真夜中の吸血鬼

ぎんげつ

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2.推定食料と彼氏志望

8.やさぐれ吸血鬼

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 糸のように細い月が昇り始めた。

 夜明けまではあと数時間か。この辺りではいちばん大きな公園で東の空を眺めて、ぼんやりとそんなことを考える。
 本来ならもっと暗い、月も無い闇夜といってもいいはずの夜なのに、ここはこんなにも明るく照らされている。
 煌々と輝く地上の灯りを受けて薄雲がほの白く浮かびあがり、その雲に反射した光がまた地上を照らしているのだ。

「あの、どうかしました?」

 声を掛けられて目を向けると、ベンチに腰掛けたままのミカを伺うように、女が立っていた。

「あなたのような方が通り掛かるのを、お待ちしておりました」

 ミカは立ち上がり、微笑んで手を差し出す。
 女は一瞬だけ驚いたように目を見開いて……けれどすぐ、引き寄せられるようにふらふらと近付いた。

「私に、生命の糧を分けていただけますか?」

 手の届くところに来た女を抱き寄せ、耳元で優しく囁くと、どこかぼんやり惚けた表情で頷きを返す。

「ありがとうございます」
「……あ」

 ミカはすぐに牙を突き立て、溢れるものを啜る。
 ほどほどの量を飲み下したところでぺろりと後を舐めれば、首元の傷は瞬く間に消えてしまう。腹を満たすには足りないが、獲物はいくらでもいるのだ。
 不味くはないがそれだけなのだから、このくらいでいい。

 さっきまで優しく抱き寄せていた女をぞんざいに押しやって、ミカは「このことは忘れなさい」と囁きかける。
 ぼんやりと心ここに在らずという表情の女は、続く「そのまま家にお帰りなさい」という言葉に頷いて、覚束ない足取りのままに去っていった。

「――お行儀の悪い方がいるようですね」

 ミカが小さく吐息混じりに、けれどはっきりと呼びかけた。
 どうでもいいと放置してはいたが、さっきからずっと視線を感じていた。そろそろ観察されることが苛立たしく感じられてきたのだ。

「気がついていたのか」

 植込みをがさりと揺らして、長身の人影が出てきた。いつか……あの夏祭りの日に見かけた、“聖なるもの”だった。
 輝くような金の髪。闇の中ですら浮かび上がるようにほのかな光を放つ身体。ミカとは対極の位置にいる、紛うことなき“聖なる天のもの”だ。
 思い切り顔を顰めた“聖なるもの”は、値踏みでもしているかのように、じっとミカを見つめている。

「教会のお固い方が、いつまでも地上に留まっていてよろしいので? 天の国へ帰らねば、叱られるのではないですか?」

 揶揄するような口ぶりに、“聖なるもの”は、ますます目を眇める。
 怒りを抑えようとしているのか、小さく息を吐いてゆっくりと口を開いた。

「近頃、この辺りに不審なものが出ると聞いた。僕の知人が遭遇したと……たしかに、彼女の首には痕跡が残っていた」

 ミカは僅かに眉根を寄せた。
 誰だかなどは覚えていないが、どうやら自分はこの“聖なるもの”の関係者に手を出してしまったらしい。

「なるほど。では、どうしますか? 私は協定を守り、殺すことなく必要な分のみ、生きる糧をいただいているだけですが」
「同意は取っているのか」
「もちろんですとも」
「その、邪眼で従わせてか」

 指を突きつけられて、ミカはすっと目を細める。

「それが何か? 協定には、同意を得る手段までは定められておりませんよ」

 口だけを笑みの形に歪めるミカに、“聖なるもの”はますます眉間の皺を深め、じりじりと近付いてくる。

「教会の犬らしく、私を狩るつもりですか」

 嘲るような言葉に煽られて、“聖なるもの”がカッと目を見開いた。どこに隠していたものか、聖なる力を帯びて煌めく剣を抜き放つ。
 おそらくは魔法で隠していたのだろう。
 そこかしこから魔法の気配がするとは感じていたが、どうやら魔法の物品を数多く身に付けていたらしい。

「聖剣持ちとは、位の高い天使なのでしょうか。出雲のお方が出てこようと構わない、そうお考えなのですか?」

 後ろに飛び退すさって、ミカはなおも嘲る口調をやめない。

「お前はかてだと言うが、ひと晩に何人狩れば気が済むんだ」
「殺さない程度にと制限があるのですから、飢えを満たすまで、数で稼がねばならないのは道理にかなっているでしょう?」

 “聖なるもの”はチッと舌打ちをした。
 ミカの赤く底光りする視線を正面から受けて、なおもミカを睨み付ける。

「お前の邪眼は僕には効かない」
「そうでしょうね」

 ひと息に間を詰めた“聖なるもの”の剣を躱して、ミカはふと思いつく。

「あの護符は、あなたの教会のものですか?」
「護符?」

 何のことだと胡乱な目で見返す“聖なるもの”に、「違いましたか」とミカは呟く。斬撃を躱しながら懐に入り込み、剣を持つ腕を掴むと、ぶすぶすと肉の焦げるようないやな臭いが立ち上った。

「さすが、“聖なるもの”ですね」

 嫌そうに顔を顰めて、ミカは思い切り胴を横薙ぎに蹴り飛ばす。
 “聖なるもの”は衝撃で数歩後ろによろめいたが、すぐに体勢を整えた。ミカも、後ろへと跳んで距離を置いた。
 そのまま再び睨み合い、間合いをはかりつつじりじりと動く。

「あなたの喉を食い破ってやりましょうか」
「お前こそ、十天国界パラディーゾの聖水の海に漬け込んでやろうか」

 ミカも“聖なるもの”も、同時に一歩踏み込んだ。その一歩を皮切りにひと息に駆け出して――あわや、というところで、いきなり何者かが乱入する。

「ちょーっ、待て、待て待て、な、ミカ、落ち着け!」
「だめだめ、カイルだめだよ、ルールまもらないと、たいへんだよ! ここのかみさま、おこっちゃうよ!」

 爪と牙を剥き出し、すっかり本性を露わにしたミカを、カレヴィが必死に羽交い締めで抑えつけていた。
 “聖なるもの”……カイルの振り下ろした剣も、ナイアラが両手の短剣を交差させてどうにか受けている。

「ナイアラ、そっち頼むな」
「まかせてー!」

 カレヴィはそれだけを言い残すと、手際よくミカを担ぎ上げて、瞬く間に走り去っていった。
 その背中を見送って、カイルはふう、と息を吐く。
 じろりとナイアラを睨みつけて、地を這うような低い声で「説明、してくれるんだろうな」と、剣を引いた。

「うん、あとで、ちゃんとせつめいする」

 ナイアラはカイルの視線にはまったく動じることなく笑う。

「さ、いこう。ちゃんと、けんもしまってね。しょくしつされちゃうから!」

 そう言って自分もさっさと短剣をしまうと、ナイアラはカイルの背をぐいぐい押して公園から連れ出した。



 走って走って、公園からは十分に離れたところで、カレヴィはようやく立ち止まった。ミカは肩に担がれたまま、すっかりおとなしくなっていた。

「いい加減にしろよ。律子ちゃんが泣くぞ」
「――泣きませんよ」

 カレヴィの肩の上で、ぼそりとミカが呟く。

「新月期だってのに、お前を取り押さえなきゃならない俺の身にもなれよ」
「誰も頼んでなどいませんが」

 はあ、とカレヴィは溜息を吐いた。

「お前さあ、ここんとこずっと、夜な夜な出歩いて明け方まで帰って来なかったんだって? 律子ちゃん心配してたんだぞ。何やさぐれてんだ」
「やさぐれてとは、人聞きの悪い。もともとの生活に戻っただけですが」
「やさぐれてるじゃねえか」

 不貞腐れたようなミカに、カレヴィは呆れた視線を向ける。

「あれか、ナイアラが律子ちゃんに渡した御守りのせいか」
「なんのことですか」

 視線を逸らしたままぼそぼそと返すミカに、カレヴィは呆れ顔で、もう一度溜息を吐く。

「ナイアラが、失敗したってへこんでたんだよ。律子ちゃんも、何も考えないで受け取っちまったって、後悔しててな」
「ですから、何のことですか」
「ああ、くそ!」

 イラついたように、カレヴィがミカの足を掴んで逆さに吊るした。

「いい年した吸血鬼が拗ねてんじゃねえよ!」
「拗ねてなどいませんよ。いい加減放してください」
「放さねえよ。律子ちゃんとこ連れてくって約束してるからな」

 目を眇めて睨みつけるミカに、カレヴィはふん、と鼻で笑う。

「新月期だからって、人狼オレの筋肉舐めんじゃねえぞ。お前の牙だって通らねえからな」
「なら、試してみますか?」
「誰が試すかよバカ野郎」

 ケッと吐き捨ててカレヴィはもういちどミカを担ぐと、再び走り始めた。



 ピンポンと玄関チャイムが鳴ると、慌てて律子は玄関の扉を開けた。

「カレヴィさん!」
「おう、律子ちゃん、連れ帰ってきたぜ」
「ミカちゃん、無事?」
「たぶん無事」
「たぶんって」

 玄関先で降ろされて、渋面のままのミカをぺたぺたと触る律子に、カレヴィは親指を立てた。

「あとはよろしくな」
「あ、うん、カレヴィさんありがとう。ナイアラにもよろしくね」
「じゃ」

 さっさと出て行くカレヴィを見送って、律子は再びミカに向き直った。そこで、手のひらが焼けただれていることに気付いて「ああっ」と声を上げる。

「手、どうしたの! 火傷してる!」
「……“聖なるもの”に触れましたから」
「えっ?!」

 驚く律子に、ミカはふっと笑った。

「私は“魔”や“邪”に属するものですし」
「痛くない?」
「多少は痛みますが、数日もすればきれいに治ります。問題ありません……どうして律子さんが泣くんですか」

 うっ、と涙を零す律子に気付いて、ミカはぎょっとする。

「──ごめんね。私のせいだね」
「何を仰っているんですか」
「だって、私が変なことばっかりするから、気にしたんでしょう?」
「そういうわけではありません」

 しかめ面のまま吐かれる言葉に、説得力は皆無だった。ぐすぐすと鼻をすすり続ける律子にとうとう観念したのか、ミカが呆れた吐息を漏らす。

「それよりも、ちゃんと寝たんですか。明日も仕事でしょうに」
「だって、ミカちゃんが狩られるかもなんて聞いたら、寝てられないよ」
「狩られるわけがありません。私がそんな間抜けに見えますか」
「でも、ミカちゃんはサマータイム忘れて行き倒れるくらいなんだよ」
「あれは、たまたまです」

 決まり悪そうに視線を外すミカをよそに、律子はごしごしと目を擦り……ようやくほっとした表情が浮かぶ。

「ちゃんと帰ってきてよかった」
「そうですか?」
「だって、ミカちゃんはだいじなオカンだもん」
「――オカン、ですか」

 ちらりと怪訝な目を向けるミカに、律子は強く頷いた。はあ、とミカは溜息をひとつ吐く。どうしても、自分は律子の“オカン”らしい。

「もう、わかりました。オカンで構いません」
「え」
「律子さんがそれでいいなら、そういうことにしておきます」
「う、うん」

 ミカは立ち上がり、部屋へと入る。

「あ、ミカちゃん、手、ちゃんと手当しないと」
「こんなもの、律子さんが血をくれさえすれば、すぐに治りますよ」
「え」

 律子が慌てて呼び止めると、ミカはどことなく投げやりに応えた。ほんと? と首を傾げる律子に、ミカはもう一度首肯する。
 けれどミカの予想に反して、律子は「なんだ」と安心した顔で笑った。

「じゃ、今すぐ飲んで、治そうか」
「怖くないんですか?」
「どうして怖いの?」

 目の前に、律子が迷わず首を差し出した。
 驚いたミカが、困惑を顔に浮かべて律子をじっと見つめる。

「ほら、ミカちゃん、早く飲まないと」

 心底不思議そうに「もしかして、飲まないの?」と問う律子に、ミカは、これは敵わないと自然に笑みが溢れてしまう。

「では……ありがたく。一口だけ戴きますね」

 差し出された首に口付け、そっと牙を立てて、大切に、大切に、一口だけ甘露のようなその雫を飲み込んだ。
 きっと、自分は律子に決して敵わないのだと……けれど、それでもいいんじゃないかと考えながら。




-*-*-*-*-

おまけの一方その頃
※ふたりの母国語にてお送りしております。

『で、ナイアラ、説明してくれるんだよな』
『カイル顔が怖いよお?』

 じろりと睨まれて、ナイアラはまたてへっと笑う。

『ええとね、あれ、痴話喧嘩でちょっとやさぐれちゃってただけなんだよ』
『は?』
『ミカは、ちゃんと節度があるから普段はあんなことしないし、ほんとはリッコべったりなんだあ。
 あたしが余計な気を回して、ヘスカンの御守をリッコに渡しちゃってねえ』
『で?』
『タイミングが悪かったんだよねえ。
 リッコに全面的に拒否られたってミカが誤解して、それでちょっとやさぐれちゃってたみたいなの。
 でも、もう大丈夫だよお。リッコがちゃんとミカと話して誤解を解くって言ってたから、ミカももうおいたしないよ?』

 吸血鬼が痴話喧嘩でやさぐれて夜間徘徊し、血を吸いまくっていた?
 だけど痴話喧嘩はおさまったから、もうこういうことはなくなる?

 何かものすごく信じがたいことを聞いて、カイルの頭の中は混乱した。

『待った、ナイアラ』
『ん?』
『そんな吸血鬼が存在するのか?』
『ミカがそうだから、こっちにはいるんじゃないのお?
 だから誰も死んでないし、吸血鬼になったひともいないでしょ? ミカもたぶん反省してるから、これでお終いにしようよ。ねえ?』

 ナイアラに宥められ、カイルは不承不承頷いた。
 ここは、カイルにはどうにも理解し難い理屈で動く世界らしい。
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