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1.おいしい餌とオカン吸血鬼
9.オカンor彼氏
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いつものとおりお弁当を受け取って、かちゃりと玄関扉を開けて……そこで連絡事項を思い出した私は、もう一度振り向いた。
ミカちゃんが「ん?」と首を傾げる。
「こないだも言ったけど、今日は案件リリースの打ち上げだから遅くなるね」
同居相手に帰宅予定を伝えるのは、同居生活の基本ルールだ。
もう大人なんだから好きにしたっていいじゃないか。
――そういう意見もあるにはあるが、好き勝手にすることと自由意思で行動することは大きく違うのだと、私は実家で教えられたのだ。
主に母の鉄拳で。
「はい。終わる頃に駅に迎えに行きますから」
「そんな、迎えなんて大丈夫だよ。過保護だなあ、ミカちゃんは」
「律子さんの大丈夫はあまりあてになりませんし」
あははと笑う私に、ミカちゃんも負けじと微笑み返す。
そんなにあてにならないだろうか?
ペトラちゃんがなぜだか微笑ましげな雰囲気で私を見て、うふふと笑いながら(たぶん笑ってたんだと思う)戸棚の影にささっと隠れる。
「まあ、もし二次会まで出ても二十三時までには終わるし、場所的にこっちの駅に着くのは零時前だから、大丈夫だよ」
「では、二次会に出席される時は連絡をくださいね」
「え……」
「メールで構いませんから」
「あ……うん、わかった」
有無は言わせん、というミカちゃんの雰囲気に、思わず頷いてしまう。
あの田中の件もあったことだし、ミカちゃんが過保護になるのも、まあ、しかたないのだろう。
「えー、皆さんのお陰で、どうにか納品までこぎつけることができました。
今後、ユーザーさんから何か来た時は、その都度適当になんとかしていくということで、引き続きよろしくお願いします。乾杯!」
「かんぱーい」
リーダーのいつもの音頭で打ち上げという名前の飲み会が始まった。
先輩方も皆、全員が解き放たれた晴れ晴れとした顔で……たぶん、そんな顔でぐいぐいとジョッキを傾ける。
「実はまだ対応いっこ残ってるんだよなあ」
「そうそう、あれ来週中だっけ」
なんて会話が聞こえるのは気のせいだ、たぶん。
「卯原、お疲れ様ー」
「竹井さんもお疲れ様ですー」
私も、横に座っていた先輩社員とかちんとジョッキを合わせ、ぐいとビールをあおった。昔はビールなんて苦いだけだと思っていたのに今はすごくおいしいと感じるのだから、年月って不思議だ。
そこからはいつもどおり。
あれやこれやと炎上の原因に文句を言ったり、いきなりぶっ込まれる無茶な要求を揶揄ったり……いちおう、セキュリティ的な決まりごとがあるので、具体的な内容やユーザーの名前は出さないように気をつけつつも、愚痴っぽいあれこれは止まらない。
本当に、いつもの飲み会の風景だ。
「そういえば卯原、きれいになったよな。彼氏でもできたのか?」
「あっはっは、やだなあ竹井さん、それ訊いたらセクハラですよう」
いきなりの竹井さんの言葉に、ばしばし肩を叩きながら私は爆笑する。
きれいになったというのはアレだろう。
家事をやらずともよい環境のうえ、バランスのとれた食事と気持ちよい睡眠ですっかり健康体になり、不規則な生活にもかかわらずちょっといい感じに痩せるなんてオマケまでがついてきたことによる……つまり、ミカちゃんのお陰によるお肌ツヤツヤ効果というやつだ。
「あ、これもセクハラかあ」
まいったなーと竹井さんも爆笑する。飲み始めたばかりなのにテンションが高いのは、やはり解放感によるものだろう。
「さらに言うとですね、彼氏なんてできる暇あるとか思いますかー? 毎日一緒に終電乗ってたじゃないですかー。休日だって会社で仲良くテストとバグ取りしてたのに、どこにそんな暇が?! 人のこと抉らないでくださいよー!」
「そうだよなあ」
笑いながら、竹井さんが微妙に肩を落とす。
「――俺も、三年目の時に忙しすぎて彼女と別れたもんなあ」
「あっ」
思わぬところで竹井さんの古傷を抉ってしまったらしい。業界あるあるとはいえ、これはまずいと私は店員を呼び、追加のビールを頼む。
「や、やだなあ、元気出してくださいよ! 残業代のお陰で貯金貯まったって言ってたじゃないですか! それでいいにしとかないと」
さ、次々! と私はすかさず次のジョッキを差し出した。
「ほら、どんどん空けてください。今日は飲みましょうよ。会社のお金で飲み放題なんですから」
「あー、そうだな」
もう一度あははと笑って、竹井さんは次のビールを空ける。
「卯原も気をつけつつがんばれよ。で、本当に彼氏はできてないのか?」
「やだなあ竹井さん。オカンならできましたけど彼氏はいないんですってば」
もう一度バシッと竹井さんの肩を叩いて「あんまセクハラすると言いつけますよー」と付け足した。
竹井さんもそれ以上食い下がることはなく、そのまま他のメンバーも交えて他愛もない話へとシフトしていく。
宴もたけなわといったところで幹事からそろそろ時間でーすと声が上がり、いつものマネージャーからの一言と一本締めで、一次会は終了した。
いつもの光景だ。
ぞろぞろと店を出ると、幹事を任された新人君が二次会メンバーを募っていた。どうしようかな……としばし考えて、やめておこうと決める。
ここらで体調を整えないと、次回の月いち恒例のアレの時に、またミカちゃんに気を遣わせてしまう。
今日はフェードアウトにしておこう。
私はてへへと笑いながら駅の方面へとじりじり移動を始めた。「卯原さんは?」という言葉にも曖昧に笑いながら、ゆっくり集団から離れていく。
うかつに「帰ります」などと宣言するほうが、かえって捕まってしまうものなのだ。この酔っ払い集団から離れるには、おとなしく目立たず、“気づいたらいなくなっていた”というのが正義である。
頃合いを見計らい、ではーと小さく呟いて、私はくるりと踵を返す。このまま駅に着いてしまえば……と歩き出したところで、いきなり腕を掴まれた。
「卯原見つけた。次行くぞ!」
「竹井さん!?」
うまいこと脱出したと安心するのは早計だったようだ。へらへら笑う完全な酔っ払いと化した竹井さんに捕まってしまった。
「いや、今日はもう帰ろうかなーと」
「何言ってんだ。まだ飲めるだろう」
「ちょっと体調整えたいなーって。飲みすぎるとミカちゃんに怒られちゃうし」
「んん? ミカちゃんてあれか、オカンな同居人」
「ええ、まあ……」
ほらほらと腕を引っ張る竹井さんに、どうにか抵抗を試みたものの、徒労に終わってしまった。
竹井さんは悪い人じゃない。だが、飲むとテンションだだ上がりで、相手をするのはなかなかに大変なのだ。
「んじゃそのミカちゃんに連絡しとけ、二次会で遅くなりますってな」
わははと笑いながら、いつものようにハイテンションの竹井さんがばしばしと私の背中を叩く。これはもう行かなきゃおさまらないなと諦めて、私はミカちゃんにメールを打つ。
返信はすぐだった。
二十三時頃に、こっちの最寄駅まで迎えに来る、と。
ミカちゃんは本当に心配性だなあ。
くすりと笑って、そのくらいだと返して、竹井さんに「連絡終わりましたよー」と声を掛けた。
「ところで、皆、どこ行ったか聞いてるんですか?」
ふと見回せば、チームの他の人たちは先に移動してしまったようだった。竹井さん以外の姿が見えない。
けれど、竹井さんは迷いなく歩き出す。
なんだ、誰かに次の店を聞いてあるのかと安心してついて行ったが……すぐに居酒屋の客引きに引っ掛かってあれこれ話し始めた。
「卯原ー、ここ行くぞー」
「ええ? ちょ、竹井さん、チームの人たちは?」
「わかんねー。いなくなってたし」
あははとまた笑う竹井さんは、完璧な酔っ払いだった。私の腕をぐいぐい引っ張り、「入るぞー!」と入って行く。
まあ、既にこれだけ飲んでいるのだ。そこまで長くはならないだろう。適当なところで切り上げればいいか。
だが、見込みは甘かった。
竹井さんは別れた彼女と終わらない残業の愚痴を、だらだら垂れ流すだけのだめな人になっていた。
三年目のときにと言ってたから、そこからもう二年は経ってるはずだ。なのにまだ引きずっているのか。
はいはいとただひたすらに相槌を打ちながら、もうすぐ帰る時間なのにと考える。そろそろミカちゃんが駅まで来ている頃じゃないだろうか。
「なあ、卯原、聞いてるのか」
「え? あ、はい」
いきなり話を振られたところでブルブルとスマホが震えた。
「あ、ちょ、電話なので!」
慌てて出ると、やはりミカちゃんだった。
「律子さん、どちらにいらっしゃるんですか?」
「あ、えと、まだお店で……」
「わかりました。ではそちらへ向かいましょう。店名を教えてください」
呆れたような、しかし有無を言わせぬミカちゃんの声に、私はあたふたと大体の場所と店の名前を説明する。
「お? 噂のミカちゃん登場か? ミカちゃんってのは美人なのか?」
「え? まあ、美人といえば美人ですけど」
竹井さんが何故だか期待の目でこっちを見ていて……ああ、なるほど、ミカちゃんを女だと思っているのか。“ミカちゃん”だし。
それからさほど時間もかからず、ミカちゃんが到着した。
「律子さん」
「あ、来た来た。竹井さん、ミカちゃんです。ミカちゃん、先輩の竹井さん」
「え」
竹井さんがあからさまにがっかりした顔になる。
出会いがあるかと期待したのに、なんて小さく呟く竹井さんに、いや、そんな出会いないからと思ったけど、黙っておいた。
「ていうか、卯原、彼氏なんじゃん。オカンていうからどんな子かと思ってたのに、こんなイケメンの金髪の。
くっそ、ずるいな、俺にも出会い運よこせよ!」
ミカちゃんが目を丸くして、どういうことかと私を見る。
「――いや、彼氏じゃなくって、オカンですから」
「オカン、ですか?」
曖昧な笑顔を浮かべて、けれどきっぱりとそう返す私に、ミカちゃんが複雑そうな声で呟いた。
「とっ、とにかく、もう遅いから今日はお開きにしましょう!」
私は慌てて竹井さんの肩を叩く。
ついでに店員を呼び止めて、お勘定も頼む。
「あーもう、わかった、お前は行っていいから、ここは俺の奢りだ。卯原に彼氏できた記念だ」
「えええ」
「よろしいのですか?」
「ここは先輩の顔を立ててくれ、な?」
竹井さんはへらへら笑って、ほら! と私の背中を押した。ミカちゃんに押し付けるように。
「ミカちゃんは卯原をよろしくな。少々雑だが悪い奴じゃないから。この先も死ぬほど残業あるけど見捨てないでやってくれ」
「え、いや、竹井さん」
「じゃ、また来週な!」
一方的にそれだけ言うと、竹井さんはわしっと会計表を掴んでさっさとレジへ行ってしまった。
仕方ない、誤解は来週解けばいいか。
私は竹井さんの背中に「ご馳走さまです!」とお辞儀をして、ミカちゃんとふたりで店を出た。
「悪い方ではないようですが、ふたりきりというのはあまり感心しませんね」
「いやあ、捕まっちゃって。いつもお世話になってる先輩だから無下に断るのもちょっとって思って」
てへへと笑う私に、ミカちゃんは呆れ顔だ。
「それに、ミカちゃんが迎えに来るって言ったでしょ? だから、大丈夫だと思ったんだよ」
慌ててそう付け足すと、ミカちゃんは溜息をひとつ吐いた。
もしかして、怒ってるのだろうか。
「あと、竹井さんの早とちりで彼氏とか言われちゃったよ。ごめんね」
拝むように手を合わせた私を、ミカちゃんがちらりと見やった。
美人の一瞥というのは、なかなかくるものがあるな。
「そちらより、“オカン”のほうが気になりますが」
「え、そう?」
ミカちゃんがにっこり笑う。
さすがに、妙齢の男子をオカン呼ばわりはまずかったか。「だって」とぼそぼそ言い訳がましく言葉を続ける私に、ミカちゃんはやっぱり笑っている。
「お弁当作ってくれたり家のこともやってくれたり、お母さんみたいだし?」
「ですが、普通はオカンよりも彼氏と思われたいものなのではないですか?」
「へ?」
「そうすれば、律子さんに変な虫がまとわりつくこともなくなりますし」
そう告げてまたにっこりと笑うミカちゃんの笑顔は、紛うことなき捕食者の笑顔だった。もちろん比喩ではない、食物連鎖的な意味での捕食者だ。
変な虫って、比喩的じゃない意味の変な虫なんだろうか。ごはんが不味くなったらかなわん、という意味で。
「そうですね、これからは彼氏のように振舞いましょうか」
ミカちゃんの目がきらりと光る。
囁いて首筋にひとつキスを落とすミカちゃんに、なぜだかぞくりとする。
「ね、律子さん」
ミカちゃんの笑顔は、やっぱり怖かった。
月曜日、竹井さんに「ミカちゃんの知り合いに金髪美人でフリーの女の子がいたら紹介よろしくって伝えてくれ!」と拝まれた。
ミカちゃんの知り合いで金髪美人とか、人間じゃないやつしかいないと思うんだけど、そのことはもちろん黙っていた。
ミカちゃんが「ん?」と首を傾げる。
「こないだも言ったけど、今日は案件リリースの打ち上げだから遅くなるね」
同居相手に帰宅予定を伝えるのは、同居生活の基本ルールだ。
もう大人なんだから好きにしたっていいじゃないか。
――そういう意見もあるにはあるが、好き勝手にすることと自由意思で行動することは大きく違うのだと、私は実家で教えられたのだ。
主に母の鉄拳で。
「はい。終わる頃に駅に迎えに行きますから」
「そんな、迎えなんて大丈夫だよ。過保護だなあ、ミカちゃんは」
「律子さんの大丈夫はあまりあてになりませんし」
あははと笑う私に、ミカちゃんも負けじと微笑み返す。
そんなにあてにならないだろうか?
ペトラちゃんがなぜだか微笑ましげな雰囲気で私を見て、うふふと笑いながら(たぶん笑ってたんだと思う)戸棚の影にささっと隠れる。
「まあ、もし二次会まで出ても二十三時までには終わるし、場所的にこっちの駅に着くのは零時前だから、大丈夫だよ」
「では、二次会に出席される時は連絡をくださいね」
「え……」
「メールで構いませんから」
「あ……うん、わかった」
有無は言わせん、というミカちゃんの雰囲気に、思わず頷いてしまう。
あの田中の件もあったことだし、ミカちゃんが過保護になるのも、まあ、しかたないのだろう。
「えー、皆さんのお陰で、どうにか納品までこぎつけることができました。
今後、ユーザーさんから何か来た時は、その都度適当になんとかしていくということで、引き続きよろしくお願いします。乾杯!」
「かんぱーい」
リーダーのいつもの音頭で打ち上げという名前の飲み会が始まった。
先輩方も皆、全員が解き放たれた晴れ晴れとした顔で……たぶん、そんな顔でぐいぐいとジョッキを傾ける。
「実はまだ対応いっこ残ってるんだよなあ」
「そうそう、あれ来週中だっけ」
なんて会話が聞こえるのは気のせいだ、たぶん。
「卯原、お疲れ様ー」
「竹井さんもお疲れ様ですー」
私も、横に座っていた先輩社員とかちんとジョッキを合わせ、ぐいとビールをあおった。昔はビールなんて苦いだけだと思っていたのに今はすごくおいしいと感じるのだから、年月って不思議だ。
そこからはいつもどおり。
あれやこれやと炎上の原因に文句を言ったり、いきなりぶっ込まれる無茶な要求を揶揄ったり……いちおう、セキュリティ的な決まりごとがあるので、具体的な内容やユーザーの名前は出さないように気をつけつつも、愚痴っぽいあれこれは止まらない。
本当に、いつもの飲み会の風景だ。
「そういえば卯原、きれいになったよな。彼氏でもできたのか?」
「あっはっは、やだなあ竹井さん、それ訊いたらセクハラですよう」
いきなりの竹井さんの言葉に、ばしばし肩を叩きながら私は爆笑する。
きれいになったというのはアレだろう。
家事をやらずともよい環境のうえ、バランスのとれた食事と気持ちよい睡眠ですっかり健康体になり、不規則な生活にもかかわらずちょっといい感じに痩せるなんてオマケまでがついてきたことによる……つまり、ミカちゃんのお陰によるお肌ツヤツヤ効果というやつだ。
「あ、これもセクハラかあ」
まいったなーと竹井さんも爆笑する。飲み始めたばかりなのにテンションが高いのは、やはり解放感によるものだろう。
「さらに言うとですね、彼氏なんてできる暇あるとか思いますかー? 毎日一緒に終電乗ってたじゃないですかー。休日だって会社で仲良くテストとバグ取りしてたのに、どこにそんな暇が?! 人のこと抉らないでくださいよー!」
「そうだよなあ」
笑いながら、竹井さんが微妙に肩を落とす。
「――俺も、三年目の時に忙しすぎて彼女と別れたもんなあ」
「あっ」
思わぬところで竹井さんの古傷を抉ってしまったらしい。業界あるあるとはいえ、これはまずいと私は店員を呼び、追加のビールを頼む。
「や、やだなあ、元気出してくださいよ! 残業代のお陰で貯金貯まったって言ってたじゃないですか! それでいいにしとかないと」
さ、次々! と私はすかさず次のジョッキを差し出した。
「ほら、どんどん空けてください。今日は飲みましょうよ。会社のお金で飲み放題なんですから」
「あー、そうだな」
もう一度あははと笑って、竹井さんは次のビールを空ける。
「卯原も気をつけつつがんばれよ。で、本当に彼氏はできてないのか?」
「やだなあ竹井さん。オカンならできましたけど彼氏はいないんですってば」
もう一度バシッと竹井さんの肩を叩いて「あんまセクハラすると言いつけますよー」と付け足した。
竹井さんもそれ以上食い下がることはなく、そのまま他のメンバーも交えて他愛もない話へとシフトしていく。
宴もたけなわといったところで幹事からそろそろ時間でーすと声が上がり、いつものマネージャーからの一言と一本締めで、一次会は終了した。
いつもの光景だ。
ぞろぞろと店を出ると、幹事を任された新人君が二次会メンバーを募っていた。どうしようかな……としばし考えて、やめておこうと決める。
ここらで体調を整えないと、次回の月いち恒例のアレの時に、またミカちゃんに気を遣わせてしまう。
今日はフェードアウトにしておこう。
私はてへへと笑いながら駅の方面へとじりじり移動を始めた。「卯原さんは?」という言葉にも曖昧に笑いながら、ゆっくり集団から離れていく。
うかつに「帰ります」などと宣言するほうが、かえって捕まってしまうものなのだ。この酔っ払い集団から離れるには、おとなしく目立たず、“気づいたらいなくなっていた”というのが正義である。
頃合いを見計らい、ではーと小さく呟いて、私はくるりと踵を返す。このまま駅に着いてしまえば……と歩き出したところで、いきなり腕を掴まれた。
「卯原見つけた。次行くぞ!」
「竹井さん!?」
うまいこと脱出したと安心するのは早計だったようだ。へらへら笑う完全な酔っ払いと化した竹井さんに捕まってしまった。
「いや、今日はもう帰ろうかなーと」
「何言ってんだ。まだ飲めるだろう」
「ちょっと体調整えたいなーって。飲みすぎるとミカちゃんに怒られちゃうし」
「んん? ミカちゃんてあれか、オカンな同居人」
「ええ、まあ……」
ほらほらと腕を引っ張る竹井さんに、どうにか抵抗を試みたものの、徒労に終わってしまった。
竹井さんは悪い人じゃない。だが、飲むとテンションだだ上がりで、相手をするのはなかなかに大変なのだ。
「んじゃそのミカちゃんに連絡しとけ、二次会で遅くなりますってな」
わははと笑いながら、いつものようにハイテンションの竹井さんがばしばしと私の背中を叩く。これはもう行かなきゃおさまらないなと諦めて、私はミカちゃんにメールを打つ。
返信はすぐだった。
二十三時頃に、こっちの最寄駅まで迎えに来る、と。
ミカちゃんは本当に心配性だなあ。
くすりと笑って、そのくらいだと返して、竹井さんに「連絡終わりましたよー」と声を掛けた。
「ところで、皆、どこ行ったか聞いてるんですか?」
ふと見回せば、チームの他の人たちは先に移動してしまったようだった。竹井さん以外の姿が見えない。
けれど、竹井さんは迷いなく歩き出す。
なんだ、誰かに次の店を聞いてあるのかと安心してついて行ったが……すぐに居酒屋の客引きに引っ掛かってあれこれ話し始めた。
「卯原ー、ここ行くぞー」
「ええ? ちょ、竹井さん、チームの人たちは?」
「わかんねー。いなくなってたし」
あははとまた笑う竹井さんは、完璧な酔っ払いだった。私の腕をぐいぐい引っ張り、「入るぞー!」と入って行く。
まあ、既にこれだけ飲んでいるのだ。そこまで長くはならないだろう。適当なところで切り上げればいいか。
だが、見込みは甘かった。
竹井さんは別れた彼女と終わらない残業の愚痴を、だらだら垂れ流すだけのだめな人になっていた。
三年目のときにと言ってたから、そこからもう二年は経ってるはずだ。なのにまだ引きずっているのか。
はいはいとただひたすらに相槌を打ちながら、もうすぐ帰る時間なのにと考える。そろそろミカちゃんが駅まで来ている頃じゃないだろうか。
「なあ、卯原、聞いてるのか」
「え? あ、はい」
いきなり話を振られたところでブルブルとスマホが震えた。
「あ、ちょ、電話なので!」
慌てて出ると、やはりミカちゃんだった。
「律子さん、どちらにいらっしゃるんですか?」
「あ、えと、まだお店で……」
「わかりました。ではそちらへ向かいましょう。店名を教えてください」
呆れたような、しかし有無を言わせぬミカちゃんの声に、私はあたふたと大体の場所と店の名前を説明する。
「お? 噂のミカちゃん登場か? ミカちゃんってのは美人なのか?」
「え? まあ、美人といえば美人ですけど」
竹井さんが何故だか期待の目でこっちを見ていて……ああ、なるほど、ミカちゃんを女だと思っているのか。“ミカちゃん”だし。
それからさほど時間もかからず、ミカちゃんが到着した。
「律子さん」
「あ、来た来た。竹井さん、ミカちゃんです。ミカちゃん、先輩の竹井さん」
「え」
竹井さんがあからさまにがっかりした顔になる。
出会いがあるかと期待したのに、なんて小さく呟く竹井さんに、いや、そんな出会いないからと思ったけど、黙っておいた。
「ていうか、卯原、彼氏なんじゃん。オカンていうからどんな子かと思ってたのに、こんなイケメンの金髪の。
くっそ、ずるいな、俺にも出会い運よこせよ!」
ミカちゃんが目を丸くして、どういうことかと私を見る。
「――いや、彼氏じゃなくって、オカンですから」
「オカン、ですか?」
曖昧な笑顔を浮かべて、けれどきっぱりとそう返す私に、ミカちゃんが複雑そうな声で呟いた。
「とっ、とにかく、もう遅いから今日はお開きにしましょう!」
私は慌てて竹井さんの肩を叩く。
ついでに店員を呼び止めて、お勘定も頼む。
「あーもう、わかった、お前は行っていいから、ここは俺の奢りだ。卯原に彼氏できた記念だ」
「えええ」
「よろしいのですか?」
「ここは先輩の顔を立ててくれ、な?」
竹井さんはへらへら笑って、ほら! と私の背中を押した。ミカちゃんに押し付けるように。
「ミカちゃんは卯原をよろしくな。少々雑だが悪い奴じゃないから。この先も死ぬほど残業あるけど見捨てないでやってくれ」
「え、いや、竹井さん」
「じゃ、また来週な!」
一方的にそれだけ言うと、竹井さんはわしっと会計表を掴んでさっさとレジへ行ってしまった。
仕方ない、誤解は来週解けばいいか。
私は竹井さんの背中に「ご馳走さまです!」とお辞儀をして、ミカちゃんとふたりで店を出た。
「悪い方ではないようですが、ふたりきりというのはあまり感心しませんね」
「いやあ、捕まっちゃって。いつもお世話になってる先輩だから無下に断るのもちょっとって思って」
てへへと笑う私に、ミカちゃんは呆れ顔だ。
「それに、ミカちゃんが迎えに来るって言ったでしょ? だから、大丈夫だと思ったんだよ」
慌ててそう付け足すと、ミカちゃんは溜息をひとつ吐いた。
もしかして、怒ってるのだろうか。
「あと、竹井さんの早とちりで彼氏とか言われちゃったよ。ごめんね」
拝むように手を合わせた私を、ミカちゃんがちらりと見やった。
美人の一瞥というのは、なかなかくるものがあるな。
「そちらより、“オカン”のほうが気になりますが」
「え、そう?」
ミカちゃんがにっこり笑う。
さすがに、妙齢の男子をオカン呼ばわりはまずかったか。「だって」とぼそぼそ言い訳がましく言葉を続ける私に、ミカちゃんはやっぱり笑っている。
「お弁当作ってくれたり家のこともやってくれたり、お母さんみたいだし?」
「ですが、普通はオカンよりも彼氏と思われたいものなのではないですか?」
「へ?」
「そうすれば、律子さんに変な虫がまとわりつくこともなくなりますし」
そう告げてまたにっこりと笑うミカちゃんの笑顔は、紛うことなき捕食者の笑顔だった。もちろん比喩ではない、食物連鎖的な意味での捕食者だ。
変な虫って、比喩的じゃない意味の変な虫なんだろうか。ごはんが不味くなったらかなわん、という意味で。
「そうですね、これからは彼氏のように振舞いましょうか」
ミカちゃんの目がきらりと光る。
囁いて首筋にひとつキスを落とすミカちゃんに、なぜだかぞくりとする。
「ね、律子さん」
ミカちゃんの笑顔は、やっぱり怖かった。
月曜日、竹井さんに「ミカちゃんの知り合いに金髪美人でフリーの女の子がいたら紹介よろしくって伝えてくれ!」と拝まれた。
ミカちゃんの知り合いで金髪美人とか、人間じゃないやつしかいないと思うんだけど、そのことはもちろん黙っていた。
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