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0.出会い
真夏の吸血鬼
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「はー、あっつい」
ギラギラ輝く夏のような太陽を見上げて、私は溜息を吐く。
まだ五月なのに、こんなに日差しが強くては日傘なんて役に立つ気はしない。せめて涼しい木陰を通って行こうと公園へと踏み込んで……ふと、一番大きな木陰からにょっきりと足が突き出しているのに気付いた。
まさか、熱中症だろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけつつ、木陰へと回り込むと……。
「え、なんで」
このくそあっつい最中に黒マントを頭からかぶった男が、行き倒れ以外の何者でもない格好で倒れているではないか。
「馬鹿なのか」
ありえない光景にしばし呆然と呟いてから、私は恐る恐る近づいて手を伸ばして揺り動かした。
「あの、大丈夫ですか?」
「……死ぬ」
ぐったりと横たわったままの男から、かすかに声が上がる。
よかった、生きてた。
ほっとすると同時に、そりゃ、こんな暑さの中でこんな暑そうな格好してたら死ぬだろう、普通に――とも考える。
「とりあえずこの水を飲んでください。身体も冷やさないと」
鞄の中に扇子を入れていたはずだとごそごそ探りながら、伸ばされた彼の手にペットボトルの水を押しつけた。
けれど。
「水なんかより、もっといいものが欲しいです」
「あっ、ちょっ――」
そんな囁きが聞こえ、いいものとはと問い返す間もなくいきなり腕を掴まれた。いったい何を、と口を開く隙もないまま、ぐいと引かれてマントの中へと引きずり込まれてしまう。
このクソ暑い日差しの熱を吸収し、どう考えてもほどよい以上の暑さとなっているマントの中へ。
……暑い。
マントの中にいたのは、金髪碧眼の、どこからどう見ても海外からのお客様としか思えない若い男性だった。
外国人補正なのか金髪補正なのか、見目はかなり良いと思う。きらきら輝く王子系のイケメンというやつだ。
「あの、なんでマント被ってるんですか。熱中症で死にますよ」
「はい、油断しました。まだ五月だというのにこんなに日差しが強いなんて……おまけに、夜明けも早い」
しょんぼりと力なく項垂れる彼に、少しだけ同情してしまう。
ついでに、日本語も流暢なことに少し安心する。
だが、いかに日差しが強いとは言ってもまだ朝の八時だ。今からこんな調子で、猛暑を超えた酷暑と悪名高い日本の夏を乗り切れるのか。
「あとひと月で夏至ですしね」
ともあれ、疑問は横に置き、肩を竦めてそう返す。
彼はさらに肩を落として頷いた。
「それに、サマータイムを忘れていたんです」
「はあ、さいですか」
唐突に言われ、咄嗟に頷いた。
けれど、なぜサマータイムが関係あるのかと首をひねる。
「おかげで、目覚ましのアラームが……」
ああなるほど、サマータイムを忘れてて時差の直しを間違えたということか。
間抜けとしか言いようがないな。
海外旅行あるあるのやらかしに、きらきら王子系イケメンにも間抜けはいるんだなあと、私は変な感心をしてしまう。
だがそこを突っ込む隙も無く、彼の愚痴はさらにぶちぶちと続く。私はなぜかそのまま聞き役としてうんうんとひたすら相槌を打っていた。
曰く、本当は夜明け前に起き出して日の当たらないところへ行くはずだったのに。
曰く、日本の日差しはもう少し柔らかいはずだったのに。
曰く、五月がこんなに暑いなんて聞いてない……。
それにしても暑い。
「事情はわかりましたけど、いつまでマントなんて被っているんですか? これじゃ暑さで死にますよ」
「いえ、この日差しでは、暑さより先に太陽に当てられて死んでしまいます」
「はあ」
太陽に当てられてとはどういう意味なのだろうか。
白人種はメラニン色素が少なくて日本人より紫外線耐性が低いという意味か。
「それに、私、少々久し振りでして……栄養が足りてないというか」
「は? 足りてない?」
たしかに言われてよく見れば、あまり顔色も良くないように見える。
低血糖とか貧血とかいうやつだろうか。
でも、男性で貧血なんて、あんまり聞かないけど。
首をひねる私に、彼はにっこりと微笑みを向ける。王子様の微笑みというやつだ。ラノベに出てくるチョロインならきっとイチコロだろう。
「これも何かの縁と申しますか、ご馳走していただけませんか」
「え……」
でも、初対面の相手にいきなり飯を強請る王子様というのはどうなのか。
正直なところ、彼の図々しさには少々引いた。だが、この暑い中放置して本当の熱中症になってしまったら後味が悪い。
しぶしぶと頷くと、彼の目がきらりと光った気がした。
「その……そこの牛丼くらいでよければ」
「ありがたい!」
輝くような笑みで手を叩く彼に、そんな大袈裟なと思う。
身なりは悪くないのに、そんなに食べてなかったというのだろうか。
「まあ、乗りかかった船といいますか、仕方ないですね」
満面の笑顔で手を握る彼は、ずいぶん調子がいい。まあ、奢るといっても牛丼屋の朝食メニューだ。懐もたいして痛まないし、これも“おもてなし”というやつだ……なんて考えつつ立ち上がろうとする私を、彼は引き留める。
この暑い中倒れていたわりに、握った手はひんやりと冷たい。
「では早速」
「へ?」
彼は、間抜けな声をあげる私をぐいと引き寄せた。
立ち上がりかけた変な姿勢だった私は、たやすくバランスを崩して彼の胸の中に倒れこんでしまう。しっかりと抱え込まれて、これはまさかの痴漢なのかと焦って身を固くする私に、彼はあんぐりと口を開け……私の首筋目掛けて噛り付いた。
「な、何を!?」
驚愕に動けない私の首に、チクリと痛みが走る。どうやら噛み付かれたようだ。
でも、いったいなぜ?
けれど、すぐに恍惚とした気持ちが湧き上がり、私はうっとりとしたまま、違う意味で身動きが取れなくなってしまった。
混乱する私の喉から、「は」と溜息混じりに声が漏れる。
心臓の鼓動が激しくなる。
彼は私の首にむしゃぶりついたまま、いかにも名残惜しいというように舐めまわし……そこまでしてようやく気が済んだのか、やっと私の首から顔を放した。
そのまま私を座らせて、正座で両手を合わせ、「ご馳走さまでした」とお辞儀をする。満ち足りた顔で。
何故そこだけ妙に行儀がよろしいのか。
いったい何がどうしてこうなったのかと茫然自失な私に、彼は再び輝くような笑顔を向けた。「大変良いお味でした」と。
何のお味だよ、と突っ込む間も無く、彼はいかに美味しかったかと熱弁を振るう。近年稀に見るよい血であったとかなんとか。嬉しくない。
グルメか。血液グルメなのか。
ちなみにふたりとも相変わらずマントの中だ。これ、いろいろとおかしいだろう。
「つまり、今、あなたは私の血を吸ったと」
私が呟くと、彼は「はい」とにこにこと頷いた。
「おかげさまで、多少ならこの日差しの中を歩いても大丈夫な程度に回復しました」
さっきより幾分か血色の良くなった顔色の彼に、咄嗟に囓られた首を撫でる。どうやら傷は残っていないようだ。
「献血した程度の量ですから、あなたの健康に問題はありませんよ」
「で、でも」
「別にあなたに吸血鬼が伝染ることもありませんし」
胡乱な目で見つめると、彼はまたきらきらの笑みを返した。
「それで、ものは相談なのですが」
ずい、と顔を寄せる彼の笑顔からは、嫌な予感しかしない。
「お断りします」
「まだ何も申しておりませんよ」
「絶対ロクでもないことなのでお断りします」
彼はきれいな顔を傾げて、「では、仕方ありませんね」と、困ったように呟いた。
* * *
“甘露”と呼ばれる存在がいると、まことしやかに囁かれる話がある。
吸血鬼の、永遠とも思えるほどに長い一生をかけたとしても出会えるかどうかわからない、蜜のように甘い血の持ち主のことだ。
ひとたび口にした吸血鬼を魅了して離れがたいほどに執着させる、甘く芳醇な血の持ち主……だと言われるが、残念ながら彼女の血はそこまでではない。自分の甘露と言えるほどではないだろう。
だが、それに勝るとも劣らない、甘い甘い血の持ち主ではあった。
こんな極上の血を手放すなんて、馬鹿のすることだ。
目を瞑ってくたりと寄りかかる彼女を抱いて、彼は……ミカ・エルヴァスティと呼ばれる吸血鬼は立ち上がる。
「家を教えていただけませんか? 家までお送りいたしましょう」
やさしく耳元で囁くと、薄目を開けてぼんやりと頷いた彼女が住所を呟いた。にっこりと微笑んでミカはひとつキスを落とす。
安定して彼女の血を得るには、まず心身の健康を確保することだろうか。
彼女から離れずとも済むように、丸め込む必要もある。
――もっとも、彼女は女で自分は男だ。そうそう難しいことでもないだろう。
それこそ、いつもどおりに落としてしまえばそれで済む。
* * *
ピピピ、という目覚ましの音で目を覚ました。
カーテンの隙間からは、明るい日差しも差し込んでいる。
……あれ、なんか血を吸われたとかあった気がしたけど、あれは夢?
ぼんやりとした頭のまま伸びをして起きあがろうとして……誰かにしっかりと抱きすくめられていることに気が付いた。
慌てて自分の身体に回ったひんやりと冷たい腕を目で追う。
背後を振り向くと、そこにはにっこりと微笑む金髪碧眼の彼の笑顔があった。
「な、なんで?」
ふふ、と笑いながら彼は私を、ぎゅ、と抱きしめる。
「あなたの健康と血液の管理は私に任せてください。その代わり、月に一度でいいですからね」
「な、何が」
「決まってるでしょう?」
キラリと目を光らせて、彼は私の首筋をペロリと舐める。
「あなたの血があまりに美味しくて、とても離し難いのですよ」
「え、でも」
まさか、捕まってしまった?
慌てて身を捩らせても、彼の腕はびくともしない。
ひとしきり抜けだそうとして徒労に終わって、はあ、と溜息をひとつ漏らして……私はようやく諦めた。
ちゃんとパジャマを着ていたし、何か不埒なことをされた形跡がなかったから、だけど。血液グルメの彼の目的は、どうやらおいしい私の血液のみ、それ以上でもそれ以下でもないということらしい。
なら、彼のひんやりとした体温は、最近寝苦しくなってきた夜を乗り切るにはいいんじゃないだろうか。
これもギブアンドテイクということになるのだろうか。
ギラギラ輝く夏のような太陽を見上げて、私は溜息を吐く。
まだ五月なのに、こんなに日差しが強くては日傘なんて役に立つ気はしない。せめて涼しい木陰を通って行こうと公園へと踏み込んで……ふと、一番大きな木陰からにょっきりと足が突き出しているのに気付いた。
まさか、熱中症だろうか。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけつつ、木陰へと回り込むと……。
「え、なんで」
このくそあっつい最中に黒マントを頭からかぶった男が、行き倒れ以外の何者でもない格好で倒れているではないか。
「馬鹿なのか」
ありえない光景にしばし呆然と呟いてから、私は恐る恐る近づいて手を伸ばして揺り動かした。
「あの、大丈夫ですか?」
「……死ぬ」
ぐったりと横たわったままの男から、かすかに声が上がる。
よかった、生きてた。
ほっとすると同時に、そりゃ、こんな暑さの中でこんな暑そうな格好してたら死ぬだろう、普通に――とも考える。
「とりあえずこの水を飲んでください。身体も冷やさないと」
鞄の中に扇子を入れていたはずだとごそごそ探りながら、伸ばされた彼の手にペットボトルの水を押しつけた。
けれど。
「水なんかより、もっといいものが欲しいです」
「あっ、ちょっ――」
そんな囁きが聞こえ、いいものとはと問い返す間もなくいきなり腕を掴まれた。いったい何を、と口を開く隙もないまま、ぐいと引かれてマントの中へと引きずり込まれてしまう。
このクソ暑い日差しの熱を吸収し、どう考えてもほどよい以上の暑さとなっているマントの中へ。
……暑い。
マントの中にいたのは、金髪碧眼の、どこからどう見ても海外からのお客様としか思えない若い男性だった。
外国人補正なのか金髪補正なのか、見目はかなり良いと思う。きらきら輝く王子系のイケメンというやつだ。
「あの、なんでマント被ってるんですか。熱中症で死にますよ」
「はい、油断しました。まだ五月だというのにこんなに日差しが強いなんて……おまけに、夜明けも早い」
しょんぼりと力なく項垂れる彼に、少しだけ同情してしまう。
ついでに、日本語も流暢なことに少し安心する。
だが、いかに日差しが強いとは言ってもまだ朝の八時だ。今からこんな調子で、猛暑を超えた酷暑と悪名高い日本の夏を乗り切れるのか。
「あとひと月で夏至ですしね」
ともあれ、疑問は横に置き、肩を竦めてそう返す。
彼はさらに肩を落として頷いた。
「それに、サマータイムを忘れていたんです」
「はあ、さいですか」
唐突に言われ、咄嗟に頷いた。
けれど、なぜサマータイムが関係あるのかと首をひねる。
「おかげで、目覚ましのアラームが……」
ああなるほど、サマータイムを忘れてて時差の直しを間違えたということか。
間抜けとしか言いようがないな。
海外旅行あるあるのやらかしに、きらきら王子系イケメンにも間抜けはいるんだなあと、私は変な感心をしてしまう。
だがそこを突っ込む隙も無く、彼の愚痴はさらにぶちぶちと続く。私はなぜかそのまま聞き役としてうんうんとひたすら相槌を打っていた。
曰く、本当は夜明け前に起き出して日の当たらないところへ行くはずだったのに。
曰く、日本の日差しはもう少し柔らかいはずだったのに。
曰く、五月がこんなに暑いなんて聞いてない……。
それにしても暑い。
「事情はわかりましたけど、いつまでマントなんて被っているんですか? これじゃ暑さで死にますよ」
「いえ、この日差しでは、暑さより先に太陽に当てられて死んでしまいます」
「はあ」
太陽に当てられてとはどういう意味なのだろうか。
白人種はメラニン色素が少なくて日本人より紫外線耐性が低いという意味か。
「それに、私、少々久し振りでして……栄養が足りてないというか」
「は? 足りてない?」
たしかに言われてよく見れば、あまり顔色も良くないように見える。
低血糖とか貧血とかいうやつだろうか。
でも、男性で貧血なんて、あんまり聞かないけど。
首をひねる私に、彼はにっこりと微笑みを向ける。王子様の微笑みというやつだ。ラノベに出てくるチョロインならきっとイチコロだろう。
「これも何かの縁と申しますか、ご馳走していただけませんか」
「え……」
でも、初対面の相手にいきなり飯を強請る王子様というのはどうなのか。
正直なところ、彼の図々しさには少々引いた。だが、この暑い中放置して本当の熱中症になってしまったら後味が悪い。
しぶしぶと頷くと、彼の目がきらりと光った気がした。
「その……そこの牛丼くらいでよければ」
「ありがたい!」
輝くような笑みで手を叩く彼に、そんな大袈裟なと思う。
身なりは悪くないのに、そんなに食べてなかったというのだろうか。
「まあ、乗りかかった船といいますか、仕方ないですね」
満面の笑顔で手を握る彼は、ずいぶん調子がいい。まあ、奢るといっても牛丼屋の朝食メニューだ。懐もたいして痛まないし、これも“おもてなし”というやつだ……なんて考えつつ立ち上がろうとする私を、彼は引き留める。
この暑い中倒れていたわりに、握った手はひんやりと冷たい。
「では早速」
「へ?」
彼は、間抜けな声をあげる私をぐいと引き寄せた。
立ち上がりかけた変な姿勢だった私は、たやすくバランスを崩して彼の胸の中に倒れこんでしまう。しっかりと抱え込まれて、これはまさかの痴漢なのかと焦って身を固くする私に、彼はあんぐりと口を開け……私の首筋目掛けて噛り付いた。
「な、何を!?」
驚愕に動けない私の首に、チクリと痛みが走る。どうやら噛み付かれたようだ。
でも、いったいなぜ?
けれど、すぐに恍惚とした気持ちが湧き上がり、私はうっとりとしたまま、違う意味で身動きが取れなくなってしまった。
混乱する私の喉から、「は」と溜息混じりに声が漏れる。
心臓の鼓動が激しくなる。
彼は私の首にむしゃぶりついたまま、いかにも名残惜しいというように舐めまわし……そこまでしてようやく気が済んだのか、やっと私の首から顔を放した。
そのまま私を座らせて、正座で両手を合わせ、「ご馳走さまでした」とお辞儀をする。満ち足りた顔で。
何故そこだけ妙に行儀がよろしいのか。
いったい何がどうしてこうなったのかと茫然自失な私に、彼は再び輝くような笑顔を向けた。「大変良いお味でした」と。
何のお味だよ、と突っ込む間も無く、彼はいかに美味しかったかと熱弁を振るう。近年稀に見るよい血であったとかなんとか。嬉しくない。
グルメか。血液グルメなのか。
ちなみにふたりとも相変わらずマントの中だ。これ、いろいろとおかしいだろう。
「つまり、今、あなたは私の血を吸ったと」
私が呟くと、彼は「はい」とにこにこと頷いた。
「おかげさまで、多少ならこの日差しの中を歩いても大丈夫な程度に回復しました」
さっきより幾分か血色の良くなった顔色の彼に、咄嗟に囓られた首を撫でる。どうやら傷は残っていないようだ。
「献血した程度の量ですから、あなたの健康に問題はありませんよ」
「で、でも」
「別にあなたに吸血鬼が伝染ることもありませんし」
胡乱な目で見つめると、彼はまたきらきらの笑みを返した。
「それで、ものは相談なのですが」
ずい、と顔を寄せる彼の笑顔からは、嫌な予感しかしない。
「お断りします」
「まだ何も申しておりませんよ」
「絶対ロクでもないことなのでお断りします」
彼はきれいな顔を傾げて、「では、仕方ありませんね」と、困ったように呟いた。
* * *
“甘露”と呼ばれる存在がいると、まことしやかに囁かれる話がある。
吸血鬼の、永遠とも思えるほどに長い一生をかけたとしても出会えるかどうかわからない、蜜のように甘い血の持ち主のことだ。
ひとたび口にした吸血鬼を魅了して離れがたいほどに執着させる、甘く芳醇な血の持ち主……だと言われるが、残念ながら彼女の血はそこまでではない。自分の甘露と言えるほどではないだろう。
だが、それに勝るとも劣らない、甘い甘い血の持ち主ではあった。
こんな極上の血を手放すなんて、馬鹿のすることだ。
目を瞑ってくたりと寄りかかる彼女を抱いて、彼は……ミカ・エルヴァスティと呼ばれる吸血鬼は立ち上がる。
「家を教えていただけませんか? 家までお送りいたしましょう」
やさしく耳元で囁くと、薄目を開けてぼんやりと頷いた彼女が住所を呟いた。にっこりと微笑んでミカはひとつキスを落とす。
安定して彼女の血を得るには、まず心身の健康を確保することだろうか。
彼女から離れずとも済むように、丸め込む必要もある。
――もっとも、彼女は女で自分は男だ。そうそう難しいことでもないだろう。
それこそ、いつもどおりに落としてしまえばそれで済む。
* * *
ピピピ、という目覚ましの音で目を覚ました。
カーテンの隙間からは、明るい日差しも差し込んでいる。
……あれ、なんか血を吸われたとかあった気がしたけど、あれは夢?
ぼんやりとした頭のまま伸びをして起きあがろうとして……誰かにしっかりと抱きすくめられていることに気が付いた。
慌てて自分の身体に回ったひんやりと冷たい腕を目で追う。
背後を振り向くと、そこにはにっこりと微笑む金髪碧眼の彼の笑顔があった。
「な、なんで?」
ふふ、と笑いながら彼は私を、ぎゅ、と抱きしめる。
「あなたの健康と血液の管理は私に任せてください。その代わり、月に一度でいいですからね」
「な、何が」
「決まってるでしょう?」
キラリと目を光らせて、彼は私の首筋をペロリと舐める。
「あなたの血があまりに美味しくて、とても離し難いのですよ」
「え、でも」
まさか、捕まってしまった?
慌てて身を捩らせても、彼の腕はびくともしない。
ひとしきり抜けだそうとして徒労に終わって、はあ、と溜息をひとつ漏らして……私はようやく諦めた。
ちゃんとパジャマを着ていたし、何か不埒なことをされた形跡がなかったから、だけど。血液グルメの彼の目的は、どうやらおいしい私の血液のみ、それ以上でもそれ以下でもないということらしい。
なら、彼のひんやりとした体温は、最近寝苦しくなってきた夜を乗り切るにはいいんじゃないだろうか。
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