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虎の店長さん、頑張る。

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――――そりゃあお前が一番会いたい子さ。今、この円環大厦にいるぜ。

 呉凱は電灯が所々消えていて薄暗い路を走りながらギリギリと牙を噛み締めた。
 さっきのしゃがれ声の犬人が一体なぜ呉凱をつけ狙うのかは判らず仕舞いだが、ヤツの言葉を信じるならばこの円環大厦にミナミがいるらしい。
 先日コンタクトレンズの処方箋を取りにここの眼医者へ連れてきた時、ミナミは怖がって呉凱の背中にぴったりと張り付いていた。そんなミナミが自ら好んでここへ来るはずがない。つまりあの犬に無理矢理連れてこられたということだ。

(クソ野郎……ッ! あいつに傷一つつけやがったらタダじゃおかねぇ……ッ!!)

 ミナミがあの男に拉致された、とわかった瞬間、呉凱の中でタブーはなくなったも同然だ。
 階段を上から下まで一気に飛び降り、来た道を戻る。その時、ふいに壁が崩れている一角に出くわした。弱いながらも外のネオンがわずかに差し込んでいる。すると上着のポケットが突然ブルブルと震えた。呉凱は携帯を取り出すと、液晶に表示されている名前を確認してすぐさま通話ボタンを押す。

「てめぇ! 遅い!」
『俺だってアンタになんべんも掛けてたっつーの! 圏外だったんだろ!? しょーがねーだろうが!』

 すかさず返ってきた狗仔ガウジャイの抗議を無視して、呉凱は怒鳴りつけた。

「ミナミが攫われた! うちで働いてたニンゲンの嬢だ、知ってんだろ!?」
『わかってる! 例のゴーグル野郎がニンゲン一人担いで華陰街の煙草屋んとこから円環大厦に入って行ったって裏が取れた! 今俺もそっちに向かってるとこだ!』

 負けじと狗仔ガウジャイも言い返して来る。

「あいつはヤバイぜ。使ってるハジキはよりにもよって老崔党が流してる51式だ。頭がイカれてるぜ」

 老崔党はこの旧市街を縄張りとする三つの幇と敵対する北方系の組織だ。そこが扱う銃でもめ事を起こせばすぐに黒幇が報復にくる。ましてや51式拳銃は北の連邦で流通しているトカレフをコピーしたもので安全装置がないのが最大の特徴だ。構造が単純なため質の悪い模造品が多く出回っていて、少しでも銃の知識がある者なら絶対に手を出さない危険極まりない代物だ。

(確かにイカれてやがるぜ)

 そんな頭のおかしい犬人がミナミを連れ去ったのかと思うと、そいつをここまで放置していた自分を殴り飛ばしてやりたくなる。
 どうやら走りながら通話しているらしい狗仔ガウジャイの息切れした声が再び聞こえてきた。

『こうなったらこっちも幇に気兼ねしてる場合じゃねぇ。アンタが使ってたのは格洛克グロックだったよな。さすがにホンモノはすぐには手に入らなかったから97式を手配した。装弾数は10発だ。いつもんとこで落ち合おうぜ。急げ』
「わかった」

 呉凱は電話を切ると、路を塞ぐように積み上げられたガラクタを蹴り倒してそこから更に下へと降りた。そして狗仔との待ち合わせ場所へと急ぐ。

 時刻はすでに八時を回っている。ミナミが捕まってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。

幹!クソッ

 迷路のように入り組んだ暗く狭い路を、かつての記憶を頼りに走る。

 通路の先の裸電球が一つぶらさがっただけの部屋の中からひどく大きな機械音が漏れている。あちこちさび付いた機械の口から卵色の麺が際限なく吐き出されていた。背中に赤ん坊を背負った兎人の女がせっせとその麺を盥で受け、適当な長さで切り落とす。赤ん坊はきょとんとした顔で親指を咥え、横を走り抜ける呉凱を見た。
 八つ当たりとわかってはいても、この円環大厦のごく普通の日常が今の呉凱にはひどく苛立たしい。

(畜生、今度は俺があいつを巻き込んじまった)

 ミナミはかつて、職場で他人のいざこざに巻き込まれて殺され、この世界に落っこちてきた。淡々と話してはいたがその事が未だに大きな傷となって残っていることは顔を見れば嫌でもわかった。
 なのに、よりにもよって呉凱自身がミナミを同じ目に合わせてしまうとは。

(あいつは俺が絶対に助ける)

 そうでなければ一生自分を許せないだろう。

 突然隣の部屋から大きなカゴを抱えた男が出てきてぶつかりそうになった。中には使用済みの曇ったガラス瓶が山と入っている。おそらくあちこちから拾ってきたそれを現金に変えるのだろう。男は間一髪で避けた呉凱を胡散臭そうに見たが、呉凱の形相に怖気づいたのか慌ててカゴを持って部屋に駆け戻っていった。

(くそっ、邪魔だ、時間が惜しい)

 一刻も早く狗仔ガウジャイと落ち会い、銃を手に入れてあの犬を、そしてミナミを探さねば。

 曲がり角の向こうから香の匂いと煙が漂ってくる。そこは色とりどりの紙銭で飾られた廟だった。線香と蝋燭がいくつも並んでいる。長い髭をしたぎょろ目の関公がじろりと呉凱を睨んでいた。
 その廟の壁に赤いペンキで大きくいびつな丸が描かれているのが見えて、思わず呉凱は足を止める。

(円と環)

 始まりもなく、終わりもない形。始点と終点が必ず一致する象形。
 その時、ふいにうなじの毛がぞわっと逆立って呉凱は振り向いた。同時に床に這うように腰を落とし、気配を探る。
 視界の端に見覚えのあるコートの裾が翻ったような気がした。呉凱はすぐさま駆け出す。だが角の先にいたのは、突然飛び出してきた呉凱に驚いて顔を上げた娼婦と、その足元にいる灰色のネズミだけだった。

(チッ、あの野郎どこへ行った)

 ミナミを探すにはあのゴーグルの犬人を追うのが一番いい。だが相手は銃を持っている。先ほど一瞬見えたそれらしき影を追うべきか、銃を取りに行くのを優先すべきか一瞬迷う。だがその時また誰かの視線を感じて呉凱は再び走り出した。

 一日中まったく日の差し込むことのない通路は湿った黴臭い空気が漂っている。その隙間の闇の奥から、誰かが呉凱を見ているのだ。呉凱はかつて銃と己の本能だけを頼りに生きていた頃をを思い出す。

(何かを恐れることは悪いことじゃねぇ)

 確かに怖がってばかりではいざというときの躊躇を生み、それが死に繋がることもある。だが、本当に怖いのは『恐怖を知らない』ことなのだ。
 肉体にダメージを与える方法と、精神にダメージを与える方法はまったく違う。
 人が心に痛みを感じるのは、本人がそれを痛みと認知できた時だけだ。同じく、人が恐れを感じるのは、それが怖いものだと認識している時だけだ。
 幼子が蛇を恐れないのは、それが害なす生き物だと知らないからだ。知らずに手を伸ばせば蛇はその柔らかな指に噛み付き、そして子供は死ぬ。

 その時、また何かの物音がして呉凱はすぐ横の壁に身を隠した。そして慎重に角から様子を窺う。そこにいたのはよれよれのワイシャツの成れの果てを纏ったニンゲンの男だった。男は床に転がっている酒瓶を拾い、中を覗き込む。どう振っても一滴も残っていないとわかると、男は低く罵って瓶を床に投げつけた。茶色の瓶は粉々に砕け散って廊下に一つある電灯の明かりを反射する。そのそばの壁に皮肉としか思えないような標語が掲げられていた。

円環大厦不乾淨、ビルの汚れに你要小心気を付けよう

幽霊が出るから不乾淨、気を付けろ你要小心、か。縁起でもねぇ)

 赤いペンキが垂れてただでさえ汚い壁が一層陰鬱に見える。だが次の瞬間感じた視線に間髪入れずに振り向いた。

「野郎ッ! 待て!」

 呉凱は今度こそ全身をバネにして走り出した。
 狭い通路に椅子を並べて男が二人将棋を打っている。それを蹴飛ばして飛び越えると男たちが目を剥いて怒鳴った。

靠杯啊こん畜生め!」

 呉凱は左の部屋からけたたましく鳴き声を上げて逃げ出してきたニワトリとそれを追う猫を飛び越え、わき目も振らず走り角を曲がる。
 まるで呉凱をおびき寄せようとするかのごとく逃げ出したゴーグルの犬人を丸腰のまま追いかける危険性は十分承知していたが、それでもミナミの居場所を知る唯一の手がかりを逃がす訳にはいかなかった。

 階段を駆け上りドアを蹴破り、ガタのきた非常階段を駆け下りて隣の楼へと飛び移る。突然目の前に開けた円形の吹き抜けから下を見ると、一つ下の階を走る犬の姿が一瞬見えた。すぐそばの壁に『羅斯福路 五樓』とペンキで書かれている。
 突然下の階の柱の影から銃声が響いた。呉凱は咄嗟にしゃがんで隠れる。男が走り始めた足跡を聞いて呉凱は吹き抜けの錆びた手すりを乗り越えると、そのまま斜めに飛び降りて下の階の手すりを掴んだ。すぐに足をひっかけてフロアに降りると再び男の後を追いかける。

(ぜってぇ逃がさねえぞ)

 久々の命を賭けたやり取りに呉凱の神経がどんどん研ぎ澄まされていく。全身の毛がぶわり、と膨らみ、髭や爪や尾の先まで気が張り詰める。
 呉凱は姿勢を低くして力を溜めると、薄汚れた床を蹴って一気に走り出した。
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