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虎の店長さん、落っこちる。
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その日最後の客が帰り呉凱が売上の締め作業をしていた時、事務机に置いていた携帯が鳴った。
「おう」
『また例のヤツがアンタのこと探して接触してきたぜ』
情報屋の狸の声に呉凱は電卓を叩いていた手を止めた。
「会ったのか」
『ああ、パッとしねぇ感じの灰色の犬だ。上着のフード被って妙なゴーグルみたいなのをつけてて目を隠してた。心当たりあるか?』
「ありすぎてどこの誰だかちっともわかんねぇな」
『嘿嘿、アンタ恨み買いすぎだろ』
面白くもない狗仔の馬鹿笑いに「おめーほどじゃねぇよ」と返して帳簿に金額を書き込む。すると狗仔が苦しそうに引き笑いしながら言った。
『とにかく、当分背後には気を付けろってこった。特にお前のカワイ子ちゃんには気を付けてやれよ。虎の大哥の寶貝なんて知れたら真っ先に狙われるぜ』
「だからそんなんじゃねぇっつってんだろ」
『必要なら手槍も手配するぜ』
「いらねぇよ。ンなもん持ち歩いてまた幇のヤツらに目ェ付けられたらたまったもんじゃねぇよ」
『確かにな。まあせいぜい気を付けろよ。じゃあな』
好き勝手言って電話を切った狗仔に呉凱はケッ、と鼻を鳴らした。
この円環城区で呉凱を探している怪しげな男がいるらしい、と情報屋の狗仔から忠告を受けたのはつい先週のことだ。
今でこそ娑婆いツラをして風俗店の店長なんぞをしているが、昔はそれなりに危ない橋も渡ってきた。誰かに恨まれたり付け狙われたりする可能性はないとは言えない。
万が一何か厄介事が持ち上がったとして、自分はともかく店の客や従業員に類が及ぶことは避けねばならない。一応、副店長の志偉とも店の周囲は警戒しているが、今も相手の正体は相変わらず判らず仕舞いだった。
(まあ、こっちからはなんともしようがねぇな)
とりあえずそっちの案件は棚に上げておいて、呉凱は目の前の問題から片付けることにした。そして帳簿を閉じ、いまだに部屋から出てこない男のことを考えて舌打ちをする。
今日、初めてミナミの客から苦情が出た。ついさっき帰った一見客だ。仕方なく呉凱はレジを締めると事務所を出て、一番奥にある個室に入る。だがそう広くもない室内にミナミの姿は見えなかった。
「ミナミ?」
名を呼びながら浴室へのドアを開けると、当の本人は裸のままプラスチックの風呂椅子に座ってぼんやりと壁を見つめていた。
「おい、何やってんだ。風邪ひくぞ」
「…………あ、店長さん……」
そこに呉凱がいたことに初めて気づいたように、ミナミが振り向いて瞬きをした。その表情は客からのクレーム通り、まさに『上の空』だった。
呉凱は早速苦情の件を問い正そうとしたが、いつになく背中を丸めて椅子に座りこんだままのミナミを見てガシガシと乱暴に頭を掻いた。そして靴下を脱ぎ捨てると風呂場に下りてミナミの前にしゃがみ込む。
「おい、どうした。体調でも悪ィのか」
だがミナミの口からははかばかしい答えは返ってこず、ただうな垂れて濡れた床を見つめている。あまりに静かなその様子に呉凱はまた頭を掻いた。
「ミナミ?」
そう呼ぶと、ふいにミナミが口を開いた。
「店長さん……俺、このバイト、辞めるかも」
「は?」
呉凱はじっとミナミの横顔を見つめる。
「……それはいいけどよ。なんかあったのかよ」
だがミナミは答えない。
「なんか嫌なことでもされたのか?」
するとミナミがぽつり、と呟いた。
「…………だって、気持ちよくないんだもん」
「は?」
聞き捨てならない言葉に呉凱が眉を上げると、ミナミがなぜか怒ったような顔で言い返してきた。
「そ、そりゃ、客をイかせるのが仕事であって、自分がどうとかいうのはお門違いってわかってますよ!? そのくらい冷めてた方がちゃんと客にも奉仕できるし、自分にとってもいいって店長さんが言うのもわかってます。でも!」
ミナミは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように唾を飛ばして叫ぶ。
「でも、なんか……なんか違うんです……! 何がどう違うのかわかんないけど、でも……!」
その言葉に呉凱はため息を堪えて言った。
「だからお前な、そりゃ好きでもねぇ相手とヤったって……」
「じゃあなんで店長さんとのセックスはあんなに気持ちいいんですか!?」
真顔でそう叫んだミナミに呉凱は絶句した。
「俺だってあんな風に頭ぶっ飛ぶくらい気持ちいいセックスなんて知らなきゃお客さん相手で満足してたかもしれない。でもムリなんです! だってもう知っちゃったんだから!」
「ミナミ、おま……」
ミナミは呉凱の驚愕などお構いなしに手を伸ばし、食い殺さんばかりの勢いで掴みかかってくる。
「だ、だってしょーがないでしょ!? あんな、腹ん中マグマが詰まったみたいに熱くて熱くて、どこ触られてもすんごい気持ちよくて、奥突かれるたびにものすごい波みたいなのがガンガン身体中駆け上がってきて」
そう呟いて苦しそうな色を浮かべるミナミの目に、呉凱は釘付けにされる。
「脳みそだってどろどろに溶けて、お腹ん中出入りするアレの熱さとか大きさとかしか考えられなくなっちゃって、息するのも忘れちゃうくらいぐちゃぐちゃに気持ちよくなれないと満足できなくなっちゃって……っ、そ、そんなのどーすりゃいいんですか……!!」
そしてミナミが叫んだ。
「あんたが俺にそんなセックス教えたんだろ!?」
呉凱はあまりの衝撃に言葉一つ浮かばなかった。ミナミが半分泣いているんじゃないかというような声で言い募る。
「店長さん、お願いだから教えてよ。俺一体どうなっちゃったの? 好きでもないヤツと寝たって気持ちよくなれないって言うけど、じゃあどうして店長さんとのセックスはあんなに気持ちがいいの? なんで他のヤツじゃダメなんですか。教えてよ! 呉凱さん、店長さんでしょ!?」
「……店長だからって何でも知ってるわけじゃねぇだろ」
「そ、そんなこと言うな!」
そう言って呉凱に掴みかかってきたミナミは、まるで子どものように震えていた。
「だって店長さん、俺よりいろんなこと知ってるじゃん。ここでだって、あれこれいっぱい俺に教えてくれたじゃん」
「ちょっと待て、ミナミ」
だがミナミは止まらない。
「ねぇ、教えてよ。どうして店長さんじゃないとダメなんですか! 誰が相手でも、自分でしたってイけないし、眠れないし、こんなんで俺、これから一体どうしたらいいん、」
「ちょっと待て!」
呉凱が怒鳴ると、ミナミがビクッと身を竦めた。
「ちょっと待ってくれ。ちょっと考えさせてくれ」
裸のその肩を押し返し、呉凱は片手で額を覆ってため息をつく。
「…………」
呉凱はミナミを再び風呂椅子に座らせると自分は床にしゃがみ、混乱する頭をたたき起こして必死に考える。
(え、何、こいつ今なに言ったんだ?)
――――息をするのも忘れるくらい、呉凱とのセックスは気持ちがいい。だけどそれがなぜだかわらかない。
(おいおい、なんだよそれは)
いや、確かにミナミは前にもそう言っていた。ミナミに頼まれてやった”二度目の研修”の後だ。二人で立ち寄った呑み屋でおでんの器とビールを前にテーブルに突っ伏してミナミが呟いた。
――――じゃ、なんでてんちょうさんとすんの、あんなにきもちーの?
そんなん知るか。そうとしか呉凱には答えようがない。なぜならそんな理由は当のミナミ本人にしかわからないことだし、その理由にどんな名前をつけるのか決めることができるのもミナミだけだからだ。
もしも、もしも、だ。自分がミナミの立場で同じような状況になったら、多分その理由がなんなのかはわかるだろう。
客相手では、例えどれだけ慣れててテクニックがある相手でも感じない。だが特定の男とだと頭が吹っ飛ぶほど気持ちがよくてたまらない。そんなものはその男になんらかの好意を持っているからに決まってる。そう考えるのは何も呉凱だけじゃないだろう。実に自然な論理だ。
だが同時にミナミに限ってそれはありえない、とも思う。なんせ突っ込んでくれさえすれば相手は誰でも構わないと言った男だ。愛だの恋だの、そんなものはいらない。必要ないと何度も繰り返すミナミが、そんな、まさか。
そこまできて、呉凱はふと思った。
もしかして。
いや、そんなことあるはずがない。ただ自分に突っ込んでくれる棒が欲しいだけだと言って憚らないこのニンゲンに限って、まさか。
(……けどこいつ、どっか抜けてっからなぁ……)
海千山千の自分が思わず度々絶句してしまうほど突拍子もなくて、でも変なところで生真面目で、自分の気持ちに素直で、そして多分――――
(……多分、俺には何があっても嘘だけはつかない)
円環大厦に連れて行った時に怖がって呉凱の背中にぴったりくっついてきたり、眼鏡を見立ててやれば目をまんまるにしてそれはそれは嬉しそうに笑ったり、屋台の安いメシを美味しい美味しいと言って眼鏡を白くしながら掻き込んだり、呉凱の隣でいつもくるくると表情を変えるミナミは決して呉凱に嘘はつかない。つまり今ミナミが言っていることは全部真実だということだ。
呉凱は思わず脱力した。いわゆるヤンキー座りをして項垂れている呉凱をミナミは戸惑ったように無言で見つめている。
「~~~~~~ッ、幹!」
呉凱がたまらずに舌打ちをすると、ミナミがビクッと肩を跳ね上げた。呉凱は大きく息を吐き、顔を上げてミナミに尋ねる。
「……お前、俺とのセックス、そんなにイイのか」
「…………うん」
するとミナミがひどく素直に頷く。
「身体も気持ちいいけど、家帰った後、すっごいよく眠れる」
そして少しだけ俯いて呟いた。
「……その夜は、布団の中であれこれ思い出しちゃって、ゾクゾクして、でもなんかすっごくあったかくて、ぐっすり眠れる」
呉凱は唖然としてミナミのあまりにらしくないその表情を凝視する。だがその視線にも気づかず、ミナミが再び口を開いた。
「俺、ここの仕事始める時、突っ込んでイかせてくれるなら誰でもいいって思ってた。店長さんはちゃんと好きな相手としろって言ったけど、でも俺やっぱり好きとかわかんないし。そんなわかんないもんは欲しくないし」
最後の客に抱かれて濡れたままの手を上げて、目元を覆う。
「けど、ダメだった。どんないい人でも、テクある人でも俺、イけなかった。ムリだった」
そしてぎゅっと目をつむる。
「……へへ、バカみたい」
ミナミが唇を震わせながら小さく笑った。
「…………俺、こっちに来て、生まれ変わったつもりでいろいろ頑張ったけど、やっぱり何ひとつマトモに出来ないんですね」
そのへたくそな泣き笑いを見て、なんかもう仕方ないか、と思ってしまった。
付き合いの長い志偉は、事あるごとに呉凱に『顔は怖いくせにお人よしだ』と言う。その度にそんなことはないと言い返してはいたが、結局はその通りだったのだろう。こんな、あまりにも不器用で訳の分からないニンゲンのオスにいとも簡単に絆されてしまうとは。
(……けど、これはしょうがねぇだろ)
そう、これはさすがに仕方がないではないか。こんな顔でこんなことを言われて、なんとも思わず自分には関係がないと放り出せるヤツがいたらそいつは男じゃない。
(少なくともこいつが今のどん底の気持ちから這い上がる手助けぐらいはしてやらなきゃ、夢見が悪くて仕方がねぇ)
などともっともらしく言ったところでそんな言葉は単なるポーズにすぎないと認めざるを得ないほど、目の前で打ちひしがれたように座り込んで呉凱を見つめるミナミの姿は呉凱をたまらない気持ちにさせた。
(…………ああ、これはもうしょーがねぇ)
ニンゲンにもオスにも興味はない、などとよくも言ったものだ。本当に無理なら例え仕事であっても抱けるはずがないと、本当はとっくの昔に気づいていたくせに。
(これがバレたら、さぞかしあの狼と狸にそれ見たことかと笑われんだろうなぁ……)
それでも、このとんでもなく馬鹿で意味不明で健気でいじらしいニンゲンに絆されてやってもいいと思ったのは自分自身だ。
呉凱は深夜のソープランドのびしょ濡れの風呂場に座り込んだまま、これ以上ないほど深いため息をついた。
「おう」
『また例のヤツがアンタのこと探して接触してきたぜ』
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「会ったのか」
『ああ、パッとしねぇ感じの灰色の犬だ。上着のフード被って妙なゴーグルみたいなのをつけてて目を隠してた。心当たりあるか?』
「ありすぎてどこの誰だかちっともわかんねぇな」
『嘿嘿、アンタ恨み買いすぎだろ』
面白くもない狗仔の馬鹿笑いに「おめーほどじゃねぇよ」と返して帳簿に金額を書き込む。すると狗仔が苦しそうに引き笑いしながら言った。
『とにかく、当分背後には気を付けろってこった。特にお前のカワイ子ちゃんには気を付けてやれよ。虎の大哥の寶貝なんて知れたら真っ先に狙われるぜ』
「だからそんなんじゃねぇっつってんだろ」
『必要なら手槍も手配するぜ』
「いらねぇよ。ンなもん持ち歩いてまた幇のヤツらに目ェ付けられたらたまったもんじゃねぇよ」
『確かにな。まあせいぜい気を付けろよ。じゃあな』
好き勝手言って電話を切った狗仔に呉凱はケッ、と鼻を鳴らした。
この円環城区で呉凱を探している怪しげな男がいるらしい、と情報屋の狗仔から忠告を受けたのはつい先週のことだ。
今でこそ娑婆いツラをして風俗店の店長なんぞをしているが、昔はそれなりに危ない橋も渡ってきた。誰かに恨まれたり付け狙われたりする可能性はないとは言えない。
万が一何か厄介事が持ち上がったとして、自分はともかく店の客や従業員に類が及ぶことは避けねばならない。一応、副店長の志偉とも店の周囲は警戒しているが、今も相手の正体は相変わらず判らず仕舞いだった。
(まあ、こっちからはなんともしようがねぇな)
とりあえずそっちの案件は棚に上げておいて、呉凱は目の前の問題から片付けることにした。そして帳簿を閉じ、いまだに部屋から出てこない男のことを考えて舌打ちをする。
今日、初めてミナミの客から苦情が出た。ついさっき帰った一見客だ。仕方なく呉凱はレジを締めると事務所を出て、一番奥にある個室に入る。だがそう広くもない室内にミナミの姿は見えなかった。
「ミナミ?」
名を呼びながら浴室へのドアを開けると、当の本人は裸のままプラスチックの風呂椅子に座ってぼんやりと壁を見つめていた。
「おい、何やってんだ。風邪ひくぞ」
「…………あ、店長さん……」
そこに呉凱がいたことに初めて気づいたように、ミナミが振り向いて瞬きをした。その表情は客からのクレーム通り、まさに『上の空』だった。
呉凱は早速苦情の件を問い正そうとしたが、いつになく背中を丸めて椅子に座りこんだままのミナミを見てガシガシと乱暴に頭を掻いた。そして靴下を脱ぎ捨てると風呂場に下りてミナミの前にしゃがみ込む。
「おい、どうした。体調でも悪ィのか」
だがミナミの口からははかばかしい答えは返ってこず、ただうな垂れて濡れた床を見つめている。あまりに静かなその様子に呉凱はまた頭を掻いた。
「ミナミ?」
そう呼ぶと、ふいにミナミが口を開いた。
「店長さん……俺、このバイト、辞めるかも」
「は?」
呉凱はじっとミナミの横顔を見つめる。
「……それはいいけどよ。なんかあったのかよ」
だがミナミは答えない。
「なんか嫌なことでもされたのか?」
するとミナミがぽつり、と呟いた。
「…………だって、気持ちよくないんだもん」
「は?」
聞き捨てならない言葉に呉凱が眉を上げると、ミナミがなぜか怒ったような顔で言い返してきた。
「そ、そりゃ、客をイかせるのが仕事であって、自分がどうとかいうのはお門違いってわかってますよ!? そのくらい冷めてた方がちゃんと客にも奉仕できるし、自分にとってもいいって店長さんが言うのもわかってます。でも!」
ミナミは溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのように唾を飛ばして叫ぶ。
「でも、なんか……なんか違うんです……! 何がどう違うのかわかんないけど、でも……!」
その言葉に呉凱はため息を堪えて言った。
「だからお前な、そりゃ好きでもねぇ相手とヤったって……」
「じゃあなんで店長さんとのセックスはあんなに気持ちいいんですか!?」
真顔でそう叫んだミナミに呉凱は絶句した。
「俺だってあんな風に頭ぶっ飛ぶくらい気持ちいいセックスなんて知らなきゃお客さん相手で満足してたかもしれない。でもムリなんです! だってもう知っちゃったんだから!」
「ミナミ、おま……」
ミナミは呉凱の驚愕などお構いなしに手を伸ばし、食い殺さんばかりの勢いで掴みかかってくる。
「だ、だってしょーがないでしょ!? あんな、腹ん中マグマが詰まったみたいに熱くて熱くて、どこ触られてもすんごい気持ちよくて、奥突かれるたびにものすごい波みたいなのがガンガン身体中駆け上がってきて」
そう呟いて苦しそうな色を浮かべるミナミの目に、呉凱は釘付けにされる。
「脳みそだってどろどろに溶けて、お腹ん中出入りするアレの熱さとか大きさとかしか考えられなくなっちゃって、息するのも忘れちゃうくらいぐちゃぐちゃに気持ちよくなれないと満足できなくなっちゃって……っ、そ、そんなのどーすりゃいいんですか……!!」
そしてミナミが叫んだ。
「あんたが俺にそんなセックス教えたんだろ!?」
呉凱はあまりの衝撃に言葉一つ浮かばなかった。ミナミが半分泣いているんじゃないかというような声で言い募る。
「店長さん、お願いだから教えてよ。俺一体どうなっちゃったの? 好きでもないヤツと寝たって気持ちよくなれないって言うけど、じゃあどうして店長さんとのセックスはあんなに気持ちがいいの? なんで他のヤツじゃダメなんですか。教えてよ! 呉凱さん、店長さんでしょ!?」
「……店長だからって何でも知ってるわけじゃねぇだろ」
「そ、そんなこと言うな!」
そう言って呉凱に掴みかかってきたミナミは、まるで子どものように震えていた。
「だって店長さん、俺よりいろんなこと知ってるじゃん。ここでだって、あれこれいっぱい俺に教えてくれたじゃん」
「ちょっと待て、ミナミ」
だがミナミは止まらない。
「ねぇ、教えてよ。どうして店長さんじゃないとダメなんですか! 誰が相手でも、自分でしたってイけないし、眠れないし、こんなんで俺、これから一体どうしたらいいん、」
「ちょっと待て!」
呉凱が怒鳴ると、ミナミがビクッと身を竦めた。
「ちょっと待ってくれ。ちょっと考えさせてくれ」
裸のその肩を押し返し、呉凱は片手で額を覆ってため息をつく。
「…………」
呉凱はミナミを再び風呂椅子に座らせると自分は床にしゃがみ、混乱する頭をたたき起こして必死に考える。
(え、何、こいつ今なに言ったんだ?)
――――息をするのも忘れるくらい、呉凱とのセックスは気持ちがいい。だけどそれがなぜだかわらかない。
(おいおい、なんだよそれは)
いや、確かにミナミは前にもそう言っていた。ミナミに頼まれてやった”二度目の研修”の後だ。二人で立ち寄った呑み屋でおでんの器とビールを前にテーブルに突っ伏してミナミが呟いた。
――――じゃ、なんでてんちょうさんとすんの、あんなにきもちーの?
そんなん知るか。そうとしか呉凱には答えようがない。なぜならそんな理由は当のミナミ本人にしかわからないことだし、その理由にどんな名前をつけるのか決めることができるのもミナミだけだからだ。
もしも、もしも、だ。自分がミナミの立場で同じような状況になったら、多分その理由がなんなのかはわかるだろう。
客相手では、例えどれだけ慣れててテクニックがある相手でも感じない。だが特定の男とだと頭が吹っ飛ぶほど気持ちがよくてたまらない。そんなものはその男になんらかの好意を持っているからに決まってる。そう考えるのは何も呉凱だけじゃないだろう。実に自然な論理だ。
だが同時にミナミに限ってそれはありえない、とも思う。なんせ突っ込んでくれさえすれば相手は誰でも構わないと言った男だ。愛だの恋だの、そんなものはいらない。必要ないと何度も繰り返すミナミが、そんな、まさか。
そこまできて、呉凱はふと思った。
もしかして。
いや、そんなことあるはずがない。ただ自分に突っ込んでくれる棒が欲しいだけだと言って憚らないこのニンゲンに限って、まさか。
(……けどこいつ、どっか抜けてっからなぁ……)
海千山千の自分が思わず度々絶句してしまうほど突拍子もなくて、でも変なところで生真面目で、自分の気持ちに素直で、そして多分――――
(……多分、俺には何があっても嘘だけはつかない)
円環大厦に連れて行った時に怖がって呉凱の背中にぴったりくっついてきたり、眼鏡を見立ててやれば目をまんまるにしてそれはそれは嬉しそうに笑ったり、屋台の安いメシを美味しい美味しいと言って眼鏡を白くしながら掻き込んだり、呉凱の隣でいつもくるくると表情を変えるミナミは決して呉凱に嘘はつかない。つまり今ミナミが言っていることは全部真実だということだ。
呉凱は思わず脱力した。いわゆるヤンキー座りをして項垂れている呉凱をミナミは戸惑ったように無言で見つめている。
「~~~~~~ッ、幹!」
呉凱がたまらずに舌打ちをすると、ミナミがビクッと肩を跳ね上げた。呉凱は大きく息を吐き、顔を上げてミナミに尋ねる。
「……お前、俺とのセックス、そんなにイイのか」
「…………うん」
するとミナミがひどく素直に頷く。
「身体も気持ちいいけど、家帰った後、すっごいよく眠れる」
そして少しだけ俯いて呟いた。
「……その夜は、布団の中であれこれ思い出しちゃって、ゾクゾクして、でもなんかすっごくあったかくて、ぐっすり眠れる」
呉凱は唖然としてミナミのあまりにらしくないその表情を凝視する。だがその視線にも気づかず、ミナミが再び口を開いた。
「俺、ここの仕事始める時、突っ込んでイかせてくれるなら誰でもいいって思ってた。店長さんはちゃんと好きな相手としろって言ったけど、でも俺やっぱり好きとかわかんないし。そんなわかんないもんは欲しくないし」
最後の客に抱かれて濡れたままの手を上げて、目元を覆う。
「けど、ダメだった。どんないい人でも、テクある人でも俺、イけなかった。ムリだった」
そしてぎゅっと目をつむる。
「……へへ、バカみたい」
ミナミが唇を震わせながら小さく笑った。
「…………俺、こっちに来て、生まれ変わったつもりでいろいろ頑張ったけど、やっぱり何ひとつマトモに出来ないんですね」
そのへたくそな泣き笑いを見て、なんかもう仕方ないか、と思ってしまった。
付き合いの長い志偉は、事あるごとに呉凱に『顔は怖いくせにお人よしだ』と言う。その度にそんなことはないと言い返してはいたが、結局はその通りだったのだろう。こんな、あまりにも不器用で訳の分からないニンゲンのオスにいとも簡単に絆されてしまうとは。
(……けど、これはしょうがねぇだろ)
そう、これはさすがに仕方がないではないか。こんな顔でこんなことを言われて、なんとも思わず自分には関係がないと放り出せるヤツがいたらそいつは男じゃない。
(少なくともこいつが今のどん底の気持ちから這い上がる手助けぐらいはしてやらなきゃ、夢見が悪くて仕方がねぇ)
などともっともらしく言ったところでそんな言葉は単なるポーズにすぎないと認めざるを得ないほど、目の前で打ちひしがれたように座り込んで呉凱を見つめるミナミの姿は呉凱をたまらない気持ちにさせた。
(…………ああ、これはもうしょーがねぇ)
ニンゲンにもオスにも興味はない、などとよくも言ったものだ。本当に無理なら例え仕事であっても抱けるはずがないと、本当はとっくの昔に気づいていたくせに。
(これがバレたら、さぞかしあの狼と狸にそれ見たことかと笑われんだろうなぁ……)
それでも、このとんでもなく馬鹿で意味不明で健気でいじらしいニンゲンに絆されてやってもいいと思ったのは自分自身だ。
呉凱は深夜のソープランドのびしょ濡れの風呂場に座り込んだまま、これ以上ないほど深いため息をついた。
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