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ミナミくんと山羊の先生。

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「え、ここって……」

 思わず南は足を止めて呉凱が入って行こうとしているビルを見上げた。

「え、円環大厦…………」

 この世界に来てまだ一年と少しだが、そんな南でもこの巨大ビル群の名は知っている。

 十年ほど前の終戦をきっかけに官公庁や大企業が東側の無傷だった土地へと移り、新都心と呼ばれる新しい街ができた。そして残された旧市街に一気に不法難民や戦場帰りの元軍人、戦災者、そのほか食い扶持と安い根場所を求めて大量の獣人たちと少数のニンゲンが流れ込んだらしい。
 その中でもここ円環城区のランドタワーとも言うべき円環大厦は無届のまま増築に増築を重ねてもはや何棟あって何階建てなのか、どんな店があってどのくらいの人が住んでいるのか公安警察でもわからない無法地帯なのだと職場の獣人たちから聞いたことがある。
 表の通りからは薄暗くて狭い急な階段を通って入るらしく、その先は真昼でも暗く外からは容易に中の様子を窺い知ることはできない。南一人だったら恐ろしくて絶対に近寄らないような場所だった。

「おい、どうした」

 ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んだ呉凱ウーカイが階段に足を掛けながらミナミを呼ぶ。

(そ、そうか。店長さんが一緒なら大丈夫か……)
「は、はい! 今行きます」

 慌てて南は呉凱の後ろにぴったりとくっつくようにして、恐る恐る狭く急な階段を登って行った。

「何ひっついてんだ」
「え、だって……」
「ああ、お前ここ来たことねぇのか」
「当たり前です。こんな怖いとこ……」
「はっ、奥に行かなきゃなんともねぇよ」

 そう言って呉凱が笑った。その拍子に長い尻尾がくるん、と揺れる。その様子は普段とまるで変わらず、気負ったところも微塵も感じられなかった。
 南は呉凱の後ろから用心深く辺りを見回す。確かにその通路は少々薄暗いが普通の亭子脚アーケードといった感じで、両側に看板の出た商店が並んでいた。売っているのは生活雑貨に雑誌類、総菜店に立ち食いの水餃子の店と至って普通だ。だが客も店主も南が通りかかると『なんでこんなところにニンゲンが?』とでも言わんばかりの顔でジロジロと見てくる。思わず肩に力が入るが、獣人たちは南がひっついている呉凱に気づくと途端に納得したように視線を外し、南はようやく息を抜いた。
 その時、通りかかった路地の壁に黄色のペンキで『至、松隆路三巷』と書いてあるのが見える。好奇心からそちらを覗いてみようとした時に、突然大きな毛皮の手に頭を掴まれ、ぐい、と引き戻された。

「うわっ」
「ウロチョロすんじゃねぇ。こっちだ」

 頭に乗せられた手をどけようと南が顔を上げると、呉凱がギロリ、と南を見下ろす。

「あっちは絶対行くなよ」
「ちょ、怖いこと言わないで下さいよ……!」

 それでも我慢できずに盗み見た奥の通路は今いる場所よりも各段に暗く、床には何かの果物の皮や紙屑や噛み煙草のカスが散らばり、天井には後から住人たちがつけ足したと思われる電線らしきものや配管などがむき出しのまま縦横無尽にのたくっているのがチラリと見えた。

「…………ちなみに行ったらどうなるんですか……?」
「そりゃあ、おめぇ」

 ニヤ、とめくれた口の端から鋭い牙が覗く。

「もう二度とお天道様は拝めねぇかもな」

 その言葉にヒュン、と胃が持ち上がるような不快感を覚える。思わずその大きな手にしがみついた南に呉凱が眉を上げた。

「なんだ、怖いのか」
「だからそうだって言ってるでしょ!?」
「哈哈! お前、面白ェヤツだな」

 笑い声と一緒にまた尻尾がくるん、と跳ねる。それを横目で見下ろしながら南はムスッと口を曲げた。

「オラ、ここだ」

 呉凱がそう言って南を連れてきたのは、薄汚れた鉄のドアと謎の看板が並んでいる場所だった。呉凱が足を止めたドアの横の正方形の電光板に大きく『目』『傷』『胃』『腎』などと書いてある。なかなか迫力のある雰囲気にごくり、と唾を飲み込むと、またおかしそうに髭をピクピクと動かして呉凱が言った。

「お前、金ないんだろ? でもコンタクト買うには処方箋がいるからな。つっても度数計るだけだからヤブでも問題ねぇよ」
「おい! 聞こえとるぞ!」

 突然扉の向こうからしゃがれたダミ声が飛んできて、とっさに南は呉凱に掴まる腕に力を込めた。だが呉凱はお構いなしに扉を開けて中に向かって叫ぶ。

「おう、醫師センセイ! 客を連れてきたぜ」
「醫院で客とはなんじゃ!」

 恐る恐る呉凱の後ろから覗き込むと、そこにいたのはよれた白衣姿の山羊の獣人だった。冗談のような丸い小さな眼鏡をちょこんと目の下あたりに乗せている。

「なんだ? ニンゲンじゃないか」
「視力計るだけなら獣人もニンゲンも一緒だろ。アンタが耄碌してなけりゃな」
「フン、久々に顔を見せたかと思ったらなんじゃ、その口のききようは」

 ヤギの医師はそう言って髭を震わせると、南に向かって手を差し招いた。

「ほら。ボーッとしてないでここに座れ」
「あ、はい」

 それから南は山羊の医師に目の脇に定規のようなものを当てられたり機械を覗くよう言われたり、壁に貼られた絵文字の表で視力を計られたりした。その間呉凱は腕を組んでそばの壁にもたれていたかと思うと、携帯を取り出しやたらと早口で何かを指示していた。

(ひょっとしてお店からかな)

 今の会社に拾って貰ってからアパートが見つかるまでの間、宿直替わりにずっと物置兼休憩室のようなところに寝泊りさせて貰っていた。そこでひたすら深夜番組を見ながら言葉を覚えたのだが、さすがに今呉凱が携帯に向かってまくしたてているほどのスピードになると何を言っているのかは理解できない。

(何かトラブルでもあったのかな)
「ほれ、お前さん。こっち見て」
「あ、はい」

 山羊の医師に言われて慌てて前を向いた。

「で、お前さんはあの虎のなんなんじゃ」
「えっ!? な、何って……」

 いきなり聞かれて南は驚く。

「ええと、あ、俺、呉凱さんのお店で働かせて貰ってるんです」
「店? どっちの」
「え?」
「ソープの方だよ。あっちは休業中だ」

 どっちの、と言われて戸惑っていると、後ろから呉凱が答えた。

「なんじゃ、お前んとこはニンゲンも使うようになったんか」
「あー、これからはそうなるかもな。こいつ結構評判いいから」
「え、ほんとですか!? やった!」

 思いがけず褒められて南は思わずにんまりと笑う。それを見て山羊の医師は丸い眼鏡を動かして言った。

「そうか。てっきり虎が宗旨替えでもしてニンゲンの寶貝カワイ子ちゃんを連れ歩いてるのかと思ったんじゃが」
「そんなんじゃねぇよ。俺はオスには興味ねぇっつーの」
「あんな店に勤めとってよく言うわ」
「うるせぇ。無駄口はいいからはやく処方箋出せ」
哎喲哎喲やれやれ。年寄りを敬わんヤツじゃ」

 呉凱と山羊の医師との遠慮のないやり取りを聞きながら、南は大人しく座っていた。

(……そうなんだ。店長さんってゲイってわけじゃないんだ)

 その割にあの面接では手慣れていたというか容赦がなかったというか、とにかく凄かったとしか言いようがなかったが。南はちら、と隣に立つ呉凱を盗み見る。
 度数もサイズをも微妙に合っていないせいで少々ピントが合っていないが、それでも強くて逞しくてセックスも上手く、口は悪いが親切で面倒見のいい呉凱は相当モテるのではないだろうか、と南は初めて気が付いた。

(……っていうか、こんないい人ならとっくに恋人とか奥さんとかいるよな。きっと)

 南自身は愛だの恋だのということはまるで信じていないというか自分にはまったく縁のないものだと思っているが、他の人が恋人や伴侶を得て幸せに暮らせるのならそれに越したことはない。

(そうだよな。こんないい人がモテないはずないよな)

 多分この虎の店長さんでなければ自分を雇ってくれるソープ店はなかっただろう。それに今日はこうしてコンタクトレンズを作るのにも付き合ってくれている。つまり南にとって呉凱は大恩人というわけだ。

(しっかり働いて恩返ししないとな)

 思わずそう気合を入れていると、何かの紙を持った呉凱が南を呼んだ。

「オラ、行くぜ」
「あ、はい」

 南が慌てて山羊の先生に頭を下げると、その山羊先生が呉凱に向かって言った。

「コンタクト買うなら上の階に新しく店ができたらしいぞ」
「馬鹿言え。こいつの目ん玉に貼り付けるモンをこんな怪しいとこで買うか」
「その怪しいとこに連れてくるお前さんこそ馬鹿じゃないのか?」
「うるせぇ。じゃあな醫師センセイ。次会うまでくたばんじゃねーぞ」
「心配せんでもワシはまだまだ若いわ」

 鼻を鳴らしてそう答えた山羊先生に後ろ向きに手を降って呉凱は出て行った。
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