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第一章『死の谷』

8話 計算と計算違い

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 ターナ先生とマイナ先生の授業は、それは見事なものだった。こちらの世界の言葉は母音と子音の組み合わせになっていて、転生前で言うとローマ字のような構造になっていたのだが、それをアンはよく理解できていなかったらしい。

 アンは感覚だけで理解していて、うまく説明できなかったために、僕たちに書き取りによる丸暗記をさせようとしていたのだ。
 だが、そのおかげで、僕を含めた生徒たちは充分に字の形を知っていた。だからだろう。ターナ先生とマイナ先生が母音と子音について教えて回るだけで、みんなあっという間に仕組みを理解してしまった。

 字が読めるのは前世では当たり前だったため、さほど意識していなかったが、こちらの世界では違ったらしい。

 生徒たちは泣きながら大喜びし、魔物の肉を干す作業のために彼らを呼びに来た親族たちは、話を聞いて軽いパニックを起こしていたほど。生徒やその親族は、二人に何度もお礼を言って、中庭や屋上に散っていった。

 その後は、相変わらず味気のない昼食を挟んで、さらに講義が続いている。ターナ先生は戻ってきたストリナに読み書きを教えていて、マイナ先生は僕に計算を教えようとしているのだが……

「イント君、本当に計算ははじめて?全部解けるっておかしくない?」

 マイナ先生も戸惑っていたが、僕も戸惑っていた。出題してくる問題が小学生並みで、たま~に計算間違いをするぐらいで、概ね解ける。簡単すぎるのだ。

「いやぁ、何でなんでしょうね?ハハハハハ」

 前世の記憶については誤魔化しつつ、問題を解いていく。むしろ、計算問題を文章で出されるのがめんどくさい。ローマ字表記のイメージで言うと、

『go kakeru sann ha ?』

 みたいなイメージである。計算式で書くと『5×3=』で済むのに、わざわざ文章で書く意味がわからない。まだ教えてもらえてないだけかもしれないが。

「絶対おかしいわ」

 暗算で解くと、たまに間違えるので、手元の石板で計算式に直してから解くようにしていた。それも奇行に見えたのか、マイナ先生は僕の手元を悔しそうにジッと見ている。

「じゃあレベルを上げていくわね」

 マイナ先生はそこから、桁を増やして難易度を上げてきたが、こちらは元受験生だ。筆算を使えば楽に解ける。

 マイナ先生がジト目になってきた頃に、汚れた革鎧を着た父上がホールの扉を開けて帰ってきた。返り血や雨滴がそのまま染みになっているんだろうけど、あれってキレイになったりするんだろうか?

「さっきそこで村人たちにお礼を言われたが、何かあったのか?」

 後ろには義母さんが続いている。義母さんはまったく汚れていない。

「ターナ先生とマイナ先生が恩返しにって、村人に読み書きを教えてくれたんだ。今はマイナ先生に四則演算習ってて、それもだいたいできるようになったよ」

 一応全員で出迎えて、正直に報告する。マイナ先生が後ろから抗議するように服を引っ張ってくるが、とりあえず無視した。

「あたしもじがよめるようになったよ!」

 ストリナは嬉しそうに、自分の身長分ぐらいを軽やかにジャンプして父上の胸に飛び込んでいく。父上もそれを体重を感じさせずにキャッチしていた。こっちの世界の人の身体能力は恐ろしく高いのかもしれない。

「そうかそうか。リナも読めるようになったのか!」

 父上はそのまま、キャッキャとはしゃぐリナをくるくると空中で振り回し、そのままストンと地面に降ろした。ストリナはそのまま義母さんに抱きつく。

「さすが賢人ギルド所属の先生方です。ですが、我らの領地は貧乏領ですので、報酬の方は些少となってしまうのですが……」

 帰ってくるなり父上の腰が低い。うちは男爵家だ。男爵と言えば下級ながら貴族で、うちには領地まである。魔物も大量に狩って、それを売る収入も期待できるだろう。今回は報酬の心配はないから大丈夫だろうが、何かあるのだろうか?

「イント様にも申し上げましたが、これはマイナを救って頂いたお礼ですから、お気になさる必要はありませんわ」

 ターナ先生の目がキラリと光り、父上の表情が渋いものになる。父上の視線がちらりとこちらを向いて、一瞬目が合う。

「いえ、それ以前にマイナ殿には我が子らに助太刀いただいてます。お礼というならそのお礼もあるのですから、無報酬というわけには……」

 そうだ。うっかりしていたけど、僕はその前に助けられていたんだっけ。つまりマイナ先生の命を助けたお礼を受け取ってしまった以上、護衛してもらったお礼もしなければならないということか。
 心なしか、ターナ先生の微笑みが満足そうに見える。

「ち、父上! 今回手に入る皮や干し肉を売れば、お礼ぐらいは何とかなるのでは?」

 慌てて話に割って入ろうと試みたが、言った瞬間に義母さんが天を仰いだのが目に入った。どうやら僕はさらなるミスをしてしまったらしい。

「皮も干し肉も、きちんと処理するためには塩が必要なんだ。今、村では塩が不足していて、残っている塩を全部加工に回しても、今回の分を全部処理することはできない。塩なしでどこまでできるかわからないけど、ちゃんと処理されてないものは二束三文で買い叩かれるからね……」

 父上の説明は、絶望的なものだった。そう言えば、最近食事が味気ないとは思っていたけど、塩が不足していたせいだったのか。

「あら。報酬などお気になさらずとも良いですのに」

 ターナ先生が楽しそうに笑って続ける。もしかして、こうなる事を計算していたのだろうか?

「どうしても気になるという事であれば、かねてからお願いしている『死の谷』の奥にあるという煮えたぎる泉までの案内と、護衛を引き受けていただいただけるだけで十分ですわ」

 父上は、苦笑いでうなずいた。

「わかりました。今日死の谷までの魔物を掃討しましたから、明日ならば『死の谷』への侵入は容易でしょう。ターナ殿もマイナ殿も神術を使えるようですし、我々と村の狩人がいれば十分泉まで辿りつけるでしょう。後は……」

 そのまま、父上が良い笑顔でこちらを見た。何か嫌な予感がする。

「イント、お前も同行しろ。お前も槍と短剣と弓の訓練はしていただろう? きちんとした装備があれば魔物に遅れはとらないはずだ。」

 嫌な予感が的中した。あの時は記憶が混乱していたから、僕が武門の後継として訓練を受けていたことはすっかり忘れていた。冷静に考えれば、馬車の残骸を持ち上げるために使った棍をそのまま武器として使い、他にもう一つぐらい武器に使えそうなものが確保できれば、ストリナと2人で魔狼に対処できた可能性は高いだろう。
 父上はそれを把握して、機嫌が悪くなっているのかもしれない。義母さんも弁護してくれなさそうだ。

「ええと、短剣は昨日馬車の中に置きっぱなしにしてて失くしたし……」

 何とか言い逃れしようと試みる。また魔物と命のやり取りなんてゴメンだ。

「嘘をつくな。今朝腰に差していただろう。そんなに警戒しなくていい。今回は雰囲気を知るだけで、何も明日戦えって話じゃない。お前もそろそろ経験を積むべきだろう」

 ああ、覚えられていたか。これは、ついていくしかなさそうだ。

「おにいちゃんがいくならあたしもいくっ!」

 ストリナが勢いよく手を上げて自己主張し、父上と義母さんが何やらアイコンタクトした。

「リナはまだダメだ。アンと留守番してなさい」

 リナの同行は、一瞬で却下される。昨日は混乱していたが、よく考えれば僕はリナと手合わせしたら、僕が負けることの方が多い。なのになぜ留守番なのか?リナが留守番なら、僕も留守番したい。

「聖霊様の加護があるイント様に同行頂けるのは心強いですわ。明日、よろしくお願いしますわね」

 振り返ると、マイナ先生も嬉しそうな顔をしていた。『死の谷』と言えば、8歳でも知っているトップクラスの危険地帯である。

 僕は、無事にこの村に戻ってくる事はできるのだろうか?
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