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3.悪魔憑き
そして――
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ウォレスの祈りに合わせてどんどん増していく澄んだ輝きとともに、神々を讃える聖句の光に縁取られた扉が浮き上がる。
まさかここまでの邪魔が入るなどと想定はしていなかったのか、シグルドの目に焦りが滲む。
「“強制送還”……だと?」
「ああそうだ。とっととお前の世界に引っ込めよ、悪魔」
シグルドは、抵抗を試みようと集中する。
しかしそうはさせじとディルクがもう一度戦斧を振った。アシュもタイミングを合わせて、扉へ向かって思い切り蹴り飛ばす。
たまらずにたたらを踏んだシグルドは、扉の側へとよろめいた。
「カティナ、アーシェを頼む」
「え? ええ」
やや呆然としていたエルレインが、己のすべきことを思い出したかのように、急に立ち上がった。
手を離れていた剣の柄を握り直し、未だ気を失ったままのアストリッドをカティナに任せ、短く祈りの言葉を呟く。
それから、剣を構え、なお扉に抗うシグルドに向かって走る。
「悪魔よ去れ! 私は貴様の思う通りになどならない!」
エルレインの剣を逃れるため、シグルドは身体に纏わりつく戒めを振り払おうと身体を捩らせる。
「わたしがここを去ろうと、お前の愛しい女が戻ることはないのだぞ!」
「そうと決まったわけではない――貴様こそ、“神の怒りを知れ!”」
悪足掻きを止めないシグルドに、エルレインが渾身の一撃を叩き込んだ。聖なる力を纏う剣の一撃がその身体を切り裂き、焼き焦がす。
ぐう、と呻くと同時に力が弛み、扉から伸びた輝く鎖がしっかりとシグルドを捕らえた。輝く鎖がシグルドを縛りあげ、扉の中へと引き摺り込んでいく。
とうとうシグルドを完全に呑み込んだ扉は、重い音とともに閉じて消えた。
すぐに松明の揺らめく灯と静けさが戻って、アシュが大袈裟に吐息を漏らし、「助かった」と座り込んだ。
「首尾良く行って、よかったあ」
アシュがぺたりと座ったまま、尾でパタパタと床を叩く。
「“時間停止”さえ発動すれば何とかなるとは思っていたけどな……ウォレス、アストリッド殿を診てくれ」
「はいはい――あれだけ痛めつけての“強制送還”ですから、当分は戻って来れないと思いますよ」
タイレルが小さな魔術の灯りをともすと、やれやれと言いながらウォレスはアストリッドの顔を覗き込んだ。
いくつかの聖句を唱え、アストリッドをつぶさに観察するウォレスの横に、エルレインは複雑な表情で膝をつく。
「シグルドは、儀式を終えてしまっていたんですね?」
「――そう、だと言っていた」
「彼女は、“変容”してしまったのだと思います。例えるなら、あの騎士ロードリックのように、シグルドの同族に」
エルレインは無言で頷いた。
シグルドが言っていたではないか。おそらくはあの邪眼を使ってアストリッドに同意させて、七日の儀式を行ったと。
守ると言ったのに、拐われた時点でもう手遅れだったのだ。
「タイレルの調べたところによれば、“変容”させられたものは、儀式を行なった主人の支配下に置かれるのだそうです。
その支配は主人の意思もしくは死によってのみ、解かれるものだと」
「アーシェ……」
目覚めたら、アストリッドはあの悪魔の後を追おうとするのだろうか。エルレインを置いて、次元の壁の向こうに放逐された悪魔を。
それに、教会はおそらく頼れない。
アストリッドの状況を隠していたエルレインでさえ、破門のリスクが高いのに――
「彼女をどうするか、取れる手段は限られているな」
コツコツと、杖の石突を鳴らしながら、宙を睨んでいたタイレルが口を開いた。
「まず、教会の最高司祭に“奇跡”の行使を乞うか、最高位に達した魔術師に“願い”を頼むかだが」
「――私の教会は、頼れない」
「え、どうして? エルレインは正義の神の聖騎士じゃないか」
エルレインの言葉に、アシュが目を丸くする。
すぐには無理でも、この町の教会を通してどうにかして働きかけることだってできるんじゃないのか、と。
「アーシェは、司祭の力を失っていた。おまけに、儀式への“同意”だ――悪魔に屈し、その身を堕としたのだと断じられてしまうだろう」
「そんな……」
「では――最高位の魔術師にも伝手がない以上、この方法は難しいな」
タイレルは首を振る。
予想はしていたが、その予想が外れることを祈っていた。
正義と騎士の神の教会は潔癖だ。アストリッドの今の状態なら、最悪処分を決めることすら容易く想像できる。
「もっとも、最低でも“彼女の支配を解く”、“彼女を元に戻す”の二回が必要だと考えれば、この方法はあまり現実的ではなかったからな。
さすがに直接の伝手も先立つものも無い。
おまけに、そこまでしても本当に戻るかどうかの確証がないのでは、教会がそこまでの施しをしてくれるかも疑問だ。魔術師なら言わずもがなでもある」
はあ、とウォレスも溜息を吐く。
「そもそも、“邪悪の神髄”に触れて完全な“変容”を起こした者ですら、それで助かった記録が無いんですよ。
助ける前に討たれてしまうことの方が多いですし」
「なんだよ。じゃあ八方塞がりってこと? だったら、今からあの悪魔を追いかけてトドメ刺すのは?」
「支配を解くだけなら可能だろう。ただ、あの悪魔が帰った先を特定するのに、何年かはかかるだろうが」
うええ、とアシュが顔を顰めた。
エルレインはじっとアストリッドの顔を見つめたままだ。タイレルは眉を寄せて、ブツブツとひたすらに何かを呟いている。
「――今のところ、考えうる中で確実かつ可能な手はひとつか」
「なに?」
アシュが身を乗り出し、エルレインも顔を上げる。
「“転生”」
「え?」
「それも、魔術師の魔術ではなく、森の祭祀が使う本物のほうだ」
「あ――そっか!」
「なるほど、それがありましたね」
アシュとウォレスは納得した表情でしきりに頷いている。ディルクとカティナ、それにエルレインは怪訝そうにタイレルを見ている。
“転生”の魔法は二種類ある。魔術師の使うものと、森の祭祀が使うものだ。
転生とは、魂がおおいなる転輪を巡り、次の生へと生まれ直すことを言う。
魔術による“転生”は、いわばそれの模倣だ。
定命である魔術師が、どうしても「死にたくない」と願い、己の記憶や意識を残したまま……つまり、おおいなる転輪の力で魂に刻まれたあれこれを損なうことなく、望んだ形で次の生へと移るために編み出した魔法だ。
記憶も何もかもを残す代わりに、魂に刻まれ絡みついた、不要なしがらみまでも引き継いでしまう。
“転生”で生まれ変わった肉体も、魔術師の思うがままの年齢で形成される。
対する森の祭祀の“転生”は、おおいなる転輪を巡って生まれ変わるのと同様にまったく新しい生を得て、赤子として生まれ変わる。
記憶はもちろん、かつてのしがらみも何もかもを捨て去っての生まれ変わりだ。考えようによっては、外見だけよく似たまったくの他人になるとも言える。
「その、“森の祭祀”であれば、私かアシュの伝手を使えるだろう。
アシュは猫人の中でも大きい氏族の出身だし、私の母がいる森妖精の氏族にも、森の祭祀がいる」
「――つまり、アーシェにはすべてを忘れて赤子からやり直す方法しかない、と」
「もしくはそのまま生きるか、だ」
「そうか……」
エルレインは、アストリッドを抱き締めてじっと考える。
* * *
「しばらく、俺の婆ちゃんのところに世話になるって」
受け取った手紙に目を通して、アシュは開口一番にそう告げた。
テーブルを囲む冒険者仲間の四人は、「やっぱりね」と頷く。
「エルレインだけで赤子を育てられるとは思えないし、妥当かな」
「それに、乳飲み子を連れて出歩くわけにはいきませんし。赤子の世話なら妖精族より猫人族のほうが得意でしょうから」
アストリッドはあの後も目覚めることがなく、結局、エルレインは彼女を“転生”させることに決めた。
教会に報告すれば、未知の魔物に変じてしまったアストリッドはおそらく封印されるし、そこに至るまで報告を怠ったエルレインも処罰されるだろう。
そんな半端な結末を迎えるくらいならとことん逃げてしまえ――と、アシュが筆頭となって、とても冒険者らしい励まし方で唆した結果とも言える。
「教会には、エルレインはあの悪魔と相打ちになっちゃったって報告したし、ほとぼり冷ますならちょうどいいんじゃないかな。
アストリッド……じゃなくて、アーシェちゃん連れて歩けるくらい大きくなるまで、十年はかかるもんね」
「十年で連れて歩くのは早すぎない?」
「そんなことないよ。猫人族の子供は、だいたい十歳くらいから狩りに連れてかれるようになるし」
猫人族の氏族では、子供はだいたい一箇所にまとめて皆で世話をするものだし、猫人族はあまり細かいことを気にしない。
人間族に対しても特に何かはない。
だから、人間の赤子がひとり混じったところで大騒ぎするものもいない。
妖精族ならあれこれ調整と交渉が面倒だったが、ここばかりは猫人族のおおらかさに救われた形だ。
ついでに、エルレインは戦えて怪我も治せるのだから、猫人族のお荷物どころかとても有用な人物でもある。
正義の神の教会とちょっと問題を起こしたかもしれないけれど、猫人族の集落には教会どころかその神の信者も司祭もいないから関係ない。
もちろん、町での暮らしとはだいぶ勝手が違うだろうが、そこはどうにか馴染んでほしい――いや、馴染んでもらわないと困る。
「まあ、エルレインもなんとか頑張るんじゃないかな。アーシェちゃんのためだし」
「そうですね。エルレインは基本的に真面目でしたし。ところで、シャルルロア家にはもう知らせたんですか?」
「様子見るってさ。まだ町もばたばたしてるし、もう少し落ち着いたらこっそり手紙出すって。その時は俺たちが運ぶからって言っといた」
転生してアーシェとなったアストリッドが、これからどう育つかはわからない。
何しろ、姿形は同じでも、記憶も何もない別人なのだ。
エルレインは、それでも一縷の望みを賭けるのか、それとも今度は娘として慈しむつもりなのか……。
アシュたちにも、さすがにそこまではわからない。
けれど、いつか「こうしてよかった」と笑える日が来ることを望んでいる。
まさかここまでの邪魔が入るなどと想定はしていなかったのか、シグルドの目に焦りが滲む。
「“強制送還”……だと?」
「ああそうだ。とっととお前の世界に引っ込めよ、悪魔」
シグルドは、抵抗を試みようと集中する。
しかしそうはさせじとディルクがもう一度戦斧を振った。アシュもタイミングを合わせて、扉へ向かって思い切り蹴り飛ばす。
たまらずにたたらを踏んだシグルドは、扉の側へとよろめいた。
「カティナ、アーシェを頼む」
「え? ええ」
やや呆然としていたエルレインが、己のすべきことを思い出したかのように、急に立ち上がった。
手を離れていた剣の柄を握り直し、未だ気を失ったままのアストリッドをカティナに任せ、短く祈りの言葉を呟く。
それから、剣を構え、なお扉に抗うシグルドに向かって走る。
「悪魔よ去れ! 私は貴様の思う通りになどならない!」
エルレインの剣を逃れるため、シグルドは身体に纏わりつく戒めを振り払おうと身体を捩らせる。
「わたしがここを去ろうと、お前の愛しい女が戻ることはないのだぞ!」
「そうと決まったわけではない――貴様こそ、“神の怒りを知れ!”」
悪足掻きを止めないシグルドに、エルレインが渾身の一撃を叩き込んだ。聖なる力を纏う剣の一撃がその身体を切り裂き、焼き焦がす。
ぐう、と呻くと同時に力が弛み、扉から伸びた輝く鎖がしっかりとシグルドを捕らえた。輝く鎖がシグルドを縛りあげ、扉の中へと引き摺り込んでいく。
とうとうシグルドを完全に呑み込んだ扉は、重い音とともに閉じて消えた。
すぐに松明の揺らめく灯と静けさが戻って、アシュが大袈裟に吐息を漏らし、「助かった」と座り込んだ。
「首尾良く行って、よかったあ」
アシュがぺたりと座ったまま、尾でパタパタと床を叩く。
「“時間停止”さえ発動すれば何とかなるとは思っていたけどな……ウォレス、アストリッド殿を診てくれ」
「はいはい――あれだけ痛めつけての“強制送還”ですから、当分は戻って来れないと思いますよ」
タイレルが小さな魔術の灯りをともすと、やれやれと言いながらウォレスはアストリッドの顔を覗き込んだ。
いくつかの聖句を唱え、アストリッドをつぶさに観察するウォレスの横に、エルレインは複雑な表情で膝をつく。
「シグルドは、儀式を終えてしまっていたんですね?」
「――そう、だと言っていた」
「彼女は、“変容”してしまったのだと思います。例えるなら、あの騎士ロードリックのように、シグルドの同族に」
エルレインは無言で頷いた。
シグルドが言っていたではないか。おそらくはあの邪眼を使ってアストリッドに同意させて、七日の儀式を行ったと。
守ると言ったのに、拐われた時点でもう手遅れだったのだ。
「タイレルの調べたところによれば、“変容”させられたものは、儀式を行なった主人の支配下に置かれるのだそうです。
その支配は主人の意思もしくは死によってのみ、解かれるものだと」
「アーシェ……」
目覚めたら、アストリッドはあの悪魔の後を追おうとするのだろうか。エルレインを置いて、次元の壁の向こうに放逐された悪魔を。
それに、教会はおそらく頼れない。
アストリッドの状況を隠していたエルレインでさえ、破門のリスクが高いのに――
「彼女をどうするか、取れる手段は限られているな」
コツコツと、杖の石突を鳴らしながら、宙を睨んでいたタイレルが口を開いた。
「まず、教会の最高司祭に“奇跡”の行使を乞うか、最高位に達した魔術師に“願い”を頼むかだが」
「――私の教会は、頼れない」
「え、どうして? エルレインは正義の神の聖騎士じゃないか」
エルレインの言葉に、アシュが目を丸くする。
すぐには無理でも、この町の教会を通してどうにかして働きかけることだってできるんじゃないのか、と。
「アーシェは、司祭の力を失っていた。おまけに、儀式への“同意”だ――悪魔に屈し、その身を堕としたのだと断じられてしまうだろう」
「そんな……」
「では――最高位の魔術師にも伝手がない以上、この方法は難しいな」
タイレルは首を振る。
予想はしていたが、その予想が外れることを祈っていた。
正義と騎士の神の教会は潔癖だ。アストリッドの今の状態なら、最悪処分を決めることすら容易く想像できる。
「もっとも、最低でも“彼女の支配を解く”、“彼女を元に戻す”の二回が必要だと考えれば、この方法はあまり現実的ではなかったからな。
さすがに直接の伝手も先立つものも無い。
おまけに、そこまでしても本当に戻るかどうかの確証がないのでは、教会がそこまでの施しをしてくれるかも疑問だ。魔術師なら言わずもがなでもある」
はあ、とウォレスも溜息を吐く。
「そもそも、“邪悪の神髄”に触れて完全な“変容”を起こした者ですら、それで助かった記録が無いんですよ。
助ける前に討たれてしまうことの方が多いですし」
「なんだよ。じゃあ八方塞がりってこと? だったら、今からあの悪魔を追いかけてトドメ刺すのは?」
「支配を解くだけなら可能だろう。ただ、あの悪魔が帰った先を特定するのに、何年かはかかるだろうが」
うええ、とアシュが顔を顰めた。
エルレインはじっとアストリッドの顔を見つめたままだ。タイレルは眉を寄せて、ブツブツとひたすらに何かを呟いている。
「――今のところ、考えうる中で確実かつ可能な手はひとつか」
「なに?」
アシュが身を乗り出し、エルレインも顔を上げる。
「“転生”」
「え?」
「それも、魔術師の魔術ではなく、森の祭祀が使う本物のほうだ」
「あ――そっか!」
「なるほど、それがありましたね」
アシュとウォレスは納得した表情でしきりに頷いている。ディルクとカティナ、それにエルレインは怪訝そうにタイレルを見ている。
“転生”の魔法は二種類ある。魔術師の使うものと、森の祭祀が使うものだ。
転生とは、魂がおおいなる転輪を巡り、次の生へと生まれ直すことを言う。
魔術による“転生”は、いわばそれの模倣だ。
定命である魔術師が、どうしても「死にたくない」と願い、己の記憶や意識を残したまま……つまり、おおいなる転輪の力で魂に刻まれたあれこれを損なうことなく、望んだ形で次の生へと移るために編み出した魔法だ。
記憶も何もかもを残す代わりに、魂に刻まれ絡みついた、不要なしがらみまでも引き継いでしまう。
“転生”で生まれ変わった肉体も、魔術師の思うがままの年齢で形成される。
対する森の祭祀の“転生”は、おおいなる転輪を巡って生まれ変わるのと同様にまったく新しい生を得て、赤子として生まれ変わる。
記憶はもちろん、かつてのしがらみも何もかもを捨て去っての生まれ変わりだ。考えようによっては、外見だけよく似たまったくの他人になるとも言える。
「その、“森の祭祀”であれば、私かアシュの伝手を使えるだろう。
アシュは猫人の中でも大きい氏族の出身だし、私の母がいる森妖精の氏族にも、森の祭祀がいる」
「――つまり、アーシェにはすべてを忘れて赤子からやり直す方法しかない、と」
「もしくはそのまま生きるか、だ」
「そうか……」
エルレインは、アストリッドを抱き締めてじっと考える。
* * *
「しばらく、俺の婆ちゃんのところに世話になるって」
受け取った手紙に目を通して、アシュは開口一番にそう告げた。
テーブルを囲む冒険者仲間の四人は、「やっぱりね」と頷く。
「エルレインだけで赤子を育てられるとは思えないし、妥当かな」
「それに、乳飲み子を連れて出歩くわけにはいきませんし。赤子の世話なら妖精族より猫人族のほうが得意でしょうから」
アストリッドはあの後も目覚めることがなく、結局、エルレインは彼女を“転生”させることに決めた。
教会に報告すれば、未知の魔物に変じてしまったアストリッドはおそらく封印されるし、そこに至るまで報告を怠ったエルレインも処罰されるだろう。
そんな半端な結末を迎えるくらいならとことん逃げてしまえ――と、アシュが筆頭となって、とても冒険者らしい励まし方で唆した結果とも言える。
「教会には、エルレインはあの悪魔と相打ちになっちゃったって報告したし、ほとぼり冷ますならちょうどいいんじゃないかな。
アストリッド……じゃなくて、アーシェちゃん連れて歩けるくらい大きくなるまで、十年はかかるもんね」
「十年で連れて歩くのは早すぎない?」
「そんなことないよ。猫人族の子供は、だいたい十歳くらいから狩りに連れてかれるようになるし」
猫人族の氏族では、子供はだいたい一箇所にまとめて皆で世話をするものだし、猫人族はあまり細かいことを気にしない。
人間族に対しても特に何かはない。
だから、人間の赤子がひとり混じったところで大騒ぎするものもいない。
妖精族ならあれこれ調整と交渉が面倒だったが、ここばかりは猫人族のおおらかさに救われた形だ。
ついでに、エルレインは戦えて怪我も治せるのだから、猫人族のお荷物どころかとても有用な人物でもある。
正義の神の教会とちょっと問題を起こしたかもしれないけれど、猫人族の集落には教会どころかその神の信者も司祭もいないから関係ない。
もちろん、町での暮らしとはだいぶ勝手が違うだろうが、そこはどうにか馴染んでほしい――いや、馴染んでもらわないと困る。
「まあ、エルレインもなんとか頑張るんじゃないかな。アーシェちゃんのためだし」
「そうですね。エルレインは基本的に真面目でしたし。ところで、シャルルロア家にはもう知らせたんですか?」
「様子見るってさ。まだ町もばたばたしてるし、もう少し落ち着いたらこっそり手紙出すって。その時は俺たちが運ぶからって言っといた」
転生してアーシェとなったアストリッドが、これからどう育つかはわからない。
何しろ、姿形は同じでも、記憶も何もない別人なのだ。
エルレインは、それでも一縷の望みを賭けるのか、それとも今度は娘として慈しむつもりなのか……。
アシュたちにも、さすがにそこまではわからない。
けれど、いつか「こうしてよかった」と笑える日が来ることを望んでいる。
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