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虎の店長さんのお詫び。

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「あの、診察代は」
「後でいい」
「はあ……」

 そして円環大厦を出て表通りをノシノシと歩いていく呉凱の後を、南は小走りでついて行く。
 前にも思ったことだが呉凱は歩くのがとても早い。早いというか、一歩が大きいのだろう。それにどんなに獣人たちでごった返した通りでもぶつかることなく器用に人々を避けてどんどん歩いていく。
 油断すれば置いて行かれそうで南は懸命について行っていたが、不意に呉凱が足を止めて振り向いた。

「おう、あそこのビルの……っておめー、何息切らしてんだ」
「え、あ、すみません」
「…………歩くの速かったか? 言えよ」
「いえ、大丈夫なんで」

 ニッと笑ってそう答えると、呉凱が眉を顰める。

「まあいい。ここでコンタクト買うぞ」
「ええと、ここは……」
「なんだ。梅西城メイシーモールも来たことないのか」

 そう言われてようやくここがテレビや雑誌でよく取り上げられている人気のファッションビルだと気づく。すると呉凱が呆れた顔をして言った。

「お前二十三っつったか? 枯れるにゃちょっと早くねぇか?」
「うーん、ほんと、ずっと職場とアパートの往復だけなんで……」
「……買い物とか行かねぇのか?」
「あー、そうですね……便利商店コンビニくらいなら……」

 正直に言えば、まだ一人で獣人たちが大勢いる場所をうろうろするのは少し怖い。呉凱にも認められた通り日常会話に困らぬ程度には言葉も理解できてはいるが、それでもそこらじゅう未だに見慣れぬ動物の顔をした生き物が歩いてしゃべっているという現実に完全には溶け込めてはいないのだと思う。
 それに圧倒的少数派の人間であり、さらに数の少ない界客である自分が把握している常識や物事のルールは当然こことは全然違う。そのせいで思わぬトラブルに出くわしたりするのが怖くて、南は休みの日でもほとんど出歩いたことはなかった。

 南はそれ以上詳しくは話さなかったが、顔に似合わず察しのいい呉凱は何か思うところがあったらしい。両手をダウンジャケットのポケットに入れたまましばらく無言で南を見下ろしていたが、ふと息を吐きだすと「そんなんでよくうちの店まで来れたな」とだけ言った。

「そんだけ切羽詰まってたんですよ。あっちの」

 と、冗談めかして南が言うと、ケッと喉を鳴らして呉凱が踵を返した。

「オラ、行くぞ」
「はい」

 そう言って連れて行かれたのはこじゃれた眼鏡屋だった。

「あれ? コンタクトレンズ買うんですよね?」
「レンズも売ってんだよ」

 呉凱が近くにいた黒猫の店員を呼び止めて処方箋を渡す。
 
「使い捨てのやつ、とりあえず三箱ずつ頼む」
「はい、お待ちください」

 長い尻尾を優雅に揺らして立ち去るその店員は、珍しく猫よりも人間的要素が色濃く出ている姿をしていた。肩の上で切りそろえられた黒髪からはちょこんと猫耳が飛び出しているが、顔はかなり人間に近い。

(へぇ……ああいうタイプの獣人も本当にいるんだ……)

 そう思って見ていると、店員は南を促して店の奥にある鏡と椅子の前に案内した。

「コンタクトを使ったことは?」
「あ、ないです」
「じゃあ一応練習して行きましょう」

 そう言って箱を開け、中から小さなプラスチックのパッケージを一つ出す。

「箱のこの数字を見て、こっちが右目、こっちが左目用です。こうやって上の部分を剥がして……見えます? 人差し指にレンズを乗せて、反対の手で目蓋と目の下を押さえて……」
「え、え、うわ」
「あ、レンズ落ちましたよ」
「す、すみません」
「大丈夫、落ち着いて。レンズ見えてます?」

 やけに大きく見える透明のレンズを目玉に貼り付けるという生まれて初めての作業に思った以上に時間が掛かってしまった。それでもなんとか左右レンズを入れて、保存液や涙でびしょぬれになった顔をティッシュで拭きながら顔を上げると、突然パッと眩しいばかりの光景が目に飛び込んできて驚いた。

「うわ! スゴイ、よく見える!」
「おう、入れれたか」

 聞きなれた低い、擦れた声が聞こえてきて振り向くと、そこには見上げるばかりに大きな身体をした虎の獣人が立っていた。

「…………てんちょう、さん……?」
「なんだよ」

 初めてクリアになった目に映った呉凱の姿に、南は思わずぽかんと口を開けて固まってしまう。白と黒の虎縞も、鼻の横からピンと立った髭も、厚いダウンを着ていてもわかる逞しい体躯も、そして何より店の明るい照明よりももっと輝いて見える金色の目も、何もかもが南を唖然とさせた。

「…………店長さんって、カッコよかったんですね……」
「馬鹿じゃねーのか、お前」
「いてっ」

 ごつん、と頭のてっぺんに拳を落とされて思わず呻く。すると猫耳の店員がクスリ、と笑ったのが聞こえた。

「おう、あともう一つ頼みたいんだが」

 呉凱が店員に言う。

「こいつに似合う眼鏡を見立ててくんねぇか」
「はい、かしこまりました」
「え? 眼鏡も?」
「ついでだ。ちゃんとしたやつ掛けるようにしろ」

 そう言って呉凱は猫の店員が持ってきたいくつかのフレームを南に試させると、その中の一つを選んで頷いた。

「それにしとけ」
「あ、うん」

 正直どれが似合うのかもわからないので、南は素直に呉凱に言われた通りにする。すると店員が呉凱に伝票のようなものを渡して言った。

「レンズ入れておきますので、また後で取りに来てください」
「いや、今日は遅いからまた今度来る」
「でしたら先にお会計を」

 そこで呉凱が財布を出したので、慌てて南はその腕を掴んだ。

「て、店長さん。あの、」
「いいって。支度金出すって言っただろ」

 支度金というのは多分今後店で働くことを見越して給料を先払いしてくれるということだろう。ならば結局は自分の金で払うということだしいいか、と思いつつも結構カツカツの生活をしている南はどうしても金額が気になる。

(あ、でも昨日今日のお給料もあるか……)

 そう思った時、呉凱がレジを打っている店員の方を見ながら言った。

「……いや、やっぱ支度金はナシな」
「えっ!?」
「…………こないだの詫びだ。タダでいい」

 そう言って呉凱がコンタクトレンズの箱が入った手提げ袋を南に押し付けた。咄嗟に受け取ったはいいが、さすがにそう安くはない買い物だろうにタダでいいのだろうかと口を開こうとすると、呉凱の手が南のうなじに伸びてようやく悟った。

(……そうか、まだ気にしてたんだ)

「痕、まだ残ってんな」

 そこは二度目の面接の時に南が呉凱をひどく怒らせてしまったせいで、呉凱に噛みつかれた場所だ。うなじなので自分では見えず、もう痛みもなかったのでここ数日はガーゼも当てずにほったらかしにしていた。

「あの、もう痛くないですし、俺がバカ言ったせいなんで、もう気にしないでいいですから」

 南は前と同じことを言ったが、呉凱は返事をしなかった。ただ滑らかな毛で覆われた硬い手のひらでそっと南のうなじを撫でる。その感触にぞく、と下腹がさざめくような感覚がして思わず息を止めると、呉凱がその手を頭のてっぺんまですべらせてワシワシとかき混ぜた。

「……あの、髪ぐしゃぐしゃになるんですけど」
「どうせセットも何もしてねぇんだろ」
「そうですけど」

 ペチ、と頭を叩かれ南は口を尖らせる。それにニッと笑って呉凱が言った。

「じゃあ帰るか」
「え、あ、はい」

 確かにこれで用事は終わりだ。明日は月曜日で南は朝から普通に仕事がある。さっさと帰って寝るべきだろう。でも、と南は辺りを見回す。
 夜でも眩しいくらいに明るい華やかなファッションビル。人間だからと言って誰もジロジロ見たり険のある目つきで睨んできたりはしない。それは間違いなく隣にいる呉凱のお陰だ。
 呉凱は今夜、一人ではどこへも行けない南を夜市の屋台や怖いけれど奇妙な魅力に溢れる円環大厦、そしてこのオシャレなモールに連れ出してくれた。
 呉凱にとってはどこもそう特筆すべきような場所ではないだろうが、この世界に飛ばされてきてからずっと一人で獣人たちの目から隠れるようにして生きてきた南には初めての心躍る体験だった。

(…………もしかしたら、ソープの仕事以上に楽しかったかも……)

 正直、二度の面接での呉凱との経験があまりにぶっ飛びすぎていたせいで、昨日と今日のお客とのプレイは興味深くはあったが目新しさはなく、そこまで強い印象は残っていない。

(……楽しかったな)

 美味しい屋台飯にちょっと怖いスラム街の裏路地、面白い丸眼鏡の山羊の先生、そして何もかもがくっきりと見える新しい世界と店長さんが選んでくれたずり落ちてこない新品の眼鏡。

「オラ、行くぞ」

 呉凱が足を止めて南を待っている。後ろ髪を引かれる思いで、でも仕方なく一歩踏み出すと、呉凱が首を傾けて言った。

「……また連れてきてやるから、そんな顔すんな」
「え?」

 そんな顔とはどんな顔だろう。ひょっとしておもちゃ売り場で駄々をこねる子どものような顔でもしていただろうか。

「そ、そんな顔ってどんなんですか」

 こわごわ聞いてみたが、呉凱はフンと鼻を鳴らすだけで答えてはくれなかった。
 今度は南を置いてさっさと歩き出した呉凱を急いで追いかけながら、にやけそうになる口元を一生懸命引き締めた。
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