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第四章『領主代行』
116話 ログラムの賢者
しおりを挟むユニィが朝から訓練訓練とうるさくなった。まるでストリナの再来で、もちろんストリナがいなくなったわけではないので、訓練の労力は倍である。
しかも、今朝の訓練では、おっとりして見えたエルスさんが、実は棍の名手であったことが判明した。パッケと互角に、しかも優雅に手合わせしているのを目撃してしまったのだ。
ユニィのあれは、確実に血筋だろう。
そして昼からは、ずっと賢人ギルドに缶詰である。
ターナ先生とアスキー先生に教えたものは固形石鹸の製法と紙の製法だが、今までは塩が不足して大量生産できない状況だった。
しかし、輸入が増え、うちが融資して開発された塩泉からも、利子代わりの塩が送られてくるようになったことで、状況が変わった。
もはや原料には困らなくなったのだ。だから工房を作って大量生産することが可能だが、規模が大きすぎてこれまでのように全部自分でやるわけにはいかない。
そこで声をかけたのが、賢人ギルドに所属している錬金術師たちである。マイナ先生の話によれば、自身の研究を進めるための資金を、自力で稼がないといけない人たちらしい。
ちなみに、素焼きの壺で二重化した装置で電気分解すれば、塩を水酸化ナトリウムと塩素、水素の三つに分解できる。
塩素は石灰と反応させて晒し粉に加工する予定だ。これを水に溶かすと、前世のプールで嗅いだあの匂いを発する液体になる。
用途は、濃度を薄くすれば飲み水の消毒やレイスウィルス感染症予防、やや濃くすれば治療院や患者宅での消毒、かなり濃いめにすれば、布や紙の原料の漂白剤として使える。
水酸化ナトリウムは、そのまま使う場合は、油を鹸化して石鹸にできる。また強アルカリでタンパク質を分解する作用もあるので、紙を作る時に植物の繊維を腐らせる手間が不要になる。
晒し粉による漂白と組み合わせれば、白くてしなやかな紙が大量に生産できるようになるだろう。
さらに、二酸化炭素を吹き込めば、重炭酸ナトリウムに加工できる。こちらはガラスの融点を下げる添加剤や、料理の膨らし粉、あとは洗剤がわりにも使えるはずだ。
水素は、まだ利用方法に悩んでいるところだが、浮かぶスライム袋を錬金術士たちを見せると驚いたようだった。離れたところから神術を打ち込んで爆発させてみせると、錬金術士たちは興奮した様子で激論を交わしていた。
この分なら、きっと水素の用途もすぐ見つかるだろう。
電気分解の実演もしてみせたが、どうやら刺激的すぎたらしく、貫禄に溢れたお爺さんが、平伏してすがりつくように弟子入りを懇願してきたりする一幕もあった。ちなみに僕は8歳である。
絵面も気にせず、なりふりかまわなくなる研究者は怖い。
「というわけだから、電気分解の工房にも、うちから人を出せるわ。希望者多数だから、イント君が選んでね」
一通り説明を終えて部屋で休んでいると、マイナ先生が勤務希望者のリストを持ってくる。
「あれ? これ、本部の人が一人混じってない?」
この計画は箝口令が敷かれているので、僕ら以外で知っているのは宰相閣下か、賢人ギルドのシーゲン支部に所属している人だけだと思っていた。
「ああ、国王陛下がらみの計画ってことになってるから、一応機密扱いで本部に報告したの。そしたら無理矢理ね」
その一人というのが、弟子入りを懇願してきたおじいちゃんだ。名前に家名が入っているところから見て、貴族だろうか。
「ゴート・コボル? どっかで聞いたような?」
聞き覚えのある名前に、しばし記憶を辿る。
――そうだ、思い出した。
「これ、王都でデートした時、本屋で見かけた数秘術の本の作者だ。三平方の定理とか解説してたやつの」
僕が思い出すと、マイナ先生が嬉しそうに笑った。
「へぇ。そんなの覚えてくれてたんだ。そうそう、そのゴート先生だよ。わたしの先生でもあるの」
確か、本屋さんは『ログラムの賢者』とか言ってたな。二つ名から察するに、かなりの大物ではなかろうか。
「そういえばコボルって侯爵家にあるよね。関係者かな?」
分家などで、同じ家名で別の爵位を持っている貴族はまぁまぁいるので油断がならない。パール家なんかは、伯爵を筆頭に子爵、男爵といて、しかも男爵家は複数あった。
もっと言えば、家名を名乗ることだけが許されている平民のマイナ先生みたいな例もある。まだ、すごい人と決まったわけではない。
「気づいちゃった? 前侯爵様その人だよ。ちなみに賢人ギルドの元ギルドマスターで、現最高顧問」
うん。やっぱり世の中甘くない。嫌な方向でドンピシャだった。
「え? なんでそんな人が、こんな辺境で子どもに弟子入りしようとしてるのさ?」
まったく意味が分からない。
「実は王都に居た時にあいさつに行ったとき、売り言葉に買い言葉で、私が三角形の面積をサインとかコサイン使って解いちゃったの。どうもそれが先生の知ってるやり方とは違ったみたいで、興味を持たれちゃって……」
王都にいる間、同じ宿に滞在して、夜な夜なせがまれて勉強を教えた結果、マイナ先生は数学の大学受験の共通テストで、6割ぐらいは取れそうなレベルになっている。
マイナ先生に習った限り、前世でいう数学は、数秘術などという大仰な呼ばれ方をされており、秘伝として賢人ギルドに伝えられているらしい。
王都の本屋では三平方の定理も見かけたし、0とか負の数に触れない限り、問題はないと認識していた。まだちょっと甘かったかもしれない。
「で、そこからどううちの工房で働きたいって話に?」
「いや、前に、賢人ギルドから誰か人をって話になってたじゃない? それもバレて、先生錬金術も得意だから……」
マイナ先生がどんどん口ごもっていく。
「それ、マイナ先生の若い教え子って話だったはずだよね」
マイナ先生の目が泳ぐ。
「いや、選ぶのはイント君なんだよ? 先生には、お年寄りだから不採用って言われたら、諦めるようちゃんと言ってあるから」
それを僕が元侯爵の偉い人に言うのか? さては断り切れなくて僕に丸投げしたな?
「あ、でも、採用してくれたら、資金もいっぱい出してくれるって」
それはもう採用とかそういう概念じゃない。
「それに先生を採用したら、けっこう知名度もあるから、簡単に異端審問にかけられたりもしないはずだよ? 賢人ギルドの学者が異端審問にかけられたら、飛んで行って弁護するので有名だし」
なんせ『ログラムの賢者』だものね。確かに、このままやってたら僕もガリレオ・ガリレイみたいなことになりそうな気もする。いや、異端審問に対する備えが必要だと言われればその通りなんだけど、そうじゃない。
「マイナ先生は、採用しても良いと思ってる?」
8歳児の足に縋って、弟子入りを懇願するおじいちゃんである。僕なら断る。
「先生、学問のことになると、ちょっとだけ暴走したりするけど、すごい優秀だから、雇って損はないと思うよ?」
そういう意味では似た者の子弟かもしれない。マイナ先生も、僕の前世の知識のことを知るやいなや、いろいろすっ飛ばしていきなり婚約とか言ってきたぐらいだし。
「わかった。雇おう。もういっそのこと、工房系全部任せちゃおうか」
今予定されているのは、現状稼働しているもの含めると、賢人ギルドと共同で運営する製紙工房、印刷工房、石鹸工房と、僕らが直営で運営する電気分解工房、溶錬水晶工房、鍛冶工房、石工工房、そして精肉工房、革工房、製塩所である。
この他にも、宿屋は常に満室で、次々増築されていっているらしいし、交易所も必要で、人の出入りが増えれば食堂なんかも必要になってくる。実際のところ、今あるものだけでも村人だけではいっぱいいっぱいだろう。
初対面で信用できるかわからないけど、マイナ先生がそう言うなら、きっと間違いない。間違いないなら、面倒はすべて押し付けてしまおう。
「いいの? けっこう機密事項な気もするんだけど」
マイナ先生は、急に不安そうな顔をする。
「マイナ先生の師匠なら、外から調べられるより、話して巻き込んだ方が面倒がなくて良さそうだけど」
僕がそう言うと、マイナ先生がさらに不安そうになった。
「それなら良いんだけど、絶対夜は私だけだからね」
うん。違う意味だとは理解してるけど、なんか背筋がぞわぞわする表現だね。婚約者らしくて良いけど。
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