少し時間が掛かるだろう。
 
 ベッドもなく、やたらと大きくて戸棚の一番上にも手が届かない不便な家で暮らすより、きちんと整えられた最先端の蒸気船の一等船室の方が過ごしやすいに決まっている。けれどカイルはあの船に戻りたいとはこれっぽっちも思わなかった。

(意外と僕は田舎暮らしに適性があったようだ)

 風味豊かなソースのかかった肉料理も皮目をパリパリに焼いた香ばしい魚料理もないし、うまいワインもふわふわの白パンもない。それでも雑草だらけの庭でトカゲそっくりな夫婦とにぎやかに食べた食事はとてつもなく美味しかった。

(これも全部ヴィハーンのおかげだ)
(次に会えたらぜひお礼を言おう。会えたらいいが)

 カイルは少しずつ傾いていく太陽と賑やかな港町を眺めながら、いつまでもそこにたたずんでいた。


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