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1.おいしい餌とオカン吸血鬼
10.ポジションチェンジ
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「ペトラちゃん聞いて!」
いつもペトラちゃんが隠れてる戸棚の横に座り込んで、私はいたって真剣な顔で呼びかけた。戸棚と壁の隙間からそっと出てきたペトラちゃんが、あらあらどうしたの改まってとほんのり首を傾げる。
「ミカちゃんが、オカンよりも彼氏ポジションのほうがいいって言いだしたの。どうしよう」
あら、それはふつうなんじゃないかしら。
まるで優雅なマダムのように、ペトラちゃんが前脚を頰に当てる。
ペトラちゃんは、ミカちゃんが来て間もなく雇い入れたタカアシグモだ。
見た目こそ大きくて怖いけど、実際はとても奥ゆかしくてシャイなお嬢さんだった。最初、私がまだ慣れなくて怖がっていたころは、なるべく姿を見せないようにいつもどこかに隠れてたけれど、今やすっかり仲良しだ。
こうして私の愚痴や相談にも乗ってくれる。
「でもねペトラちゃん。好きでもないのに彼氏はないと思うんだ」
そうかしら、ミカさんは律子さんのことすごく好きだと思うのだけど、と、ペトラちゃんは前脚を揺らす。
「ええ、そんなことないよ。あれは捕食対象を見る目だよ。言うなれば、ペトラちゃんがあの黒い虫を狙っている時みたいな、さ」
そう言われてみれば?
でもミカさんとっても律子さんに優しくしてるし、おいしいご飯も作ってくれてるじゃないの。
ペトラちゃんはうふふと(たぶん)笑った。
たしかにミカちゃんは優しいし、おいしいご飯も作ってくれる。家事の一切も引き受けてくれて、私を甘やかすことに注力している。
だがしかし、それは私を健康的に飼育するためであり、おいしい食料を確保するためでもある。
つまり、ミカちゃんはまじめに律子飼育員をやってるだけ、なのだ。
「うーん、ご飯は確かにおいしいし、健康にもなったけど……捕食者を彼氏にする被捕食者って、なんかおかしくない?」
ペトラちゃんは、そうかしら? そういうのもありかもしれないわよ、と前脚を頰にあてた。
「だって、そこにある愛って、愛してるとか好きとかの愛じゃなくて、そのうち食べようと思ってる鶏をかわいがるみたいな愛情なんだよ」
そうは言っても、意外にちゃんと愛情があるかもしれないじゃない、試してみなきゃわからないわよ、と、ペトラちゃんはまたうふふと(たぶん)前脚を口に当てて笑った。
「えー、でも、ペトラちゃんで言うと、あの黒いやつを彼氏にしようかってことになるんだけどさ」
あら……それはちょっとないかもしれない、わね? と、ペトラちゃんが困惑したように考え込む。
そうだよね、やっぱりそうだよね。
私だって、どんなに賢くてもいつか食べちゃう牛に対して彼氏と同じ愛情が持てるかと訊かれたら、それはないと答えるだろう。
「ふたりで何をこそこそと話しているのですか」
「みっ、ミカちゃん!」
突然のミカちゃんの出現に、びくっと背中が真っ直ぐになる。
ペトラちゃんも驚いたのか、おろおろキョロキョロした後に、さっと戸棚の陰に隠れてしまった。
「あっ、もうお風呂出たんだ? 今、ペトラちゃんと女子トークしてただけだよ。ミカちゃんは男子だから入れないからね!」
「女子トークですか?」
「そう!」
ミカちゃんが驚いた顔になる。
ペトラちゃんだって妙齢の女子だ。私と女子トークしたっていいはずだ。
「律子さんの順応性は侮れませんね。ペトラさんと会話が通じるんですか?」
「なんとなくこうかなーって思ってるだけだけど、会話になってるもん」
そう、なんとなくわかるのだ。
私が都合よく超解釈してるだけかもしれないが、ペトラちゃんとはきっと通じているはずだ。間違いない。
「ペトラちゃんはすごいんだよ。日本で一番有名な女優の北島何某ばりに、簡単な身振りだけで言いたいこと表現できるんだから。
そんなクモなんて、ペトラちゃんだけだよね!」
「そうですか」
力説する私を、ミカちゃんがくすりと笑う。
「それにしても、ペトラさんとすっかり仲良くなりましたね。まさか、会話ができるようになるとは思いませんでした。あれほど怖がっていたのに」
「だって、ペトラちゃんはこの家の癒し系女子だもん。奥ゆかしくて乙女でかわいいんだから、怖がるとか失礼だって」
「なるほど」
ミカちゃんはくすくす笑っている。
物陰からペトラちゃんがちらりと顔を覗かせて、頬を染めてる風に脚をあてた。まるで、そんなに誉めないでよ恥ずかしいわと言ってるみたいに、もう片脚を振りながら。
ペトラちゃんは本当にかわいい乙女クモである。
「──ねえ、ミカちゃん」
「はい?」
ふうっと大きく深呼吸して、私は意を決してミカちゃんに呼びかけた。ミカちゃんは、いったい何ごとかという顔で、きょとんと首を傾げている。
私はごくりと唾を飲み込んで、思いっきり真剣な表情を作った。
「彼氏ポジションて、マジのマジで?」
「はい。マジのマジですよ」
ミカちゃんはにっこり頷いた。
「私ではご不満でしょうか」
「いやその、ご不満とか以前にですね、ミカちゃん私のこと、好きとか思ってないじゃないですか」
「そうでもありませんよ?」
笑っているミカちゃんを、私はじいっと見つめると、ちょっと困った顔になって目を細めた。
「だって、ミカちゃんは律子飼育してるんでしょう? 鶏小屋の鶏を愛でるように愛でられつつ彼氏とか言われても、私も困ると思うんだ」
「飼育なんて、そんな失礼なことは考えてなどおりませんが――どうしたら信じてくれますか?」
すっとミカちゃんが手を伸ばして、私の顔に触れた。
どうしたらって、そんなの考えてもみなかったのに、いきなり言われても困る――というのが正直なところだ。
うちに来て以来、ミカちゃんはずっと私のオカンで捕食者で、それ以上でもそれ以下でもなかったのだから。
いきなり彼氏にと言われても、本気で困る。
「まさか、ほんとに竹井さんの言葉を真に受けて彼氏ポジションとか言い出すなんて、思わなかったんだよ。
なのに、急に言われても困っちゃう。ミカちゃんのこと、そんな風に考えたことなんて全然なかったんだから」
「そうですか? それは困りましたね」
言葉のわりに困ってなさそうな顔で、ミカちゃんが呟いた。
「では、お試し期間を作りましょうか」
「お試し期間?」
「形から入ってみるのもありでしょう?」
「形から、って」
形ねえ……。
にっこり微笑むミカちゃんを見て、うーんと唸ってしまう。
形って、つまりデートしたりとかそういうこと?
「考えさせてもらってもいいかな」
「仕方ありませんね。待ちましょう」
ミカちゃんは肩を竦めるが、どこまで本気なのかがよくわからない。
「んー、ちょっとコンビニ行ってアイス買ってくる」
とりあえず、クールダウンは必要だ。
私はアイスを口実に家を出る。
コンビニまで五分弱、悶々と考えながら歩いてみた。
けれどやっぱり真意がわからない。
単純に、栄養源に余分な虫がつくのを厭っているだけなのか何なのか。
吸血鬼の考えも感覚も本気でわからない。
「あれー、律子ちゃんじゃん。難しい顔してどうした」
「え? あ、カレヴィさんこんにちは」
コンビニの前には、日陰でヤンキー座りしてあずきバーを齧ってるカレヴィさんがいた。なんと女の子連れだった。
薄い茶色の髪に、彫りは深いけど西欧風とはちょっと違う顔立ちだ。どっちかというとアジア寄りの外国人だろうか。
「カレヴィさん、彼女ですか。やだなーもう、まだ夏なのにリア充ですか」
「ちょ、どういう意味だよ。なんで夏だとダメなわけ。リア充って」
「だって、犬って秋と春じゃないですか」
「え、律子ちゃんまで俺のこと犬扱い?! 何、俺、発情期になんないと彼女作っちゃいけないの?」
女の子はきょときょとと私とカレヴィさんを見比べる。
「おともだち?」
「カレヴィさんの友人の卯原律子です、よろしく」
「あたし、ナイアラ、よろしくね」
女の子はそう言って手を差し出した。
握手をしながら、「このまえ、おまつりのときに、カレヴィとおともだちになったの」と、ちょっと舌足らずな日本語で言う。
やっぱりこの子も外国から来たのか。
「律子ちゃん、こいつなんだと思う?」
「へ? 何って?」
「カレヴィは、人狼なんだよね。リッコちゃんはなに?」
何って何のことかと思えば、そういうことか。
つまりこの子も人外なのか。
「ええと、私はただの人間だけど」
「あたしねえ、こっちだと、ねこむすめなんだって!」
「猫娘……猫!?」
うんうんと楽しそうに頷くナイアラさんをじっと眺めてしまう。
仲よさそうにしているけど、猫と狼はありなのだろうか。
そこまで考えて、いやいやそんなのよりこっちのほうが重要だと、さっきのことを思い出した。
「カレヴィさん、カレヴィさん」
「ん?」
「ひとつ聞きたいんですけど、吸血鬼と人間のお付き合いってどう思いますか」
「どうって、お付き合いって……まさか」
「きゅうけつき?」
ぶふぉ、とカレヴィさんが思いっきりあずきバーを噴いた。
ナイアラさんの目もまん丸になった。
「何、律子ちゃん、ミカと付き合うって、付き合ってんじゃなかったの? それで同居してたわけ?! マジで?!」
ぽかんとするナイアラさんを置いてきぼりに、カレヴィさんのテンションがいっきに上がる。すごい食いつきだ。
「いやだって、捕食者と付き合う被捕食者って普通いないと思うんですけど、そこんとこどうなんですか?」
「被捕食者! たしかにそうだ!」
「ほしょく?」
カレヴィさんはまたぶはっと噴き出すと、お腹を抱えてひいひい笑い出した。ナイアラさんは話についていけず、やっぱりきょとんとしている。
そんなに笑うところだったかなあ。
「変なこと聞いちゃってごめんなさい。自分でも脳味噌追いつかなくて、訳わかんなくなっちゃってさあ……」
「まー、ミカが律子ちゃんのこと相当気に入ってるのは確かだけどさ、よく考えたほうがいいぜ。
あいつは見た目アレでも、数百年は人間に混じって大きな問題もなく生きてる、相当な古株だからな」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙をごしごしこすりながら、カレヴィさんが言う。ちょっと笑いすぎじゃないのかと思いつつも、私は頷いた。
「まあ、俺だって、ミカが何考えてるかなんてわかんねえけどな」
「ですよねえ……そもそも、捕食対象の生き物とお付き合いって、そんな発想があるものなのかがよくわからなくって、私も困るんですよ」
「全然ないとは言わないけど、かなりレアなんじゃねえ?」
「やっぱりですかあ」
それじゃ、ミカちゃんは、将来に渡ってのおいしい食料確保のために、私を囲い込もうとしているのか。
悶々とする私を、カレヴィさんが覗き込んでにやあっと笑う。
「とは言っても、ただの捕食対象なら、付き合いだなんだなんて、話すら出てこないとも思うけどな」
「そうですかねえ」
「リッコちゃんのかれし? きゅうけつき? ヴァンパイア?」
ようやく話の内容が把握できたのか、少し遅れて、ナイアラさんが私を心配そうに覗き込んだ。
「え、まだ彼氏じゃなくてオカンなんだけど、うん、吸血鬼なんだ」
「だいじょうぶ? あぶないなら、てんてき、しってるから、いってね」
「ああ、大丈夫、と思う。心配してくれてありがとうね」
吸血鬼の天敵って何だろうと考えながら、ナイアラさんにも頷き返した。
それにしても、類友効果で人外集合とかあるのだろうか。この前の天使にナイアラさんを合わせたら、人外はこれで四人めだ。
「じゃ、そろそろアイス買って帰るね。話聞いてくれてありがとう」
またねとひらひら手を振ってふたりと別れると、私はあずきバー六本入りを一箱買って家路についた。
玄関を開けるとミカちゃんが待ち構えていた。
仁王立ちで。
そこまでして待つようなことだろうか。
「ずいぶん時間がかかりましたが、何かありましたか?」
「コンビニの前で、カレヴィさんが彼女とデートしてるとこに会ったの。かわいい子だったよ。猫娘なんだって」
「彼女? まだ夏なのに?」
ミカちゃんも私と同じことを考えたようだ。
よし、このまま……と、私は畳み掛けていく。
「夏祭りの時に知り合ったみたい。この辺、いろいろ集まってるのかな。やっぱり人間じゃない仲間同士って、集まりたくなるものなの? それに、狼と猫って大丈夫なのかな。相性ってあるよね――」
「そうですか。いろいろと気になっていらっしゃるようですが、まずは」
このままうやむやに……と思ったのに、ミカちゃんはごまかされなかった。そんな私のことなんてお見通しだとばかりの、にっこりと眩しい笑顔になる。
「お試し期間はどうしますか?」
「あー……どうしよう」
あははとそれでもごまかしながら、あずきバーを取り出してひと口齧る。持ち帰る間に程よい固さに溶けていたようで、あまりガチガチではなかった。
ミカちゃんはにこにこ私を見つめている。
「ま、まあ、試すのは、ありかなって?」
引き攣り笑いを浮かべながら目を泳がせる私に、「決まりですね」とミカちゃんのキラキラ笑顔がパワーアップした。
王子のキラキラ笑顔なんて普通なら鼻血ものだと思うのに、私の頭の中は「ヤバイ」でいっぱいだった。
これは、早まったかもしれない。
もしかしてもしかしなくても、ミカちゃんに律子公認彼氏の称号を与えてしまったということか。
律子公認彼氏の任期は、ミカちゃんが私の血を飲み飽きるまで続くのか。
念のため、ナイアラに天敵を紹介してもらったほうがいいだろうか。
私の諸々、大丈夫なんだろうか。
せめて、飲み飽きた時は平和的に別れる方向でお願いしたい。
いつもペトラちゃんが隠れてる戸棚の横に座り込んで、私はいたって真剣な顔で呼びかけた。戸棚と壁の隙間からそっと出てきたペトラちゃんが、あらあらどうしたの改まってとほんのり首を傾げる。
「ミカちゃんが、オカンよりも彼氏ポジションのほうがいいって言いだしたの。どうしよう」
あら、それはふつうなんじゃないかしら。
まるで優雅なマダムのように、ペトラちゃんが前脚を頰に当てる。
ペトラちゃんは、ミカちゃんが来て間もなく雇い入れたタカアシグモだ。
見た目こそ大きくて怖いけど、実際はとても奥ゆかしくてシャイなお嬢さんだった。最初、私がまだ慣れなくて怖がっていたころは、なるべく姿を見せないようにいつもどこかに隠れてたけれど、今やすっかり仲良しだ。
こうして私の愚痴や相談にも乗ってくれる。
「でもねペトラちゃん。好きでもないのに彼氏はないと思うんだ」
そうかしら、ミカさんは律子さんのことすごく好きだと思うのだけど、と、ペトラちゃんは前脚を揺らす。
「ええ、そんなことないよ。あれは捕食対象を見る目だよ。言うなれば、ペトラちゃんがあの黒い虫を狙っている時みたいな、さ」
そう言われてみれば?
でもミカさんとっても律子さんに優しくしてるし、おいしいご飯も作ってくれてるじゃないの。
ペトラちゃんはうふふと(たぶん)笑った。
たしかにミカちゃんは優しいし、おいしいご飯も作ってくれる。家事の一切も引き受けてくれて、私を甘やかすことに注力している。
だがしかし、それは私を健康的に飼育するためであり、おいしい食料を確保するためでもある。
つまり、ミカちゃんはまじめに律子飼育員をやってるだけ、なのだ。
「うーん、ご飯は確かにおいしいし、健康にもなったけど……捕食者を彼氏にする被捕食者って、なんかおかしくない?」
ペトラちゃんは、そうかしら? そういうのもありかもしれないわよ、と前脚を頰にあてた。
「だって、そこにある愛って、愛してるとか好きとかの愛じゃなくて、そのうち食べようと思ってる鶏をかわいがるみたいな愛情なんだよ」
そうは言っても、意外にちゃんと愛情があるかもしれないじゃない、試してみなきゃわからないわよ、と、ペトラちゃんはまたうふふと(たぶん)前脚を口に当てて笑った。
「えー、でも、ペトラちゃんで言うと、あの黒いやつを彼氏にしようかってことになるんだけどさ」
あら……それはちょっとないかもしれない、わね? と、ペトラちゃんが困惑したように考え込む。
そうだよね、やっぱりそうだよね。
私だって、どんなに賢くてもいつか食べちゃう牛に対して彼氏と同じ愛情が持てるかと訊かれたら、それはないと答えるだろう。
「ふたりで何をこそこそと話しているのですか」
「みっ、ミカちゃん!」
突然のミカちゃんの出現に、びくっと背中が真っ直ぐになる。
ペトラちゃんも驚いたのか、おろおろキョロキョロした後に、さっと戸棚の陰に隠れてしまった。
「あっ、もうお風呂出たんだ? 今、ペトラちゃんと女子トークしてただけだよ。ミカちゃんは男子だから入れないからね!」
「女子トークですか?」
「そう!」
ミカちゃんが驚いた顔になる。
ペトラちゃんだって妙齢の女子だ。私と女子トークしたっていいはずだ。
「律子さんの順応性は侮れませんね。ペトラさんと会話が通じるんですか?」
「なんとなくこうかなーって思ってるだけだけど、会話になってるもん」
そう、なんとなくわかるのだ。
私が都合よく超解釈してるだけかもしれないが、ペトラちゃんとはきっと通じているはずだ。間違いない。
「ペトラちゃんはすごいんだよ。日本で一番有名な女優の北島何某ばりに、簡単な身振りだけで言いたいこと表現できるんだから。
そんなクモなんて、ペトラちゃんだけだよね!」
「そうですか」
力説する私を、ミカちゃんがくすりと笑う。
「それにしても、ペトラさんとすっかり仲良くなりましたね。まさか、会話ができるようになるとは思いませんでした。あれほど怖がっていたのに」
「だって、ペトラちゃんはこの家の癒し系女子だもん。奥ゆかしくて乙女でかわいいんだから、怖がるとか失礼だって」
「なるほど」
ミカちゃんはくすくす笑っている。
物陰からペトラちゃんがちらりと顔を覗かせて、頬を染めてる風に脚をあてた。まるで、そんなに誉めないでよ恥ずかしいわと言ってるみたいに、もう片脚を振りながら。
ペトラちゃんは本当にかわいい乙女クモである。
「──ねえ、ミカちゃん」
「はい?」
ふうっと大きく深呼吸して、私は意を決してミカちゃんに呼びかけた。ミカちゃんは、いったい何ごとかという顔で、きょとんと首を傾げている。
私はごくりと唾を飲み込んで、思いっきり真剣な表情を作った。
「彼氏ポジションて、マジのマジで?」
「はい。マジのマジですよ」
ミカちゃんはにっこり頷いた。
「私ではご不満でしょうか」
「いやその、ご不満とか以前にですね、ミカちゃん私のこと、好きとか思ってないじゃないですか」
「そうでもありませんよ?」
笑っているミカちゃんを、私はじいっと見つめると、ちょっと困った顔になって目を細めた。
「だって、ミカちゃんは律子飼育してるんでしょう? 鶏小屋の鶏を愛でるように愛でられつつ彼氏とか言われても、私も困ると思うんだ」
「飼育なんて、そんな失礼なことは考えてなどおりませんが――どうしたら信じてくれますか?」
すっとミカちゃんが手を伸ばして、私の顔に触れた。
どうしたらって、そんなの考えてもみなかったのに、いきなり言われても困る――というのが正直なところだ。
うちに来て以来、ミカちゃんはずっと私のオカンで捕食者で、それ以上でもそれ以下でもなかったのだから。
いきなり彼氏にと言われても、本気で困る。
「まさか、ほんとに竹井さんの言葉を真に受けて彼氏ポジションとか言い出すなんて、思わなかったんだよ。
なのに、急に言われても困っちゃう。ミカちゃんのこと、そんな風に考えたことなんて全然なかったんだから」
「そうですか? それは困りましたね」
言葉のわりに困ってなさそうな顔で、ミカちゃんが呟いた。
「では、お試し期間を作りましょうか」
「お試し期間?」
「形から入ってみるのもありでしょう?」
「形から、って」
形ねえ……。
にっこり微笑むミカちゃんを見て、うーんと唸ってしまう。
形って、つまりデートしたりとかそういうこと?
「考えさせてもらってもいいかな」
「仕方ありませんね。待ちましょう」
ミカちゃんは肩を竦めるが、どこまで本気なのかがよくわからない。
「んー、ちょっとコンビニ行ってアイス買ってくる」
とりあえず、クールダウンは必要だ。
私はアイスを口実に家を出る。
コンビニまで五分弱、悶々と考えながら歩いてみた。
けれどやっぱり真意がわからない。
単純に、栄養源に余分な虫がつくのを厭っているだけなのか何なのか。
吸血鬼の考えも感覚も本気でわからない。
「あれー、律子ちゃんじゃん。難しい顔してどうした」
「え? あ、カレヴィさんこんにちは」
コンビニの前には、日陰でヤンキー座りしてあずきバーを齧ってるカレヴィさんがいた。なんと女の子連れだった。
薄い茶色の髪に、彫りは深いけど西欧風とはちょっと違う顔立ちだ。どっちかというとアジア寄りの外国人だろうか。
「カレヴィさん、彼女ですか。やだなーもう、まだ夏なのにリア充ですか」
「ちょ、どういう意味だよ。なんで夏だとダメなわけ。リア充って」
「だって、犬って秋と春じゃないですか」
「え、律子ちゃんまで俺のこと犬扱い?! 何、俺、発情期になんないと彼女作っちゃいけないの?」
女の子はきょときょとと私とカレヴィさんを見比べる。
「おともだち?」
「カレヴィさんの友人の卯原律子です、よろしく」
「あたし、ナイアラ、よろしくね」
女の子はそう言って手を差し出した。
握手をしながら、「このまえ、おまつりのときに、カレヴィとおともだちになったの」と、ちょっと舌足らずな日本語で言う。
やっぱりこの子も外国から来たのか。
「律子ちゃん、こいつなんだと思う?」
「へ? 何って?」
「カレヴィは、人狼なんだよね。リッコちゃんはなに?」
何って何のことかと思えば、そういうことか。
つまりこの子も人外なのか。
「ええと、私はただの人間だけど」
「あたしねえ、こっちだと、ねこむすめなんだって!」
「猫娘……猫!?」
うんうんと楽しそうに頷くナイアラさんをじっと眺めてしまう。
仲よさそうにしているけど、猫と狼はありなのだろうか。
そこまで考えて、いやいやそんなのよりこっちのほうが重要だと、さっきのことを思い出した。
「カレヴィさん、カレヴィさん」
「ん?」
「ひとつ聞きたいんですけど、吸血鬼と人間のお付き合いってどう思いますか」
「どうって、お付き合いって……まさか」
「きゅうけつき?」
ぶふぉ、とカレヴィさんが思いっきりあずきバーを噴いた。
ナイアラさんの目もまん丸になった。
「何、律子ちゃん、ミカと付き合うって、付き合ってんじゃなかったの? それで同居してたわけ?! マジで?!」
ぽかんとするナイアラさんを置いてきぼりに、カレヴィさんのテンションがいっきに上がる。すごい食いつきだ。
「いやだって、捕食者と付き合う被捕食者って普通いないと思うんですけど、そこんとこどうなんですか?」
「被捕食者! たしかにそうだ!」
「ほしょく?」
カレヴィさんはまたぶはっと噴き出すと、お腹を抱えてひいひい笑い出した。ナイアラさんは話についていけず、やっぱりきょとんとしている。
そんなに笑うところだったかなあ。
「変なこと聞いちゃってごめんなさい。自分でも脳味噌追いつかなくて、訳わかんなくなっちゃってさあ……」
「まー、ミカが律子ちゃんのこと相当気に入ってるのは確かだけどさ、よく考えたほうがいいぜ。
あいつは見た目アレでも、数百年は人間に混じって大きな問題もなく生きてる、相当な古株だからな」
笑いすぎて目尻に滲んだ涙をごしごしこすりながら、カレヴィさんが言う。ちょっと笑いすぎじゃないのかと思いつつも、私は頷いた。
「まあ、俺だって、ミカが何考えてるかなんてわかんねえけどな」
「ですよねえ……そもそも、捕食対象の生き物とお付き合いって、そんな発想があるものなのかがよくわからなくって、私も困るんですよ」
「全然ないとは言わないけど、かなりレアなんじゃねえ?」
「やっぱりですかあ」
それじゃ、ミカちゃんは、将来に渡ってのおいしい食料確保のために、私を囲い込もうとしているのか。
悶々とする私を、カレヴィさんが覗き込んでにやあっと笑う。
「とは言っても、ただの捕食対象なら、付き合いだなんだなんて、話すら出てこないとも思うけどな」
「そうですかねえ」
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ようやく話の内容が把握できたのか、少し遅れて、ナイアラさんが私を心配そうに覗き込んだ。
「え、まだ彼氏じゃなくてオカンなんだけど、うん、吸血鬼なんだ」
「だいじょうぶ? あぶないなら、てんてき、しってるから、いってね」
「ああ、大丈夫、と思う。心配してくれてありがとうね」
吸血鬼の天敵って何だろうと考えながら、ナイアラさんにも頷き返した。
それにしても、類友効果で人外集合とかあるのだろうか。この前の天使にナイアラさんを合わせたら、人外はこれで四人めだ。
「じゃ、そろそろアイス買って帰るね。話聞いてくれてありがとう」
またねとひらひら手を振ってふたりと別れると、私はあずきバー六本入りを一箱買って家路についた。
玄関を開けるとミカちゃんが待ち構えていた。
仁王立ちで。
そこまでして待つようなことだろうか。
「ずいぶん時間がかかりましたが、何かありましたか?」
「コンビニの前で、カレヴィさんが彼女とデートしてるとこに会ったの。かわいい子だったよ。猫娘なんだって」
「彼女? まだ夏なのに?」
ミカちゃんも私と同じことを考えたようだ。
よし、このまま……と、私は畳み掛けていく。
「夏祭りの時に知り合ったみたい。この辺、いろいろ集まってるのかな。やっぱり人間じゃない仲間同士って、集まりたくなるものなの? それに、狼と猫って大丈夫なのかな。相性ってあるよね――」
「そうですか。いろいろと気になっていらっしゃるようですが、まずは」
このままうやむやに……と思ったのに、ミカちゃんはごまかされなかった。そんな私のことなんてお見通しだとばかりの、にっこりと眩しい笑顔になる。
「お試し期間はどうしますか?」
「あー……どうしよう」
あははとそれでもごまかしながら、あずきバーを取り出してひと口齧る。持ち帰る間に程よい固さに溶けていたようで、あまりガチガチではなかった。
ミカちゃんはにこにこ私を見つめている。
「ま、まあ、試すのは、ありかなって?」
引き攣り笑いを浮かべながら目を泳がせる私に、「決まりですね」とミカちゃんのキラキラ笑顔がパワーアップした。
王子のキラキラ笑顔なんて普通なら鼻血ものだと思うのに、私の頭の中は「ヤバイ」でいっぱいだった。
これは、早まったかもしれない。
もしかしてもしかしなくても、ミカちゃんに律子公認彼氏の称号を与えてしまったということか。
律子公認彼氏の任期は、ミカちゃんが私の血を飲み飽きるまで続くのか。
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