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★ミナミくん、泡姫になる。
しおりを挟むひやり、と頬に冷たい何かを押し当てられて、南はハッと我に返った。
「う、うわっ、しま……っ」
「おい、大丈夫か」
慌てて飛び起きようとして下半身のあまりの重怠さに腰砕けになった南の上から太くて低い声が降って来る。恐る恐る視線を上げれば、元通り白いカッターシャツの袖をまくって黒のベストとスラックスを着こんだ呉凱が南を覗き込んでいた。
「す……すみません……」
「いや、初めてならそんなもんだろ」
なんでもない、といった口調でそう言う呉凱に著しい経験値の差を見せつけられた気がして、気恥ずかしいのが半分面白くないのが半分といった微妙な気持ちになる。
「オラ、飲め」
そう言われてさっき頬に当てられた物は冷たい水のボトルだったと気づいた。
「おめーコーヒー駄目なんだろ?」
「え。なんで……」
「こないだ、すげぇしかめっ面で飲んでたからな。水ならいいだろ」
「………………ありがとう、ございます」
(……顔と口調は怖いとこあるけど、やっぱ優しいよなぁ、この人……じゃない、虎……さん……?)
虎さん、というフレーズが妙に可愛らしくて思わず笑ってしまう。すると呉凱が何かを手にして南の隣にどっかりと腰を下ろした。そして南へと伸びてきた手につい反射的に首をすくめてしまう。すると呉凱は短い毛に覆われた硬くて大きな手のひらでそっと南の後ろ髪を掻き上げて言った。
「……悪かったな。痛かっただろ」
「え?」
そう言われてようやく、さっきのプレイの最中にうなじを噛まれたことを思い出す。呉凱は持っていた救急箱から軟膏を取り出すと「オラ、あっち向け」と言った。
南が言われた通りにすると、チューブから出した軟膏をうなじに塗ってガーゼを当て、テープで止めた。
「瘋狗症の予防接種は受けてるから大丈夫だとは思うが、腫れたり熱持ったりしたら病院行けよ」
「……はい、わかりました」
そう答えて振り向くと、呉凱はぐっと眉を寄せた顔で皺くちゃになったシーツをにらみつけている。
(……ほんとに、優しいんだなぁ……)
恐らく、呉凱は普段は決して店の者を傷つけたり暴力をふるったりはしないのだろう。言葉遣いこそ乱暴だが、言う事の端々にはいつも南に対する気遣いや大人としての良識が見え隠れしていた。多分南が『突っ込んでくれるなら誰でもいい』と言ったことが、彼をここまで怒らせてしまったのだろう。ならば自業自得というものだ。南には呉凱を責める気持ちはこれっぽっちもなかった。
南は眼鏡がなくてぼやける目をすがめて、隣に座っている呉凱をじっと見つめる。すぐ真横から見ると呉凱の身体の大きさと分厚さがよくわかる。南の両腕がやっと回るか、というような太くていかにも強靭なバネを秘めていそうな腰回りを見て、南はつい先ほどの呉凱とのアレコレを思い出して顔が熱くなった。
その時、呉凱がガシガシと頭の後ろを掻きまわして大きく息を吐き出し、言った。
「とにかく、おめーはまずコンタクト買いに行け」
「え?」
「眼鏡じゃ風呂入れんだろ。まさか目ん玉にレンズ入れんのが怖いとか言わねぇよな」
「え、あ、いや……って、その」
思わず言葉に詰まっていると、呉凱が苦り切った顔で南に言った。
「……採用だっつってんだよ。その代わりおめーには専属契約結んで貰う。うちじゃ初めてのニンゲンの嬢だしな。だからこれ以上ヤケ起こしたりよその店なんかにぜってー行くんじゃねぇぞ。わかったな」
「は…………はい! も、もちろん!」
ついに得られた『採用』の言葉に南は大喜びで返事をした。
(こ、これで、いろんな人にいっぱい抱いて貰えるんだ……!)
途端に今までぐるぐる悩んでいたことがいっぺんに解決したような気分になる。だがそのために準備しなければならないことを考えて一気に高揚した気分が萎んだ。
「えと、コンタクトなんですが……」
使ったことはないが練習するのに否やはない。だが問題はそれを買う金と店だ。自慢じゃないが会社とアパートの往復しかしたことない南にはどこでそれを買えるのか、人間の店のように医者の診断書がいるのかどうかもわからない。
すると南の沈んだ顔を見て色々と察したのか、呉凱がまた鼻を鳴らして言った。
「支度金くれてやるからそれで買って来い」
「あ、はい、でもその……」
「…………店も連れてってやるから! ついでに眼鏡もちゃんとしたやつ買え!」
「は、はい! ありがとうございます!」
思わず満面の笑顔で答える。
「ありがとうございます。呉凱店長!」
「ケッ」
呉凱はなぜか機嫌悪そうにまた鼻を鳴らすと、何かの書類を南に突き出した。
「細かいことは今度でいいから、とりあえずここに名前と連絡先」
「あ、はい」
呉凱が胸ポケットから取って貸してくれたボールペンを持ち、南はにんまりと笑う。そしてできるだけ丁寧に『南 和哉』と署名して、また笑みを浮かべた。
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