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ミナミくんのピンチ。

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(うー、さむ)

 南は両手にハーッと息を吹きかけ、温める。すると眼鏡まで曇ってしまって指でレンズを擦った。
 こちらの世界に飛ばされてきた時に救護院でもらったお下がりのジャンパーは少しばかり大きくて手が半分くらい隠れているが、こういう寒い時期には割と便利だと思う。
 早いものでもう十二月だ。とはいえここでは年末自体はそう特別な日でもなく、新年を祝う行事は年が明けてしばらく経ってからあるらしい。

(なんだろう。旧正月みたいなもんかな?)

 あれから南は呉凱に言われた通り、店を辞めた。
 あの衝撃の日から一週間が経つ。ここしばらくはつい気が散って些か設計の仕事がいい加減になっていたのを反省し、心を入れ替えて真面目に製図の仕事に励んでいた。だが、そこで問題が一つ。
 呉凱と会えそうなタイミングがない。
 なにせ互いに就業時間が違いすぎるのだ。南は朝の八時から夜七時くらいまで。呉凱は午後三時くらいから深夜まで店にいる。すれ違いもいいとこだ。

 行き当たりばったりな告白を経て付き合うことになってからたった一週間しか経っていないのにもう会いたくてたまらない。
 とうとう我慢できなくなったミナミは告白から最初の週末である金曜の今日、仕事が終わってから捷運トラムに乗って円環城市まで来てしまった。

(店は辞めろって言われたけど、会いに来るなとは言われてないよな……)

 雇って貰う前から何度も『危ないからさっさと帰れ』と言われていたような気もするが、あれから数か月、呉凱の店のソープ嬢として毎週末通っていたのだから大丈夫だろう。

(とはいえ、まだあっちの方は怖くて行けないけど)

 南は顔を上げ、通りの向こうに聳え立つ円環大厦を見上げた。
 円環大厦はもとはいくつかの巨大オフィスビルが集まってできた商業施設だったらしい。そこに戦後多くの獣人たちが流れ込み、一帯を一つの街に作り変えたのだという。
 無届で増築に増築を重ねたせいで中は迷路のようになっていて、土地勘のないよそ者が怖いもの見たさで迷い込んだら二度と出てこれないともっぱらの噂だ。せいぜいテレビで聞きかじった程度の知識しかない南には絶対に近づけない場所だが、実は一度だけ中に入ったことがある。コンタクトレンズを買うための処方箋を貰いに呉凱が南を眼医者に連れて行ってくれた時だ。

(そういえばあの時、呉凱さんはあんな怖いところでも随分歩き慣れた感じだったな)

 円環大厦の薄暗い通路を歩く呉凱の足取りはなんの気負いもなく、その大きな背中にもまるで緊張や不安のようなものは見えなかった。だから南も悪名高き円環大厦とはいえ、呉凱にひっつくようにして歩いている間は何も怖いと感じなかった。

(ほんと、さすがだな。怖いもの知らずっていうか……どうしたらあんな風になれるんだろう……)

 南はふと思う。

(そういえば、俺まだ店長さんのことなんにも知らないや)

 彼がどんな生い立ちで、どこに住んでいるのか、何が好きで何が嫌いなのか。よく考えてみたら正確な年さえも知らない。南はたどり着いた店の裏口の様子を窺いながら唇を噛みしめた。

(もっと呉凱さんと話がしたいな)
(それからまた一緒にご飯食べたり)
(あ、こないだの梅西城メイシーモールにも行きたい)
「ひひひっ、やりたいことだらけだな」

 そう考えて思わずニヤニヤ笑う。
 思えばこっちの世界に来てから、こんな風に先のことを考えて楽しくなるのは初めてのことだ。

(……呉凱さんに会いたい)

 店が終わるまではまだ時間がある。どこかの屋台で夕飯でも食べながら時間を潰そうか。

(突然待ち伏せしてたら、呉凱さん驚くかな。それとも怒るかな)

 ふとその可能性に気が付いて思わず血の気が引きそうになる。

(う、怒られたらいやだな)

 呉凱の呆れた顔や怒った顔を想像して急に息苦しくなった南は服の胸の辺りを握り締めた。その拍子に首に掛けて胸元に忍ばせていた物の存在を思い出す。

(そうだ、呉凱さんがくれたやつ)

 それは先週一世一代の告白の後、誰もいない店でふざけてソープごっこに興じながら散々セックスをしたせいでひどく腹が減ってしまった二人が屋台で遅い夜食を掻き込んだ時に呉凱から貰ったものだった。
 襟元から服の中に落とした紐を引っ張り出すと、その先には安っぽいプラスチックのホイッスルがぶら下がっている。それは『迷子笛』というもので、子どもが親とはぐれた時に鳴らして助けを呼ぶためのものだと聞いた。
 実は一児の父で、最近三つになった子どもがとにかくやんちゃで目が離せない、と言っていた黒服の義良イーリャンに渡そうと思ってポケットに入れたまま、忘れていたらしい。

――――おめーも食いもんにやたら目移りしてすぐ余所見するからな。迷子になったらこれ吹けよ。

 そう言ってニヤリと笑った呉凱に怒る振りをしながらも初めて貰ったプレゼントが嬉しくて、南は仕事が終わった後本当にそれを首にぶら下げて五華路まで来てしまったのだ。

(今これ吹いたらほんとに呉凱さんが来てくれたらいいのになぁ)

 とは言え、いい年をした南がこんな往来で迷子笛なんぞを吹くわけにはいかない。
 南は笛を首元から服の中に入れると、ポケットから携帯電話を取り出した。懐かしい前時代的な二つ折りの携帯も、ITや通信技術が南の世界より二十年以上は遅れているこちらでは立派な現役だ。

(店に電話してみようかな)

 だが相手の仕事中にそんな私用電話を掛けることはやはりためらってしまう。間の抜けたことに南は先週、呉凱個人の携帯番号を聞き忘れてしまった。南の番号は履歴書に書いて渡してあるので、もしかしたら呉凱から掛かって来るかとこの一週間そわそわと自分の携帯を何度も見ていたが連絡はなく、我慢できずにこうして店まで来てしまったのだ。

(ひょっとして今週、忙しかったのかな……)

 そういえば南が辞める直前、呉凱が狼の副店長と妙にピリピリとした雰囲気で何かを話していたり、携帯で誰かとやり取りしているのを見かけたことをふと思い出す。

(……やっぱり来たのマズかったかな……)

 どんどん不安になってきて、南はもう一度店の裏口の方を覗き込む。その時。

「痛っ!!」

 突然首の後ろでバチバチッ! と何かが弾けるような音と息が止まりそうなほどの熱と衝撃を感じて、南はその場で意識を失ってしまった。
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