灰色の世界の天上の青

ぎんげつ

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灰色の世界の天上の青

14.降りたいと言えば

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「ね、オーウェン高司祭様はどう?」
「どうって?」

 中庭の井戸で洗濯をしながら、メイサがくすくす笑う。

「だって、ヴィエナが見習いになってから高司祭様のあたりが柔らかくなったって評判いいのよ。それに、あの高司祭様が前ほど妹さんべったりじゃなくなったじゃない。奇跡だって、皆、言ってるわ」

 少し離れた場所で素振りをするオーウェンをちらりと見て、ヴィエナは困った顔で眉尻を下げた。
 メイサは教会の下働きに雇われている娘で、歳はヴィエナのふたつかみっつ上だ。気安い性格で、ヴィエナが洗濯を手伝うときはいつも、こうやって他愛ないおしゃべりをするようになっていた。

「高司祭様は、このままじゃ妹さんにかまけて結婚もできないんじゃないかって言われてたの。ね、ヴィエナはどう?」
「どうって言われても、私、まだちゃんと成人じゃないし、司祭様は大人だし……」
「大人っていっても、ヴィエナから十ちょっと上くらいよね。十分だわ。それに、このあたりは十六か十七でお嫁に行っちゃう子も多いのよ」

 何が十分なんだろうと不思議そうに見返すヴィエナに、メイサはにんまり笑う。

「ヴィエナ、高司祭様のこといいなって思ってるでしょ?」
「え?」
「とぼけなくてもいいの。見てればわかるもの」

 思わずかあっとヴィエナの顔に血がのぼる。メイサは「ほら」と濡れた指でヴィエナの頬を突いた。

「そ、そんなこと、ないし」
「今も真っ赤じゃない。で、もういちど聞くけど、高司祭様とはどうなの?」
「そんなの……親切にしてもらってるだけで……」

 メイサが軽く瞠目する。
 文字どおり、一日中離れることなく年頃の男女が一緒にいるのだ。何もないなんてありえないだろう。

「だって、四六時中くっついて歩いてるじゃないの。だったら何かあるんじゃない? 吟遊詩人の物語みたいなことは言ったりしないの? ね、高司祭様って、どんな顔してそういう言葉をいうの?」

  興味津々といった顔で、メイサが声を潜め、顔を近付けた。だが、そんな事実はないのだから、ヴィエナは困ってしまう。

「あの、本当にそんなのじゃなくて――」
「ねえ、まさか本当に? 高司祭様って女に興味ないわけじゃないわよね?」

 不審げにちらりとオーウェンを振り返り、またヴィエナに視線を戻すとメイサは思い切り顔を顰めた。

「ヴィエナは最近女の子らしくなって、すごくかわいくなったって評判なのに、本当に何もないの? 高司祭様も何も言わないの?」

 それでも困ったように頷くだけのヴィエナに、メイサは鼻を鳴らす。

「だって、司祭様は、私を面倒みなきゃいけないから、いろいろ世話をしてくれるだけなのに、何かなんて……」

 もう、とメイサはまたオーウェンをちらりと見やった。洗ったものをぎゅうっと絞りながら、大きくはあっと溜息を吐く。
 もしかして、ヴィエナがちゃんと女の子らしく整えるようになったことの意味をわかってないのかと、とても残念な気持ちすら湧き上がる。

「高司祭様って顔もいいし、この戦神様の司祭なのにがっちり過ぎないところがいいってモテるのに、そういうの全然興味ないって態度だものね。おまけにすごく鈍感そう。これじゃヴィエナも大変だわ」
「え?」
「私、もっとガンガン押してもいいと思うのよ。ヴィエナはかわいいから、皆、納得するはずだわ。それに、今なら高司祭様狙いの町の子たちも妹さんの前に諦めた後だし、ライバルは少ないわよ」
「本当に、そんなのじゃないから」

 ぎゅう、と力任せに洗濯物を絞り上げて、メイサはまた呆れたように溜息を吐いた。オーウェンだけでなく、ヴィエナもかなりの鈍感だ。

「あのねヴィエナ。男って、いくら口でえらいことを言ったところで、何の気もない相手と四六時中一緒にいてくれるなんてこと、絶対やらないものよ。
 考えてもみなさいよ、ヴィエナだって、何の気もない相手と一日中、夜まで一緒にいたいと思わないでしょう?」
「そうなのかな?」

 よくわからない。
 考えてみたら、こんなに長くひと処に留まったこと自体が初めてなのだ。こんなに長い間特定の誰かと関わることなんて、もっと初めてだ。

「そうねえ……たとえば、高司祭様じゃなくて、ここの聖騎士長のスタイナー様と一緒だとしたら、どう? ずっと平気でいられる?」

 何度か顔を合わせたことのあるスタイナーを思い浮かべる。オーウェンよりさらに十は上で、ヴィエナの親ほどの年齢だったはずだ。
 どちらかと言えば怖そうな顔立ちで、言葉数も少なくて……。

「たぶん、平気じゃないと思う」
「でしょう?」

 くすくす笑いながら最後の洗濯物をぎゅうっと絞ると、メイサは籠に積み上げた洗濯物を持って立ち上がった。
 ヴィエナももうひとつの籠を持って立ち上がる。

「だから私、やっぱり、ヴィエナはどんどん押すべきだと思うのよ」

 干し場に向かって歩きながら、メイサは大きく頷いた。オーウェンはともかく、ヴィエナはとてもわかりやすい。
 何しろ、気付いてないのはオーウェン自身くらいなのだから。

「でも、押すって言っても」

 パンパンと布地を伸ばして紐に止めながら、ヴィエナは疑問を口にしてみた。“押す”が何かの比喩だとわかっても、具体的にどうするかなんて全然わからない。
 メイサはくすっと笑って、またちらりとオーウェンを見やる。

 オーウェンのいる場所からでは、ふたりが仲良くおしゃべりをしていることはわかっても、何を話してるかまではわからないだろう。
 きっと、中身の想像すらしてないはずだ。

「高司祭様って鈍いから」

 手際よく洗濯物を干しながら、メイサは「そうねえ」と軽く首を傾げる。

「やっぱり、ボディタッチかしら」
「ボディタッチ?」
「そ。あんまりあからさまなのははしたないけど、何かの拍子にちょっと手を触れたりっていうのは効果的よ。あくまでもさり気なく自然に、ね」
「手を触れたり……」
「男のひとって、身体が触れ合う機会が多いほど、こっちのことを意識するものなのよ。うちのお姉ちゃんの受け売りだけどね」

 意識……と、ヴィエナはいつも寝ているときのことを考えてみる。

 身体に触れることがメイサが言うほど効果的なら、寝てる間に擦り寄ったり抱き付いたりしているのにこの状況というのは、やっぱり自分が相手になんてされてないことを示しているのではないか。

「やっぱり、私は子供だと思われてるから」
「──あのね、ヴィエナ。
 あなた、最近は身形を整えるようになってずいぶん垢抜けたし、ちゃんと女の子らしく見えるようにもなってるわよ。
 それでまだまだ子供だなんて言うなら、ヴィエナのアピールが足りないか、相手の男が女には興味ないかのどっちかね」

 洗濯物を干し終えたメイサは、腰に手を当て、ぐいっとヴィエナを覗き込むように顔を近づけた。

「つまり、もっと押していいってことだわ」

 指先で額をつついて、メイサは、ふふっと笑う。籠を集めて、「だから、がんばるのよ」と励ますようにヴィエナの肩を叩く。

「がんばる、って言っても……」

 ヴィエナは困ったように眉尻を下げて、オーウェンを振り返る。


 * * *


「夏とともに、この“賭け”も終わりを迎えることになる」

 山羊髭の男は、くすりと小さく笑って、しゅう、と煙混じりの息を吐いた。

「約束の期限を伝えないのはフェアではないからね」

 くつくつと笑いながら、男はぞっとするほどに冷たく熱い指先でヴィエナの頬をなぞった。息を呑み立ち竦むヴィエナの周りを、楽しげな足取りでぐるりと巡る。その歩いた後には、炎が噴き上がり……うぞうぞと蠢めく無数の蟲たちが湧き出した。
 まるで、ここが九層地獄界インフェルノの底であるかのような光景が、目の前に広がっていく。

「いつ諦めてもいい。お前の自由だ。賭けには勝てないと判断したなら、いつだって降りても構わない」
「降りる、って……そしたら、私が……」
「もちろん、その場合はお前の負け、ということになるな」

 ヴィエナの正面で立ち止まった男が、いきなり腰を屈め、顔を覗き込む。

「そうだな。もしお前が今ここで降りると言えば、お前の魂だけは見逃してやっても構わない。お前ひとり分を失ったところで、既に十分な数はある」

 は、は、と浅く息を吐きながら、ヴィエナはじっと男の顔を見返した。
 とても恐ろしくて、とても苦しい。
 頭の中を、“ヴィエナの魂だけは見逃そう”という男の言葉がぐるぐると回る。
 自分はどう答えるべきなんだろう。
 どう答えたら、この怖いところから逃れられるのか。

 ──どう答えたら、この恐ろしい呪いが解けるのか。

「あ……」

 ぱくぱくと喘ぐように口を開閉する。
 ぽたりと汗が滴る。

「さあ、正直に答えてごらん。正直さは美徳だ」

 男の口角がくっと上がる。笑みを浮かべているはずの男の前で、蛇に魅入られてしまった獲物のように動けない。

「さあ、もう、怖い目には遭いたくないのだろう?」

 男がずるりと手を伸ばす。

 いやだ。

 ヴィエナは身を竦め、ぎゅっと目を瞑った。
 男が伸ばした手が、途中で止まる。



 ――気づくと、胸元が暖かくなっていた。なぜだかふんわりと暖かくなったところを抑えると、ちゃり、という鎖の音がした。

 ヴィエナの手に、オーウェンの作った護符が触れる。

「司祭さ……オーウェン、様」

 男は口元だけは笑みの形にしたまま、目を眇めて一歩退いた。

「今日は時間切れのようだが……お前が降りたいと望むときは、その身体に刻まれた印にかけて、いつでも私を呼ぶといい」

 しゅう、と炎の息をひとつ吐いて、男は姿を消した。


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