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【第三部】西の国イスタリア

114 再びのダーヒル神殿領

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 帝都イスマーンを出発して三十日の間、僕はいくつかの町や村に立ち寄りながら各地の井戸が復活し牧草が生え山羊や羊や馬の数が増えているのをこの目で見ることができた。

 イコン河に落ちたサイードさんと偶然再会し世話をしてくれたあの遊牧民の一家も、今は元いたアル・ハダール中央の平原へと住居を戻していた。今回の旅の途中に再び会うことができ、一家の長たる老爺と二人の息子夫婦はサイードさんに深々と頭を下げ、その子どもたちはアマルという名の山羊を僕たちに見せてくれた。
 二年半前、神殿領から帝都イスマーンへと向かう途中に泊めてもらった時は、彼らの住む土地は小石ばかりが転がる乾いた礫砂漠だった。けれど今、同じ場所でのんびりと草を食む馬やヤギたちを見て、本当にアル・ハダールに水が戻ったのだと肌で感じることができて嬉しかった。

 夜になると彼らは一番大きな幕家に僕らを呼び、山羊を屠り乳酒で歓待してくれた。

「そうそう、前はこれ一口飲んだだけで酔って寝落ちしちゃったんだよね」

 素朴な素焼きの椀に注いでもらった乳酒を見て思わず思い出し笑いをすると、傍に座ったアドリーが一口飲んで「確かに意外と強い酒のようですな」と瞬きをする。

「こういった酒は家や村によって微妙に違うが、この家のは特にきつい気がするな」

 そうサイードさんが言うとこの家の男たちが一斉に笑った。

「これがなければとても冬は越せませぬ」
「我が家には欠かせぬものにございます」

 幕家には僕とサイードさん、ダルガート、アドリーが招かれていて、他の人たちは外で火を焚きそちらで酒や肉をごちそうになっている。ちなみにこの四人で一番酒を飲み慣れていないのはもちろん僕だけれど、アドリーも割とすぐ顔が赤くなっていた。

「いや、これは本当に強い」

 そう言いつつまた椀を口に運ぶアドリーの呂律が怪しい。そして僕より早く撃沈してしまった。
 寝てしまったアドリーをダルガートが担いで、いつぞやと同じく倉庫代わりの幕家を借りる。そして四人で丸まって毛布を被り、幕家の外に吹く風の音を聞きながら眠った。

 翌朝、少々顔色が悪いアドリーをなんとか馬に乗せると、たくさんの山羊たちと一緒に見送ってくれた彼らに手を振って僕たちはさらに西へと向かった。そして僕たちは二年半振りにダーヒル神殿領へ戻ってきた。

「これはこれは神子殿。お元気そうでなによりじゃ」

 そう言って神殿長は以前と変わらぬ笑顔で僕たちを歓迎してくれた。

「御覧の通り、エルミランの山頂には吉兆が続き、この神殿領の周りにも神子殿の恵みは十二分に届いておる。神子殿もこちらへ来るまでの間、その徴を見ることができたのでは?」
「はい、確かに」
「それは重畳」

 神殿長が目を細めて頷く。

「此度はイスタリアまで行かれるとか。王都カナーンまではここからまだ十日はかかる。今宵はこの神殿で旅の疲れを癒されるがよろしかろう」
「ありがとうございます。それと……後で構いませんので少しお時間頂けますか?」

 少し声を潜めて頼むと、神殿長は「もちろんじゃとも」と笑ってくれた。


     ◇   ◇   ◇


「ああ、懐かしいな」

 案内された部屋を見渡して思わず呟く。すると後から細々とした荷物を持って入ってきたウルドが「左様でございますね」と微笑んだ。

 そこは僕が初めてこの世界に来た時に泊まっていた部屋だった。南を向いた窓からは神殿の下の白い街並みやどこまでも続く青い空と砂の海が見える。そしてやたらと大きな寝台に奥にあるハマーム、そして僕がいつも座って食事をとった居間の隅の一角。何もかもが懐かしくて胸に迫る。

 前にここで寝起きしていた時はまだこの世界のことをまったく知らず、慈雨の神子だとか雨を降らせる力なんてものがどうしても信じられずにいた。そして元の世界に二度と戻れないと言われて、この先どうすればいいのかわからずずっと不安だった。
 そんな中、始めから最後まで僕を励まし守ってくれたのがサイードさんとダルガートだった。
 突然この世界に呼び出され二度と家族に会えないのはとてつもない不運だったけれど、でもこちらの世界で人との出会いには本当に恵まれたと心から思う。

 もう一人の傍仕えが部屋を整えている間、ウルドがお茶を淹れてくれた。ちなみに使う茶器は銀器や玻璃ではなくアル・ハダールから持ち込んでいる磁器だ。確かカルブの儀式の後に神殿で開かれた宴でも使われていた東の国特有のもので、中のお茶が透けて見えそうなほど薄いそれは爪の先で弾くととても綺麗で澄んだ音がする。ほかの国ではまだ一般的な技術ではないらしく、今回イスタリアの女王陛下とレティシア王女への土産にもいくつか持ってきていた。

 ほっとするようなほのかに甘いお茶を飲みながら部屋を見渡すと「ああ、ここでサイードさんとご飯を食べたな」とか「夜にこの窓から空を見て同じ星座がないか探したな」と思い出す。
 この部屋へ来る前にエイレケのマスダルに襲われた廊下を通った時は「そういえばここで初めてダルガートにかばってもらったんだよなぁ」と、あの時抱きしめられた力強い腕の感触を思い出していたら、ヤハルに「顔が上気しておられるようですがお加減でも?」と心配されたあげく、ダルガート本人にまでいぶかしげに見下ろされてしまって非常に気まずかった。


     ◇   ◇   ◇


 昼の祈りを他の神官たちと一緒に行った後、僕は神殿長と一緒に儀式の間へ行った。
 ちなみに神殿での勤めに関してはあまり深く考えずに割り切ることにした。相変わらず僕にとって信仰心というものは縁遠いものだし、神様が実際にいるのか信じきれない。けれどこの世界の人たちにとって《慈雨の神子》と太陽神ラハルは切っても切れない存在でどちらもとても大事なものなのだ。
 だから僕は各地を視察する時は必ず神殿に立ち寄り、その地の神官たちと日々の勤めに加わることにしている。そして祈りの時間には神様に対して何かを願うのではなく、無事今に至れたことを感謝するだけに留めている。

 神殿長と共に訪れた儀式の間は、初めてこの世界に来た時に見たのとまったく変わっていなかった。見上げるほど高い天井や壁には白と青が複雑に連なりあう幾何学模様が描かれていてたいそう美しい。
 僕がここに来たのはもちろんあの巨大な水晶のような球体を見せてもらうためだ。思えばここが一番最初にあの球体を目にした場所だったけれど、あの時はそれどころではなくまだ間近に見たり触ったりはしていなかった。

 神殿長に一言断ってその不思議な球体に近づく。アルダ教の総本山だけあって今まで見た球体の中で一番大きい。ほとんどもたれるように張り付いて中を覗き込むと、やはり三つの金属のような輪が様々な角度で重なり合っている。そしてそれには記号のような数字のようなものが刻まれていた。
 これを見ているといつも頭の中がスッと冷たくなるような感覚に襲われる。僕はじっと目を凝らしてそこに刻まれた記号と数字らしきものを読んだ。そしてそれがズレても狂ってもいないことを確認する。

「あの、以前アルダ教の神殿はラハル神を拝むために全部南を向いて建っていると教えていただいたと思うんですが」
「いかにも」

 神殿長が頷いた。

「でもアル・ハダールのあちこちに建っている神殿や聖廟はどれももっと西……南西を向いていたのですが……」
「ほう、それは儂も初耳じゃの」

 白く長い髭を撫でながら神殿長は首を傾げる。僕は国から持ってきた地図を広げて見せた。それは昔この神殿を発つ前に神殿長に貰い、それからいろいろな所へ行くたびに気づいたことを書き込んできたものだ。僕が訪れた神殿のおおよその向きも矢印でメモしてある。

「なるほど、確かに東の国の神殿はどれも南よりもっと西を向いておるようですな」
「しかもこれ、同じ方向を指しているように見えるんです」

 それに気づいたのは八か所目の神殿の向きを書き込んだ時だった。正確な方位磁針などで調べたわけではないので絶対とは言えないが、どれもこのダーヒルの神殿から南へ下がった辺りを指しているように見える。

「これはこの神殿領からエイレケへ入ったところのようじゃの。じゃがこの辺りはただの砂漠で何もなかったと思うが」
「そうですか」

 エイレケといえばこの神殿やアジャール山で僕を襲ってきた国だ。現在アル・ハダールは西のイスタリアとはそれなりに良好な関係を結んでいるが、エイレケとはまったくの没交渉だと聞いている。

 以前、東の辺境にある神殿で初めてあの水晶のような球体の方角を合わせた時、そこからまるでレーザービームのように光が神殿の正面のバルコニーを抜けてまっすぐに放たれた。それと同じ現象は球体の中の座標がズレていた他の神殿でも起きて、しかもどれも僕以外の人には見えないようだった。
 あの光がどれも神殿の南の砂漠の一点を差していたのだったらぜひ調べてみたいが、エイレケの領土なら僕の一存で勝手に入り込むわけにはいかない。がっかりして思わず肩を落とすと、神殿長がじっと僕を見て言った。

「神子殿よ。儂にはこれが何を意味しているのかはわからぬが、これからイスタリアへゆかれるのなら向こうの神殿も見てこられてはいかがかの。慈雨の恵みをかの国へも広げるためと言えば女王陛下も否やはおっしゃられぬであろう」
「ええ、そうしてみます」

 それから僕は例の球体のことで知っている限りのことを書き込んだものを神殿長に渡し、例の過去の神子たちからの手紙と一緒に保管しておいて欲しいと頼んだ。日本語で書いたそれをじっと見た後、神殿長は「確かに承った」と言って微笑んだ。

 部屋に戻り、改めて持って来た地図を眺める。
 以前、ダーヒルの神殿からアル・ハダールへ出発する時に神殿長から譲られたその地図は、彼が秘密裡に集めた各国の地図を繋ぎ合わせる形で作られたものだ。そしてそこに描かれたイシュマール大陸は、僕が生まれた世界のユーラシア大陸の一部にそっくりな形をしていた。
 元の世界で言えば中央アジアと中国との境がダーヒル神殿領、そのまま南に下がったエイレケの領土である三角形の半島はインドに当たる。神殿長の地図にはスリランカと思われる島まで描かれていた。
 神殿領から東の国境を越えたチベットやウイグルの辺りがアル・ハダールで、ここイスタリアの領土は元の世界の中央アジアと呼ばれる場所だ。

 これは一体どういうことなのだろうか。雨を降らせたり嵐を起こしたり、飲むだけで言葉がわかる薬だなどとファンタジーめいたものがあるこの《異世界》がなぜここまで地球と似通っているのだろう。やはり元の世界とここがまったくの無関係であるとは到底思えない。
 過去にタイムスリップしたのではないのなら、この世界は一体なんなのだろう。それがわかる日は果たして来るのだろうか。
 ますます謎が深まるばかりの地図を見ながら、小さくため息をついた。
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